2013年04月06日

飯館村から川俣に出て二本松の城へ (二本松の城は東北で一番魅力がある)


飯館村から川俣に出て二本松の城へ(短歌十首)

(二本松の城は東北で一番魅力がある)


天守閣春一望の眺めかな


小宮へと分かれる道や春なれど人住まずして淋しかりけり

旅心湧きにけるかな山木屋へ行く道分かる春の昼かな
東風吹かれ峠を越えて川俣へ安達太良山を望み下りぬ
飯館へ行く道さえぐ山仰ぎ春日は没りぬ安達太良山に
残雪の安達太良山や朝日さし桜に染まる城にこそあれ
残雪の安達太良山や城跡の椿の赤く夕暮れせまる
城の内井戸の深しも椿落ち侍ここに仕え登りぬ
城跡の松に茶室や椿落ち井戸の深きを我が思うかな
城跡の山をめぐりて一日尽く名残り惜しむや残る花かな


飯館村には三つの別れ道があった。小宮へ行くのと草野に行くのと原町や大倉に行く道である。歩きでも自転車でもこの分かれ道が印象に残る。こっちの道はどこへ行くととなるとその方向に思いをはせる。それが旅なのである。決められたコ-スを行くのは旅ではない、思いがけない所に出るのが旅である。だから自動車というのは旅にならない、遠くの目的地に行くのはいいが分かれ道の旅の旅情はない、分去(分かれ去り)という地名が各地に残っているのはどうしてもそこで旅人が分かれてゆく基点となっていたからである。別に旅は遠くでなくてもすでに散歩の延長としても旅はある。
特に阿武隈の道は多岐に分かれているからだ。山木屋への道は塩の道であり相馬の塩は二本松まで運ばれた。参勤交代でも二本松にでて江戸に出た道でもあった。二本松と相馬藩はそれなりにゆかりがあった。


ただ二本松の城のことで特別人物が浮かんでこない、あそこの城は山全体が城になっていて大きく感じるのだ。あそこをめぐっているだけで一日が過ぎる感じなのだ。大坂城などもそうだが一日めぐっていて日が過ぎてしまうだろう。頂上に天守閣があったというのもあそこは見晴らしが特にいい、福島の地理的中心とも思える場に立つことになる。360度のパノラマ景観がある。あれだけ高い所にあるので気持ちがいいのだ。会津の城などそれほど魅力がない、平城だから見晴らしがいいとはならないからだ。二本松の城は立地といい魅力があった。安達太良山もまじかに望まれる。春は1700本近くの桜に染められるのも圧巻である。

そして印象に残ったのは天守閣もあるが深い井戸が二カ所くらいある。その井戸を覗き込むと深いのである。その井戸から水をくみ上げて茶室があり茶でもてなす、そして落椿が赤く夕暮れがせまっていた。城の内にある井戸が生命線だった。籠城するときその井戸水でしのいだ。だから熊本城の井戸は120もあった。


1877(明治10)年の西南戦争では政府軍の重要拠点となり、司令官・谷干城以下4000人の籠城で、西郷軍14000人を迎え撃ちました。加藤清正が築いた「武者返し」石垣の前に西郷軍は誰一人として城内に侵入することができませんでした。西郷隆盛は「「わしは官軍に負けたのではなく、清正公に負けたのだ」と言ったと伝わります。


城というとそこが最後まで死ぬまで籠城しても命を城とともに果てるという感覚があったのだろう。その感覚は今はわかりにくい、白虎隊が城が燃えた、落城したというとき城のもっている意味がそれだけ大きかった。その感覚は日本の城は小さいからわかりにくい、ヨ-ロッパのような城郭都市になると市民が育成されたようにそういう感覚になるだろう。そこが自立した一つの生活の場であり命もそこに尽くして果てるともなる。城にはそれだけの意味もあったとなる。現代はそういうアイデインティティの場をもっていない、会社がそうなるが会社はあくまでも利益を追求している仲間であり命をともにするまでにはならないだろう。でも地域より会社がアイデインティティになっているのが現代なのである。原発事故でわかったように一地域の経済力よりはるかに巨大な経済力があったのが東電だったのである。地域の一員というより地域が東電の社員になっていたのである。


ともかくあの城内の井戸水でお茶をもてなされたら格別だったろう。それこそ茶の道を感じる場でもあったのだ。水道水ではそれを感じない。ゆっくりと井戸水をくみあげて茶を出す家庭に茶の道があった。茶道はやはり全体の自然に組み入れられて意味をもつのである。文化とはあらゆるものがそうである。一部分が文化ではないのだ。全体の中に機能しているとき文化があるのだ。だから時代時代の文化は再現しにくいのである。全体が喪失しているのだから部分的にだけ茶室とか再現しても文化にならないのである。それは文化全般にそうなる。明治時代は江戸時代の日本文化の国風文化が興隆する素地が残っていた。それが文学でも現れた。正岡子規でも漱石でも啄木でも文人が大和言葉をまだ自分のものとしていた。江戸時代の連続性がまだあってその言葉使い継続されていたのである。

現代はまさにそうした連続性はもうないけどどうしてもやはり文学関係では漢詩の詩語や大和言葉を使う必要が出てくる。でも明治時代のようにしぜんてものではなく作られたものになってしまう。
日本文化はすでに部分化して死んでいるのだ。それはヨ-ロッパだって同じなのである。グロ-バル化で文化そのものが世界的に一様化してしまった。文化は長い時間のなかでその国々に培われて生まれたものである。だから百年とかの短い時間では作れないのである。それだけ奥深いものが文化なのである。


二本松に行くにしてもやはり飯館村から水境峠を越えて安達太良山を望むとき川俣に二本松に出ると自覚させられる。それが電車だとそうはならない、そこに今は旅でも感動できないものとなったのだ。あまりにも便利になり感動できないのである。とにかく水境峠を越えたとき明かに別世界になる。安達太良山を望むときそうなのである。浜通りには高い山がないから山の神秘性が感じられないのだ。山はやはり高く山でないと山ではない、阿武隈山脈は高原であって山ではないのだ。だから山の神秘は峠を越えたとき感じられるのだ。逆に海の神秘も峠を越えて八木沢峠辺りで太平洋を望んだとき感じられる。その感覚は海側に住むものと山側に住むものの感覚の相違である。


あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。


安達太良山の、阿多多羅山はあだだらは何か音のひびきがどっしりしていいのである。だからこれだけで詩になっていたのだ。ただここには城のことは歌われていない、城ぬきでは二本松はありえないのだ。二本松は菊人形祭りがあっても春の方いいのかもしれない、二本松県というのが構想されていたようにやはり福島県の中心的位置にあったのは二本松城があったからである。あの城は東北では一番魅力ある城の感じがする。青葉城でもそんな感覚がしない、市街にビルや家で埋められと眺めがいいとはならないからた。「天守閣春一望の眺めかな」これを感じる城というのは意外に現代になると少ないのである。


二本松の城の桜(2)短歌十首
http://musubu2.sblo.jp/article/37187722.html


二本松の城の桜(1)短歌十首
http://musubu.sblo.jp/article/28451498.html


前に書いた短歌だけど忘れていた。読み返すと思い出した。これはこの連作になっている。

2013年04月07日

九州から大阪へ-春の旅の短歌十首 (人間は最後は記憶をたどる旅になる)

 


九州から大阪へ-春の旅の短歌十首

(人間は最後は記憶をたどる旅になる)


nagareharu.jpg
クリック拡大! 春の潮-題を変えた


 

外国(とつくに)へ開けし海や平戸かな桜の下に按針の墓
平戸には春の潮の渦巻きつ城と教会と寺の古りしも
長崎に雨しととふる眼鏡橋出島やあわれ夕暮れにけり
長崎に大船去りぬ長々と入江の深く春の日暮れぬ
開聞岳去りゆく船に見えにつつ春の夕陽にそまりけるかな
明石城花に暮れるや淡路島真近に見えて船行き来する
大阪に船のすすみぬ夜は明けて太平洋に春の曙
大坂城夕陽落ちゆくあわれかも花散りやまず惜しみ去るかな
大坂城我が一時や花に酔ふ時の流れの今あわただし
醍醐寺の花見の宴や金屏風贅を尽くして西の栄えぬ


平戸
http://akkamui212.blog86.fc2.com/blog-entry-499.html


人間の特徴は何か?それが老人になると何も哲学者でなくても普通の人でもわかる。とにかく忘れやすいのである。忘れる動物なのである。記憶することがいかにむずかしいかということである。400年前にあった大津波の被害もこの辺ではたった一行しか記録されていないしまるっきり忘れていた。人間は何かに書いていないと記していないと忘れて思い出すことすらできない。自分の書いたものをすでにかなりの部分忘れている。こんなことを書いたのかと短歌や俳句や詩にしても自分が書いたことを忘れている。こんなことを書いたのかということを自分が書いたのに忘れているのである。人間はいろいろなことを経験しても忘れやすい、そして思い出すことがむずかしくなる。
旅もそうなのである。ついにどこに行ったかもわからなくなる。団体旅行だとおしゃべりなどしているとその場のことなどが記憶されなくなる。思い出せないのである。旅行というのもあわただしくすぎる余計に思い出せなくなる。

自分が最初に旅して感動したのは平戸の海だった。それが入江のようになって広く感じた。それは東北の太平洋の海とは違っていた。この海は外国に通じている海だと思った。実際に外国人はここに早い時期に入ってきた海だった。それで按針の墓があった。それは満開の桜の下にあった。ただ写真とっていたと思ったがそれもない、その頃デジカメがなく写真をとるのは金がかかり貴重だった。
デジカメ時代は記録するものとして便利になった。なぜなら人は忘れやすいから何でも記録することが大事なのである。人間がなぜ最後にあらゆることを忘れる認知症になるのだろうか?これも極めて人間的病気だったのである。最後は記憶もあいまいとなりその記憶すらたどることができなくなるのだ。それはすでに60代とかからはじまっている。それが極端化して病気になったのが認知症だったのである。遂に自分の娘息子すら忘れる。最後はみんな忘れて遂に自分がどこにいるかもわからなくなった。自分の生まれ場所すらわからなくなったのである。そこに80年とか住んでいても自分の住んでいる場所さえ忘れてしまったのである。それが人間の最後だったのである。


