2013年04月26日

機械文明崩壊の中で(星野芳郎)を読む (40年前に警告されていた原発の危険性)


機械文明崩壊の中で(星野芳郎)を読む

(40年前に警告されていた原発の危険性)


●原子力発電の重大事故は起こりうる
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日本の原子力委員会はアメリカの原子力機器メ-カ-のカタログを鵜呑みにして信頼性を高める実験はなんらやらなかった。日本の原子力行政はこれほど官僚的でかつ植民地的な性格をもっている。

もともと工業は農業や漁業とはちがって自然の地形や気性に致命的に制約されない、自然条件から多分に解放されているところに大きな歴史的意味があった。しかし工業の生産力が今日ほど大きくなり技術の上でも決して重大事故を起こしてはならない技術が登場してくると工業の展開も自然条件に大きく制約されるに到ったのである。
日本の自然条件は少なくとも現在の形の原子力発電の展開を許さないことを知るべきである。
あえてそれを強行するならば自然は必ずや日本に復讐すると考えなければならない。


この本に注目したのは40年前に出版されたものであったことだ。フクシマ原発の一号機が作られたのは1971年でありこの本が出版されたのは1974年なのである。この時期に適格に原発の危険性を指摘していたのである。事故があっての今ならいろいろ言うことができる。しかしその当時はそもそも原発が何か知らない人が多かったろう。その危険性も科学者ならわかっていたのである。この人は技術評論家であるから原発の危険性を専門的に知っていた。これまで原発事故に関してプログで究明してきたがその原因は何なのか、この本を読めばすでに原発事故が起きることは予測されていたのである。でもなぜそれをとめることができなかったのか?それはひたすらに経済成長を望んだことであり巨大工業化の道が自然条件を越える規模になっていた。人間は自然条件の制約の元で生きているのでありそれを越えるとき危険をはらんでいたのである。瀬戸内海のコンビナ-トの公害から原発の危険性も指摘していたのだがまだコンビナ-トは小規模なものであり限定されていた、原発事故は規模が地球大にも拡散される危険なものだった。一旦事故が起きたらどうなるか科学者はわかっていた。


それではなぜ無理して原発が作られたのか?それは政治的意図が働いたのであり政治家の責任が大きかったのである。ただ科学者も原発は専門的にみて危険なことがわかっていたのだから政治家の圧力に屈してはならず危険性を指摘するべきだった。つまり原発は政治家と官僚とかの圧力で無理やりに安全を無視して作られたものなのである。正力松太郎などという一個人の野望のためにも原発は利用された。正力松太郎はCIAのアメリカのエ-ジェントだった。アメリカの植民地としてなお日本はあり危険な原発を売りつけられたのである。その後継者として福島県の渡辺やその息子の・・がいてこれらもアメリカのエ-ジェントであった。原発を作っているGEの社員だったのが渡辺耕造の息子だったことでもわかる。中曽根首相もかかわっていた。原発は新幹線の駅を政治家の口利きで作られたように政治家の圧力で作られたのである。安全より原発のその巨大な能力にひかれて誘致したのである。


自然条件を無視したというとき日本には地震や津浪の頻発地帯だった。それが小規模な工業だったら原発のような大事故にはならなかった。そもそもこれだけの巨大な工業化はすでに限界に達していたのである。自然条件を越えて発展していた。一千万の東京があること自体すでにそれだけのエネルギ-をまかなうものを用意することは危険なものとなっていた。自然条件を越えたものとなっていたのだ。自然条件を越えたというとき日本古来の白砂青松の風景も自然条件に適合していた美しい風景だと思っていたが津浪で破壊された。これも自然条件に適合していたものではなかったのである。
人間は自然条件の制約を越えて生きられない生物だったのである。これは生物である限りその宿命をまねがれないものである。人間だけが自然条件を越えて生きられるものではない、その自然条件をはるかに越えた文明は自然から復讐されることは予見されていたのである。


●公害患者の賠償で金で解決して会社や国の責任は問われない

 


瀬戸内海の汚染地域を訪れて痛感させられることはコンビナ-トができてはじめて農業が破壊されたのではない、コンビナ-ト来る前にすでに農業が破壊されていたから地域は工場を誘致してその工場がさらに農業を大きく破壊した。 農業の破壊とは若年労働力の流出であり年配の農民の出稼ぎでなどである。


農民や漁民や林業にたずさわるものの政治力が強ければ農民や漁民や林業者は生産労働の上で汚染にもっとも敏感であるから大会社のように廃棄物を垂れ流す自然環境を汚染させることはできなかったろう

自然環境は金でかえない、汚染は金で解決できるものではない、健全な自然にもどすことによって
真に解決できる。


この意味で公害基金の思想は有害である。公害患者に金を払うということは企業の責任を追求せずということにほかならない。企業は公害基金のかげに隠れて公害患者からの直接的追求をまねがれる。
四大公害裁判いづれも企業の補償金の支払という形で解決されたがほんらいならば企業の幹部の社会的責任が法的に追求されなんらかの社会的制裁が当然ともなうべきだった。


