2013年04月16日

相馬市の大曲、程田村、新田村を訪れる (城跡の桜もすでに散りはじめた)


相馬市の大曲、程田村、新田を訪れる

(城跡の桜もすでに散りはじめた)

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ここに舘腰があった



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ここに元禄の碑があった
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これは安正(安政)だろう




沈丁花一人に余す香りかな

母性なる香り豊に沈丁花
春耕や前畑にでて老いにしも
畑に人朝に雲雀や花に影
釣人や春の日ざしに同じ池
夕陽さし六万石も花盛り


新しき芽はいでにけり我が庭のありてなおしも生きるべしかな

城跡に花の散るかな夕陽さし椿のゆれて風騒ぐかも
新田にそ元禄の碑や津浪跡残り尊き春の日さしぬ
新田なる里の社の古りにしや二つほど見て春の日暮れぬ
古き碑のここに並べて新田なる春の日あわれ我がよりにけり
古き里なにしか親し小径行き辻を曲がりて春の日さしぬ
古の人の歩みし道親し春の日さして我が歩みけるかな
街道に枝垂桜の古りにしや根より二つに分かれし幹かな

街道や夕べ桜に松並木日立木通り我が帰るかな

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これは二つの木ではない、一つの木である


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今日は相馬市に行ってきた。途中の池でやはり釣りする人がいた。小さいのしかとれないから面白くないとか言っていた。渓流釣りはどうですかと言ったら危険で年だからできないという、そして釣りは気が長いとできないでしょうというと気が短いからできるのだという、それが良くわからなかった。釣りをしてみないと釣りのことは良くわからない、ヤマメはいるな、岩魚もいるよ、ええ、岩魚は見たことないな、岩魚は隠れているのかな、ヤマメは浮いているのをみかける、岩魚はこの辺ではまだ見たことがない、今はただ食うためにとっているのではない、遊びですよという、釣った魚は放している。自分の父親は良く釣りしていた。鮎釣りもしていたし鰻釣りもしていた。何回かついていった。その時はオカズのためであり食べるためだったのである。何しろ貧乏な時代だからそうなった。今はこの辺ではいくら魚釣っても放射能で食べられなくなった。ただこの同じ池で釣りしている姿をみるとなんとも平和である。自分も苦労の連続だったが病気も楽になったので春の日をともにのんびりした。


それから相馬市の方を一度行って松川浦の方をめざした。そこで大曲とかで津浪が来たかと聞いたら来ないと言っていた。川がありそれは梅川でありまさに埋められた川である。途中で川がなくなっているからだ。そこは新田村だった。。かなり松川浦に近い所だった。その辺はもともと伊達領でありかなた古い村だった。なぜなら津浪に倒された碑の一つが元禄と記されてあった。元禄と記されているのは葛尾(かつろう)村で見たものだけだった。それでここは古い村だと思った。元禄の碑は未だに二つしか見ていないのだ。館腰宮の碑があるのはこれは館腰駅があるので記憶されるがこれも伊達領の神なのだろう。相馬地方には伊達藩の関係の信仰の碑がなりあるからだ。ここは調べれば面白い場所みたいだ。ここで不思議に思ったのは松川浦がかなり近い、でも津浪の被害は辛うじてまねがれた。一部この墓地や浸水はしたが大きな被害にはならなかった。

でもかなり松川浦が近いのである。新田とか地名があるがやはりこの辺までかつては湿地帯で海だったから磯部となるとあとから作られた村だとなる。ここは磯部よりずっと古いのである。村の新旧を知ることが郷土史の基本である。村が古ければ必ず情緒を感じる。何か故人の跡がしみこんでいるという感覚になる。その道一つがもしかしたら故人もひんぱんに歩いていた道だとかなる。奈良辺りだったら古代からの道があるから古いとなる。ただ旅しては急ぐからゆっくりと味わうことができないのである。

そこからまたもどってきて城跡に行きそれから街道を帰ってきた。枝垂桜は二木の松とにていたのか?根元から二つに分かれていた木であり一つの木ではなかった。あれも気づいていなかった。

人間は何度も言っているが意外と近くのことがわからないのである。今回もここにこんなに古い碑があってここがこんなに古い村だとは思っていなかった。まず津浪の被害にあった所はやはり新しいのでありここは津浪の被害が大きくなかったから古い場所だったのである。村の新旧が津浪の被害でわかったということもある。


鹿島区でも畑をやっている人は結構いる。畑に人がいてこそ土地も活かされている。それがいない風景は自然と調和しない風景になる。雲雀がなき人が畑にいて花の影にいこう・・そこで調和しているのである。今度は新地辺りに行ってみよう、詳細な細部にこだわれば狭い範囲でも見るべき所がある。それには多少の郷土史の知識が必要になる。古い碑があると具体的に感じる物があるからいいのである。


大曲には復興住宅が46軒建っていた。あそこの前まで津浪が来ていたのだ。それは別なカテゴリ-に出す。

相馬市の復興住宅1200万 (二階建てと平屋で46軒が建った)


相馬市の復興住宅1200万

(二階建てと平屋で46軒が建った)


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こっちが部屋数多いようだけど三つで同じだという
奥行きがなかったからだ

これは大曲地区の辺にあった。ここはもともと住宅があり新しくした。この前に住んでいた人が言っていた。自分はこの前に住んでいて津浪が来たと・・・
ここはもともと住宅であり土地が確保しやすかった。46軒たっているが平屋でも二階建てでも三つの部屋があるという、三つもあればそれなりの家である。平屋は敷地が広くなっているから三つの部屋であり二階建ては奥行きがないのだろう。二階は二階で棲み分けできるからいい。

値段は最初の五年間は賃貸であとは1200万だという、やっぱりそれなりに高い、建売住宅並なのか
家はやはり高い。


これだけあれば仮設から移りたい人がかなりいるだろう。たいがい老人が多いというのもやはりそういうことかと思った。馬場野にできたのは一人老人用でありそこでも二部屋あったからいい。
ここは夫婦が住むにはいい、三部屋だから余裕がある。子供をもっている人はすでに住んでいた。

仮設に住んでいる小高区の人は帰りたくないという、そしてこのような復興住宅に住みたいから市で建ててもらいたいと言っていた。今日のテレビでも老人は帰りたいけどもう子供は帰らないということでばらばらですとか言っていた。小高区の場合さらに老人だけが残されるし回りが町としての機能をもてないとなると住みたくないとなる。


でも1200万は高い感じもするがやはりこの辺で家建てたら土地が800万とかした。だから土地代こみだと高いとも言えない、最低でも土地代はやはり高いから500万となるとプラス700万だから妥当な金額なのかもしれない、鹿島区では新築の住宅がふえた。町内に人口が集中してきた。一軒は街から離れた所に建った。それは東京から来た人だという、子供もいる。東京から移り住む人もいたのか、やはり何らかの仕事ができて移り住むようになった。こういう人が増えると活気がててくるからいい、一見新築の家がふえたとしても津浪の被害者だったりただ今まであった人口が町内に集中しただけだともなる。図らずもコンパクトシティ化したということもある。


 

posted by 老鶯 at 23:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年04月17日

相馬氏が慶長三陸津浪の一ケ月後に城を小高から今の相馬市に移した謎 (津浪の復興ではなく伊達氏の津浪被害による弱体化が原因では?)