旅の記憶にしても平戸に行ったのは30年以上過ぎている。すると思い出すことが容易ではない、ただあそこには寺があり教会があり入江のように海がありあの時は桜の満開の時期だったとか覚えている。春の潮が入江に流れこんでいたようでもあった。古い城もあった。そういうことはおぼろげに覚えている。ただおぼろげになってしまった。開聞岳を覚えているのは船はゆっくりと離れてゆくからである。これが電車だったりすると覚えていない、新幹線だったら記憶には残らない、早すぎるから記憶には残らない、目的地につくにはよくても記憶する旅には向いていない、結局最後は人間は記憶をたどる旅になってしまう。近くだとまだ行った所があるのだから記憶が蘇るから忘れることはない、それでもその場から去ると忘れやすいのである。


ともかくこの辺は津浪や原発事故で日々あわただしく過ぎたからまたそうした現実に過去は記憶から消えてやすくなる。これだけのことが起こるとまた日々追われて過ごすことになり過去は記憶から消えてゆく、それでまた過去の記憶は消えやすいのである。自分はゆっくり旅しても記憶から消えているのだから今のように早く急ぎすぎる旅はさらに記憶に残らない。船旅が好きでかなりしたから船旅はゆっくりした時間があるから記憶しやすいということはある。時間をかければかけるほど記憶に残りやすい、それでも終わってみればただ一時の時間だったのである。

2013年04月08日

死語となった言葉 (戦前から戦後十年は江戸時代の継続があった)


死語となった言葉

(戦前から戦後十年は江戸時代の継続があった)


死語となった言葉

日本列島の狭さ
五反百姓
五反田の地名の多さ
女工
原紡
御蚕様
女中
肺病
梅干し弁当
麦御飯
飯台一つ
トタン屋根
裸電球
尋常小学校
女学校
おふる
三男坊
鈍行車
停車場
炭屋
銭湯
五右衛門風呂
鉄砲風呂

駄菓子屋
金魚売り
煙草屋
酒屋
どぶろく
質屋
鍛冶屋
馬車屋
万歳
映画館
秋市


これらの言葉はもはや使わない、日常生活から消えたものだからである。江戸時代から明治時代になったときも江戸時代に使われた言葉が消えた。明治時代に西欧化した時、日本人は漢字で西欧化したものを現した。それが今では中国で使われている。言葉は単なる言葉ではない、長く営まれた生活の重みがあるのだ。その一つ一つが使われたときはその言葉は単なる言葉ではない、必需品としてなくてはならないものだったのである。ただ日本は貧しい時代が長かった。庶民は戦後十年までくらいは戦前とたいして変わりなかったのである。自分の子供時代はそういう貧しい時代だった。団塊の世代はその貧しい子供時代を経験している。でもこの経験は貴重であり楽しいものだった。何か貧しいけども人情味ある社会だったのである。豊になって人間は日本人にあった人情などはなくなった。ただ金だけを追い求めるようになった。それでも日本人は貧しかったから貧しい時代はすべていいとはならない、五反百姓とか五反田とかの地名はまさに貧乏な百姓が多数だったことを如実に示していたのである。


戦後十年くらいは家にあるのは飯台一つでありそれを囲んで食事していた。電気製品はも一つもなかった。裸電球があっただけなのである。それも家の中に一つくらいしかなかった。屋根はトタン屋根で雨漏りしていた。いつも洗面器などを並べてしのいでいた。瓦屋根の家もあったがトタン屋根の家も多かったのである。ご飯は麦ご飯でありその頃水田が多くても麦畑も多かったのである。燃料は炭であり炭屋があった。山では炭焼きであった。飯館辺りではそれで財を成したという家もあってうらやまれた。炭焼きは山の重要な現金収入となっていた。つまり戦前からの継続が戦後の十年くらいはあったのだ。自給自足の生活だった。

ともかく貧乏だった。自分の家は駄菓子屋のようなものをはじめた。店屋でもその頃簡単にできたのである。インド辺りではバラックのような所で店を出していた。品物も極端に少ない、そうした小商いがあったのは江戸時代からの継続でもあった。棒ふりなど江戸時代のものだと思っていたが戦前でも天秤棒は使われていた。荷物を運ぶのは天秤棒だった。明治の話しとなるが天秤棒担いで鹿島から川俣まで鰻売りに行ったという話には驚いた。でも天秤棒は中国では今でも使われているように量を運ぶには良かったのである。前と後ろに荷物をのせられるからである。でもかなり肩にずしりと重さがかかるから体力が必要だったろう。鹿島から川俣までは急峻な坂がある。その坂を天秤棒を担いで上った。それが信じられないのである。でも基本的に歩くことが移動することであった。江戸時代の継続がそこにあったのだ。子供のときぎんぎょえ-きんぎょ・・というのも天秤棒を担いで金魚を売っていたのだ。天秤棒は結構使われていた。中国では相当まだ使われている。やはり荷物を運ぶには便利なものだったのである。


母は尋常小学校でありほとんどがそうだった。そして原紡に勤めた。絹織物の生産が全国で行われ女工哀史で有名なように若い女性はみんなそこで働いた。それくらいしか勤め先がなかった。あとは女中だったのである。女中の数が多かった。洗濯でも食事の容易でも家電製品がないのだから全部人間の手でやるとなると一仕事であり女中が必要な家がたくさんあったのである。母も東京で女中していた。たいがい同じ様な経験をしている。子守りして学校に行けなくて小説読んで字を覚えたとかその頃学校も満足に行かない人がいたのである。女学校は高根の花であり特別選ばれた人が行く所だったのである。ただ大倉の女性が親戚の家に住んで相馬の女学校に通ったというから金持ちなら入れた。大倉は山をもっている人は木を売って金持ちがいたのである。団塊の世代の親の世代は大正生まれも結構いるからいろいろ親から聞くから意外と身近なものに感じる。一世代前までは親の世代であり
生々しいものとしてその言葉もまだ感じるのである。明治の人は江戸時代が身近だったと同じである。団塊の世代から下になると豊かな時代に生まれているから何か遠い歴史の世界のようになってしまうのだ。


蚕様というとき蚕は農家で飼っていて桑畑もいたるところにあった。相馬市にぬける街道の細道に二軒蚕を飼っていた家が残っていた。二階がそうだった。そういう農家はいたるところにあった。江戸時代からあって白川郷の合掌作りは有名である。あそこでも養蚕する場が二階にあった。そしてどぶろくを飲んでいたのである。酒すらまともに飲めない人がいたのだ。どぶろくは自家製もあり安いから飲めた。家族でも三男坊というと長男からすると何かどうでもいいとかなる。そういうひびきがこの言葉にはこもっていたのである。長男は家の跡継ぎだから大事にされた。その頃は子だくさんだから長男以下は軽んじられた。着るものもおふるとかお下がりとかになる。そういう貧しい時代だったのである。


映画館なども今や死語になった。映画は映画館で見るものだった。ニュ-スすら映画館で見ていたのである。テレビが入ったのは戦後十年ちょっとたったときだったのである。テレビに対する熱狂はすさまじかったのである。いつもプロ野球をみんなテレビで見ていた。相撲も見ていた。それで「大鵬、巨人、玉子焼き」になったのである。玉子焼きが食べられるようになったのはテレビがでるようになってからのようだった。貧しい時代から豊かな時代へ移りつつあったのだ。
秋市などという言葉もまだ市が開かれていた。その時いろいろものが集まり売っていた。何かサ-カスみたいなものも来ていたのである。今や秋市などというのも死語になった。「あきいち」という言葉を聞くとなつかしいとなる人も結構いるだろう。それらの一つ一つの言葉がなつかしさを感じる。過ぎたものに対する愛着が人間には残るのだ。


石神で紙漉きをしていた農家があったというときそれは江戸時代からあった。紙漉き沢が相馬市の山上にあるからだ。ということは江戸時代はどこでも紙を作る農家もあったということである。今でも一軒くらいあって自分の家で終わりだとかテレビにでてくる。紙漉きも相当数のものが普通にしていた仕事だったのである。要するには江戸時代から明治時代になったとき急速に工業化して変わってしまったのである。ただ紙漉きをしている家があったのかと聞くだけでリアルに昔を感じる。
それもこれは山の生業であった。石神とか山上にあったことでもわかる。


あかぎれの 手をいたはりて 紙を漉く
http://www.balloon.ne.jp/453room/new_page_36%20kamisukisikoro.htm


紙漉きは冬に行われるから冷たい水にぬれる。それであかぎれになる。あかぎれというとき母も良くあかぎれになっていた。食器洗うにも冷たい水だからそうなった。今は温かい水だからそうならない。


城崎温泉の各外湯は、「柚子湯」です。古来より冬至の日には浴槽に柚子を入れ、ひびやあかぎれを治すといわれています

あかぎれ地蔵などもあかぎれきような地蔵なのか?あかぎれというのは女性がみんななるからそれにまつわる話しも多いとなる。結局今になるといろいろ便利になり豊になりそうした苦労はなくなったのである。でも人間のわからないのはそうした苦労がなくなっても苦労がなくなることはなかったのである。必ず別な苦労が生まれるのが人間社会なのだ。豊になればなったでやはり苦労が絶えないのである。鬱病が増えるとかいろいろな豊さ故の問題が生まれてくる。この辺の原発事故などもまさに豊かさを求めてそれを実現したのだか事故が起きて以後は様々な問題が起きている。人間には何になろうが苦労が絶えることはないのだ。豊かさを求めすぎでかえって苦しむということもあったのである。
 
 

