2013年04月01日

石神で紙漉きが行われていた (少子化で過疎化が廃校が増大している-長野県八坂村の廃校の宿のことなど)


石神で紙漉きが行われていた

(少子化で過疎化が廃校が増大している-長野県八坂村の廃校の宿のことなど)


石神の方に春日の没りにつつ雲雀鳴くかなかの女(ヒト)の棲む

紙漉きを生業にすと石神の農家に嫁ぎ春の山暮る

みちのくになお桜の咲かざりき山により住み春の夕暮

大原に老人残るあわれかな息子は街に春の夕暮

代々に檜の苗木萱浜に作ると暮らし春の夕暮

人間は意外と近くのことがわかっていない、それは人間はどこに住んでも限られた人としか直接には会って話を聞いたりできない、直接会う人は極端に限られているのだ。親戚が多いにしてもやはりそんなにいろいろな人と交われない、だからどんな仕事しているのかとか今は隣すらわからないことが多い。そもそも江戸時代でも山の方に暮らす人、町内に暮らす人、海側に塩田を営み魚をとっていた人ととか暮らしそのものが違っていた。海側に暮らす人と山側に暮らす人は感覚的にも相当違ったものになる。山側では燃料としての薪がとれたし山では山菜もとれた。薪からは炭焼きが行われて燃料となっていた。山には山の暮らしが昔はあった。そういう昔からあったものが今は希薄になった。
燃料は石油や電気だし薪を燃料とすることはない、ただ山の方の家では薪を積んでいるのがみかけるから暮らしを感じた。石神-大原-橲原-栃窪・・・などは山の人であり山の生活があった。

大原に残った病院で一緒だった老人はどうしているのか、息子は街で生活して別々になり猫と暮らしていた。近くに娘がいたからいいが大原は放射能汚染度が思った以上高かった。それで子供のいる母親は避難していないという、するとそこは老人だけ取り残された村となってしまう。ただもともと跡継ぐものがいないと嘆いていたから農地が保証された方がいいともなった。老人だけでは田畑を守るのはむずかしいからだ。萱浜では檜の苗木作りをしていたと放送があった。代々にそうした生業があるところは村が維持できる。

山に陽が没るとき山の情緒を感じる。浜通りは海があり山があるということで恵まれていた。山は低いにしろ山の生活もあった。相馬市の山上には紙漉き沢があるから紙を漉いていた。紙漉きには山からの清い水を必要とした。紙の素材となる木もあった。それで生業となっていた。この辺でも山側は山の清水を利用して井戸水を利用している所が多かったのだ。知り合った女性は隣が放射能で区切られて補償金がもらえる、自分の所はもらえないとか言っていた。ただ石神には小学校は二つもあった。それなりの人口があった。でも入学する人は数人とかになっているという、上真野小学校ではもう一人とか入学するものもいなくなってくる。つまりそうして全国で廃校になる学校の数がふえている。

長野県の廃校が宿舎になっている宿に泊まったことがあった。教室は寝る場所となっていた。校庭が見えて山の奥でありなんとも不思議な感覚になった。その寝た場所が教室だったのである。山また山の奥に学校があること自体不思議に思った。この辺の山とは違いあの辺の山は山が重なり奥深いのである。あういう所に生まれて育った人もいる。日本は地形が複雑であり多様な環境に住んでいる。
長野県の八坂村というのは本当に坂が多いのである。自分は自転車でその坂を上るのに難儀した。
確かにあそこは八坂村だと思った。

八坂村坂越え村々木槿かな

あそこの小学校だったのかまだ子供たちの歓声が教室からひびているようでもあった。木造の校舎でもあったからだ。廊下を歩くときしむのである。コンクリ-トだとそういうことはないから木造校舎は思い出として残るものだと思った。

山には山の暮らしがあってはじめて山らしいとなる。でも現代はそうした生活は失われた。どこも山の村は過疎になり苦しい。だから廃校になるのがいたるところにある。その廃校を利用して住んでいる人もいる。自分くらい旅したものはいない、ただそれか思い出すときあんなところにも行ったなとなる。あそこはなかなか行けない奥地だった。