相馬氏が慶長三陸津浪の一ケ月後に城を小高から今の相馬市に移した謎

(津浪の復興ではなく伊達氏の津浪被害による弱体化が原因では?)


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図のようにもともと相馬市の領域は相馬藩の支配地域ではなかった。1600年(慶長)前は相馬氏の支配地域になっていない、だから相馬半郷とか相馬半分と呼ばれていた。だから伊達氏と相馬氏の興亡は北郷の鹿島区の田中城で行われていた。伊達側についた黒木氏と相馬氏との戦いが田中城をめぐって行われた。小高城を基点として相馬氏が進出して小高城の北にあるから北郷になったのであり歴史的には小高城が中心として相馬氏は今の相馬市地域に進出した。歴史的に言えば相馬藩では小高が一番古い場所だとなる。その後原町の牛越城などに移ったりしたが小高城が基点であり最後に城を中村(相馬市)に移した。

相馬市になぜ館腰宮などがあるのか?伊達氏関係の信仰が残っているのはもともと相馬市領域は伊達氏の領地だったのだからそうなる。館腰宮というのはめずらしく感じられる。それが日立木にもある。仙台の近くに館腰駅があるから何か親しいのである。単なる地形的なものかと思っていたが信仰的なものであり同類の神が祀られていたのだろう。伊達氏関係の神が結構相馬藩内に多い。特にもともと伊達領だった相馬市には多いのはそういう歴史の経過を見れば当然だとなる。相馬藩は伊達氏と戦っても密接な関係にあったのだ。ただ伊達氏は強大な勢力だからそれに対抗できた相馬藩の力はどこから出たのかともなる。軍事力の強化によってできた。それで野馬追いがその歴史の証しとして残ったということがあるのだろう。たとえば北朝鮮でも小国であり何で力を見せつけるかとなると軍事力でありその象徴が核になってしまう。他にはなにもない、貧乏な国だけになってしまうからである。絶えず軍事力を示していないとたちまち他国に侵略されたりするだろう。そういう位置に相馬藩もあったのかもしれない、新地に伊達氏の居城がありそこでも興亡があった。新地には伊達氏の子孫がいて相馬市との合併を拒んでいたというのも今につづいている相馬氏と伊達氏の歴史的因縁である。


1611年12月2日(慶長16年10月28日)慶長三陸地震津波

この『駿府記』にある「松平陸奥守政宗献初鱈、就之政宗領所海涯人屋、波涛大漲来、悉流失、溺死者五千人、世曰津波云々」が、文献に現れる最古の「津波」という語句の記述とされる。


慶長三陸津波の後、仙台平野において塩害で約10年が経過しても米が収穫できず、名取郡の農民が仙台藩の奉行に年貢の申上状を提出したとされる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E4%B8%89%
E9%99%B8%E5%9C%B0%E9%9C%87


この津浪の衝撃は伊達氏領地で大きかった。それで全国的に津浪という言葉がこの津浪によって定着した。塩害で十年も米が収穫できないというのも痛手だった。当時はまだ科学が発達していないから手だてがなかったのだろう。

ただここで不思議なのはこの津浪の後に今の相馬市になぜ小高から城を移したのかという謎である。これは相馬藩内でも700人溺死したという記録がありかなりの被害だった。そんな混乱の中どうして城を移すような大事業をしたのだろうかという謎である。これは津浪の復興事業として城を中村に今の相馬市に作ったという説を出したとしても何かわかりにくい。


逆にもしかしたら伊達氏の被害が甚大だったのだからその時伊達氏は混乱して弱体化していたのだから今の相馬市に城を作りやすかったということもあるのではないか?そんな津浪の被害のときにわざわざ城を移す理由がわからない、もちろん城を移せば公共事業のうよな役割はあったかもしれない、でも今と昔はちがう。そんな混乱のときはそんな財力もないだろうし無理をしないだろう。相馬藩内で財を出すのだからそんな余力がない、公共事業というとき今は政府から出るからそれにたかるとなっているのだ。そういう時代とは違っている。

だから津浪被害の混乱に乗じて伊達氏の弱体化に乗じて津浪の一か月後に城を移し作ったという説もありうる。この津浪を分かれ目にして伊達氏は今の相馬市の領域から後退しているからだ。この津浪による激動がそうさせたともとれる。これだけの大きな災害は政治も変えてしまう力をもっていたのである。今回でもこの津浪の被害は原発事故もともなって日本全国に影響があり変革を迫るものであったと同じだったのである。
 
posted by 老鶯 at 09:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2013年04月18日

北右田の人に津浪の被害と野馬追いの話しを聞く (馬は旗印を見分けられる?)

 

北右田の人に津浪の被害と野馬追いの話しを聞く

(馬は旗印を見分けられる?)

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補償金はこの線で分けられた
御刀神社の所で区切ったみたいだ
(クリック拡大)

橋の所で北右田の人にあった。その人は野球場の近くだった。やはり津浪を見てから逃げて助かっている。あそこは海岸から相当距離がある。だから津浪が来たのを見て逃げて助かっているのだ。
こういう話は本当に多い、ある程度離れていると津浪が見える場所だと見てから逃げても助かるのである。ところが前に家があったりすると津浪が来るのが見えないから逃げ後れるということもある。海岸に接したところはどこも被害が大きかったがある程度離れていると見てから逃げても助かる。
おそらく大川小学校の悲劇は前に家がたて込んでいて見えなかったのである。あそこもそれなりに海岸から距離があったけどほとんど海が見えないし津浪が来るのが見える場所ではなかった。
それが悲劇につながった。それから津浪から避難しろと車で逃げさせようとした人が逃げ後れて死んでいる。津浪を見に行って死んだ人もいる。
あそこに消防の分署がありあそこの消防隊員が避難しろと車で回っていて津浪にのまれて死んだという。消防隊員はそういう役目だからなんとか避難させようとしてかえって死んでしまった。
これは勤めでそうしたのだから悲劇だった。磯部でもテレビで父親の消防隊員が死んで子供が残されたことを報道していた。消防隊員の悲劇は今回の津浪でかなりあった。
そして補償するのは消防隊の分署があった鎌田商店の前と後ろで分けられたという、前は補償されるが後ろは補償されない、自分の家は補償されないと嘆いていた。それもどうしてなのか理由がわからない。


