2013年04月06日

飯館村から川俣に出て二本松の城へ (二本松の城は東北で一番魅力がある)


飯館村から川俣に出て二本松の城へ(短歌十首)

(二本松の城は東北で一番魅力がある)


天守閣春一望の眺めかな


小宮へと分かれる道や春なれど人住まずして淋しかりけり

旅心湧きにけるかな山木屋へ行く道分かる春の昼かな
東風吹かれ峠を越えて川俣へ安達太良山を望み下りぬ
飯館へ行く道さえぐ山仰ぎ春日は没りぬ安達太良山に
残雪の安達太良山や朝日さし桜に染まる城にこそあれ
残雪の安達太良山や城跡の椿の赤く夕暮れせまる
城の内井戸の深しも椿落ち侍ここに仕え登りぬ
城跡の松に茶室や椿落ち井戸の深きを我が思うかな
城跡の山をめぐりて一日尽く名残り惜しむや残る花かな


飯館村には三つの別れ道があった。小宮へ行くのと草野に行くのと原町や大倉に行く道である。歩きでも自転車でもこの分かれ道が印象に残る。こっちの道はどこへ行くととなるとその方向に思いをはせる。それが旅なのである。決められたコ-スを行くのは旅ではない、思いがけない所に出るのが旅である。だから自動車というのは旅にならない、遠くの目的地に行くのはいいが分かれ道の旅の旅情はない、分去(分かれ去り)という地名が各地に残っているのはどうしてもそこで旅人が分かれてゆく基点となっていたからである。別に旅は遠くでなくてもすでに散歩の延長としても旅はある。
特に阿武隈の道は多岐に分かれているからだ。山木屋への道は塩の道であり相馬の塩は二本松まで運ばれた。参勤交代でも二本松にでて江戸に出た道でもあった。二本松と相馬藩はそれなりにゆかりがあった。


ただ二本松の城のことで特別人物が浮かんでこない、あそこの城は山全体が城になっていて大きく感じるのだ。あそこをめぐっているだけで一日が過ぎる感じなのだ。大坂城などもそうだが一日めぐっていて日が過ぎてしまうだろう。頂上に天守閣があったというのもあそこは見晴らしが特にいい、福島の地理的中心とも思える場に立つことになる。360度のパノラマ景観がある。あれだけ高い所にあるので気持ちがいいのだ。会津の城などそれほど魅力がない、平城だから見晴らしがいいとはならないからだ。二本松の城は立地といい魅力があった。安達太良山もまじかに望まれる。春は1700本近くの桜に染められるのも圧巻である。

そして印象に残ったのは天守閣もあるが深い井戸が二カ所くらいある。その井戸を覗き込むと深いのである。その井戸から水をくみ上げて茶室があり茶でもてなす、そして落椿が赤く夕暮れがせまっていた。城の内にある井戸が生命線だった。籠城するときその井戸水でしのいだ。だから熊本城の井戸は120もあった。


1877(明治10)年の西南戦争では政府軍の重要拠点となり、司令官・谷干城以下4000人の籠城で、西郷軍14000人を迎え撃ちました。加藤清正が築いた「武者返し」石垣の前に西郷軍は誰一人として城内に侵入することができませんでした。西郷隆盛は「「わしは官軍に負けたのではなく、清正公に負けたのだ」と言ったと伝わります。


城というとそこが最後まで死ぬまで籠城しても命を城とともに果てるという感覚があったのだろう。その感覚は今はわかりにくい、白虎隊が城が燃えた、落城したというとき城のもっている意味がそれだけ大きかった。その感覚は日本の城は小さいからわかりにくい、ヨ-ロッパのような城郭都市になると市民が育成されたようにそういう感覚になるだろう。そこが自立した一つの生活の場であり命もそこに尽くして果てるともなる。城にはそれだけの意味もあったとなる。現代はそういうアイデインティティの場をもっていない、会社がそうなるが会社はあくまでも利益を追求している仲間であり命をともにするまでにはならないだろう。でも地域より会社がアイデインティティになっているのが現代なのである。原発事故でわかったように一地域の経済力よりはるかに巨大な経済力があったのが東電だったのである。地域の一員というより地域が東電の社員になっていたのである。