この辺はそうした山の暮らしや米作りや畑も作らないとか魚も試験操業だとか一体どうなるのか?
暮らしがなくなっていたきにさらに暮らしそのものがなくなったらその土地の魅力は喪失する。
みんな会社員や工員になったらどうなるのか?それは東京などの都会と同じになるだろう。
一面がソ-ラ-パネルになっても何か景観がそこなわれる。風力発電もそうだろう。でも花畑にたら美しいことは美しいが食糧にはならない、花を見て暮らせるのかともなる。自分の場合は花を見て暮らしてきたから意外と違和感がない、花がなくなったわけではない、自然が全部なくなったわけではないのだ。放射能は花には影響しなかったのである。

ともかく昔の生活をふりかえるのが郷土史である。人はその場その場で生きる。松川浦で漁師をしている人は角田から嫁をもらった。それで魚などをくれていたから今回の津浪で難儀したが助けられたという。経済関係は実際は何かのときに助け合うというためにもある。部族間でも何かあったとき助けてもらうために物々交換があり商業があった。この辺でも一時はもうモノが入らずモノを運んでくれる人が助けてくれる人だったのである。現代は地域の生活が希薄になった。みんな会社員でありこの辺でもそんなに東電で働いていたのかと地元にいても知らなかったのである。浪江辺りならわかるが原町とかなると遠いからそんなにいるとは思わなかった。やはり金になるということで働いていた。現実問題として農業だけではやっていけないというのが口癖であり跡継ぎがないというのもそうである。生活そのものがその固有の土地から遊離してしまったのが現代である。それにしても東電があんなに巨大な会社だとは思っていなかった。市町村いくつも買えるような資金をもっていたことに驚いたのである。今までの地域に根ざし生活からそうした巨大会社が入ってきたときその差がギャップが大きすぎたのである。結果として巨大会社に地域がのみこまれてしまったのである。怪物的会社だった。会社社会というのはやはり何か人間を歪めるものとしてもあった。そもそも原発事故になる前から地域の生活が根こそぎ変えられていたということもあったのだ。

郷土史研究といっても自分の住んでいる人のことでも知らない、まず昔からさかのぼってその土地のことを考えることが常に必要なのである。それをしないから津浪の被害も増大したし原発事故も起きる要因だったのである。


廃墟と化した村

長野県の廃村集落探訪 旧八坂村(現大町市) 槍平
http://blog.livedoor.jp/urayamaex/archives/4134013.html

大町に出たのは覚えている。こんなところもあったんだ。何かこれもみると深い哀愁があり悲しさが満ちてこないか?これは原発事故で町から人が消え空家化した情景ともにている。自然の中に人の営みが埋もれ消えてゆく、雪が深いから雪にも埋もれてゆく・・・大原にも三軒廃屋があり幽霊屋敷のうよになっている。人が住まなくなっても人が住んでいたところには何か人の霊が離れがたく残っている。それは津浪の跡の風景ともにていた。庭には必ず二つの木が離れがたく立っている。それが老夫婦のようにも見えたのである。

八坂村の廃校の宿

犀川のうねりつたぎつ 流れを沿い下り 
大岡村や生坂村や 八坂村の山深く
あまた咲きしは木槿の花 その花におおわれ
我は入りにき 今日の一夜の宿はあわれ
廃校となりし村の 小学校の改築の宿
ここに六年生の教室と なつかし泊まる卒業生
窓辺に流れのひびき 校舎の廊下をきしみ歩みぬ
窓辺に寄りて外ながむれば 赤とんぼとぶ山の学校
かすかに虫の音や 校舎は古りて生徒はなしも
その山の道の辺 刈り入れの農婦ありにき
道の辻には地蔵や 昔なつかし何語る
童の遊ぶ声もひびかむ 野に山に川に
祭りの太鼓も笛の音も 野に山に森に
村の墓所には女郎花 我がしばし佇みぬ
山々は打ち重なりて 村は閉ざされしかも
八坂村の坂をし上れば 誰そその墓の主や
我を見送る影のありや 我は汗かきかき坂上る
ああ また来てくれと その影は分かれを惜しむ
ああ なつかしき日本の国の 昔の村を思うかも
旅人はるか大町へ 坂を上りて去り行けり