●野馬追いの話

その人の家は野馬追いに出ていたいう。それも甲冑競馬にでていた。その人も出ていた。野馬追いに出る人は地元でもなかなか会えないしわからないところがあった。まず甲冑競馬に出る人は少ない、選ばれた人である。あそこにいつも馬を飼っている人がいた。二軒くらいはいつも見ていたからわかっていた。ただ甲冑競馬に出ていることは知らなかった。だからその人は相当に馬に詳しかった。
馬を知り尽くして馬にのっている。甲冑競馬では馬に精通しないと出れない、最高速度で80キロにもなるという。あれは見ているだけでも迫力があり恐い。乗る人もだから相当訓練された選ばれた人なのである。自分の馬には乗せないというときけがするからだという、馬は人をみるから慣れている人でないと危ないという、馬にもいろいろあって気性の荒い馬もいるしおとなしい馬もいる。野馬追い行列に出るのは大人しい馬らしい。行列だけならそれほど馬に精通しなくても乗れる。でもあの甲冑競馬は旗さして甲冑つけて80キロものスピ-ドになるとこれは相当な訓練が必要であり熟練者でないと乗れない、その人はかなりの熟練者だったのである。だから馬のことをいろいろ知っていた。

馬も人間と同じであり気心を通じ合わせないということをきかない、相手もそのことを知っている。だから他人の馬にのると落馬しやすい、だから馬は貸したくないと言っていた。 何でも小高の神主が落馬してけがしたとか言っていた。日頃馬に乗る訓練をしていないからそうなったとか馬は実際はかなり恐いものなのである。自分も一回中国のフフホトでモンゴルの馬に乗った。これはかなり小型なのである。だから乗りやすいことはあった。でもそれが全力疾走すると落とされるようで恐かった。はじめて乗っても乗れたのは小型だったからである。そもそもあんな小型の馬でモンゴルが世界帝国を作ったということがぉからなかった。日本の馬はそれよりずっと高いし恐い、モンゴルの馬は足がつくほど小型だったからだ。だから日本の馬は恐いのである。落馬したら大怪我をするし死ぬことだってありうる。そうして死んだ人も今の交通事故のように昔はあったろう。


元弘三年(1333)新田義貞の鎌倉攻めで戦没した人びと556体と、128頭分の馬骨が出土しました。計測の結果、馬の体高は109〜140cmの間にあり、平均129cmであったといいます。現代の馬は、150〜170cmで、体高148cm未満はポニーと呼ばれています。宇治川合戦で、佐々木高綱が乗っていた馬は、名馬生食(池月)で「八寸(やき)の馬とぞ聞えし」と平家物語に書かれており、八寸は四尺八寸(約145cm)の意で、馬は四尺(約121cm)を定尺とし、一寸高いものを「一寸(いっき)」四寸高ければ「四寸(よき)」と言うそうです。藤原国衡の馬は、奥州第一の駿馬で、高楯黒と称し九寸の名馬であったといいます。
http://www.geocities.jp/rockfish384/zakki/zakki24.htm


日本の馬もモンゴルと同じように小型の馬だった。モンゴル系統の馬が入ってきたからそうなったのか九寸の名馬というと倍の大きさになり今の馬とにたものだったのか?時代がたつにしして馬が大きくなったのだろう。


記憶力は優れており、一度覚えたことはなかなか忘れません。人間についてもよく覚えており、自分の事をかわいがってくれた人にはそれだけ従順になります。


馬の気持ちを理解し、馬と心が通じ合うことが馬の管理においては絶対に必要です。馬は非常に習慣性の強い動物ですから、毎日同じ事を同じ時間に同じ方法で行うと、馬の扱いも楽になります。つまり、日常の一定した動作を繰り返すことによって馬もそれに慣れ、作業もスムーズにはかどります。
http://www.green-grass138.com/qa2.php


このことをその人もしきり言っていた。馬と常に親しくして気心を通じあわせている必要がある。だから他人には馬を貸したくないというとき危険だからである。

旗をあげるときは馬の見える前でやれという、なぜなら馬は旗印を覚えるという、ええ、本当なの?

馬にそんな能力があるの?


記憶力は優れており、一度覚えたことはなかなか忘れません。


馬については自分など全くわからない、だから馬を知ること自体がはじめてのことであり知り得ようがない、ただ馬は乗ってみてわかるものであり経験がなくては馬をしりえようがないのだ。つまり人間はあらゆることが経験であり経験しない限り実感できないものが多いから困るのである。
馬自体を知ることは相当な経験の積み重ねでしかわからない、これは生き物だから余計にわかりにくい、最近ビ-バ-に噛まれて死んだ人がいた。あんな小さなものでそんなことができるのかと驚いた。ビ-バ-を知っているのはアニメのようなものでそれは人格化されたものであり本当の野生はみんな恐いものなのである。そもそも野生化したもの動物などのことが人間は具体的に接していないからわからなくなっているのが現代人なのである。最近ネコも特定のいつも餌をくれる飼い主の声に反応していた。動物はそれなりに生き物であり人間と通じるところがあるのだ。ただ犬とか猫は野生の動物とは違っている。ビ-バ-にかみ殺されたというとき野生というものがどういうものかただテレビとかアニメで見ているから警戒心もなくなったのである。本当は野生とか自然は恐いものである。今回の津浪もやはり自然というのは恐いものだということを思い知らされたのである。自然とか野生から離れてしまった文明に対して自然の恐ろしさを見せつけられたのである。自然というのを人間は文明化してわからなくなってしまって警戒心も喪失してしまっていたのである。だから突然津浪が襲ってきて甚大な被害を受けた。それはビ-バ-に噛まれた死んだこととにているのだ。

それにしても野馬追いには先祖伝来の旗印をもっていないと出れないと思っていたその人は野馬追いをとりしきる上の人に断れば誰でも出れるという。ただ馬に乗ることができる人だという。これもそうなのか?旗印をもっている古い農家の出でないと出れないと思った。なぜなら町内では市内では野馬追いに出る人をめったにみないからだ。ただ馬を飼っていなければならないから農家でないと出にくいことはある。その人は石神の親戚に旗を貸したという、そんなこともしているということは部落が別な部落に同じ旗印があるがあれは親戚だったから同じになっていたのだろう。病院に入院して老夫婦が親戚十軒があると言っていた。妻と夫をあわせてそれだけの親戚がいて絶えず暇なく親戚の人が見舞いにきていた。こんなに多かったら付き合い自体が金でも大変である。田舎では親戚が多い人が普通である。自分のような親戚がゼロというのは異常だとなる。また親戚がいないと田舎では暮らしにくいことがあるだろう。そもそも部落だと今はそうでもないにしろみんな親戚のようになってしまう。まさに今でも残っている部族感覚になってしまうのである。だからかえってよそ者はこういう田舎には入りにくいとなる。