天秤棒を画像検索するといろいろでてくる。でも本だと引用できないのが問題であった。本の写真はリンクできないしコピ-できないから
困る。本は一つの閉鎖された世界だという面があった。写真などは共有になりにくいのである。

 


 

posted by 老鶯 at 14:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

五稜郭の桜(榎本武揚など-明治の青春)


五稜郭の桜(榎本武揚など-明治の青春)


劇的に船は沈みぬ函館に風雲の日や桜咲くかな

五稜郭ここも日本や桜咲く明治の青春ここにありしも
五稜郭鴎飛びつつ桜咲く白波よせて戦いに死す
榎本の波しゆられて五稜郭海風やまず花の咲くかな


函館の五稜郭の桜を放送していた。今はまだ咲いていないにしろこれから咲く、明治維新の動乱の場所が函館だったのである。その時五稜郭落城して榎本武揚降伏したのである。
 
 五稜郭写真
 http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2009/05/post_38.html
 
 見張り塔が屋根の上にあるのは伊達政宗の瑞巌寺の寺と同じだった。あそこの寺は城だったのである。
 
        靺鞨の山 青一髪 我が行 此に至りて 豪に堪ゆ
        宝刀横ふる処 鬼呵護すべし 胡馬嘶く時 風は怒号す
        短鞨早天 暁霧を衝き 孤帆残月 秋濤に乱る
        扶桑南望 三千里 頭上驚きみる 北斗の高きを
       

靺鞨の山というのは古代からあった国のことであり多賀城碑にでている。扶桑とは日本のことである。北海道は当時新天地であり新しい蝦夷共和国を作ることを夢見ていたのである。

この脱走は最初から不運が付き纏いました。犬吠埼で暴風に遭い、咸臨丸が政府軍に捕まり、運送の座礁等があり、ようやく9月26日仙台港に集まり、修理に進めました。ところが、この時既に会津若松城は落城し、仙台藩も降伏を決定していました。奥羽の各反政府同盟(奥羽越列藩同盟)は早くも壊滅状態で、希望を失った旧幕臣たちは最後の抵抗を試みるため榎本の元に集まりました。
戊辰戦争で敗れ、北海道移住を余儀なくされた仙台藩片倉小十郎家臣団401名を乗せて仙台の寒風沢を出港した咸臨丸は、箱館経由で小樽に向かう途中、1871年(明治4年)9月20日、木古内町のサラキ岬沖で座礁。


この時いかに激動のなかにあったか?陸では会津が落城して仙台藩の片倉家臣団が寒風沢から咸臨丸にのって出航した。仙台藩は北海道に伊達市があるようにかなりの武士が移住した。この時の激動も凄まじいものだったのである。ここで船が相当にかかわっていた。船で脱出して新天地の北海道を目指したのである。

明治の青春は函館が啄木の青春の地だったように気宇壮大なものがあった。時代が日本の青春そのものだったのである。だから青春の時代絵巻があった。その中には無名のうちに死んだ人も無数である。ぼっしん戦争では東北に責めてきた九州福岡の人が浪江辺りの寺の墓に死んで埋もれている。
土地の人が葬ったのである。相馬藩も一時戦い相手を殺したり自らも死んだ。


長州の毛利、筑前の黒田、大和郡山の柳沢、芸州広島の浅野、伊勢の藤堂、常州笠間の牧野、熊本の細川、因州鳥取の池田、筑後久留米の有馬ら各藩の軍勢だった。
相馬藩には以下の通達が行われた。
http://boshinken.info/hoshisenseironbun.html


芸州となるとどこの人となる、安芸藩であり広島の方になってしまうのだ。九州の福岡県の人も戊辰の役で死んで墓が残っている。福岡の人が歴史を探りに墓を訪ねていたりする。
http://musubu.sblo.jp/article/9378228.html


忘れらる相馬に果てる福岡の侍の墓春の夕暮    


戊辰戦争ではとても薩摩長州の連合軍の勢いにはかなうものではなかった。錦の御旗をたてられて進軍してくる勢いはとめられるものではなかった。それがやはり時代の趨勢だったのだろう。相馬藩はその勢いにたちまちのまれて敗退して軍門に下って仙台藩と戦うことになった。その境界が丸森であり戦場跡として残っている。大砲もそこで使われたのだ。


大砲をここにすえつつ戦いて死せる者かな春の夕陽没る

武器でも劣っていたから勝ち目はなかった。東北連合は成らずばらばらだったのである。それで白虎隊や二本松少年隊の悲劇があった。二本松では兵力すらなかったから12才の少年まで狩りだされた。まさに城と共に討ち死にしたのである。 仙台藩の侍も結局榎本武揚と同じ様に北海道に逃れた。亘理藩が移住したから伊達市となった。その激動は錯綜しているからわかりにくい、ただ大砲が武器として重要であり八重の桜では主題にもなっていた。そもそもヨ-ロッパの城の時代が終わったのは大砲が武器となったときである。大砲のために城壁は無力化して城の時代は終わったのである。


この地にそ轟く大砲その音や丸森にひびき春の日没りぬ
 

扶桑南望 三千里 頭上驚きみる 北斗の高きを・・・この漢詩は北海道からさらにロシアまで眼中にした雄大な詩だった。北斗の高きを・・というのはロシアまで視界にして本州を見ているのだ。
我等には新天地北海道がありロシアがある、樺太がある・・・北斗があるとなる。


明治維新庄内藩&会津藩のプロイセン(ドイツ)結合

最近発掘された資料でわかったように会津が閉鎖された山国で情報にうといというものでもなかった。プロイセンに北海道の会津藩の支配地域を売ろうとしていた。それは日本の領土だからそういうことは日本を売ることにもなっていた。でもぎりぎりの所で外国の力を借りようとしていた。
これは伊達政宗はヨ-ロッパに使節を派遣して連合を計ろうとしたのとにている。
だから必ずしも東北は閉鎖された辺境とも言えない、外国と結んで薩摩長州連合と対抗しようとしていた。人間は日本国というよりまだ藩単位のアイディンティティに生きていたからである。

はとにかく一つの雄大な詩であった。錯綜していても何か人間的だから詩にもなり小説にもなる。そこには英雄が存在した。一方太平洋戦争には何かそうした人間的なものがないから詩になりにくい、むごたらしい戦死者の数のみがあるだけなのである。だから報われないともなる。つまり明治は江戸時代の武士の文化の延長としてなおあったのだ。だから内村鑑三などが北海道でクラ-クに指導された強力な指導者になりキリストに命をささげた独立伝道者になった。北海道はその時日本のフロンティアになっていたのだ。啄木でもやはり時代精神の現れがあり若くしてあれだけの短歌を作った。それは明治という全体の時代の産物だったのである。明治は今になれば西欧化の華の時代であり詩的なテ-マになりやすい、詩の時代だったのである。それから大正とか昭和になると散文的時代となる。時代的に高揚するはいうより何か文明の頽廃的様相を呈してしきた。デカダンスとかが主流となってきたのである。戦後はアメリカに負けて日本の精神すら根こそぎ断たれた。明治は一番日本の国粋文化も高揚していたのである。漢詩が一番興隆したのが明治だったことでもわかる。漢詩は志を述べるものだからである。志の時代、まさに志士の時代だったのである。

だから明治の青春こそ無名でも一人一人が青春を生きていたのである。それは今や埋もれてしまいわからなくなった。結局明治の青春を作ったのは時代を作ったのは武士がいたからである。武士のモラルがまだ生きていて西欧化でもその魂が融合したのである。和魂、洋魂の時代だった。300年の武士の時代が明治になって死んだわけではなかったのである。その蓄積が実は技術面とか他でも華開いたのが明治だったのである。ルネサンスにしてもそこにイスラム文化とかギリシャの文化-ロ-マの文化などが融合して一大ルネサンスが生まれたのである。過去の蓄積が融合して華開いたのである。こういうことは個人的にもある。一人の天才がいてその才能が次代のものに新たなものになって蘇る、模倣ではない新しいものとして蘇るのである。ただ今や現代は個人的にしかそうした文化的なものは受け継がれないのだ。明治のように時代全体として受け継がれることはないのである。大衆化した文明というのはそうした文化の創造などないのである。宗教はカルトとなり数の政治にすぎないし文化的創造的なものは団体などから生まれない、政治と実用の科学の時代なのである。

現代とは一番詩が欠如した時代なのである。それで上野霄里氏などがニ-チェのようにアウトサイダ-化して絶叫するようになるのだ。上野霄里氏が自分は高杉晋作ににているというときまさにそういう詩人的行動者だったからそう言ったのである。詩が欠如している時代は時代的に衰退している。散文的な金だけを追い求める物質的なものとなり高邁な精神の高揚もなく低俗大衆文化の時代なのである。この辺の原発事故でもそうである。第一次産業に農業に漁業に林業でも自然とかかわることで生活することは詩的なことである。しかし工業化して文明化すると自然から離れるから詩的なものとはならない、詩は自然なくしてはありえないのである。原発によって自然が汚染され破壊され人まで住めなくなったことはまさに黙示録的世界がこの辺に現れたのである。津浪もまた大きな時代の変革をうながすのとして起きてきたのかもしれない、人間より神の力のいかに偉大かを示したものなのかもしれない、無情ではあるがそういう恐るべきものを見せつけたのである。


扶桑南望 三千里 頭上驚きみる 北斗の高きを・・北斗の高きを・・・というときこれには宇宙からの視点もあった。それだけ雄大な志に生きて果てたというのが明治の青春だった。現代の青春はカルトととかいかに金もうけて金で自分を誇示して偉くみせるとか物資的になりすぎているのだ。結局現代人の望みは金持ちになることしかないのである。志に生きるなどはすでに夢にも浮かばない、というのは会社自体が利益を追求するのであり利益が最大の眼目だからである。そこにいかなる志も芽生えない、いかに他者を蹴落としてもうけるか金になるかしかないのである。そういう功利的人間しかいなくなったのである。まさに志に生きる武士はいなくなった。日々利を求めて追われているだけなのである。この辺でも結局補償金の金でもめているだけでありどこにも絆などない、最初のうちだけあっただけだったのである。