2013年04月02日

花の内部(抽象画)


花の内部(抽象画)

花の器

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花の内部
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重なる色

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花の内部にしてもどうしてこれができたかは全くの偶然である。
この過程はいつものように主に万華鏡で加工しているうちにできた。
その元の絵はインタ-ネットのなかにあるけど絶対にわからない
まるで違ったものであり元の絵とはなんのつながりもなくなっている

自分のテ-マの一つが花になっているのでこれはいいと思った。

あとは色がただきれいだなと思ってそれに名をつける
人間はどうしても明るい方にひかれる、明るい方に導かれる
女性はまず美人というより明るい人がいいのだ
女性でしかもてない明るさがあるのだ

栄とならなかった原発-何が失敗の原因か (浪江に残された短歌(土井晩翆)から)


栄とならなかった原発-何が失敗の原因か

(浪江に残された短歌(土井晩翆)から)


浪江の地名と土井晩翆の歌
http://musubu2.sblo.jp/article/19103374.html


●浪江に残された二つの短歌の意味


土井晩翆が浪江に残した歌に地名が二つ読み込まれていた。


小野田橋新たに成りてこの郷(さと)の栄と睦(むつみ)いや増すぞよき

田尻原拓きて稲の八束穂のみのりをみるぞうれしき 晩翆


原発は栄とはならなかった。ただ原発は事故の前は栄となっていたのだ。浪江だと原発の恩恵は大きかった。請戸などは船主だったら一億円とかもらえていたのは信憑性がある。それで原発御殿が建っていたという。それが全部津浪で跡形もなく流された。それで地元の人すら罰があたったと言っている。そうはいっんても浪江町や浜通りでも福島県でも原発の恩恵は大きかったのである。
事故になって15万人以上の補償できるのだからその資金には驚いた。東電のことなどあまり考えたこともなかった。原発のこともあまり考えなかった。ただどうしても常磐線でゆくと煙突が見えると意識はするがそれほど意識もしない、30キロの距離は遠いと思っていたのだ。これが誤算だったのである。浜通りは二本松が結構田畑でも放射線量が高い、郡山も福島市も南相馬市より高いのである。
中通りでも遠いから安全だと思っていたろう。その距離の誤算があったのだ。飯館村も距離があると思い誤算していた。もちろん放射能がどういうものか知らないし知らせられないから放射能の被害がどうなるか予測する人はほとんどゼロだったのではないか?もちろんこんな大津波を来ることも予測しなかった。

まず町自体がなくなることなどイメ-ジもできなかった。戦争で焼け野原になっても広島でも東京でも復興している。そうなったときやはり茫然としていても意外と早く復興した。今回は町自体が放棄され住めなくなった。それが何を意味しているのか浪江の人もとまどうだろうし混乱している。
町自体が失うということは何を意味しているのか?その代々築かれた歴史も失う、そこで暮らした記憶も記憶も失う。土井晩翆が残した歌ももう無用のものとなり意味もなくなる。田尻原というところを開拓して実りがあり人々の喜びがあった記憶も失う。そこが古代から標葉郷としてあった記録は残っていても人が住まなくなったら原野になってしまう。双葉町は30年後にもどるということを決めたという。30年後にはやはり帰ってくる人がいて人が住むのか?するとやはり浪江の歴史でもまた受け継がれ回復するのだろうか?それはずいぶん先の長いことである。ただ日本は土地が狭いからやはり放射能が薄れれば住む人がでてくるだろう。30年後50年後は予測つかないのである。日本自体どういう状態になっているかもわからない、でも小子高齢化は予測されているから人口が増えるわけではないからそんな荒れた地に開拓するようなことはなくなっているだろう。人口が多いときは荒地でも開拓に入る人が多くいた。人口が少なくなれば便利な都会に住む方がいいとなる。


