2013年04月08日

五稜郭の桜(榎本武揚など-明治の青春)


五稜郭の桜(榎本武揚など-明治の青春)


劇的に船は沈みぬ函館に風雲の日や桜咲くかな

五稜郭ここも日本や桜咲く明治の青春ここにありしも
五稜郭鴎飛びつつ桜咲く白波よせて戦いに死す
榎本の波しゆられて五稜郭海風やまず花の咲くかな


函館の五稜郭の桜を放送していた。今はまだ咲いていないにしろこれから咲く、明治維新の動乱の場所が函館だったのである。その時五稜郭落城して榎本武揚降伏したのである。
 
 五稜郭写真
 http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2009/05/post_38.html
 
 見張り塔が屋根の上にあるのは伊達政宗の瑞巌寺の寺と同じだった。あそこの寺は城だったのである。
 
        靺鞨の山 青一髪 我が行 此に至りて 豪に堪ゆ
        宝刀横ふる処 鬼呵護すべし 胡馬嘶く時 風は怒号す
        短鞨早天 暁霧を衝き 孤帆残月 秋濤に乱る
        扶桑南望 三千里 頭上驚きみる 北斗の高きを
       

靺鞨の山というのは古代からあった国のことであり多賀城碑にでている。扶桑とは日本のことである。北海道は当時新天地であり新しい蝦夷共和国を作ることを夢見ていたのである。

この脱走は最初から不運が付き纏いました。犬吠埼で暴風に遭い、咸臨丸が政府軍に捕まり、運送の座礁等があり、ようやく9月26日仙台港に集まり、修理に進めました。ところが、この時既に会津若松城は落城し、仙台藩も降伏を決定していました。奥羽の各反政府同盟(奥羽越列藩同盟)は早くも壊滅状態で、希望を失った旧幕臣たちは最後の抵抗を試みるため榎本の元に集まりました。
戊辰戦争で敗れ、北海道移住を余儀なくされた仙台藩片倉小十郎家臣団401名を乗せて仙台の寒風沢を出港した咸臨丸は、箱館経由で小樽に向かう途中、1871年(明治4年)9月20日、木古内町のサラキ岬沖で座礁。


この時いかに激動のなかにあったか?陸では会津が落城して仙台藩の片倉家臣団が寒風沢から咸臨丸にのって出航した。仙台藩は北海道に伊達市があるようにかなりの武士が移住した。この時の激動も凄まじいものだったのである。ここで船が相当にかかわっていた。船で脱出して新天地の北海道を目指したのである。

明治の青春は函館が啄木の青春の地だったように気宇壮大なものがあった。時代が日本の青春そのものだったのである。だから青春の時代絵巻があった。その中には無名のうちに死んだ人も無数である。ぼっしん戦争では東北に責めてきた九州福岡の人が浪江辺りの寺の墓に死んで埋もれている。
土地の人が葬ったのである。相馬藩も一時戦い相手を殺したり自らも死んだ。


長州の毛利、筑前の黒田、大和郡山の柳沢、芸州広島の浅野、伊勢の藤堂、常州笠間の牧野、熊本の細川、因州鳥取の池田、筑後久留米の有馬ら各藩の軍勢だった。
相馬藩には以下の通達が行われた。
http://boshinken.info/hoshisenseironbun.html


芸州となるとどこの人となる、安芸藩であり広島の方になってしまうのだ。九州の福岡県の人も戊辰の役で死んで墓が残っている。福岡の人が歴史を探りに墓を訪ねていたりする。
http://musubu.sblo.jp/article/9378228.html


忘れらる相馬に果てる福岡の侍の墓春の夕暮    


戊辰戦争ではとても薩摩長州の連合軍の勢いにはかなうものではなかった。錦の御旗をたてられて進軍してくる勢いはとめられるものではなかった。それがやはり時代の趨勢だったのだろう。相馬藩はその勢いにたちまちのまれて敗退して軍門に下って仙台藩と戦うことになった。その境界が丸森であり戦場跡として残っている。大砲もそこで使われたのだ。


大砲をここにすえつつ戦いて死せる者かな春の夕陽没る

武器でも劣っていたから勝ち目はなかった。東北連合は成らずばらばらだったのである。それで白虎隊や二本松少年隊の悲劇があった。二本松では兵力すらなかったから12才の少年まで狩りだされた。まさに城と共に討ち死にしたのである。 仙台藩の侍も結局榎本武揚と同じ様に北海道に逃れた。亘理藩が移住したから伊達市となった。その激動は錯綜しているからわかりにくい、ただ大砲が武器として重要であり八重の桜では主題にもなっていた。そもそもヨ-ロッパの城の時代が終わったのは大砲が武器となったときである。大砲のために城壁は無力化して城の時代は終わったのである。