2013年04月09日

桜は満開に(桜井古墳の土筆の写真)

 

桜は満開に(桜井古墳の土筆の写真)
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沈丁花香りに浸り朝の蝶
復興や桜井古墳に土筆かな
道の駅桜満開真昼かな
ヒヨドリに椿の赤さ映えにけり

みちのくの名もなき里や花曇り

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苦しみを乗り越えてこそ今のあれ今年の桜ことさらに映ゆ

咲き初めし桜に嵐その時の定めは知らじ時は移りぬ
みちのくに桜は咲けど雨しとと行く人まれに夕暮れにけり
満開の桜や今日は穏やかに道の駅にし人は来たりぬ
春の日に桜井古墳我が立てば海に川に野のひらき見ゆ


この蝶はアカタテハである。庭に飛んでくるのはめずらしい。おりしも沈丁花が馥郁と匂っていた。馥郁とにおうのは梅とか沈丁花である。昨日まで嵐の風だった。今日はことのほか穏やかである。

桜の時期の天候はいつも違っている。ただ必ず荒れた日がある。今年は咲く前から荒れていたのが特徴だった。午前中はなんとなく花曇りという感じでもあった。それで「みちのくの名もなき里の花曇り」となった。 「春なれや名もなき山の薄霞-芭蕉」と類似俳句になる。
もともと津浪とか原発事故の前はこの辺は知られていない、飯館村だって知られていない、名もない里だったのである。その時が幸せな時だった。今は世界まで知られているが平和がない所になってしまったのである。フクシマといえば放射能かと世界でなってしまった。


道の駅の桜も満開だったし病院の桜も満開だった。ただ六号線は通じていないから遠くからの客や旅人は来ない、それが淋しいとなる。それでもまだボランティアが来ていたのである。
桜井古墳に立つと見晴らしがいい、あそこに土筆が一杯出ていた。何か復興の象徴のようでもあった。桜井古墳のある所はやはり原町では一番いい場所だったのである。新田川があり海も近く望まれたし野もひらけていたのである。最適の地にあったのだ。古墳があるところは一番最初にひらけた場にあった。だから古墳のある場所には立ってみる必要があるだろう。そこがその土地の中心地だったかもしれないからである。


南相馬市はこれからどうなるのか?やはり原町中心で復興するようになる。でも今度は鹿島に住宅がふえた。アパ-トが二軒も建築中だし小池に一人用のビジネスホテルもできた。鹿島には高校もなにもない、施設もないと訴えていたが住宅が増えて人口もふえた。その分小高は人口が減ってゆくしこれからどれくらい復興するのか?やはり人口がへり原町、鹿島に家を建てる人も増えてくる。どうしても隣の浪江が警戒区域になっているから嫌だとなり帰りたくないという人がいるのもわかる。

ともかく今の時代六号線とか東京と交通が通じないと市町村の復興もないとなる。それだけ外との交通が大事になった社会だからである。高速道路は二年後に開通するとなるとその辺で復興のはずみがでてくるのか?


自分もこの六年間は苦しみの連続だった。どうにもならない苦しみだった。64才で俳優が同じ病気になっていた。やはり年になるとなりやすい病気である。でも今は楽である。だから普通に行動できる。やはり身体障害者が脱したことが大きかった。あのままではどうにもならなくなっていたのである。まず健康でなければ介護は負担が大きすぎる。健康がすべての基であり健康を失うことは金を失うより辛いことだったのである。60代以後一番大事なのは健康なのである。同級生で体が曲がったようになった人はショックである。なぜなら外にも堂々と出れないということもある。体があれほど曲がったように目立ったら出れないということがある。いづれにしろ60代は明らかに病気の世代であり
ここで最初の老いがきてつまづく、そして死にいたる人も結構いるのだ。

 

2013年04月10日

みちのくには花曇りがあっていた? (憎むことは愛することにもなる)


みちのくには花曇りがあっていた?

(憎むことは愛することにもなる)

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みちのくに老いにけるかな花曇り

みちのくの知られぬ里や花曇り
我が里や人を憎まず花の影


今年は嵐とか花曇りが多い。今日は花曇りである。みちのくの名もなき里の花曇り--を知られぬ里に直した。名もない里というのはないだろう。何かしら名がついている。
みちのくというとき何か歴史的にこめられたものがある。歴史的に性格づけられたものがある。
みちのくはそもそもぱっと花が咲かない、西のように繁栄したことがない地域だから花曇りがあっているのかもしれない、みちのく全般にそういう感覚になるのか、北海道とみちのくは歴史的に相当違っている。北海道は明治以降開けたのだから新しい土地である。みちのくの歴史は古代からあるから全く北海道とは違っている。ただみちのくの感覚は西の奈良や京都から見て遅れた拓けない地域としてのみちのくなのである。奈良や京都からみた感覚としてのみちのくなのである。

みちのくは何かもしかしたら老いにふさわしい場所かもしれない、東京や大阪のような所で老いたくはない、死にたくはないということがある。だから退職して田舎に移り住むという心情もわかる。
死に場所をどこにするかという問題である。ただ都会から田舎へ移りすむのは親戚とか頼りになる人がいないと住みにくいことはある。それから福祉が充実した所でないと困るだろう。
相馬は浜通りで気候がよかったからそれなりに移り住む人がいた。もう誰も住まない、そもそも地元の人すら住みたくないとか流出しているのだから余計にそうである。
でも警戒区域とかの老人は故郷で死にたいとか言っていた。どうしても老人になるとそうなるのだ。新しい所でなじむのがむずかしくなってくる。


小さな町で憎むべき人と結構会うからこまる。いなくなれば人間は去れば忘れるのが早い、ただ故郷とか田舎に住むということは悪人も実際いても一緒に住まねばならない、農家の人などは村八分にしても田んぼの水の管理は一部がぬけると他にも影響するとかなりそうもできなかった。農耕民は遊牧民のように簡単に移れないのである。だからもめごとがあってもなんらか折り合いをつけていた。
談合が基本に有りなんとか一緒に住む。部族的社会の延長が田舎だったのである。
ともかく何があれひどいことされても憎むことは負けだ。その低劣な人と悪人と同じレベルになるから恐いのである。結局善人は悪人に験されるのもこの世である。どんなことしたったこの世は善人だけではない、必ず悪人に遭遇する。また自分自身にしたってそうした悪になるとも限らない。この世ではどんなことしたって悪に遭遇する。この世はそうした悪が決してなくならない、この世が滅びるまで罪の世であり悪の世である。それはもはや改善できない、ただ最後の審判を待つだけなのである。

いづれにしろ憎むことは逆にその人に関心をもつことであり憎ませる人は意外と深い縁があったともなる。普通だったら全く関心もたないからだ。憎むことはその人に異常に関心をもつことなのである。憎しみの反対は愛でもあるから不思議である。60年間も憎み合った、同じ屋根の下に暮らした。
その憎むこと自体がすでに愛でもあったのだ。そんな長い間一緒にいたということは憎むこと自体愛になっていたのである。だから憎むということは愛しているというまでになるのだ。
いづれにしろ小さな田舎では極力もめごとはさける知恵が働いていた。それでなければ毎日顔を見合わす範囲にいたら一緒に暮らせないからだ。人間どこに住んでもろくでもない人はいるし悪人もいるしそれがこの世はそういうところだからどうにもならない、結局この世から悪は絶えることはない、悪が絶えたらこの世でなくなる、天国になってしまうからである。


 

みちのくのアイディンティティは何か (今も霊場的なものがあるのではないか?)


みちのくのアイディンティティは何か

(今も霊場的なものがあるのではないか?)


みちのくにともに死なむや花曇り


みちのくのアイディンティティはどういうものなのか?アイディンティティには風土的、地理的、政治的、文化的、歴史的アイディンティティとか重層化しているから一つのアイディンティティで一体化はない、基本的には地理的風土的アイディンティティが基本である。地理的風土的アイディンティティからみると会津と浜通りは全く異次元の世界なのである。山のアイディンティティと海のアイディンティティでありその文化も根本的に違ったものとなる。みちのくといっても広いから一くくりにできない、相馬藩のアイディンティティ歴史的地理的にある。地理的に見ると水境峠を越えて川俣に出ると安達太良山が見えるから山の領域に入ったことになる。浜通りにはあのような大きな山がないからだ。そして川俣から飯館の方をみると山がさえぎっていてあれではなかなかこの峠を越えてゆくのは難儀だなと実感した。それは自転車だから余計にそうだった。かなりの坂を上らねばならないからだ。だから自然的地理的境界線があの山になっていることは理屈ではない、地形によってあらかじめ定められていたのである。

ただ飯館村が相馬藩になったのは経済的理由かもしれない、川俣から飯館に行くより険しい山を越えねばならない、八木沢峠を上ってみればわかる。飯館村は標高が高いから夏でも涼しいし冬は寒い、だから飢饉もあった。稲作には適していなかったのである。塩の道があり松川浦の原釜から塩を運んだということで飯館村は中継所になっていたから経済的役割が大きかったかもしれない、ともかく相馬藩に組み入れられたのである。相馬藩は六万石だけどアイディンティティをもつには適度の広さであった。あまりに広いとアイディンティティをもちにくい、中国のような国がどうしてアイディンティティをもつのか?それは日本だって広いのにあれだけ馬鹿でかかったら同胞だという感覚もなくなる。だから三国志になり熾烈な争いとなったのである。もともとあれだけ広い国をまとめること自体今でも無理なのである。