公害基金などで公害患者に賠償して事をすませる。会社自体は責任をとらない、NHKのクロ-ズアップ現代でもとりあげていた。JRの事故で会社自体を罰することはできない、会社の罪は問えない、個々人の罪は問えるが会社自体を罰する法律はない、だから会社は安全対策に真剣にならないという。
会社とか大きな団体は不正があってもその罪を問えないのである。これは大きな団体自体の罪は問えないのと同じである。カルト宗教団体だってあれほど大きな団体になればその団体の罪を問えないとなる。大きな団体を罰する法律がないのである。国自体の過ちを問えないのと同じである。
今回でも賠償問題でこの辺はもめているけどその賠償金ですべて責任がないがしろにされかえって高額な賠償金を要求する人たちが悪いとされるようになった。東電とか政府の責任は追及されないし誰も責任をとらされないのである。それはなぜか?会社とか大きな団体を罰する法律ないからなのだ。


●安全は結局は機械だけではない人間の管理である


機械や装置にどれほどの安全のシステムがほどこされていようと安全を守るのは人間である。つまるところ人間の管理である


安全はいくら機械をコンピュ-タ-で制御しようとしたってできない、機械もコンピュ-タ-も人間が監視しているのだから人間が安全を作るのであり機械ではない、そして原発のような巨大なシステムはすでに人間が管理する能力を越えていたのである。その結果としてメルトダウンが起きた。つまり手のほどこしようがなくなっていた。それは必然的にそうなる運命にあったのである。人間が安全を管理するというとき清水社長がコストカッタ-といわれてのしあがったように安全よりコスト重視した。それを保安委員は点検していないし東電のコストカットを許していたのである。保安委員は何の役目を責任も果たしていなかったのである。いくら機械やコンピュ-タ-駆使しても安全は守られない、それは人間が安全を守るからである。コストカットで利益中心の会社なら安全よりコストだとなる。それは管理するのが機械ではない、人間だからである。津浪を考慮しないでわざわざ高い所に建てるのを低い所にたてて利便性をましたのもコストカットであり安全を計らなかったからである。それは人間の判断でありトップの判断であり指示だったのである。

もはや巨大化した文明の安全は守れない、いくらシステムを構築しても守れない、それは人間の手から離れて巨大化しているから最終的には原発の事故のようにメルトダウンするのが運命だともなる。いくら事故が起きても自然の制約の元で生きていればそうはならない、一部の損傷だけですむ。しかしこれだけ巨大化した文明は全体に波及して全体がメルトダウンしてしまうのである。それがとめられないということである。それが人類の滅亡に通じている。だから原発事故は文明そのものを見直さない限りもはや制御できない、文明の巨大化がエネルギ-の膨大な消費文明が破滅に導いているのだ。何らかの小規模なダウンサイジング的経済が要求されているのである。これは個々人の電気の節約などですまないのである。でも国民総生産の増大が望まれとめることができない、景気を良くするために縮小生産などできない、そして最後は文明の破滅、メルトダウンになってゆく宿命にある。

制御すること縮小することができない文明だからそうなる。そして最後に自然から復讐されて滅亡することになる。だから小子化の人口減も自然的条件維持のために自然の作用でそうなっているのかもしれない、日本は6千万人くらいが適正規模でありその中で自然条件に見合った文明を作るべきなのである。自然条件を無視していはいかなる文明も成り立たない、エジプト文明が三千年維持できたのは自然条件に適合して生活していたからである。現代の文明は百年ほどで衰退して滅びるのは自然条件に適合していないからなのだ。だからこそ自然に復讐され破滅させられるのである。

posted by 老鶯 at 10:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年04月27日

残る花 (川内村には川内村の良さがあった-なぜ簡単に故郷を捨てるようになったのか?)


残る花

(川内村には川内村の良さがあった-なぜ簡単に故郷を捨てるようになったのか?)


タンポポや自転車で急ぎ街へ行く

新築の家のあまたや燕飛ぶ
烏二羽里を語るや春の暮
雨しとと夕暮れあわれ残る花
故郷に晩年の日々夕雲雀


この道に残れる花のなおかすか小さき町に我は住みにき

春の雷昨日は轟き今日は風荒れにつつ時は移りぬ


南相馬市鹿島区の変化は大きい。新築の家がもしかしたら50軒くらい建っているのか?今までは西町は住宅地として土地が売りに出されていたが誰も建てなかった。今は大きなアパ-トが三棟建てている。それだけ入る人がいるから増えた。津浪で家をなくした人と小高とかから避難した人も建てているのだろう。結構金を持っている人が多いこともある。避難民は補償金の額が大きい。一年で一千万くらい入る人が結構いるのかもしれない、すると家を建てることができる。

川内村で避難民が村に帰らないのは賠償金の額が大きすぎることなのだ。補償金で郡山に家を建てた方がいいとなる。テレビではそこのところは議論されていない、テレビでは本音が議論されないのである。遠藤村長が原発事故前は川内村の良さがあって住む人がいた。それがなぜ原発事故以後そうなったのかと問うている。不便でも川内村には川内村の良さがあったということが見逃されてただ利便性を求め多額の補償金がもらえることで村は解体しつつあるのだ。