野馬追いというと他では地元の人が誰でも参加できるとかみんなでやる祭りだと思っているが実際は多くても500人だとする人口が10万単位である相馬藩内では極わずかであり地元の人も野馬追いについて良く知らないということがあるのだ。これは青森のネブタ祭りなどとはちがう。ネブタ祭りだったら誰でも旅行者でも参加できる。ハネトになれるのである。衣装も借りられるのである。
野馬追いは馬に乗ることがまずできないと参加できない、だから馬に乗れれは参加できるのかとなる。そうは見えなかった。旗印自体が新しく作ったものは極わずかでありそれがみんな参加できるわけではない、だからその人の言ったことも納得できないのである。野馬追いは何か小高の人は参加が増えるらしい、補償金が入ってきたから金があるから参加するのだという。野馬追いに参加するには金がかかるのである。第一馬を飼っているだけでそれだけでも金がかかる。

それからその人の話で面白かったのは甲冑競馬では馬に3万くらいする栄養ドリンクのような薬を飲ませるという、草だけではたりないから黒砂糖を食わせたりと栄養をとらせるという。これは競馬の競争馬でもしている。オリンピックの100メ-トル競技でも薬を飲んで走って失格になった人がいた。馬もあれだけのスピ-ドを出して競争となると薬が必要だったということである。
その人はともかく仮設に入っていて小高の人は補償金をもらっているけどもらえないから不満になる。また津浪の補償でも線引きされてもらえないからかなり不満を言っていた。仮設でもだから小高の人と補償金をもらえない津浪被害者は対立してしまう構図がある。一緒に住んでいるから余計にそうなりやすいのである。

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これらは同じ系統の旗であり親戚関係だったのだろう?
村は違っていても同じ系統だからである。
ただ姓が同じ場合もあるが姓は変わっている
旗印を貸すということもあるから必ずしも親戚だけとは限らない
ただ何かしらつながりがあって同じ系統の旗印が他の村に伝播したのだろう

posted by 老鶯 at 17:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2013年04月19日

街内の花は散った(次は山の桜をたずねる)


街内の花は散った(次は山の桜をたずねる)


遅桜や境の石に山の村


短かきや名残り惜しむその間にも花は吹き散る風の荒しに

街に咲く花は散りにき今年また山になお咲く花をたずねむ

我が口は閉ざされけるやその人の戯れ言聞かじただに黙しぬ

浜通りでは海を意識して山がある。海から陽が昇り山に沈む。それが中通りとか会津とか他でも山から陽が昇り沈む感覚がわかりにくいのだ。でも日本では盆地が多いから山から日が昇る所が多い。
一方日本海は必ず山から陽が昇り海に沈む。この感覚もわかりにくい。日本は狭いけど海に囲まれているから変化がある。大陸だと一様になってしまう。だから日本ではこうした地形によって複雑な情緒がつくりだされてきた。街の花は散っても山側の桜は山桜は橲原(じさばら)渓谷とか大原とか石神でも山側であり山の情緒のなかで住んでいる。だから海側に住んでいたものと山側に住んでいたものの感覚は違っていた。

橲原村には立目石があるりあれは小池村との境の石だったのだろうか?

橲原村はいかにも山の村にふさわしい村である。ただ放射能とかで生業がなくなったとき何か村という感じがなくなる。村というのは生業があって村になりうる。せめて水田でも畑でもあればそれなりに村に暮らしていると感じる。今は会社勤めでも回りに田畑があればそれなりに生活があると感じる。それかなくなったら村といえるのかとなる。補償金で暮らせるとしても村として見れなくなる。

つくづく山側には石神で紙漉きをしていたというとき山側は水が豊できれいだからできた。紙漉きは全国でどこでも行われていた。山上に紙漉き沢とあるけどこれも全国にあるだろう。そこに山の暮らしがあったのである。そういう山の暮らしがあったら山がいきているし山に生活する人も生きている、活かされているとなる。それがなくなったら山に住んでいても暮らしがないのだから何なのだろうとなってしまう。

桜はもう散ってしまった。今日は風が荒くさらに散った。桜の散るのは早い、名残を惜しむまもなく散ってしまう。ところが現代の問題は名残を惜しむ間が延々とつづく、人間は名残を惜しまれて死ぬならいい、延々と生き続けるから惜しまれて死ぬということがなくなったのである。人間はあの人は惜しい人だったとか言われて死ぬのがいいがそうではない、もう生きる屍となっても生き続けている。それは活かされてとはいえない。

胃ろうですでに4年とか生きている人がいる。胃ろうの技術はさらに長生きさせるものなのである。身内で胃ろうの手術をするときまだ生かしておきますかとか露骨に言われた。医者も忙しいから老人には死んでもらいたいとその人は露骨に本心を言ったのである。それだけ負担が大きすぎるからだ。この辺ではもうこんな状態ではそういう老人の延命の負担はあまりにも大きすぎるとなる。60くらいで死んでいたらみんな惜しまれて死んでいったのが昔だった。

病気になったら直せないから死んでいた。今は惜しまれて死ねないということがある。90才でも買い物しているし寝たきりでなかなか死なない、人間はうまく死ねなくなったのである。その分それをみる家族とか社会の負担が大きくなりすぎたのである。自分もこうして介護が長くなると疲れてくるのである。自分だけではない介護している人は本当に全国で本当に多いからそうなる。


自分は沈黙の行者なのだろう。それは若いときからそうだった。人とつきあえないからそうなった。でもこの沈黙することは口をつつしむことだから精神の基本的な修養だったのである。禅の修行が沈黙することでもわかる。人間は口が軽すぎるのである。嘘も平気で言うし実行できないことも言うし口が軽すぎるのだ。武士の二言なしとかはやはり武士は精神修養に励んでいたのである。
人間は沈黙していれば石とか山とかに通じることができる。自然は絶えず沈黙しているから沈黙しないと自然に通じあわないということである。

2013年04月21日

残る花-桜の随筆(相馬の城跡の情緒-日本の城は城跡だけ残る)


残る花-桜の随筆

(相馬の城跡の情緒-日本の城は城跡だけ残る)

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何か語る散る花あわれ京の雨
雨しとと花散る夕べの京の辻

いづこへと花に暮るるや京の街

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城跡にまた来たりつつ残る花人もまばらに夕暮れにけり

城跡に散る花あわれ二年すぎ津浪に死せる人し思いぬ
城跡に残れる花のあわれかな人もまばらに風寒しかも
一本の松に添え咲く桜かな唐神堤の岸辺に我がよる

この道を行き来しあわれ残る花しばし見つつも我が里暮れぬ


相馬藩というとき城が残っていない、ただ城跡だけである。わずかに石垣があり震災で一部崩れ落ちた。野面積みだから古い。ここを外部から訪ねた人は歴史マニアでなければ感じるものは少ないだろう。もちろん日本では城そのものが残っていないのが多い。城跡だけなのが多い。日本の情緒は城跡の情緒になる。


小諸なる古城のほとり          雲白く遊子(いうし)悲しむ


嗚呼古城なにをか語り          過し世を静かに思へ 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E6%9B%B2%E5%B7%9D%E6%
97%85%E6%83%85%E3%81%AE%E6%AD%8C