みちのくというとき伊達藩は伊達政宗の時一番政治的結合があった。政宗という英雄が出たためにそうなった。それからみちのくは政治的結合はなかった。それがわかったのは明治維新のとき戊辰戦争のとき東北連合を目指してもばらばらになってたちまち西軍に制圧されてことでもわかる。内部分裂して連合できなかったのである。みちのくは最初は日高見国としてアラハバキ族がその子孫だったかもしれない、それが蝦夷の一部としてあったのかもしれないが大和朝廷に征服されて不明となった。みちのくといっても実際はあまりに広すぎるのである。今回の津浪で意識されたことは津浪に襲われた海岸線が海の文化としてのアイディンティティをもつ地域ではなかったかと再認識した。海のことは忘れられていたけど海によってつながっていた同じ文化圏であったと思えたのである。海の交通などは遺跡としても残りにくく船も沈むから忘れられやすいのである。伊達政宗はヨ-ロッパに使節を派遣したのものやはり松島辺りが石巻でも一つの海の文化圏としてあったからできたことである。

だから明治維新のとき榎本の咸臨丸が寒風沢島によって函館に脱出した。そして函館の五稜郭で蝦夷共和国を作ろうとしていた。だから東北連合ができて榎本が指揮すれば西軍と対抗できたかもしれない、西軍は薩摩長州連合ができたから幕府に対抗できたのである。ただ東北にはもともと政治的には結合するものがなかったのかもしれない、会津はどこまでも会津だったし他も一体化しなかったのだろう。

地理的には仙山線で行くと山形の山寺にでる。そこにトンネルがあり春でも山に雪が見える。トホネルをぬけると雪国だったというのにぴったりなのである。山寺は霊場であり「静けさや岩にしみいる蝉の声-芭蕉」となる場だった。あそこも境界線としてわかりやすいのである。

日本ではあまり川が境界線とはなりにくい、大きな長い川がないからである。ドイツだったらライン川はロ-マとゲルマンの明確な境界線であり風土も文化もそこで線が引かれたからわかりやすいのである。大陸には平坦な地が多いから川が境界線の役目をにないやすい、日本は山が多いから山が境界線となる。ただ仙台から平泉や盛岡方面に行くのにはあまり境界線を意識しない、高い山にさえぎられるわけでもないからだ。みちのくをふたわけ・・・この蔵王が境界線になるとは思えない、ただ相馬から蔵王は見えるからそれなりに蔵王は東北の象徴であるが境界線となっているのともちがう。そもそもみちのくというのはやはり平泉までの芭蕉の奥の細道の旅の行程がみちのくという感覚なのだろう。するとみちのくのアイディンティティは平泉までとなるのか?青森となると遠すぎるのである。


みちのくの特徴というと山寺や恐山などあるが霊場だったかもしれない、霊が眠る場所としてふさわしい場だったのかもしれない、奈良だと吉野山のような性格があった。大阪とか江戸は極めて政治的経済的場だった。みちのくの辺境はそうした政治的場となったことがない、伊達政宗のときだけ一時的になった。政治経済的場として日本の役目をになっていなかったのである。だからみちのくは霊場的性格がありそれにふさわしい場だともなる。確かに政治的経済的には後進の地域なのだが霊的になにか日本の故郷のような感覚があるかもしれない、大阪のような商人の世界とはあまりにも違っている。人間もまた違いすぎるのである。東北人はまず自分もそうだが商人には全くあわない、みんな無口な農民的気質なのである。いろいろ変わっていろいろ人がいるにしろ以前として東北人気質は変わらないところがある。東北にはまだ辺境意識がある。それは悪い方にとれば遅れているが現代の文明から逃れた場所として安らぎを与える場所としての役目をになうのには良かった。ただ原発事故などによりそがれてしまった。


日本でもやはり地域地域で違った文化を醸成されてきたしそれを基にして発展するべきなのだ。
九州は外国の窓口で役割になったのは地理的位置からだった。四国が霊場となったのはやはり峻険な山が多いことにもあった。多少みちのくとにている。山が多いから経済的発展をはばまれたのである。ともかくみちのくは霊場的な所がありここでだからともに死なむ・・という感覚にもなる。
死に場所ふさわしい場だともなる。ということは老後にふさわしい場だともなる。ともに死ぬ場所だということでアイディンティティがもてる場だともなる。だからここであまり世俗の競争を持ち込むことは向いていない、大阪のようになることは地域的特色がなくなる。人間は60すぎると死を絶えず意識する。すでに一割は死んでいる。すると死ぬ場所が大事になるのだ。原発事故で避難した老人はどうしても故郷に帰り死にたいと言っていた。それはまさに根源的アイディンティティの場所が故郷になっているからだ。みちのく全体をアイディンティティとしてあるがやはりまたさらに濃厚なアイディンティティの場所がそれぞれの狭い故郷なのだろう。


やはり東京とか大阪とかあういう場所で人は死にたいと思うだろうか?人間も自然の一部であるから死ぬなら自然に帰りたいという願望が自然に芽生える。ビルの谷間で死ぬのは嫌だとなるのが正常な感覚ではないだろうか?ともに死なむ・・という場所はやはり共同のアイディンティティの場であり連帯を生むのである。みちのくという同じ大地に眠る、死ぬということは何か安らぎを覚えるのである。ただみちのくといっても果たして会津の人はどういう感覚になるのか?また山形の人はどうなるのか?盛岡の人はどうなるのか?青森の人はどうなるのか?やはりそれぞれ違っていてみちのくで一くくりにはできない問題もある。でも歴史的アイディンティティとして形成されたものはやはり根強くある。だから陸奥から生まれのはみちのくらしいとなる。宮沢賢治の文学などは別にみちのくらしいともならない、みちのくの大地とどうつながるのか、天才だからそういう土地の感覚から逸脱している。自分の場合は普通だからみちのく的になっているのかもしれない、いづれにしろ歴史は地理だというとき地理がわからないとあらゆるものがわからないのだ。ただ地理とか風土の問題は相当奥深いからなかなかわかりにくいのである。福島県で会津に住まないものは会津のことはなかなかわかりにくいのである。あれだけの山国でありその山のことがわかりにくいから別世界になってしまうのである。

 
桜の季節に春に死ぬのは気持ちいいことなのだろう。


ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃 西行


春死ぬということは願ったのはやはり花を心に死にたいという日本人的美意識が西行によって生まれた。寒いとき死ぬのは何か荒寥としている。春に死ぬとなにか華やかだともなる。春の光につつまれて痛みもなく眠るように死んだら最高だとなる。ただともに死なむ・という感覚はここにはいない、個人的なものである。ただ死には個人的なものと共同的なものが必ずある。墓地自体が共同性をもっていることは確かである。江戸時代では庶民は墓がなくホトケッポとか共同墓地に一緒に葬られていたことでもわかる。もともと共同性の中で生きていたから一緒に葬られることは自然だったのである。今は共同性が得られにくいから死ぬ場所をどうしたらいいとか悩む時代なのである。
 

posted by 老鶯 at 19:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2013年04月12日

船岡の一目千本桜と蔵王の短歌20首 (山は場所によってまるで見え方が違う)


船岡の一目千本桜と蔵王の短歌20首

(山は場所によってまるで見え方が違う)


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春の日やキジが見送る逢隈駅

岩沼や線路交わり燕来る
ぽかぽかと春の雲浮き電車待つ
伊達領の船岡城跡花に雲
途中下車北白川や蛙鳴く
一本の椿の木や北白川
北白川待つ人一人春の昼
花に雲ゆうたり歩み花尽きじ


歩む道千本桜尽きず咲く大枝ゆれて長き道かな

延々と千本桜咲きつづき尽きることなく日々移るかな
城跡に登りて高き花に雲さえづり高く山にひびきぬ
蔵王映え吹き下ろす風なお寒し千本桜八分咲きかな
蔵王なお雪打ち煙り年輪を重ねし桜咲きつづくかも
みちのくの千本桜やなお寒し蔵王は雪に打ち煙ぶるかな
みちのくに千本桜咲きにしも畑耕す人のありしも
雄大に蔵王の映えてみちのくの千本桜咲きにけるかも
雄大に蔵王の映えてみちのくの千本桜春なお寒しも
蔵王映え雄大にして新幹線走り去るかな樹々の芽吹きぬ
雄大なる心をもてや蔵王映ゆさえづり高く山にひびきぬ
雄大な蔵王の映えて何か言う千本桜の咲きてこそあれ
瑣末なる生活に痛む我が心蔵王を望み明日をたくさむ
雄大な蔵王を望み人の世の悩みそいかに心晴れにき
みちのくの心とあれや蔵王映え春にしなおも雪打ちふぶきぬ
何故に人の心のいやしきを花と咲き蔵王を仰ぎ忘るべきかな
貧しくも蔵王を仰ぎみちのくに住みし幸い春のおとずれ
美しき心となならむ花に映え蔵王を仰ぐみちのくの春
人の世の心はただに金のみやみちのくの宝蔵王にそあり
人生きるこの世の闇の深きかな蔵王を仰ぎ忘るべきかな
今更に蔵王ありしと我が仰ぐ近くにありし宝なるかな
ゆうたりと桜の大枝ゆれにつつ千本桜にたんぽほの映ゆ
みちのくに大いなる詩(うた)の起こらむや千本桜に蔵王を仰ぐ
啄木の歌碑一つあり船岡に蔵王を歌わず死する悲しさ
この世の々誰か背負わむみちのくの花の盛りやしばし忘れむ
みちのくに桜前線電車のり追いて旅せし時のしあわせ
蔵王映え雄大にして新幹線走り去るかな樹々の芽吹きぬ
仙台の人と語りぬバスを待ち桜はまだと夕暮れにけり
仙台に来しも長きや時流れ世の移るかな花また咲かむ