その大きな要因が現代とは広域社会の中で生きているのだ。川内村でも高校がないから富岡とか双葉とかに通うことになっていた。その富岡とか双葉が原発事故で町自体が成り立たなくなった。昔のように自給自足の村で暮らしているのとは違う。広域化社会でありとても一村では生活が成り立たないようになっている。また一地域でも全国でつながっている。それを意識されたのが今回の原発事故だった。郷土史などは一地域のことでありあまりよその人は関心を持たない、しかし原発事故以後この辺は世界からも注目されたしボランティアなども全国から入ってきた。すると一地域の関心ではなく全国の世界の関心の的となったのである。だから原発事故を契機にこうしてプログを書くことは地元のことでも一地域のことではない、日本全国の問題として一地域のことを語るようになったのである。原発事故は一地域の問題ではない、日本全国の世界の問題だからである。プログのインタ-ネットの強みは一地域ではない全国に発信されることである。


確かに最初の内、放射能の風の影響のことを地元の地形から考察して書いたとき自分のプログが注目されたらしい。ノルウェ-語に翻訳していた人がいたことは確かである。なぜノルウェ-だったのかわからないがそれを今日指摘する人がいてわかった。あの放射能の風の影響について書いたのはやはり地元でしか書けないものがあったのだ。最近川俣まで自転車で行ってあそこに水境峠の山を越えて
東風が相当吹いたことで自分の予想があたっていたことを確認した。東風は広範囲に吹いたのである。だから福島市や二本松市、郡山市への影響も大きかったのである。


烏二羽が何かこの里を語るようにとまっていた。桜はだいたい散ったがわずかに残る花があった。
その花を見ると小さい町に住むのにふさわしいとなる。確かに川内村には川内村の良さがあった、飯館村にもあった。では川内村ではその良さを原発事故で簡単に見捨てられてしまったのか?
もちろん不便になったためでもあるがそもそも故郷という場にそんなに執着する人が少なくなっているからではないか?人とのつながりにしても土地とのつながりにしても希薄化しているのが現代である。ただ川内村のようになるとまた別であったろう。それが良さであったが簡単に見捨てられてしまうのは昔の故郷感覚とは違っている。人間の生活感覚がすでに一村にとどまっていない、情報にしても村であろうが山奥であろうが世界の情報が入ることには変わりない。そういう時代の変化が簡単に故郷を捨てるということになっているのかもしれない、一番の原因は多額な補償金であり結局ここも故郷より金だということになってしまう。金より大事なものが利便性より大事なものが川内村にあったではないか?そういう遠藤村長の言い分に共鳴した。川内村で磨かれる感性があるというのも共鳴した。


つまりそういう感性を自分は故郷で磨いてきたからだ。それが俳句になり短歌になったり詩になったりしているからだ。とても東京のような所に住んでいてはそうした自然への感性が磨けないのである。ただ自然の感性というときこれは子供のときは田舎にいたから自然の感性が磨かれるとういものでもなかった。実際は故郷というのは自然というのは老人になると最も感じやすいものになる。
青年時代でも田舎よりあえてごみごみした人ごみの都会の方に憧れる。自然はむしろ欲がなくなった老人に感じやすいものであることがわかった。だから老人にとっての終の棲家は田舎を望むのがわかるのである。


自然の良さとか故郷の良さとかは意外と老人にならないとわからない。田舎は別に人がいいとかならない、老人は故郷に帰りたいという気持ちはやはりすでにその故郷と意識しないにしても一体化していたものがあった。だから老人はなかなか住み慣れた土地から離れられないのである。


まだひっそりと桜は咲き残っている。知らない遠い小さな町である。そこにまた情緒がある。
まあ、情緒だけでは生きていけないけどやはり情緒がないところには生きたくないのである。
川内村にはそうした良さがあったが郡山にはないだろう。郡山となるとやはり相当な都会になるだろう。でも仙台でも東京とは違っている。それなりに情緒はある。第一自分のように情緒を第一にする人は少ない、みんな生活第一である。それは結局経済の問題になってしまうのである。
川内村に都会から住んだ人は自分が求めたようなものを求めていた。でも補償金だけが話題になる村に嫌気がさして離れていったのである。


川内村を訪れる
http://urban-diary.blog.so-net.ne.jp/2012-07-01

川内村から原発が見えていた!


それにしても川内村は原発から12キロしか離れていなかった。
川内村から原発のある所が見えた!
それにしては放射線量がかなり低かった。これもやはり風の影響だったのだろう。
なんかあそこから原発が見えるということは嫌だし危険を感じる
今や原発なにか不気味なものとして不安の対象になる
見える距離にあることが嫌な感じになる。
川内村には訪れたことがない、ここからだと相当な距離になる。自転車では簡単には行けない距離である。

2013年04月28日

相馬藩の石高からみる津浪被害の大きさ (日本の歴史は米を作るための開墾開拓の歴史だった)


相馬藩の石高からみる津浪被害の大きさ

(日本の歴史は米を作るための開墾開拓の歴史だった)


正徳元年7月郷村高辻帳



栃窪村-915石
南屋形-730石
鹿島村-1117石
小島田村-664石
南海老村-713石


北右田村 719
南右田村-450石


(飯館村)