この地にそ轟く大砲その音や丸森にひびき春の日没りぬ
 

扶桑南望 三千里 頭上驚きみる 北斗の高きを・・・この漢詩は北海道からさらにロシアまで眼中にした雄大な詩だった。北斗の高きを・・というのはロシアまで視界にして本州を見ているのだ。
我等には新天地北海道がありロシアがある、樺太がある・・・北斗があるとなる。


明治維新庄内藩&会津藩のプロイセン(ドイツ)結合

最近発掘された資料でわかったように会津が閉鎖された山国で情報にうといというものでもなかった。プロイセンに北海道の会津藩の支配地域を売ろうとしていた。それは日本の領土だからそういうことは日本を売ることにもなっていた。でもぎりぎりの所で外国の力を借りようとしていた。
これは伊達政宗はヨ-ロッパに使節を派遣して連合を計ろうとしたのとにている。
だから必ずしも東北は閉鎖された辺境とも言えない、外国と結んで薩摩長州連合と対抗しようとしていた。人間は日本国というよりまだ藩単位のアイディンティティに生きていたからである。

はとにかく一つの雄大な詩であった。錯綜していても何か人間的だから詩にもなり小説にもなる。そこには英雄が存在した。一方太平洋戦争には何かそうした人間的なものがないから詩になりにくい、むごたらしい戦死者の数のみがあるだけなのである。だから報われないともなる。つまり明治は江戸時代の武士の文化の延長としてなおあったのだ。だから内村鑑三などが北海道でクラ-クに指導された強力な指導者になりキリストに命をささげた独立伝道者になった。北海道はその時日本のフロンティアになっていたのだ。啄木でもやはり時代精神の現れがあり若くしてあれだけの短歌を作った。それは明治という全体の時代の産物だったのである。明治は今になれば西欧化の華の時代であり詩的なテ-マになりやすい、詩の時代だったのである。それから大正とか昭和になると散文的時代となる。時代的に高揚するはいうより何か文明の頽廃的様相を呈してしきた。デカダンスとかが主流となってきたのである。戦後はアメリカに負けて日本の精神すら根こそぎ断たれた。明治は一番日本の国粋文化も高揚していたのである。漢詩が一番興隆したのが明治だったことでもわかる。漢詩は志を述べるものだからである。志の時代、まさに志士の時代だったのである。

だから明治の青春こそ無名でも一人一人が青春を生きていたのである。それは今や埋もれてしまいわからなくなった。結局明治の青春を作ったのは時代を作ったのは武士がいたからである。武士のモラルがまだ生きていて西欧化でもその魂が融合したのである。和魂、洋魂の時代だった。300年の武士の時代が明治になって死んだわけではなかったのである。その蓄積が実は技術面とか他でも華開いたのが明治だったのである。ルネサンスにしてもそこにイスラム文化とかギリシャの文化-ロ-マの文化などが融合して一大ルネサンスが生まれたのである。過去の蓄積が融合して華開いたのである。こういうことは個人的にもある。一人の天才がいてその才能が次代のものに新たなものになって蘇る、模倣ではない新しいものとして蘇るのである。ただ今や現代は個人的にしかそうした文化的なものは受け継がれないのだ。明治のように時代全体として受け継がれることはないのである。大衆化した文明というのはそうした文化の創造などないのである。宗教はカルトとなり数の政治にすぎないし文化的創造的なものは団体などから生まれない、政治と実用の科学の時代なのである。

現代とは一番詩が欠如した時代なのである。それで上野霄里氏などがニ-チェのようにアウトサイダ-化して絶叫するようになるのだ。上野霄里氏が自分は高杉晋作ににているというときまさにそういう詩人的行動者だったからそう言ったのである。詩が欠如している時代は時代的に衰退している。散文的な金だけを追い求める物質的なものとなり高邁な精神の高揚もなく低俗大衆文化の時代なのである。この辺の原発事故でもそうである。第一次産業に農業に漁業に林業でも自然とかかわることで生活することは詩的なことである。しかし工業化して文明化すると自然から離れるから詩的なものとはならない、詩は自然なくしてはありえないのである。原発によって自然が汚染され破壊され人まで住めなくなったことはまさに黙示録的世界がこの辺に現れたのである。津浪もまた大きな時代の変革をうながすのとして起きてきたのかもしれない、人間より神の力のいかに偉大かを示したものなのかもしれない、無情ではあるがそういう恐るべきものを見せつけたのである。