岩沼から船岡へは近かった。前にも千本桜を見ていたけど実際は良くみていなかった。意外と近くを良くみていないのだ。こんな近くに蔵王あれほど雄大に美を極めて聳えているとは思わなかった。
船岡城跡から見た蔵王は最も映えていた。山は富士山でもそうだが見る地点によって全く違ったように見えるのだ。山は大きく見える所が一番いい、蔵王は確かに電車で阿武隈川を渡るとき見えるのだがその山はいつも見ているのだが感動しなかった。今回はあんなに雄大に見えることに感動した。
ヒマラヤでもそうだが3000メ-トルまで上らないとヒマラヤの山の雄大さはわからない、3000メ-トルまで上ったときまるで天に到達するようにヒマラヤ見えるのだ。見る場所によって全く違ったように山は見えるのだ。富士山にしても日本橋から見える富士山を浮世絵に描いているが富士山がぼつんとでているふうにしか見えない、蔵王にしてもぽつんと出てるのしか見えない場が多い、肝心な山形県側から見るとあそこはまるで蔵王の雄大さ美が全く見えないのだ。蔵王の裏側になって全く映えない。

今回見た船岡と穴場として北白川駅をおりて見た蔵王は本当に荘厳だった。北白川はたまたま乗り違い下りてしまったのである。それがかえって良かった。そこから新幹線が通っていたし最近でたはやぶさも走っていた。緑色の車体が新鮮だった。あそこは仙台に近いのに鄙びた場所だった。駅も無人駅だった。あの辺なども電車では通っていたがあそこに下りたことはなかった。あそこで新幹線と東北線が交わっていた。人間はつくづく近くのことを良くみていないのだ。船岡はあれだけ蔵王が雄大に見えるのだからあういう所に住みにはいい、浜通りの最大の弱点はこうした大きな高い山が見えないことなのだ。あういう雄大な山を毎日みていれば心に必ず影響する。そこから雄大な詩でも絵でも芸術が生まれてくる。


この六年間世間のことでせめさいなまされてきた。今も継続中である。人間の世の中はあまりにもささいなことで悩まされる苦しめられるから嫌になる。つまり蔵王のような雄大な山とはにてもにつかなささいないことで責められる場所なのである。人間である限り死ぬまでそうなのだろう。ささないことも無視はできないものにしろ最近は嫌になってしまう。だから30年間この世と交わらず生きていたときは本当に幸せだったことがわかった。桜前線を追って電車できままに悩むこともなく旅した時が自分の最高の幸せだった。その気分が今回の小旅行でよみがえったのである。春の雲が浮いて途中下車して思わぬ景色に遭遇したのもそうである。やっぱりこの世のわずらいから離れて自由に旅しているときは最も幸せだったのである。それが一日でも近くでも電車にのってよみがえったのである。人間はつくづく幸福が何かわからないのだ。

そんなに自由に旅していたときそんなに幸福なことか思わなかった。それが全くできなくなったとき何と幸福だったろうとかなる。それは別に

自分だけでなく今回の津浪や原発事故で避難者になった人たちもそうである。故郷を追われ狭い部屋におしこめられている。すると故郷で大きな家に家族一緒に暮らして庭いじりもできた。そんな家族と家と故郷を失ってはじめてあの時は幸せだったなとなるのである。それが当たり前のときそんなことを思いもよらないのだ。そういうことはこの世で長く生きれば経験しているだろう。突然境遇が変わることがあるからだ。人間は一生恵まれたままでは終わらない、どこかで必ず災難があり苦しめられるのである。苦しみのない人生などなかったのである。今や自分もなにやかやと詰問される身になったのである。それも自業自得といえはそうなのかもしれない、ただ人間は雄大なもの大きくなりたいというのがある。ささいなことにぐじぐじ生きたくない、蔵王のように雄大なものになりたい、そこに自然の意味がある。


船岡には啄木の歌碑が一つホ-ムにあった。あれは何なのか?啄木は別に東北でも故郷の渋民村と盛岡とかを短歌にしたけどあとはしていない、松島であれ蔵王を歌っていない、それだけの時間がなく死んでしまったのである。なぜ東北では啄木と賢治がぬきんでているのか?それはやはり天才の独創性があったからだ。それはまねできないものでありあれだけの若さで生み出した独創性があった。
芸術は独創性がなければ何の価値もない、その独創性は簡単に出せるものではないのだ。


斎藤茂吉などは「.陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ.」などの短歌があるがこれも確かにいいとしても何かしっくりこない、蔵王はみちのくを二つに分けるほど大きな山だというが分けるというより山形県と宮城県から見えるという山である。だからそれほどこの短歌から雄大なものを感じるというものではない、つまり斎藤茂吉にはどうしても正岡子規の写生の継承者であり地味だということがある。それは自分も写生からはじめたから同じである。茂吉には啄木や賢治の独創性はない。詩人というものでもない、短歌の専門家のうよなになっていた。だから意外と芸術的評価は低くなるかもしれない、芸術の評価は相当にむずかしい。ただ時代的にやはり変化する。かえって評価があがるものもあるし全くかえりみられなくなるのもある。啄木と賢治はこれほどなお文学的生命をもっているのは天才の独創性がありそれがまねのできないものだからである。それもあの若さで成し得たということが驚きなのである。もちろんその批判もある。でもやはりその独創性がまねできないということである。


宮城県美術館で「高橋英吉展」見てきた。やっぱり実物を見ないとわからないことがあった。芸術にしろ自然でも実物を見ないかぎり本当の感動はない、彫刻とか建築は特にそうである。
「潮音」は潮風を深く吸い込んでいる感じが良く出ていた。あの像からは潮風がふきつけ潮風と一体となっているものを感じた。もう一つの漁夫像は体が丸み帯びて豊かな肉体の安らぎを感じた。


潮風を深く吸いつつかなた見ゆ海の広さや春は来にけり

漁夫像の肉のまるみや働けるものの喜び充足のあり


高橋英吉もこれだけの独創性と才能があった。それも若くてそうだった。もし長生きしていたら世界的彫刻家になったかもしれない、その才能も戦争で奪われたのである。戦争では相当の才能ある人の命が奪われた。生き残った人たちはずるい人たちだったかと言われ、その人たちが本当は日本をだめにしたのだとかも言われる。実際に戦犯の人もいて読売新聞社の原子力発電の父と言われた正力松太郎がそうだった。その時も裁かれるべき人間が裁かれなかったのである。今度の原発事故でも誰も裁かれないのとにている。


ともかく一目千本桜は八分咲きであり昨日は寒かった。もう今日明日は満開である。ただ仙台は一分咲きにもなっていなかったのは不思議だった。たいして距離もないのになぜ咲かないのかと思った。やはり桜前線は寒暖の影響が距離で起きているためである。だから桜前線を追って旅することが日本の春でもある。この辺は交通の便悪くなった。帰りは直通のバスだった。これは便利であるからいい、やはり電車は楽である。バスは何か疲れるのである。
逢隈駅ではキジがでてきて電車を見送った。あそこは山になっているから野鳥がさえづったり蝉がなく、やはり自然があると違っている。電車の旅は駅にとまり駅を楽しむことが旅でもある。
でも今は通りすぎるのが多いから旅にならない、やはり時間をかけて途中下車するのが楽しいのだがそれだけの時間がない、そして今はロ-カル線は一旦途中下車したたら次の電車がいつまでも来ないとなるから簡単におりられないとなる。東北線は本数が多いから途中下車しても白石-仙台間は困らないからいいのだ。まあ、春は旅したい季節なのである。一日でも近くで楽しむことができたので良かった。

2013年04月13日

カルマの法則は現実にある (なぜ子は親と同じような人生になりやすいのか?)


カルマの法則は現実にある

(なぜ子は親と同じような人生になりやすいのか?)



カルマの法則・・・前世での行為の清算のために、あるときは義務を負う側に、
あるときはそれを受け取る側に身を置き、何度も何度も繰り返す。


ある人が何かの出来事で人の命を奪ってしまったら、その後には、同情を覚えるほどの
辛い状況が待っているでしょう。
もしかしたら、来世では医者になって、人の命を助ける仕事について、全身全霊で人(生命)を
愛し、その生涯を捧げるかもしれない。



知人に、自分の前世を、昨日の事のように覚えている看護婦がいる。
その人は、戦国時代に「山賊」であったという。戦いで傷を負って落ち延びた武者を襲い、
金品を奪い、手を切り落としたり、足を切り落としたり、時には、命まで奪っていたという。
そんなことを全部覚えているという。


そして今、勤めている病院に、自分が前世で殺した人が診察を受けに来ることもあると言う。
前世で足を切った人が、足が不自由なままに入院したり、自分が「刀」で切りつけた人が
背中に傷跡がそのまま残っていたりするという。「今は姿・顔形は違うけど、魂が同じなので、
すぐ分かるという」。


そんな人を見るたびに、「すみません、すみません」という思いでいっぱいで、
ただひたすら心の中で詫びるという。


他の看護婦さんが、あの患者さんはわがまま、扱いにくいと言う人もいるけど、
「私はとてもじゃないけど、そんなことは言えない。自分のやってきたことを考えたら、
そんな事を言える資格はない」。今はすべての人を愛したい、出会うすべての人に
ありったけの愛を注ぎ、全身全霊で人に奉仕をしたいという。
そして、休みの日には、ボランティア活動に励んでいる。
http://www.ne.jp/asahi/aquarius/messenger/books_008.htm



カルマというときそもそも前世の因縁があるのかどうかということがある。前世での悪行を今償うために医者や看護師の仕事など福祉やボランティアをしている。それが動機になるというのも不思議である。しかしこの動機は全く根拠もないものでもないし悪いとは言えない、それだけの善行を行う動機づけになっているのだ。そんなものないよと否定するのもいいが実際の動機となり善行になっているからだ。ここまで前世のことを真剣に考える人は普通はいない、医者だって看護師だって種々雑多でありこんなにしてまでこんな動機でやる人は極わずかである。そして医者や看護師でも結構性格の悪い人だって金だけを求める人だって天使が変じて悪魔にもなりやすい職業でありきれいごとはこの世はすべてすすまない。だから前世のことをこれだけ真剣に考えることは特殊であり動機が悪いとはならない、いい動機になっているのだ。でもこの前世で悪いことしたからそれを現世で償わねばならないというのはすべて否定することもできないむしろ事実なのである。