ともかくあの城内の井戸水でお茶をもてなされたら格別だったろう。それこそ茶の道を感じる場でもあったのだ。水道水ではそれを感じない。ゆっくりと井戸水をくみあげて茶を出す家庭に茶の道があった。茶道はやはり全体の自然に組み入れられて意味をもつのである。文化とはあらゆるものがそうである。一部分が文化ではないのだ。全体の中に機能しているとき文化があるのだ。だから時代時代の文化は再現しにくいのである。全体が喪失しているのだから部分的にだけ茶室とか再現しても文化にならないのである。それは文化全般にそうなる。明治時代は江戸時代の日本文化の国風文化が興隆する素地が残っていた。それが文学でも現れた。正岡子規でも漱石でも啄木でも文人が大和言葉をまだ自分のものとしていた。江戸時代の連続性がまだあってその言葉使い継続されていたのである。

現代はまさにそうした連続性はもうないけどどうしてもやはり文学関係では漢詩の詩語や大和言葉を使う必要が出てくる。でも明治時代のようにしぜんてものではなく作られたものになってしまう。
日本文化はすでに部分化して死んでいるのだ。それはヨ-ロッパだって同じなのである。グロ-バル化で文化そのものが世界的に一様化してしまった。文化は長い時間のなかでその国々に培われて生まれたものである。だから百年とかの短い時間では作れないのである。それだけ奥深いものが文化なのである。


二本松に行くにしてもやはり飯館村から水境峠を越えて安達太良山を望むとき川俣に二本松に出ると自覚させられる。それが電車だとそうはならない、そこに今は旅でも感動できないものとなったのだ。あまりにも便利になり感動できないのである。とにかく水境峠を越えたとき明かに別世界になる。安達太良山を望むときそうなのである。浜通りには高い山がないから山の神秘性が感じられないのだ。山はやはり高く山でないと山ではない、阿武隈山脈は高原であって山ではないのだ。だから山の神秘は峠を越えたとき感じられるのだ。逆に海の神秘も峠を越えて八木沢峠辺りで太平洋を望んだとき感じられる。その感覚は海側に住むものと山側に住むものの感覚の相違である。


あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。


安達太良山の、阿多多羅山はあだだらは何か音のひびきがどっしりしていいのである。だからこれだけで詩になっていたのだ。ただここには城のことは歌われていない、城ぬきでは二本松はありえないのだ。二本松は菊人形祭りがあっても春の方いいのかもしれない、二本松県というのが構想されていたようにやはり福島県の中心的位置にあったのは二本松城があったからである。あの城は東北では一番魅力ある城の感じがする。青葉城でもそんな感覚がしない、市街にビルや家で埋められと眺めがいいとはならないからた。「天守閣春一望の眺めかな」これを感じる城というのは意外に現代になると少ないのである。


二本松の城の桜(2)短歌十首
http://musubu2.sblo.jp/article/37187722.html


二本松の城の桜(1)短歌十首
http://musubu.sblo.jp/article/28451498.html


前に書いた短歌だけど忘れていた。読み返すと思い出した。これはこの連作になっている。

飯館村の放射線量はかなり低下 (同じ場所で計ったら平均3マイクロシ-ベルト減っていた)


飯館村の放射線量はかなり低下

(同じ場所で計ったら平均3マイクロシ-ベルト減っていた)