不来方のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心  石川啄木


島崎藤村の千曲川旅情の詩もそうである。そこも石垣だけが残っている。日本の城は新しく城を再建したりしているが実際にそのまま残された城はほとんどない、城跡しか石垣しか残っていないのだ。石垣は石だから残ったのであり木造の城は残りにくくかった。古城といっても石垣だけが残りそこに寝そべり雲が流れてゆく情緒である。


相馬藩も城跡だけでありそこに昔を偲ぶというとき何をよすがに偲んでいいのか地元の人でもわかりにくい。ここは城だったの?何もない、この石垣と堀が当時の城の名残なの?でもやはり城下町というときあそこに城跡があるというだけでやはり歴史を伝えている。相馬藩は代々君主が変わらなかった。国替えがなかったから相馬藩政記が記録として貴重であった。それを外部の人が研究の参考にする。ただ今回の津浪の被害も確かに記されていた。それも一行だけだった。700人溺死としか記されていなかった。もし君主がそのことについて語ったことや歌でも残していれば当時のことが多少浮かんでくる。それが全くないからわからないのである。ただなぜ津浪の被害の後に一か月後に中村に今の相馬市に城を移したのかそれが謎である。前々からそういう準備をしていたということはあっても何も一か月前となると相当に混乱している時だから理由がわからない。何か特別な理由があってそうしたのか、それがわかりにくい。


伊達藩の被害も今回と同じ様に宮城県は甚大な被害があった。だから伊達氏は津浪の被害で弱体化したからこの機に乗じて城を移して防備を固めたともとれる。なぜなら伊達氏は相馬半分というように相馬地域、宇多郷の半分を支配下に治めていたからだ。
相馬藩は六万石で小藩なのだが結局300年つづいたということが歴史の重みとなっている。野馬追いに出る大将となる相馬の殿様がまだ殿様扱いされている。それは相馬藩しかないのである。それも野馬追いがあるからそうなっている。殿様は別に相馬に住んでいないけど呼んで野馬追いに出る。野馬追いが継続されていることで相馬藩のアイディンティティがあり一体化がある。だから浪江でも双葉でも相馬藩内にあり野馬追いにもでている。だから原発事故周辺まで一つの歴史的一体感アイディンティティをもち得る場になっている。ところが磐城はまた相馬藩とは別なのである。


情緒はやはり歴史がつくり出すものがある。相馬市に住んでいたらどうしても城跡と一体化する。もちろん何もないわずかの石垣と堀しかないにしろそこに城があったということは知らず意識されるのである。そこに歴史的情緒が育まれる。それが原町とは違っているのである。南相馬市は同じ相馬でも原町が中心でありそこは野馬土手という地名が多いように野馬を追う原っぱだったのである。だから相馬市のような城下町の情緒はない、歴史的情緒はなかなかそこに住んでみないと感じにくいのである。だから旅行してもなかなかわかりにくい、その土地と一体化すると自ずと会得するものがある。京都など千年の都だからその歴史から情緒が生まれてくる。これもしかし様々な歴史が積み重ねられているからその歴史を理解することがむずかしいのだ。でも花が咲くにしても散るにしても歴史と一体化する情緒が京都ではかもしだされる。だから京の雨というだけで他とは違った感覚になるのである。この辺で桜というとき霊山は南朝が滅んだ跡として有名である。その期間は何か月とかあまりにも短かった。霊山は炎上としてはかなく滅んだ。北畠顕家も20才の若さで死んだ。それでも歴史の跡として情緒をつくり
だしている。


南北朝時代の1337年(延元2年)、北畠顕家が霊山城を築き義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国の国府を置くなど、奥羽地方における南朝方の一大拠点として機能した。しかし、北朝方が優勢になるにつれ、霊山の南朝軍も追い詰められていき、1347年(正平2年)、ついに落城した。以後、霊山が歴史の表舞台に現れることはなかった。域内の日枝社観音堂は往時をしのぶ遺構とされる。


後醍醐天皇より、16歳にして陸奥守に任ぜられ、親房と共に義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥多賀城へ下向、奥州を治める。

20才で死んだけどこれだけの活躍をした。当時の16才はもしかしたら26才くらいの感覚になっていたのかもしれない、それは江戸時代でも明治でもそうである。明治維新でも秋ように若くして大事業をしたのも年の感覚が今とは違っていたのである。

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顕家の像に朝散る桜かな


霊山や南朝滅ぶ夕桜


俳句紀行(霊山から梁川へ)
http://www.musubu.jp/ryouzankikouhaiku.htm


南朝や吉野に霊山秋の暮


みちのくゆ我もたずねて吉野山南朝の跡や月のい出けり


月となると秋だが吉野は桜である。ただ南朝は月にふさわしいともなる。


芳野懐古  <藤井竹外> よしのかいこ < ふじい  ちくがい>
古陵の松柏   天に吼ゆ こりょうのしょうはく  てんぴょうにほゆ
山寺春を尋ぬれば  春寂寥 さんじはるをたずぬれば はるせきりょう
眉雪の老僧 時に帚くことを輟め びせつのろうそう  ときにはくことをやめ
落花深き處 南朝を説く
http://www.kangin.or.jp/what_kanshi/kanshi_A14_2.html


南朝に関してはいろいろな故事がある。そもそも南相馬市の鹿島区の真野に逃れてきたのが霊山が滅びたとき逃れてきた一族だったことは有名である。浪江辺りにも小丸とかの墓があったが南朝と北朝の争いと関係していた。ただ今や浪江には警戒区域で入れないから歴史すら訪ねることができないのである。もし浪江町が喪失したらそうした歴史すら喪失する。それが一体何を意味するのか?つまり歴史保存のためにも誰かが住まねばならないのである。

昨日は寒かったし今日も雨で寒い、この頃こんなに寒いのかとも思った。唐神堤の岸に松一本と山桜が咲いていた。桜はともかくどこでもいくらでも咲いている。たいがい山桜であり白い花である。
染井吉野は何か色が赤み帯びていて艶である。本当は染井吉野と山桜はかなり違った情緒ものとなる。唐神という地名は古代からのもので唐は韓(から)である。この地名があって堤の名となった。でもすでに唐神を韓の神だと意識する人はいないだろう。仏教は韓国から伝えられて韓の神とされていたのである。


一本の松に添え咲く桜かな唐神堤の岸辺に我がよる

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敷島の大和心を人問わば、朝日に散りぬ桜花かな 本居宣長


これは山桜であり染井吉野ではない、より野性的な純白のげがれのないものとして山桜を日本の象徴の花としたのである。


山桜さわにそ咲きて風さわぐ街の近くの畑に咲くかな

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イオンの近くに咲いていたのは山桜であり見事な満開の桜だった。桜はいくらでも知らない桜がある。あそこの桜も街道からは隠されていてわかりにくい。こうした桜は日本ではいくらでもあるのだ。人間は近くをつくづく見ていない、あそこにいい山桜があった。でもイオンなどできると騒がしく見えなくなっている。桜は別に京都や弘前に行かなくてもどこでも見れるものである。ただ桜の情緒は全国で場所によって違っている。その情緒は味わえるのは一部である。なぜなら桜の咲く時期は限られている。だからいくら桜が見れる場所も限られているのである。