たいがいなぜ親と同じ様な人生を送りやすいのか?親の因果が子に報いとかなるのか?親が離婚していると子も離婚しやすい、親が苦労したことを子も同じ様な苦労をする。借金で親が苦労したらやはり子供も借金で苦労する。親に捨てられたという人は自分が親になったら子供捨てていたということもある。何かそういう因果がある。それはほとんど一部にあてはまるのではなく統計的な数字として確実なのである。だから家系の研究している人はそうした一つの法則があることを割り出した。親が悪いことをしていたらその因果は子に受け継がれる。それは仏教でも聖書でも同じである。三代四代までその因果が継続されたたるともなる。その罪の報いは一見関係ない子供が受けることになる。これも理不尽と言えば理不尽なのだがそれが因果の法則なのである。悪行はそれだけ恐ろしいことなのである。しかし軽い気持ちで悪は常に行うのも人間なのである。

この看護師は極端にしてもこういうことはありうるのだ。前世でないにしろ今世でもそうである。

例えば恩を受けたら恩を返すことが要求されているのだ。恩を返すことなど別にするしないは自由であると考える。でも恩を受けたことがカルマとなっているのが人間なのである。だからそのカルマが生まれたのだから返さねばならない、それをしないとどうなるのか?その人はそのカルマを返さないからカルマは解消せず自分自身を不幸におとしいれる。そういうことは現実にみている。恩を返す機会がありまざまざとみていたのに何もしなかった。ただ見て笑っていただけだったとなればその人は何だったのかとなる。それで今の不幸があるとしか言いようがない、それは自分にも起きたことだった。もちろんそれは一方的な見方だということもある。悪行の結果はすでに必ず別に死ぬ前に現れるのである。カルマ(業)をそれぞれ背負っているからこの看護師のように極端ではないにしろカルマを解消するためにはカルマは罪障でありそれが行為として示さないと消えないというのが現実としてある。


例えばここにホ-ムレスがいたとする。この人は自分とは何の関係もない、この人はよほどでたらめな人生を送ったのだろうとか思いその人の苦しみなど全く無視するのが普通である。ところが逆に人間は会社が急に倒産したりして自らがホ-ムレスにならないとも限らないのだ。そして人間は結局決して自分が苦しまない限り他者には同情しない、病気になった人は病気の人に同情するようになる。ホ-ムレスの苦しみはホ-ムレスにならない限りわからない。病気の苦しみも同じである。貧乏の苦しみもそうである。現代ではどうしても貧乏の苦しみを実感することが普通はできない、過去の貧乏とはあまりにも違っているからだ。だから医者とか看護師は別に病気などしていない人が多いから意外と病気はみていても同情しない人が多いのである。だから病人を残酷に扱う悪魔にもなりうる職業だということである。

ところがそういう人も医者でも看護師でもいつか病気に必ずなる。するとなんであのとき患者にあんな冷たい扱いをしたのかと反省する。そういうカルマの繰り返しが人間なのである。だからこの看護師は極端にしてもカルマを解消するためにはそれくらいすることも異常ではないのである。
普通はこの逆であったり全然していないからである。その結果として自らに不幸を招く、でも自分自身のことは反省しないで他人のせいにしたする。そのことは自分自身もこの六年間こんなに苦しむのはなぜだろうと考えたがやはり自分のカルマだったのである。それは今も継続中なのである。


そして仏教でもキリスト教でもシャカやキリストがどういう人生を送ったか?それが忘れているのだ。それは大伽藍に飾られて大聖堂に祭られたりしているからシャカは洞窟で暮らした乞食だったしキリストは枕するところなしというホ-ムレスだったということを全く忘れている、感じられないのである。大伽藍や大聖堂の主がそんなことがありえないとなる。でも現実は二人ともホ-ムレスだったのである。この世では住む家すら与えられなかった。今の宗教者はこの正反対である。清貧の生活すらしている人はまれだとなる。それは江戸時代からそうであった。だから宗教者ということ自体何なのかともなる。袈裟を来ているだけの見せかけだとなる。ともかく人間はいくら言葉で説教しようが自分自身が同じ苦しみを受けない限り同情することはないのだ。ホ-ムレスの苦しみはホ-ムレスになってみなければわからないし病気や貧乏もそうである。そういう同じ苦しみを受けると同情するようになるのである。そうでないと口だけになってしまうのである。だからかえって人の苦しみをみて他人の不幸は蜜の味となっているのが普通である。自分が苦しまないから実際は関係ないとなる。金持ちは貧乏人に同情しないし無関心である。

また自分が苦しんできたから他人も同じ苦しみを受けるべきだともなりざまあみろとなって同情しない人もいる。こういう人もまた多いのである。そういう人は他人の不幸を心から願っているのである。自分と同じ様に不幸になればいいと暗黙の内に願っているのだ。そういう人とつきあうことも危険である。だから現代では特に同情する人はまれである。そもそも前世のことをこれほど思ってカルマを解消しようとしているのは特殊でありほとんどないから貴重だともなる。
そういう立場の人を理解できないのである。
自分のこの六年間の苦しみもやはりカルマだった。そしてこのカルマは未だ解消していないのである

結局人間は罪の故に業(カルマ)の故にカルマを誰でも背負っている。だからこの世でカルマを消滅させる必要がある。でもかえって必ずまたこの世でそんなカルマの自覚より新たにカルマ(罪と業)を積んでゆく。するとまたカルマが消滅していないから生まれ変わり苦しむことになる。その因果の繰り返しだともなる。ただこの看護婦の場合は強制されたものでなく自らそう思ってカルマを消滅させるために人の看護をする。逆にカ-スト制はカルマによって身分制化したもので強制されてしまっているからいいとはいえない。強制されてやるのと自らが悟ってやるのでは相当にちがう。
前世など関係ないというけど現世ですでに誰でもカルマを背負わされている。そして自らもカルマを積んでゆく宿命にある。殺人を犯したような人はすでにこの世ではそのカルマを消滅することなどできない。とすると来世でまた生まれ変わりそのカルマを消滅させるために生きることになるというのも不思議ではない、殺人したから今度は医者となり他人の命を救うために働くというのもわかる。
なぜこの人はこんなに懸命に働くのだろう。金のためだけではない、本当に他人に尽くすために働いているとなるとその動機が何なのだろうとなる。それは前世からの因縁でそうなったというのも一つの解釈にはなる。


ただ人間は決して自分のカルマを認めたりしない、だからこの看護師の言うことは特殊でありまれである。逆に自分の犯した積んだカルマを他人のせいにするのだ。他人に自分のカルマを負わせようとする。それもまた普通にある。自分で自覚してカルマを消滅させようとしないで他人に押しつけるのである。借金というのがそうかもしれない、自分が贅沢するために遊ぶために見栄のために借金していてそれを他人のせいにして借金する。カルマが関係ない第三者にも負わされるのである。結局この世はそうしたカルマが充満して解消しないのがこの世だとなる。それはどなんことしたって永遠に解消しない、変わらずにカルマを積んでゆく、その大きな原因が欲望があるからになる。欲望はどんなことしたって断つことができない、そこからカルマが生まれてくる。そういう因果の繰り返しなのである。カルマが消滅するのはいつなのか、それはこの世が滅び新たにされるときしかない。人間という種が滅び新しい種になる。それはこの世ではありえないからこの世は欲で滅びるとなる。
最後の審判があり人間の欲が滅ぼされてようやくカルマが消滅するとなる。

2013年04月15日

保証人がいないために苦しんでいる人 (これから増える保証人問題)


保証人がいないために苦しんでいる人

(これから増える保証人問題)

●保証人で苦しむ例は無数にある



身元保証人には資産がなく、会社も身元保証書を提出させただけで、身元保証人の資産確認・身元保証人の意思確認もしていないため、身元保証を重要視していなかったとして、身元保証人の責任を4割とした。(東京地裁平成6年9月7日判決)


借金の保証人と病院の保証人は法的には同じものです。
保障する人ですからね。
金額の大きさによっては悩むところだと思われます。
ご主人は、病気で手術入院と聞いて数百万円の保証人になると思われたのではないでしょうか?

確かに保証人になれば支払わない場合請求されます。しかし貴方は娘さん。記入するのは当然といえば当然です。金融関係の保証人ならまだしも・・・
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1263959382


自分は学生時代からすでに友人が皆無だ
だから1の言いたいことが身にしみてわかる
それに自分でいうのもあれだが自分にはコミュニケーション能力がない
だから人間関係は作れない
そんな自分は市ねというのがこの制度だ!
こんな制度なくなってしまえ!