草野村 330石
飯樋村 450石
小宮 35石
関根 16石
二枚橋 45石



この石高を見ると村の規模が数字で明確化される。全部の分析はできないが500石になると上位になる。そしてどこがその郷の中心地だったかわかりやすい。飯館は今は草野だけど元は飯樋村がちゅうしんだったことがわかる。そこには塩の番屋が置かれて60人も役人がいたとか塩を管理していたので人数が多かった。石高も多かった。つまり草野と飯樋村の他は極端に少ないのであり原野が広がっていた。飯館村は明治以降でも開拓に入った人が多い土地だった。それだけの未開の土地が多かったのである。

この石高で注目したのが北右田と南右田である。それから小島田村である。ここはすべて津浪の被害を受けたのである。ここはもともと海であり開拓された土地だったのである。北右田が南右田より古い。北右田から野馬追いの甲冑競馬に出る人と話したことを書いた。南右田村は江戸時代からあったとしても新しい。意外なのは栃窪村が石高が多い、そしてそこは水がいいから鹿島区では一番がうまいと自分の家でも買っていたのである。そしてどういうわけか栃久保という姓の人が相馬藩内の村に結構いるのだ。栃窪村の人が他の村に移住して栃久保と名乗ったのだろう。栃窪村はそれだけ大きな村だったとなる。
北右田-南右田村と小島田村をあわせても石高はかなり多くなる。1700石とかなる。鹿島村は1000石であり小高村も1000である。1700石となるとかなり相馬藩内では大きな石高になる。大内村なども被害にあったから2000石くらいの面積が津浪の被害にあったのである。当時の経済からすると津浪の被害は思った以上相馬藩の財政の負担になったかもしれない、ただその状況は記録されていない、そして津浪で海になった所はそもそも海であり開拓された所だったということである。逆の見方をすれば2000石くらいが開拓によって米の生産高をあげたということである。つまり相馬藩が六万石として2000石はその開拓によって得られたものだということである。これは相馬市の磯部とか他にもありその石高は一万とかになるかもしれない、それだけ開拓によって得られた米が相馬藩の経済を支えたことになるのだ。


このことは伊達藩にあてはめれば桁違いの面積が仙台平野が開拓されて米が生産されてその米が江戸に商品として運ばれて伊達藩の力となった。伊達藩の力は開拓から生まれたとも言えるのだ。米中心の経済では米をいかに増産するかが問題となる。それには日本では土地がないから海の方に開拓地を広げた。その開拓したところが今回の津浪で被害にあった。その被害はあまりにも大きかったのである。
小島田も島のようになっていた田であり真野川の河岸が湿地帯のようになっていてそこに島のように田が最初作られて人が住み着いた。鹿島区の中心はもともと鹿島村ではなく栃窪村の方にあった。
なぜならそれだけ水が良く良質の米がとれる場所だったからである。海側になるとどうしても水が良くないからいい米がとれないからである。でもとにかく米の増産のために無理して海側を開拓していった。その結果として津浪に襲われてすべてが元の海にもどってしまったのである。


飯館村でもそうだが日本の国力は米の増産にかかっていて日本全国の開拓はつづいた。それは大正時代でも小高の井田川浦が開拓されたり戦後も戦争から帰った人たちがこの辺では小池とかにも開拓に入っている。そういう人を現実に自分は知っていた。あそこに開拓の碑がある。飯館村は開拓者のしめる割合が他よりずっと多かったのである。それだけ原野が未開の広がっていたからである。
日本の歴史を土台からかえりみれば開墾開拓の歴史だったのである。土地が少ないから棚田でもそうだけど狭い土地を開墾して米作りに営々と励んだ歴史だった。海側の開拓はだから津浪の被害を受けたように自然条件を越えて無理した結果としての被害だったとなる。でも日本では土地が狭いからその土地をえるためにやむをえなかったのである。


だから満州のような広大な日本では想像すらできない土地に憧れたこともわかる。そしてその寒冷地帯でも米作りしていたのである。日本の歴史は米作りの執念が綿々としてつづいたのである。それでも米が満足に食べられたのは戦後十年以後でありそれまでは麦飯であり農家すら満足に米を食べていなかったのである。白い飯を食べていなかったのである。ご飯が食べられると東北では兵隊になった人もいた。米なんかいくらでもある、米なんか減反しているじゃないか、今はパンでも何でもなる。米に頼る必要はないというとき先祖から罰があたるともなる。その営々とした労苦の歴史が無視されるからである。だから現代の豊かさも過去の歴史の継続としてふりかえらないと傲慢なものとなりその豊かさによってかえって自然から復讐されることがある。そんな米作りより今は科学だ、原発だとかなりかえって故郷すら住めなくなったこともそういう歴史をふりかえり国作りであり村作りでありしなかったからではないか? 科学は原発でもそうだがあまりにも魔法的要素が多かった。その富をもたらすものは危険に満ちていたのである。またそこに過去の米作りのような労苦の積み重ねの歴史もない。科学は確かに富を便利さをもたらすのだが一面常に危険なものとしてもあった。自然との調和も計られていなかった。それが見逃されていたのである。なぜなら米作りさえ海側を開拓したことさえ自然の調和を計ったとはいえなかったからだ。それが津浪で証明されたのである。