弘前の桜はなおも我が見ざるいつしか見なむ年も老いしに


弘前の桜はまだ見ていない、一日新幹線で行けば見れるかもしれない、ただゆっくり見れないので損である。日本はやはり桜の国だけど桜の時期は限られているから見れない桜が多いことが残念なのである。

 

残る花(雪に雨の情緒)


残る花(雪に雨の情緒)


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みちのくや残れる花に雨あわれ
みちのくや雪の清しく残る雪
みちのくに月のあわれや残る花


今しばし残れる花に時ならぬ雪のふるかな清しかりけり


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夕べちる花

夕べちる
ひとひらふたひら
花のあわれや
陽は入りぬ
ゆく人まれに
残れる花に
光る月
ひとひらふたひら
なお花のちるかな

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今日は朝から雪ふった。特別寒かった。桜さく時期に雪がふるのは30年ぶりとか言っていた。本当にまだ桜が咲き残っていてそこに朝から雪がふった。それは清々しい美だった。自然界は時ならぬものがある。天候も日々変わっている。世の中も日々変わっている。津浪も400年ぶりだとしてもそういう時ならぬものが自然なのである。人事でも社会でも事件は時ならぬものとして起きてくる。

ここ6年間の自分の一身のこともそうだった。次から次と災難が時ならず襲ってきたのである。 桜の咲く時期は短いから貴重な時間である。一年の内で一番貴重な時間となるかもしれない、他に自然を鑑賞するにしても桜のように一時期を鑑賞するものはない、だから桜の咲く時期は貴重だとなる。桜は身近でも見ていないものがかなりある。桜は実際はいたるところに咲いているからだ。


今日の桜は特別だった。雪であり雨でありなお咲き残る花の情緒はなんともいえぬものだった。
会津の方でも雪がふった。そこに桜が咲いていた。これも山国の美であり思わぬ風景に写真をとっていた。会津の桜は見たことがない、ただ湖南地方の桜は自転車で旅して見たのである。会津の桜はほかにもいろいろあるが見ていない、ともかく今日の自然の変化はめまぐるしかった。次々に美が展開したのである。

2013年04月22日

相馬市の歯医者に行く (駅前の花屋でまた花を買う-店屋の役割が見直される)


相馬市の歯医者に行く

(駅前の花屋でまた花を買う-店屋の役割が見直される)

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昨日の雪残り清しき残る花風にしきりに吹かれなお咲く
駅前の花屋に二鉢花を買う春としなればまた来たるかな

田母神の社のここに残りしも田はなく桜咲きにけるかな

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今日は相馬市の歯医者に行った。三本さし歯がとれた。これも結構直すのに時間がかかるから困った。この前歯は自転車で転んだときつけたものだった。その時かなり危険な状態だった。激しく頭をうちつけた。へたすると死ぬということもあったかもしれない、自転車も結構危険な場合があった。
今でも自転車でも道を横切るとき車が突然走ってきて危ない目に何度もあっている。車側からみると自転車は突然飛び出したりするから嫌がられているのだ。ただ自転車に乗る人は車のことをそんなふうにみていない。結局この世の中、看護師と患者のことでも書いたけど立場が変われば見方が変わってしまう。そして自転車乗る人は車乗る人のことを気づかうということがない、自分車に乗れないから余計に車のことがわからないのである。常に世の中は相手の立場に立って考えることがむずかしいのである。看護師は患者がどうのこうのとなり患者は看護師がどうのこのうのと文句になる。
そこで互いに相手を知るということが大事になる。でも看護師は病気になったこともない、医者でも病気をみていても自分が病気にならない限り病人のことがわからないということがある。
ともかく車に乗って自転車にのれは両方のことがわかる。一方だけ経験していると車を運転する人のことがわからないのである。そもそも車と自転車が交差するから危険なのであり相いれないものが社会に併存していることが問題なのかもしれない、自転車が走れる専用道路があれば交差する必要がないからだ。


相馬市の駅から近い斉藤歯医者は夫婦でやっていてインフラントなどやっていたから夫婦でやっていたときは随分混んでいた。一番混む歯医者だったかもしれない、最先端の治療をしていたのかもしれない、でも歯医者はやはりその人の腕なのだろうか?母が通って入れ歯はあわなかった。そして原町の入れ歯を作った人は腕がよかったとしきりほめていた。その歯医者はやはり腕がいいということで有名だった。田舎でも腕がいい歯医者であれ医者であれそういう人がいれば得である。田舎はまず医者に関しては相当不利である。選ぶこともできないし優秀な医者は少ない、まず医者がいるだけでいいとかいう状態だった。今や原発事故で看護師などが流出しているのだから看護師もいればいいとなる。その質は問えない状態なのである。だから医療に関しては田舎は損だし原発事故地域は特に損である。


そして驚いたことはあそこは夫婦でやっていて理想的だなと思っていた。夫婦で医者をしていればまず最高の組み合わせだと思ってしまう。収入もそうだし夫婦でやっているのだから仕事にも理解があるし理想的だと思っていた。前にも夫がみかけないのでどうしたのだろうとは思っていた。
その夫が死んでいたのである。ええ、若くして死んだのかと驚いた。人間つくづくなんでもうまくいかないものである。理想的カップルであり社会的にも最高の組み合わせだと思っていたから驚きだった。客は減らないというがかなり一人では苦しいと思う。二人三脚というけど二人だったら倍の力がでていた。人間はすべてがうまくいくことがない、理想的でうらやましいなと思っていたらそれが突然の不幸で肝心の夫が欠けてしまったのだからこれは痛い。人間は本当に理想的な幸福なことなどないのだ。例え幸福な状態がつづいても必ず不幸に見舞われる。そういう運命に誰しもあるのだ。
自分も何不自由なく三十年暮らしていた。朝起きれば食事は用意されていた。それが今はすべで自分と家族の用意をしなければならない、旅に行けるのも一日もできない、これもまた30年の幸福の代償だったのだろうか?新幹線で最近出たはやぶさで青森まで行って弘前の桜を見るかなと思った。
すると仙台から一時間半で青森に着くというのには驚いた。確かに盛岡まで50分だから青森は一時間半でつく。そんなに早いのかと驚いた。これなら日帰りで行けると思った。ここ六年間旅していないからその変化にも驚いた。一回乗るだけでも楽しいだろうと思った。