扶桑南望 三千里 頭上驚きみる 北斗の高きを・・北斗の高きを・・・というときこれには宇宙からの視点もあった。それだけ雄大な志に生きて果てたというのが明治の青春だった。現代の青春はカルトととかいかに金もうけて金で自分を誇示して偉くみせるとか物資的になりすぎているのだ。結局現代人の望みは金持ちになることしかないのである。志に生きるなどはすでに夢にも浮かばない、というのは会社自体が利益を追求するのであり利益が最大の眼目だからである。そこにいかなる志も芽生えない、いかに他者を蹴落としてもうけるか金になるかしかないのである。そういう功利的人間しかいなくなったのである。まさに志に生きる武士はいなくなった。日々利を求めて追われているだけなのである。この辺でも結局補償金の金でもめているだけでありどこにも絆などない、最初のうちだけあっただけだったのである。

死語となった言葉 (戦前から戦後十年は江戸時代の継続があった)


死語となった言葉

(戦前から戦後十年は江戸時代の継続があった)


死語となった言葉

日本列島の狭さ
五反百姓
五反田の地名の多さ
女工
原紡
御蚕様
女中
肺病
梅干し弁当
麦御飯
飯台一つ
トタン屋根
裸電球
尋常小学校
女学校
おふる
三男坊
鈍行車
停車場
炭屋
銭湯
五右衛門風呂
鉄砲風呂

駄菓子屋
金魚売り
煙草屋
酒屋
どぶろく
質屋
鍛冶屋
馬車屋
万歳
映画館
秋市


これらの言葉はもはや使わない、日常生活から消えたものだからである。江戸時代から明治時代になったときも江戸時代に使われた言葉が消えた。明治時代に西欧化した時、日本人は漢字で西欧化したものを現した。それが今では中国で使われている。言葉は単なる言葉ではない、長く営まれた生活の重みがあるのだ。その一つ一つが使われたときはその言葉は単なる言葉ではない、必需品としてなくてはならないものだったのである。ただ日本は貧しい時代が長かった。庶民は戦後十年までくらいは戦前とたいして変わりなかったのである。自分の子供時代はそういう貧しい時代だった。団塊の世代はその貧しい子供時代を経験している。でもこの経験は貴重であり楽しいものだった。何か貧しいけども人情味ある社会だったのである。豊になって人間は日本人にあった人情などはなくなった。ただ金だけを追い求めるようになった。それでも日本人は貧しかったから貧しい時代はすべていいとはならない、五反百姓とか五反田とかの地名はまさに貧乏な百姓が多数だったことを如実に示していたのである。


戦後十年くらいは家にあるのは飯台一つでありそれを囲んで食事していた。電気製品はも一つもなかった。裸電球があっただけなのである。それも家の中に一つくらいしかなかった。屋根はトタン屋根で雨漏りしていた。いつも洗面器などを並べてしのいでいた。瓦屋根の家もあったがトタン屋根の家も多かったのである。ご飯は麦ご飯でありその頃水田が多くても麦畑も多かったのである。燃料は炭であり炭屋があった。山では炭焼きであった。飯館辺りではそれで財を成したという家もあってうらやまれた。炭焼きは山の重要な現金収入となっていた。つまり戦前からの継続が戦後の十年くらいはあったのだ。自給自足の生活だった。

ともかく貧乏だった。自分の家は駄菓子屋のようなものをはじめた。店屋でもその頃簡単にできたのである。インド辺りではバラックのような所で店を出していた。品物も極端に少ない、そうした小商いがあったのは江戸時代からの継続でもあった。棒ふりなど江戸時代のものだと思っていたが戦前でも天秤棒は使われていた。荷物を運ぶのは天秤棒だった。明治の話しとなるが天秤棒担いで鹿島から川俣まで鰻売りに行ったという話には驚いた。でも天秤棒は中国では今でも使われているように量を運ぶには良かったのである。前と後ろに荷物をのせられるからである。でもかなり肩にずしりと重さがかかるから体力が必要だったろう。鹿島から川俣までは急峻な坂がある。その坂を天秤棒を担いで上った。それが信じられないのである。でも基本的に歩くことが移動することであった。江戸時代の継続がそこにあったのだ。子供のときぎんぎょえ-きんぎょ・・というのも天秤棒を担いで金魚を売っていたのだ。天秤棒は結構使われていた。中国では相当まだ使われている。やはり荷物を運ぶには便利なものだったのである。