●豊かさを求めることは悪るいことではなかったが・・・・


ただ全国で2000高が廃校されるているように過疎化は深刻である。そうすると村自体が全国で喪失してゆく。何か今回の津浪でも原発事故でもそうした過疎地域に最後の一撃を加えられ村自体が消滅させたという衝撃を与えた。むしろ自給自足のような昔の生活だったらやはり第一次産業が生活の糧なのだからその土地に糧があれば残る。三陸では津浪が何度もあり今回と同じ様な被害があってもやはり人が住み続けた。それはそこに海の幸があり糧があるから住みつづけた。他に今のように働く場所もなかったのである。貧しくてもそういう自給自足の生活に甘んじるほかなかったのである。それが今はぜいたくになりできない。電気も石油も車も・・・も必要だとなる。もともと電気もなしで僻地は暮らしていたのだ。葛尾村などでは戦後十数年は電気も来ていなかったし山間部はまだ電気すらなかった。それはネパ-ルなどと同じである。そもそも僻地はそういう不便な中で暮らしてきた。日本全国がそうだったのである。


江戸時代の悲惨は影の部分は貧乏にあった。一割近くが眼病にかかり盲目の人が多かった。その他脚気とかもあり様々な病気に苦しんでいた。病気になっても医者は治せないからただなぐさめるだけだったという。それで病気は地蔵様や薬師堂で祈る他なかった。それが歴史遺産として各地に残っている。それから貧乏で一番悲惨だったのは遊女である。十代くらいで借金のために身を売らねばならなかったし肺病になる率も大きく死ぬと名もなく墓もなく使い捨てにさせられた。借金はやはり今そうだが恐ろしいものなのである。娘を売らねばならないほどの貧乏がその背後にあったのだ。江戸時代の悲惨は貧乏に尽きているしその後も貧乏の悲惨はつづいている。
だから江戸時代がすべていいとかはならない、だから江戸時代にもどれというのは酷だとなる。

戦争で貧しい農村出の青年が白い米が食べられるとか言って志願した人もいたから貧乏は戦争の原因にもなっていた。

そういう歴史からふりかえると豊かさを求めることは悪いことではなかった。では何が悪かったのか?それは豊になることで無理をしすぎた、背伸びしすぎたのである。急ぎすぎたこともある。
新幹線並のスピ-ドで豊になることを急ぎすぎたということもあった。もう少しテンポを遅くすれば原発でも安全を計られたかもしれない、早すぎたことが事故につながる。眼前の利益のみに眼がくらみ安全がおろそかにされたのである。


●経営にはモラルや経営哲学が必要だった



あわてる乞食はもらいが少ない・・・・


せいては事をし損じる



はじめに急いで得た資産はその終わりが幸いではない-箴言-20-21


欲の深い人は急いで富を得ようとする、かえって欠乏が自分のところに来ることをしらない

箴言-28-22



こんな庶民の諺(ことわざ)でもそれは人間が長く生きた中で庶民に伝えられた変わらぬ真理が知恵があったのだ。ともかく利益を早く得よう得ようとするとかえって得られないし「損して得しろ」というのも本当である。「せいては事をしそんじる」これもそうである。会社経営する人ならそういうことを実地の現場で会得する。経営は技術だけでは成功しないようだ。技術がいかに優れていても経営者にはなれないみたいだ。モラルとか哲学が必要になってくる。その人が失敗したのはその人は金にならないことは損することは一円でも損することはやらない、それは日常のつきあいでもそうである。この人に一円でももうかるならつきあうがそれ意外は一切やらないという計算してつきあう。一般的に利益があがらないでどうしてやるのだとなる。それは自分もそうだった。損してどうして事業がやれるのだとなる。人のことは言えない、みんなそうである。でも事業は明かにすぐに利益などでないのである。ある所で損することもあるからその損を見込んで事業を継続するほかないことがある。それであとで大きな成功につながってくる。


でもそういう余裕がもてるのは個人経営ではむずかしい。だから資金力のない人はただ頭にもうけを得ることしか考えなくなる。将来の見通しより今の利益が大事になる。それで東電の社長もコストカッタ-として社長に抜擢されたのである。その時は確かに会社でも利益があがり得したのだが事故後はとりかえしのつかない大損失になってしまったのである。これは技術者の問題より経営者の問題があったのだ。こうした昔から伝えられた格言や知恵をないがしろにしていたのである。東電のような大会社になるとやはりそれだけの資金力もあるのだから一時は損してもあとで得する経営は十分にできたのである。経営者は技術者でなくてもできるというのは経営はモラルとか経営哲学とかが必要になってくるためである。ただ今利益ああげることだと血眼になる経営は失敗する。そんな悠長なことを言っていられるのか?食うか食われるかの競争を生き抜くにはコストカットが第一だよとかなる。でもそこに大きな落とし穴があった。