家賃の連帯保証人て
保証人が死んだら
その息子、孫まで有効なんだってな
こりゃなるもんじゃないと思った


老人ホーム入居するにも、二人の保証人の実印(印鑑証明添付)が要る
所も多い。独居老人で子供は近くにいない、いても遠くに一人とか、
小無し、生涯独身者もこれから急増するわけで

就職先の保証人ってなんか失礼というか・・。
こっちは収入を得るために働くあたまなのに
あっちは懲罰と損失回収前提に保証させる。
信用できないなら採るなよ!!!1
http://unkar.org/r/soc/1247055911


よほどの事が無ければ他人の保証人になる奴は居ないからな。
経理職とかは横領とか有れば何千万の賠償も有りえる。
普通の従業員でも会社の車で人をひき殺したりするれば同じで
人生終わる。
 他人の為にそんな危ない橋は渡れない。


保証人が必要なのは会社の物や金を持ち逃げすね奴が多いからだよ
保証人が必要ない会社はほとんどブラック企業だよ、
家族ぐるもの泥棒一家も最近は多いからな当然だろう

共済型の生命保険に入れられて半年後に事故死だろうな

カネ借りるわけじゃないけどやっぱ「保証人」と聞くとみんな例外なく尻込みするからな、、、
人間関係壊れることもあるよ頼んだだけで。

俺このあいだ実の弟に頼んで断られた。泣いたよ。そこまで信用がないのかとね・・・

あのね 今はお墓を買うにも保証人が必要なんだよ
金を払わない奴がいるからね、雇う側にもなってみろよ
どこの馬り骨かわからん奴を使えるか、よく考えろ
75 :
http://w1.log9.info/~2ch/20126/kohada_2ch_net_job/1272544002.html


中小零細企業が事業資金を借り入れする場合、およそ8割以上が連帯保証人をつけて融資を受け、連帯保証人の数はおよそ2000万人に上るといわれています(公式なデータはありません)。
そして、自己破産者の約10%が、連帯保証人になったがため自己破産するとされています。
このことは、国会でも取り上げられました。以下その概略です。
 中小零細企業の経営者、自営業者の自殺が依然多く、自殺の予備軍で、再起不能になった人の数が相当になるものと思われます。
 http://www.nin-bai.or.jp/article/14218820.html
 
 大分県宇佐市が、市営住宅の家賃を19年滞納した50代女性と連帯保証人で
同県中津市に住む弟に約300万円の支払いと女性の退去を求めて提訴し、弟と争っている。
弟は「過去、市からも姉からも何の話もなかった。20年近く放置した責任は行政にもある」と、
市は「連帯保証人への請求は法的に問題ない」とそれぞれ主張している。
http://www.logsoku.com/r/newsplus/1286827826/


一旦貸してしまうと家賃を払ってもらえなくても追い出すことができなくなるんです。(過去の判例から)もしも家賃を払わない人を強制的に追い出すことが可能であればアパートももっと貸しやすいと思いますよ。
たとえば3カ月借りたいから3カ月分の家賃先払い、その後そのまま居座りをつづけても強制退去できるなら(家賃を先払いしなかった場合)これなら、みんな貸すと思いますよ。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1480445379


身元保証とは、従業員の故意または過失によって雇い主が損害を受けた場合に第三者が賠償することを約束する、雇い主と当該第三者との間の法律関係であり、身元保証契約によって生じる。この契約によって賠償責任を負担する者を身元保証人と呼ぶ。

証券会社に損害を与えた社員の身元保証人に1億円もの金額が請求され、4割(4,000万円)の支払いを認めた判例もあり、身元保証人になることは非常にリスクが大きい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E8%A8%BC%E4%BA%BA



●保証人の責任は何なのか明確にわからない?


保証人制度がなぜあるのか?部屋を借りるとき外国では保証人はいらないという。日本だけが保証人が必要でありいたるところで保証人が必要になってくる。自分の場合はまず病院の手術であり市の介護施設のショ-トスティとかで保証人が必要とされた。二日ばかりだけど保証人が要求された。
緊急時の連絡だけとなるとこれはそれほど重いものではないかもしれない、ただそもそもその保証人の責任は明確化されていない、法律的にも明確化されていない、どこまで責任を負うのか文書でも明確化されていない、連帯保証人とは違っている。その保証人の責任は何なのだろうかわからずに保証人になっている人もいるし、あとで請求されて困る場合もある。病院の入院とか手術にしてもそれは金銭的な保証人なのだろうか?思った以上医療に金がかかりそれで払えないとかなり保証人に要求されるのだろうか?それが法律的に明文化されているのだろうか?


ここにあげた例はほんの一部でありインタ-ネットには膨大にある。こういう点でインタ-ネットは便利である。就職でも保証人が必要でありそれだってその保証人がどこまで責任をとるのか明文化されていない、横領とかあって保証人に要求された裁判もある。連帯保証人なら別だが様々な場所で日本では保証人が必要になっているのだ。連帯保証人では自殺などの被害が大きいから廃止の方向に向かっている。


連帯保証人の数はおよそ2000万人に上るといわれています


これが本当でないにしてもそんなにいるのか?自殺で一番多いのが金銭問題が確かかもしれない、次に多いのが病気だろう。これが人間の最大の問題だからである。人生の中でこの二つに苦しまない人はないというくらいだからだ。これも医者や看護師の言い分と患者の言い分が分かれるのとにているのだ。貸す方にすると相手をどう信用していいかわからないからだ。まず人見たら泥棒と思えというごとく人は信用できないものだとわかった。自分が大被害を受けたから経験でわかった。一回こういう手痛い目にあうと人は絶対に人を信用しなくなるのだ。これは自分が世間にうといから起こったことである。世間はもう会社経営でも何でもそういうことをあらかじめわかっている。人間は信用できないものとして取り扱うほかないから保証人制度ができたのである。だから保証人を要求する側にもそれなりの言い分がある。人を雇うことは実際は相当なリスクがあるのだ。人は信じられない、そしたら多額の金銭を扱う会社では余計にそうなる。会社はそうして人をみることにたけている。そうでなければ会社は経営できない、会社がみんなそうした悪い人に食い物にされて会社自体成り立たなくなるだろう。


ただ一方で保証人は弱者いじめでもある。すべての人が悪いとなるないし保証人になってもらうことは親族でもむずかしい場合かある。保証人になってくださいというとき誰でも何だろうと身をひくだろう。それは保証人の責任が何かあいまいで明確化されていないからだ。金銭に限ることならわかりやすい。老人施設に入るのにも二人の保証人が必要だというときそれは何の保証なのだろうか?
金銭が払えないときの保証なのだろうか?ともかく何かあったときの保証なのだろうか?
ショ-トスティ二日間の保証人は何の保証なのだろうか?緊急連絡時だけのものなのか?

ショ-トスティならそうなるが高齢者だから何になるかわからないからなのかそのために保証人なのか?書類が十枚ほどきてすべてに実印を押すし保証人の実印も必要なのである。そしたらなかなか頼めない人も相当いる。それでネットカフェとか就職できない人もかなりの数になる。この世の中弱者はとことんいじめられるということがある。弱者になるのは一般的には金銭問題と思っているがそうでもない、身寄りがないということは最大の弱者になったということである。弱者になるのは別に金持ちでもなる。金があっても施設に入れられた老人は多くそこで家族のような待遇を受けられることは無理である。金持ちの親は子供が世話したくないからたいがい高額な高齢者施設に入れられているのだ。だから金があったから常に強者ともならないのだ。どんなに金があっても恵まれてもまず病気になったら則弱者の仲間入りである。そしてそのリスクはみんながかかえているのだ。
弱者になると弱者をいじめ弱者を搾取するとかそういうことが普通に行われているのかこの社会だった。高齢化することも弱者化することなのだ。だからいくら子供がいても親の財産目当てだけになり親のめんどうをみない子供などいくらでもいるのだ。だから高齢者虐待は高齢者社会では日常化するということを書いた。


●保証人になれる信用ある人は意外と少ない


保証人というときこれもみんながなれるものではない、まず借金している人は保証人になれない、借金している人はすでに信用がなくなっているのだ。だから借金の調査を会社で雇う場合しているし借金している人とは組まないという経営者もいる。ところが借金しているかどうかわからないのが多いのだ。だからその人を信用する人も多い、社会的に成功しているとみせかけていた人もいた。それは借金していたそうだった。保証人になるのは別に誰も調査などできない、だから結構でたらめな人もなっているのだ。そもそも住宅ロ-ンなど組んでいる人は借金している。あらゆるところで借金が普通になっているのが今の社会である。リ-マンショックも借金して家を建てていたことから発していたのだ。でもわからないから保証人になっている。社会にはいろいろな抜け道があり別に保証人でもそれ自体を商売にするのもでてきた。そこには相当いかがわしいものもある。でも社会では一応保証人がいるなとなり信用したりする。

まず保証人の調査などできないからだ。とにかく借金している人は金銭的な面に関しては保証人になれない、それはかなり重大なことである。借金することは信用を失うことなのだ。もちろん返せばいいが信用されないということがある。なぜなら借金している人に保証人になってもらったが今度はその保証人になってもらったことで借金を請求されることになる。奇妙なことだが借金の保証人にされることにもなるのだ。お前の保証人になったから俺の借金の保証をするのは当たり前だろうとなる。でも入院とか手術とか他でもいろいす保証人がありそれらそんなに重いものと感じられていないし責任が明文化されていない、これはかなりの法律問題なのだろう。
ただ保証人になってくれというと誰でもしり込みする、良くわからないのとどれだけの責任が課せられるのかわからないからしり込みする。するとこれだけ保証人が要求されるのに保証人になってくれないとなる。それで民間で会社で保証人を引き受けるものがでてきている。これもいかがわしいのがあるから危険な面がある。でも普通は簡単に保証人にはなってくれないから頼むほかないとなる。

現代社会は大家族でもないし地域の連帯も崩壊している。それで何を信用していいかわからないからかえって保証人がどこでも必要になっているのかもしれない、人を雇うにしても雇う方にすると人を見たら泥棒と思えが極端な時代だからそうなっている。現代はもう相互不信が飽和状態になった時代なのかもしれない、人は人を信用できない、そして社会は崩壊状態にあるのかもしれない、原発事故だって東電のうよな大会社も政府と結託してマスコミから官僚から宗教団体からすべてと結託して大事故になった。地元の政治家も主導していたのだから政治家も信用できない、すべて信用できないとなった。それはすでに社会崩壊がはじまっているのでありそれで津浪の被害が合ったのも神の罰だったともなる。社会崩壊を早めるために津浪が原発事故が襲ってきたのかとさえ思う。互いに人は信用しない、金だけを求めて心は冷たくなり離反している。もう弱肉強食が極端化した地獄である。

食うか食われるかの地獄の世界と化しているからノワの方舟のような大自然災害が神の意志で起きたのかもしれない、社会をひっくりかえす大災害が起きて人間も目覚めさすためだったのかもしれない、それほど現代の人間はもう人間不信も極限状況にきているしもう社会がばらばらになって救いようのない状態になっている。もう世の滅びは近い状態なのかもしれない、この辺では特にそういうことを感じてしまうのだ。

posted by 老鶯 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層