母は尋常小学校でありほとんどがそうだった。そして原紡に勤めた。絹織物の生産が全国で行われ女工哀史で有名なように若い女性はみんなそこで働いた。それくらいしか勤め先がなかった。あとは女中だったのである。女中の数が多かった。洗濯でも食事の容易でも家電製品がないのだから全部人間の手でやるとなると一仕事であり女中が必要な家がたくさんあったのである。母も東京で女中していた。たいがい同じ様な経験をしている。子守りして学校に行けなくて小説読んで字を覚えたとかその頃学校も満足に行かない人がいたのである。女学校は高根の花であり特別選ばれた人が行く所だったのである。ただ大倉の女性が親戚の家に住んで相馬の女学校に通ったというから金持ちなら入れた。大倉は山をもっている人は木を売って金持ちがいたのである。団塊の世代の親の世代は大正生まれも結構いるからいろいろ親から聞くから意外と身近なものに感じる。一世代前までは親の世代であり
生々しいものとしてその言葉もまだ感じるのである。明治の人は江戸時代が身近だったと同じである。団塊の世代から下になると豊かな時代に生まれているから何か遠い歴史の世界のようになってしまうのだ。


蚕様というとき蚕は農家で飼っていて桑畑もいたるところにあった。相馬市にぬける街道の細道に二軒蚕を飼っていた家が残っていた。二階がそうだった。そういう農家はいたるところにあった。江戸時代からあって白川郷の合掌作りは有名である。あそこでも養蚕する場が二階にあった。そしてどぶろくを飲んでいたのである。酒すらまともに飲めない人がいたのだ。どぶろくは自家製もあり安いから飲めた。家族でも三男坊というと長男からすると何かどうでもいいとかなる。そういうひびきがこの言葉にはこもっていたのである。長男は家の跡継ぎだから大事にされた。その頃は子だくさんだから長男以下は軽んじられた。着るものもおふるとかお下がりとかになる。そういう貧しい時代だったのである。


映画館なども今や死語になった。映画は映画館で見るものだった。ニュ-スすら映画館で見ていたのである。テレビが入ったのは戦後十年ちょっとたったときだったのである。テレビに対する熱狂はすさまじかったのである。いつもプロ野球をみんなテレビで見ていた。相撲も見ていた。それで「大鵬、巨人、玉子焼き」になったのである。玉子焼きが食べられるようになったのはテレビがでるようになってからのようだった。貧しい時代から豊かな時代へ移りつつあったのだ。
秋市などという言葉もまだ市が開かれていた。その時いろいろものが集まり売っていた。何かサ-カスみたいなものも来ていたのである。今や秋市などというのも死語になった。「あきいち」という言葉を聞くとなつかしいとなる人も結構いるだろう。それらの一つ一つの言葉がなつかしさを感じる。過ぎたものに対する愛着が人間には残るのだ。


石神で紙漉きをしていた農家があったというときそれは江戸時代からあった。紙漉き沢が相馬市の山上にあるからだ。ということは江戸時代はどこでも紙を作る農家もあったということである。今でも一軒くらいあって自分の家で終わりだとかテレビにでてくる。紙漉きも相当数のものが普通にしていた仕事だったのである。要するには江戸時代から明治時代になったとき急速に工業化して変わってしまったのである。ただ紙漉きをしている家があったのかと聞くだけでリアルに昔を感じる。
それもこれは山の生業であった。石神とか山上にあったことでもわかる。


あかぎれの 手をいたはりて 紙を漉く
http://www.balloon.ne.jp/453room/new_page_36%20kamisukisikoro.htm


紙漉きは冬に行われるから冷たい水にぬれる。それであかぎれになる。あかぎれというとき母も良くあかぎれになっていた。食器洗うにも冷たい水だからそうなった。今は温かい水だからそうならない。


城崎温泉の各外湯は、「柚子湯」です。古来より冬至の日には浴槽に柚子を入れ、ひびやあかぎれを治すといわれています

あかぎれ地蔵などもあかぎれきような地蔵なのか?あかぎれというのは女性がみんななるからそれにまつわる話しも多いとなる。結局今になるといろいろ便利になり豊になりそうした苦労はなくなったのである。でも人間のわからないのはそうした苦労がなくなっても苦労がなくなることはなかったのである。必ず別な苦労が生まれるのが人間社会なのだ。豊になればなったでやはり苦労が絶えないのである。鬱病が増えるとかいろいろな豊さ故の問題が生まれてくる。この辺の原発事故などもまさに豊かさを求めてそれを実現したのだか事故が起きて以後は様々な問題が起きている。人間には何になろうが苦労が絶えることはないのだ。豊かさを求めすぎでかえって苦しむということもあったのである。
 
 

天秤棒を画像検索するといろいろでてくる。でも本だと引用できないのが問題であった。本の写真はリンクできないしコピ-できないから
困る。本は一つの閉鎖された世界だという面があった。写真などは共有になりにくいのである。

 


 

posted by 老鶯 at 14:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)