石神の紙漉きをしていたという農家に嫁いだ女性が敷居が高いといっていた。敷居が高いというときあまり今は使わない、敷居自体ない家がふえているし敷居が高いというのは段差のある入り口が高くなっているのかと思った。その女性が言いたかったのは敷居が高いというとき農家であり古い家であり入りにくいということだと思った。建築の構造上入りにくいのかと思った。敷居が高いという表現自体今は使わなくなっている。格式があるというのならわかる。古風だというのもわかる。何かそういう意味をこめて敷居が高いと表現したのかもしれない、古風な農家だとするとそうして嫁が入りにくい、古風な家に嫁いだ苦労を言ったのうもしれない、ただ今どき農家でも昔とはあまりにも違っている。それでもなにか敷居が高いという入りにくさ、その家に暮らす不自由なものを感じたのかもしれない。


現在、敷居を意識するのは大抵、寺社仏閣の大きな
敷居なのではないでしょうかね。「踏まないように」でしょうが・・
悲しいかな、それも意識のない人も多いし・・・


農家のことは女性からみてどうなるのかとかもわかりにくいのだ。農家は農家に暮らしてみないとわからない。実感としてわからないと本当に理解できないのである。敷居が高いと格式があるとか古風があるとか家風があるとなるとそれは古い家であり古い家だからこその良さがありまた暮らしにくさもあった。ただ現代は生活が農家でも一様化しているから何かそうした家風がある家すら喪失しているかもしれない、まず家風があるとなると何代もつづかないとできないだろう。そういうものは外から見ていてもわからない、女性でも直接話しを聞けばそういうものかと理解が深まることは確かである。


相馬市の駅前の花屋で花を買うことはそれはただ花を買うだけじゃないかと思う。でも違っていた。まず駅前という場所がありその場所に活気を与えている。花を外に飾るだけで通りに活気を与えている。通りを花で飾っているのだ。もしあの花屋がないと駅前通りに華やぎがなくなる。店屋とはそもそも見せ屋だったのである。ショ-ウィンドウとしての役目があった。見せるものまずあり店屋になっていたのだ。それが衰退したのは車で買い物するようになったからである。駅前通りが衰退したのもそのためである。でもまずス-パ-で買い物するのと駅前の個人商店で買い物するの感覚的に相当違っている。ス-パ-では誰が買い物に来るか覚えていない、自分はそこで確かに買い物したがそこでは何回か買い物したらその人を覚えているのだ。今はコンビニでも買い物している人を覚えていない,毎日行っても覚えていないのだ。会話もしないでモノだけを買うのが今の買い物である。

モノが安いから買うということであり買い物を楽しというとき通りを歩いて見せているもの店屋を楽しむということがあったのだ。買い物ののモノが主役ではなくこれからはそうした通りを楽しむとか会話を楽しむとか地域を知るとかそういう役目を店屋がになうかもしれない、そういうところにこれからの商店街の役目があるかもしれない、それは高齢化社会で変わるということもある。高齢化社会は人と人とのつながりを求めたりモノを買うということ安く買うというだけではない、何か別な人間的サ-ビスを求める時代なのである。モノがあふれモノを安く買えばいいとかいう時代は終わり別な時代の価値観に変化しつつあるかもしれない、モノは過剰気味でありモノ意外のものを求める。
昔の市がたつでもそこでは男女の出会いの場だったり別な働きがあったのである。今回もその花屋で斉藤歯医者の夫が死んだということを知って驚いたのである。あそこには結構通ってたから驚いたのである。そいうニュ-スの伝達の場所としても店屋の機能があった。

ともかく人間社会は常に変化である。人も変わるし環境も変わる。常に同じあった試しがないのだ。朝は山に雪が残っていて清しい、残る花は今日は風が強く吹いているけどなお咲いていた。
まもなく散ってしまうだろう。


田母神というのはあそこはもともと田だったのである。コメリができて田はなくなり社だけが残っている。そこに桜がやはり咲いた。やがてもし社もなくなると単にそこが地名化するかもかもしれない、あそこの田は誰かの家の所有であったが田母神というのは何かの謂われを伝えていたのである。


「田母神」の名前は福島県に縁のある名前です。福島県郡山市田村町にある山村地帯に田母神地区があり、同地は坂上田村麻呂の母の出身地といわれています。また、福島県内には同じ地名が他にいくつかあります。意味は、「田を守護する神」から来た地名で、田村麻呂の子孫が散らばってその神を祭ったことに由来するといわれています。
http://www.tagosaku.co.jp/company/yurai.html


これはまちがいなく三春系統の神であり三春からここに移ってきた人によってもたらされたのだ。
三春からもたらされたというのが珍しいのである。相馬藩では三春と縁戚関係をもったりしているから三春とも関係あったのである。



南相馬市相馬市で三人医者が死んでいる不安


それにしても南相馬市で医者が一人、動物病院の院長が一人死んだ。相馬市で歯医者が一人死んだ。

 2013年3月7日

急性心不全で死去した南相馬市の動物病院長、後継者不在でネコ5匹の里親募集(3/6 福島民報)

 震災・原発事故後に1人で診療を続けてきた南相馬市原町区の高橋動物病院長の高橋敬一さん(54)が2月10日に急性心不全で亡くなり、捨てられたり市民から持ち込まれ育ててきたネコ5匹の里親を募集している。


先に原町中央産婦人科院長(72才)も癌で死んでいる。これは年といえば年である。歯医者の人はおそらく50代になっていたのか?若い死だったのである。三人も死ぬということが何か不安にもなる。
意外と50代でも60代でも毎日死亡欄を見ていれば死んでいるのだ。
ただ普通50代で死ぬということは今では余程何かあったのかと普通は思う。その原因は何だったのか?それは何か常に自分の死への不安になっているのだ。

2013年04月24日

橲原渓谷上流へ花と岩をたずねる(一部) (消残る雪に咲いていた秘境の花の神秘)


橲原渓谷上流へ花と岩をたずねる(一部)

(消残る雪に咲いていた秘境の花の神秘)

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磐を打ち朝の清流ひびくかも岸に二輪草さわに咲くかな

萌えいずる蕗の薹かなカタクリの花の凛として日のさし咲きぬ
点々とスミレの咲きて奥山へ我が分け入れば岩そ鎮まる
知られざるヒトリシズカのここに咲く消残る雪を踏みつ来たりぬ
雪残る山路の深く朝日さしキクザキイチゲのここに咲きなむ
苔むせる磐に消残る雪清し延齢草のここに咲くかな
重々しき岩にはだれの残る雪早蕨(さわらび)ここに萌えいずるかも

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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橲原渓谷の上流をたどると太古林道とかあり昔の御堂がある。あの道は閉鎖されて道が荒れていた。でもそこは前にも大葦とかは秘境だと書いたが本当に橲原渓谷の上流は秘境だった。まだ道も整備されていない所だった。ちょうど昨日ふった季節外れの雪が残って芽吹きの季節であり美しかった。
清浄な雪と花と芽吹きのコントラストが美しかった。鳥も飛んでいたが写真にとるのはむずかしかった。そして3万5千したデジタルカメラを水に落としてしまった。カシオのカメラは良かったがちょっと厚すぎたのである。写真も自然の中でいいのをとるとなるとやはり結構むずかしくなる。