 

posted by 老鶯 at 14:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2013年04月29日

残る桜(まだ桜はそちこち残り咲いている)


残る桜(まだ桜はそちこち残り咲いている)


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古き碑や花は散りにき薬師堂
夕陽さし今一時の桜かな


松になお残る桜の咲きにけりこの一時の美しきかな

雷鳴りて嵐はすぎぬ来てみれば一木の桜残らず散りぬ
移りゆく時の早しもたちまちに一木の桜散りてなしかも
六万石残る桜のかすか散る遅れたずねる人のありしも
街道に残る桜や松並木夕日のさして我が帰るかな

日立木の薬師堂に咲く桜散り夕暮れあわれ細道帰る

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桜はまだ咲いている。それなりに咲いている時期が長いなと思った。すべて散ったものがあにしてもまだ残っている桜がある。イオンの前の一木の桜は見事に満開に咲いていたと思ったら全部散っていた。この前見たときから一週間くらいたって雷も鳴ったし嵐もきたし風が結構吹いたのでみんな散ってしまった。相馬の城跡の桜もほとんど散ったがわずかに残る花がかすかに散っていた。そしてまだ訪ねる人がいた。桜はないが城跡を見に来たのだろう。街道にも名残りの桜が咲いていたし日立木の薬師堂の桜もいつもきれいである。でもみんな散っていた。桜はいたるところに咲いている。薬師堂の桜もきれいでありいい桜だったのである。日立木のあの薬師堂は浜街道の要のような場所に感じる。だからあそこに明暦とかの古い碑が並んである。基金の供養の碑もある。あそこは情緒のある場所である。昔は情緒だけではない、今の医院のような役目を果たしていたのである。


江戸時代ころが良かったのは自然の中に暮らしているから癒しがあったのだ。病気だって病院とか無味乾燥であり美が欠けているのだ。美は常に必要なものなのである。人間は最後まで美しいものを見て死にたいという気持ちがある。美しいものを心に映じて死にたいのである。人間は醜かった。しかし自然は美しく心をなぐさめてくれた。だから花の下にて春死なむ・・・となる。


津浪はあまりにもむごたらしかった。その死も無惨だった。泥の海で死んだことが無惨だったのである。ただ八沢浦は確かにあそこで死んで水がひいて泥の海から死体が発見された。ただ津浪が美しかったなどと写真にだした人はいなかったのかもしれない、でも小高の井田川浦でも磯部でも一時湖のようになったときは美しかったのである。自然はあのような災害でも美をもたらすものだと感嘆したのである。人間の戦争のようにはすべてならないのである。戦争などはそこに一かけらの美も見いだせないのである。広島の原子爆弾を見ればわかる。津浪はむごたらしいにしてもわずかでもあっても美をもたらしたのである。無惨であったけどその美を否定することはできないのである。

人間は日頃接していてただ欲望だけを求める醜いものである。そもそももはや人間に救いはない、純粋な心の人はまれである。たいがいは欲にまみれて自分のことしか頭にない醜いものである。それは自分にもあてはまるだろう。そういう世界に救いはない、美があるときそこが救いになっているのだ。こんな醜い世界にも美しいものがあるから救いなのである。自分は人間がいなくなっても美の世界はあってほしい。
人間がいなかった原初の世界の美しさは信じられないものだった。それがとりもどせればどれほどすばらしいかと思う。
東京のような文明都市が醜悪であり美しいものがないから絶望的なのである。醜悪だから滅びてもいいと思ってしまう。
もし美しかったらそういう否定的なものにならないのである。なんと美しい都市だろうとなれば誰も滅びてもいいなどと思わないのである。


桜に日本人がこれほどひかれるのは桜は咲く前からはじまり徐々に咲いてやがて残る桜となり散ってゆく、それが何か短い期間だけど人生とにているから桜にひかれるのである。そして時間的にもそうなのだが空間的にも桜前線があり関西の方は散ってもみちのくが咲き始める。みちのくでも広いから福島県の方は散っても岩手県の方が盛りになり弘前の桜が咲いて東北の桜は終わりさらに北海道と移るのである。それがまた時間差があり桜の咲く時期は六月まである。稚内でその桜を見たからである。ともかくまだ残る桜として桜は名残を惜しみ咲いている。

元禄の碑のあったのは程田ではなく新田だった



元禄の碑のあったのは程田ではなく新田だった

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新田の里を開いた人の名が記されている

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横山の姓があり二種類の旗印がある
横山は新田の里を開いたと記してあった
新田村は20の旗印があるから大きな村だった



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碑が津浪で倒されたまま

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バイパスまで津浪が来た


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鷺が田んぼにいた-今はめずらしい(鹿島区)