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除染した山

山をみんな除染は無理、道路は除染したのが多い。

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緑は草むら-茶色は泥-灰色は道路


2011年7月13日

飯館村の放射線濃度が急激に低下

3月20日に38.5μSv/h、4月1日に16.5μSv/h、5月1日に7.7μSv/h、6月1日に5.0μSv/hあったのが、7月4日には4.3μSv/hと低下している。最新の7月11日のデータは3.4μSv/hとなった。福島市杉妻町もここ一週間で1.0μSv/hから、0.8μSv/hへ低下している。
放射線濃度の低下理由は明確ではないが、放射性セシウムが雨などで流されているのだと思われる
http://www.anlyznews.com/2011/07/blog-post_1791.html

耕し、また耕し、堆肥を入れ、種を蒔き、収穫するという営みの中で、放射能を急激に減少させていたのです!
中島先生の科学的解説では、このようなプロセスがあったと思われます。
➊地中の粘土質がセシウムを電気的に吸着した。
➋堆肥の腐植物質が吸着した。
➌土中の微生物や地虫が取り込んだ。いったん微生物が吸収した放射性物質は根から吸収されにくくなる。
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-432b.html



これの不思議は2011年7月13日の時点でこれだけ減っていたのである。やはり雨が降ると泥と一緒になって放射性物質が流れるというのは科学的に説明される。放射性物質は泥に一体となり付着しているから泥と共に流れてもゆく。日本では雨が大量にふるからその時放射性物質も泥とともに流れてゆく。川に流れ海に流れてゆく。飯館村は放射線量が高かったのだけど流れる量も大きかった。
今は2013年でありこんなに流れてからまた二年とかたてばさらに放射線量はへっへゆく。

それからやはり残っている人がいて畑を一部作っている。そこでも放射線量は減っている。つまり人が住み畑を耕すということで放射線量も減ってゆく不思議である。人間が住まないということが何かかえって放射線量を放置することになるのか?それも不思議な現象である。もともと放射性物質がどういう影響するのか実ははじめての経験だから予測できないしわからないということがある。科学者でもわからないのである。こうしてみたら効果があったとかどうして減ったのかとかわからないのである。ただ現実的に放射線量がへればそれでまた対処が変わってくる。老人なら住めるじゃないかとかなる。老人が住むには影響ない程度になってきているのだろう。ただ幼い子供をもっている人は敏感だから南相馬市でも子ども連れて流出している。

大倉では泥の所は前も高かった。今でも7マイクロシ-ベルとになっていたから高い、草は5であった。道路は2くらいだった。道路は除染している所がありへっている。7になっているのは泥がセシウムとともに流れないためだろう。泥には放射性物質はたまっていて高いのである。草むらも道路よりいつも高かった。ただ平均して3マイクロシ-ベルトくらい低くなっている。約二年たってこれだけ減ったというのは放射性物質は泥と流れて徐々に減ってゆくものなのか?あとまた一年に二年とたって減ってゆけばやがて住めるようになるのだろうか?チェルノブヘリでは老人だけがもどって住み野菜も作って食べていた。飯館村もそんなふうになるかもしれない、他の地域でも老人だけが戻り住むようになるかもしれない、誰も住まないと土地も荒廃してゆく、一旦人が住んだ地域は人が住まないと荒廃がひどくなる。人が住まなくなった廃墟のような村の写真が良くでているけど何か凄まじい。
幽鬼の棲家のようになっているのだ。成仏しない霊がさまよっている地獄のような所になっている。家は朽ちてゆくとそうなる。だから墓でも地蔵でも石碑でも何でも捨てられてしまうと人が住まなくなると霊が彷徨い出て漂っているような異様な風景になっているのだ。

科学的にわからないにしろ畑を耕していて放射線量が減ったというのは何か土も人の手が加えられると毒がのぞかれ生きた土となるのかもしれない、一旦人の手が加えられた自然は放置されるとそこは荒寥としたものとなる。だから人の手を加え続けねばならない、それは森や山でもそうである。
人間の住んだ所は純粋な自然の場所ではなくなっているからなのだ。人の手を要する自然に変化したものなのである。
posted by 老鶯 at 17:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連