今回これだけの花が咲いていたことは驚きだった。高山植物に出会ったような感激があった。

今はあそこの道は荒れているから入りにくい。さほどの道ではないにしろ歩道がない。あまり人が入らないから神秘的であり秘境だともなる。近くにも秘境があるのだ。近くが意外と見逃されているのである。あそこに狸が二匹でてきたのも神秘的だった。すぐに隠れたが街にでてくるような狸ではない、自然の中で生息しているから神秘的になる。餌も山の中にあるのだろう。野草なども食べているのだろう。放射能汚染があるが放射能の線量がかなりへっていた。落葉がたまっている堀で20マイクロシ-ベルトあったが今回同じ所で計ったら4マイクロくらいにしかならなかった。ずいぶん減ったなと思った。放射性物質はそんなにへるものかと思った。


ともかく放射能汚染しても自然の美はそこなわれていない不思議である。水もきれいだし樹々芽吹き花も咲いている。もし大気汚染がひどくなり森が枯れたり水が濁ったらショックであり住む気になれないだろう。ところが放射能汚染がどこが汚染されたかもわからないのである。見た目は前と全く同じだから不思議なのである。結局放射能はこれからどう影響するのかわからないということである。除染もあの辺から大原まで広範囲にしていた。あれだけ放射能が減ったということは住めるということなのか?何か放射能はわかりにくいから困るのである。

ヒトリシズカも咲いていたがあれはこの辺でははじめて見た。なかなか見れないものだろう。
山奥に咲くにふさわしい花だともなる。 あそこには苔むした岩がいくつもある。今回雪が残っていたのでその雪に映えて全体が清浄感にあふれたものとなっていた。


二部では橲原村と岩とかを中心に写真とともに出す・・

2013年04月25日

橲原渓谷上流へ花と岩をたずねる(ニ部) (橲原村(じさばら)の春の景色)


橲原渓谷上流へ花と岩をたずねる(ニ部)

(橲原村(じさばら)の春の景色)



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大きい画面で見ないと今回は写真が映えないです

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これは傑作と思うんだが・・

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この山に狸の住むや延齢草
橲原に媼嫗二人や落椿


朝の滝とどろきにけり山吹の咲きいでにける縁取る岩に

橲原に石くれの墓隠されつこの道あわれ椿散るかな
伸びやかに鳥の飛ぶかな春の日の清き流れや樹々の芽吹けり
紫木蓮桜の咲きて朝日さし疑うべくなくこの日美し
渓流にそいて下りぬキセキレイ芽吹く樹の枝に一時とまる
四十雀群れつつ飛びて樹々芽吹く梢に高く飛び移るかな
散り残る山の奥処になお咲きぬ桜そあわれ我がたずねけり
分け入りぬ山路の深く消残れる雪を踏みつつ岩に真向ふ


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橲原村はあそこも秘境的なのは車があまり通らないからである。鹿島区の奥座敷のようになっている。原町区の大原も秘境的だったが車が頻繁に通るようになってその感覚は消失した。大葦辺りも秘境だったが八木沢峠から川俣への幹線道路になっているから頻繁に車が通るからあそこがかつて秘境だったということをイメ-ジすらできない。その点橲原村は車が通るのがめっきりへる。橲原渓谷が通行止めになっている影響もあるがもともと車が通らない所だった。車が通るとどんな辺鄙なところでも秘境にはならない、ずいぶんにぎやかだなとなるのだ。一日車が通らない所にいたら不思議だろう。車がこれだけ通るようになったのはここ30年くらいなのである。それまでは車は通っていないのだ。馬車などが荷車として利用されていたのである。車によって人間の感覚は全く変えられてしまったのである。


橲原村は「落椿」の里である。粗末な石塊の墓があの杉木立の影に隠されるようにある。誰もあそこに注意している人はいない、誰が埋もれているのかもわからない、字がはっきりしないからだ。そんな墓が結構多い。そこは明治時代のものであり江戸時代のものでないとすると開拓に入った人たちの墓かもしれない、橲原村は江戸時代からあったからそれなりに古い。そこはいかにも山の村にふさわしいのである。養蚕をしていた家が一軒あったが江戸時代から林業があった。薪など供給地でもあった。自分の家は姉の橲原の同級生が柱を提供してくれたというとその頃木材は地元のものとを使っていたのである。林業が盛んなときだったのである。最近50年たって杉などの日本の木材が利用されるようになるという。日本の木材が利用されていなかったのは年数がたたないので木が大きく何ていなかったからなのか?ただ安い木材が外国から入ってくるためだと思っていた。林業というのは50年サイクルくらいで利用される気の長いものだったのである。50年で木が大きくなるから山も活気がでてくるとなる。ただこの林業すら放射能汚染でできなくなった。木が意外と放射能汚染されているから使い物にならなくなった。すると田んぼもない林業もだめだとなると生活がないのである。


だから何か気がぬけたような肝心なものが欠けてしまったような感覚になりここが村なのかとなる。せめて田畑でもしていればそうはならない、村に生業がなかったらもぬけの殻のような感覚になるのだ。そういう生業をぬきにすれば橲原村には茶室を作るのが一番向いている。なんともしんみりする場所だからである。「落椿の里」なのである。だからあそこには陶工などが窯をもつのに向いている。そしてゆっくり茶を飲み心鎮めるのである。食堂などもあればいいと思う。レストランとかは環境がいいところだと食事もうまいということがある。高速道路などできたら外部から人が入ればそういうくつろぎの場ができて客も来るかもしれない、そういう立地条件があそこにはある。


滝には山吹が咲きだしていた。あの写真は偶然だけどうまくとれた。回りの木が切ったので岩が露骨に現れてそれがいい写真になったのかもしれない、岩の感じといい、滝がしぶき落ちる感じは偶然にとれたのである。写真でわかったことは偶然にシャッタ-チャンスでとれることがある。ただ本当に自然の中で動物や野鳥をとるとなるとそこに構えてテントなどに隠れて一日がかりになるだろう。
その写真は貴重なものとなる雑誌にも売れる。この滝の一枚は偶然であったが自分でみても傑作だったと思える。

橲原薔薇にはキセキレイが飛んでいたし川烏が忍者のようにいつものように飛んでいた。その上流が今回探索した苔むす岩群のある所だった。


この雪(ゆき)の、消(け)残る時に、いざ行かな、山橘(やまたちばな)の、実の照るも見む
(大伴家持)


弓削皇子に献る歌一首


御食(みけ)向かふ 南淵山の 巌(いはほ)には 降りしはだれは 消え残りたる (巻9-17
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まさにこの歌にふさわしい場所だった。

現代はやはりデジタルカメラができて写真の時代である。今度はソニ-の20倍のピッタリズ-ムの機能のあるのをアマゾンで注文した。それなら鳥もとれるかもしれない、鳥をとるのは相当にむずかしいのだ。