クリック拡大!してください


元禄の碑があったのは程田ではなく新田だった。新田という地名が新しいと思って程田が古いと思ったから程田としてしまった。今日その碑のあるすぐ近くで畑を耕している人がいた。そこは飯豊村であると最初に言った。土地の人ですかと聞いたら違っていた。どこの人ですかと聞いたら南相馬市だという、なぜここで畑を耕しているのか?南相馬市では畑を作れないからここで耕しているという、土地を借りて耕している。ここでも津浪をかぶった。津浪はバイパスまで到達していた。見れば相当に広範囲である。今回の津浪はどこでも広い範囲に広がったのである。飯豊小学校前まで来たというから驚きである。鹿島区でも鹿島小学校前まで来た。ともかく飯豊村は大曲と程田と新田がある。元禄の碑があったところ古い碑が一杯あったところは新田である。新田と言っても実際は元禄時代にすでに新田となった。新田となったのは開拓したからそういう名になった。

その名がついたのは元禄時代にすでにその名があった。正徳時代に新田村は756石であった。大曲と程田は400石である。干拓された面積の方がそれほど広かったのである。それ故にあそこに古い碑があるともいえる。何らかの記念なのかもしれない、実は元禄時代は全国で開拓が進み米の生産高がかなりあがった繁栄した時代だった。だから元禄時代には華やかなイメ-ジがある。芭蕉が活躍したのも元禄時代である。日本文化の興隆期でもあった。だからそこに元禄の碑があっても不思議ではない。相馬藩でも開拓が盛んに行われた時期でありその時の新田なのである。 その畑を耕していた人はあの辺に杉堂とかあって杉林があり隠れて田を作っていたという。隠し田ですかと言ったら税金逃れるためにそうしたものだろうと言っていたからそうなのである。でも平坦な地だから隠れようがないのである。ただ当時の風景は違っていた。杉林があり隠れるような田があったのかもしれない、隠し田というとき日本全国でありこの辺では鹿島区の塩崎とか小山田に隠町という地名で残っている。これは隠し田のことである。確かに塩崎でもそこは目立たない隠れた地点であり小山田も山側であり隠れた地点にあるから合点がいく、でもあそこは平坦であり隠れるような田が作れるようには見えなかった。
 
隠し田と五郎右衛門
http://yaromai.dip.jp/minnwa2/mukasibanasi/kakusida.html
 
隠し田が発見されると首が飛ぶ厳しい罰があった。それでも作っていたということは税としての取り立てが厳しいからそうなった。この物語では庄屋がわびて腹を切った。庄屋とはそれだけ責任がありかばうものだった。これは明治以降の地主とは違うものがあった。地主には自分が犠牲になるような物語はない、庄屋と地主がにているようにも思うが実際は違っていた。だからかえって明治以降は江戸時代より農民が不平等にもったとしたら何ための明治維新だったのか?庶民にとってはいいことがなかったともなる。ただ商人とかその他会社とか工業関係の仕事に就いた人は良かったのだろう。農民は江戸時代より悪くなったのだろうか?明治維新で得したのは誰なのかとなる。
 
その人はここも放射能のために土を半分くらい削り取ったという、ここは津浪で塩分のため削りとったのかと思っていた。放射能のために削り取った。放射能は計測して今はここは安全だという。かえって栃木や群馬の方が放射線量が高い田畑があるとか言っていた。相馬市でも南相馬市とそんなに距離がないのだから放射能の影響はさほど変わらないとなる。 その場所ではその畑の前に竹藪がありそれが津浪を防いだという、今は何もなくなっていた。竹藪のようなもので防げるのかと思った。勢いをおさえたのかもしれない、津浪は意外と何らかの障害物があると弱まる。鹿島区でも海老の坂が津浪を防いだとか言うのは意外だった。つまり意外なものが津浪の力を弱めていたので悪。竹藪は竹が密生して根が強く張っているから波の勢いをある程度とめたのかもしれない、ただ松原などは根こそぎ倒された。海岸線から多少離れているから津浪の力も弱かったのか?松川浦はそこは近くである。松川浦の方かもあふれてきたかもしれない、バイパスまで津浪が広がったのだから広範囲だったのである。今では新田辺りは津浪の跡はない、家も元のままである。ただ元禄の碑があったところが碑が多くあり津浪で倒れたままだったのである。
 
相馬市の程田、大曲、新田を訪ねる
 http://musubu.sblo.jp/article/64988032.html
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新田村のおみかとは実在したのかな?


新田村のおみかとは実在したのかな?

 

飯豊耕土にや 箒はいらぬ
新田、おみかの裾で掃く


こんな歌が残っていること自体、新田は相馬藩の城からもさほど遠くなく古い地だった。
柏崎梅川のお釣り場からの帰りにおみかという娘を見せめて城勤めになったという。
こういう話は他でもいろいろあるから何が本当かわからない、ただこんな歌が残っているのだから
おみかとは実在の娘だったのだろうか?でもなんらか相馬の城の殿様と関係していたのか?
新田という地はそれだけ何か相馬藩の城の殿様と親しい村だったともなるのか?
ただこんな浮ついた話しがあるとすると他の村では面白くないだろう。
そんなことで村が厚遇されたりしたら他の村人は働く気がなくなるだろう。
誰か器量のいい娘を殿様にあづけて楽しようとかなる。相馬藩は貧しいからそんな余裕があったのかということにもなる。ただ別に殿様は当時は側女を多くもつことはとがめられていなかった。
ただそれも豊かな藩のことである。

おみかという名前の由来はここからきていたのだろうか?


現在では「みか」とはいわず、
「瓶」=「甕」=「かめ」と読むことが多い。
古代人は、美しく流れる川を「御河(みか)」と呼んだ。
その川沿いにひらけた原野に、「御河之原(みかのはら)」と地名をつけた。
川の流れ込む形が甕(カメ)に似ていたからという説もある。


聖武天皇がそこに恭仁京(くにきょう)をおいて生活していた
時期がある。(740〜744年)


「三日原(みかのはら)、布当(ふと)の野辺を清(すが)みこそ、
大宮処(おおみやどころ)定めけらしも」―― 『万葉集』
http://blog.goo.ne.jp/obi-jime123/e/506c6a3bd586ca16e57c5dad4baf619f


大甕(おおみか)という地名もそうなのか?  川に由来したものなのか、梅川が流れていてその名がついたのか?名前も考えてみるとどうしてつけられたのか不思議である。


ただ新田村には近くに釣り堀があり通っていたのである。

例の溜池で誰かが釣りをしていた。その釣りをしている人と話をした。どこかの釣りする所では魚を釣り堀のように放流しているという、それで人を集めている。釣りといっても今はとった魚を放している。魚をとって食べるというより魚をつり上げる醍醐味を楽しんでいる。そもそもそんなに魚をみんな釣って食べてしまったら魚がいなくなってしまう。
最近読んだ雑誌でもそもそも日本近海の魚はとりすぎていなくなり漁師はもう生活が成り立たないという。魚もとりすぎるとそうなる。魚の養殖を考えるべきだというのもわかる。天然の魚はとり放題にしたらへる一方なのである。魚も釣り堀化しないとへって魚はとれなくなるのだ。天然の鰻も絶滅するとかなる。そういう時代になってしまった。養殖化しない限り漁師の生活は成り立たなくなる。右田浜でとれたのはイシモチとかスズキだった。それらとって食べていた。海の魚は食べていた。

その人はとれたときは60匹もとれたという。魚もとれるときはとれるのである。

魚釣りは自然との交流でもあるから何か見ていても気持ちがいい、自然に溶け込むということがある。だから釣りから自然を考察して村のことを探求した哲学者がいた。釣りというのは遊びでもそれだけ自然と通じ合うから違っているのだ。ゲ-トボ-ルとかゴルフとか何かこういう娯楽は自然と通じ合うものでもないからあまりそういうものをしているものと共感しにくい。釣りをしている人をみていると自然に溶け合った自然の一風景に感じるから好感をもつ、ただ自分はじっとしていられないたちであるから向いていない、自然と交流するとき絶えず動いている自転車などが向いているのだ。


ともかく釣りしている人と話したように相馬藩の城の殿様も釣りを楽しんでいたのである。

「何か今日は釣れましたか」
「今日はさっぱりだったな、でも人間が釣れたよ、鄙にはまれな美人が釣れた」
「どこのどなたで、新田の里の娘だった、おみかと言っていたな」
「殿、あまり遊びはいけません、他の村の者が働く意欲をなくします」
「まあ、そんな娘がいたことを話しただけだよ」
「釣りの方に精をだしてくだされ」
「それもそうじゃ、人間を釣るより魚じゃな」
「そうでございます、殿様は村民の模範でもあるんですから・・・」


その日はぼかぼかと春のあたたかい日が新田の里にさしていた。桜もそここち咲いていた。

相馬中村石屋根ばかり、瓦(変わら)ないのでドント人が好く・・」こんな戯れ歌が残っていること相馬藩の城があった中村は何か本当に田舎の城であり貧しい城下町だったのである。
だからこそやはりそうした浮ついたもの、贅沢はできない藩であり殿様も質素を心かげるのが普通である。そうしないと下々の風紀も乱れるからである。


我が城より相馬の城下を見渡せば
相変わらずに石屋根ばかり
春なれど何か寒々しかな
新田の開拓は成れどなお貧しき
いかにして民の豊さのあれや
今年の春も花散りて逝かむとするかな

こんな話しになっていたのか、それなりに相馬の殿様の話があれば新田の里も興味が湧くということがある。相馬の殿様のことは何か具体的に浮かんでこないのである。

posted by 老鶯 at 21:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2013年04月30日

人間は近くのことを見逃している (時間軸の歴史を知ることはむずかしい)


人間は近くのことを見逃している

(時間軸の歴史を知ることはむずかしい)



今年も桜が散り桜の季節も終わりつつある。今年も意外だったのは桜はいたるところに咲いているものだと思った。去年見た桜と今年見た発見した桜は相馬藩内でも違っていた。そんなに桜が咲いているのとなるけどここにも桜咲いていたなと身近なところではじめて見る桜があった。それもいつも行き来している六号線沿いにあった。イオンの前の一木の山桜はあれは街道の近くにあっても隠れている。街道からは見えないからわからなかった。唐神の堤の桜も前見たのとまた違っていたのが松にそえて咲いていた。これだけこの辺で桜が咲いていることが意外だったのである。
日立木の薬師堂の桜などは目立つから毎年見ている。でもまた何か違ったものとして見えてくるのも不思議なのである。それはやはり人間の心境が一年一年変わっているからなのだろうか?
心境は若いときと老人になったら全く違ったものとなる。価値観がまるで変わってしまうのである。

自分は桜は全国を旅して見ていた。その時は関西の方を中心に見ていたのである。京都の桜も見た。 そこで感慨深かったのは関西の桜を見て散ったときみちのくに帰れば咲きはじめていた。そういう空間移動で桜前線の旅をしていた。これは今やいかに贅沢なことだったか恵まれたことだったか知った。一日も旅ができなようになってわかった。自分の30年間は世間と没交渉であり旅ばかりしていたとなる。その報いがこの六年間の苦しみとなった。そして近くを行ったり来たりしていると退屈かとなるとそうでもなくなった。自分は若いとき相当に退屈していたから旅をしていたのである。

故郷にいることが平凡で退屈だったのである。東京の大学に行ったのもただ故郷から脱出したいというだけだった。勉強したいということなかった。高校でも自分は落第に近いし学校にはなじめなかったし友達つきあいもできなかった。要するに脱出願望しかなかったのである。その後そういう意識はつづいた。50才になって世界旅行したのも今度は日本から脱出願望でそうなった。日本なんか狭いから嫌だと若い者は世界へ脱出するのがトレンドとなった。バックパッカ-時代になった。


確かに日本には空がない、東京には空がないのではない、日本には空がない、広い空かないということを外国を広大な大陸を旅したとき感じた。日本の空は山が多いから区切られた空のようになっているのだ。大陸の空は山がないからどこまでも平坦な土地に空がかぎりなく広がっている。そこで天の思想や星を国旗にする感覚が生まれた。日本は空を仰いでも大陸のような無限に広がる空ではないのだ。また人間的にも大陸はおおらかだということがあって若者が外国でアルバイトして帰りたくないと言っていたのは日本は島国であり人間関係も狭苦しい、姑息になっているからだろう。
大陸的風土はおおらかでのびのびしたものになる。それはやはり風土の影響なのである。


そして今故郷から出れないとなったとき退屈になるかというとそうでもない、確かに狭い風土だし人間関係も姑息だし褊狭であり嫌である。それでも狭いといっても鹿島から相馬市まで昔の浜街道を頻繁に通っているから飽きたともならない、それは俳句や短歌にしていたことでわかる。こんなに俳句や短歌にするものがあるのかと我ながら不思議に思う。つまり広い空間軸でみたものが狭い領域でも内面的に時間軸で深く見ればどこに住んでも豊かな精神生活が送れるのだ。時間軸の歴史を掘り下げることでその住んでいる場所の意味を理解することで人間の心が豊かなものになる。外国を空間的に旅行してもわかりにくいのは印象に残らないのは長い歴史の時間の積み重ねを理解できないからである。時間軸ではまず一時よったくらいでは理解できない。だからまた忘れやすいのである。

結局鑑賞するというとき深く鑑賞するには絵画でも壺でも何度も毎日のように生活の一部のように見ていれば自ずと理解するものがある。自然とか人間の生活もそうなのである。

つまりどんなところに住んでいようがそれなりの自然と歴史が人間の住むところにある。東京などはないが地方ならある。そこで人間は時間軸で堀さ下げる、感受性を見いだし作ってゆくのである。
この感受性すら自然にその人間に備わっているものではなかった。時間軸で積み重ねで作られてゆくものだったのである。脳でも体でも天才は別にして普通の人は積み重ねで作られてゆくのである。

脳の細胞はその人の日頃の積み重ねで人工的に作られてゆくという不思議があるのだ。常に美しいものに接しようとしていないと汚いものにまぎれて見えなくなってしまうのだ。脳の細胞はその人の日頃の積み重ねによって脳を構築しているのだ。それは例えば雑学のようなものでもそうなのである。地名に興味をもったとしてもそれは雑学にすぎないとなるがそれも知識を実地に歩いたりして脳を地名学として構築していたのである。雑学ですら馬鹿にするが積み重ねがないと理解できないのである。雑学すらものにするには相当な時間の積み重ねが必要なのである。いろいろなものに心が散ってまたたくまに時間はすぎるからだ。


時間は実際は老人になればわかるけどかなり限られたものだった。もはや60代以降は新しいことを学ぶことがむずかしくなる。ただ今まで体験したこと学んだことを深化することが仕事なのである。狭い土地でもだから時間軸で見ればそこに深い意味を見い出すことができる。相馬市の新田というところを時間軸で深化するとき別なように見えてきた。江戸時代から長い時間軸の追体験をするとその土地に対してまた愛着を覚えるということがある。
それは何気ない場所でも道でもそうだったのである。
今の時間に心を奪われているとどうしても物の見方が浅薄になってしまうのである。
極端な極貧の生活が江戸時代からありそこから現代の豊かさをみるときこれは何なんだ、あまりにも贅沢じゃないかとかなぜこんなに贅沢しているのに不満なのかとか見方が違ったものとなるのだ。

花咲くは都にのみ咲くにあらじいたるところに装い咲きぬ