●経営には全体的思考が不可欠-限界集落不用論の落とし穴


経営というときやはり政治でも限界集落の問題でも日本国土全体から思考することが欠けるとまた日本の経営に失敗することになる。一票の格差問題もそうである。そうした地方や限界集落でも衰退すると日本全土の国土が衰退するということもありそこからまた原発事故のような問題も起きてくる。日本の国土の維持するには限界集落のようなものでもそこに必要であり自然の理としてありうるべきだとなる。効率的でないからとか損だけだとか税金の無駄使いだとか都会的発想だけでは片づけられない全体の日本国土の問題としてとらえることも必要なのである。全体的思考とかではない局所的思考とか時間でも急ぎすぎると何か今回のような原発事故とか問題が起きてくる。それは個々人の人生でもそうだしそれは全体の社会にもあてはまるのだ。


現代はグロ-バル化しているというとき地球すら一つの体のように考える必要が出てくる。地球環境的視点が必要になっている。それは国の歴史をも越えた視点なのである。地震とか津浪というのはなぜ起きるのかいつ起きるのか解明されていない、地球が一つであり地球がつながっているからそれは地球環境的視点が必要になってくる。日本の太平洋岸に東南海と今回の東北沖に大きなプレ-トがあった。東北沖のプレ-トでこれだけの大きな地震があったことは東南海にも影響する。それでここ十年の間に大きな地震か予測される。それは科学的なものである。東南海プレ-トで地震か起きたとき大きな津波か起こりその六年後に東北沖でも大きな津波が起きたからその逆のケ-スで今度はパランスをとるために東南海に地震と津波が起きる予測されるのである。つまり地球は人間の体のように一つなのである。どこかが具合が悪くなれば全体に影響するのである。


 御民吾生ける験あり天地の栄ゆる時に遇へらく念へば
(万葉集6)

みたみわれ いけるしるしあり あめつちの さかゆるときに あへらくおもへば 海犬養岡麻呂


基本的には天地の栄があり人の栄がある。天地の栄が消失すればすべてが消失する。太陽が地球の栄でありマヤ文明のように太陽の光が衰えて世界は終わるとおびえたことは別に変わったことではない、太陽がなければすべての生命の栄はない、光が消失すれば生命は維持できない、ともかく浪江の橋を作ることは栄に通じていた。原発は栄とならなかったのである。故郷という天地があって栄があった。土地は恒産であり毎年実りをもたらす、そこに栄が永続する。それを失ったらもはや栄になる基を失ったのだから終わりである。これからも原発は国の栄とならないし世界的にもそうである。それは地球環境的視点からも原発は拒否されるべきなのである。原発は地球の栄にならないのである。

 
 
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2013年04月03日

みちのくに桜咲くを待つ心-短歌十首


みちのくに桜咲くを待つ心-短歌十首


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みちのくの桜はなおも咲かじかも雨しとと遠くに行けず我が待ちにけり
みちのくになお寒々と雨のふる桜は咲かじ待てる日々かな
我が町の夕べ曇りて飛び来る燕を見るも桜は咲かじ
仮設住む小高の人のあわれかな鹿島区の桜を待つやなお帰れじも
町に人消えても桜は忘れずに通りに咲きて待つもあわれも
我が老いて今年はいづこの桜見ゆべし限りある命日本の春かな
八沢浦磯桜かな海風のここに吹きにつ波光りよす
人は逝き人は帰らじ桜花大和の心ここにありしも
西行の花を惜しみて果てにけるまた生まれてそ花を見むかも
色濃くも京の桜の咲きてあれ雨にぬれつつあわれ深まる
大坂城花に酔いし時のあり今はみちのくに花咲くを待つ


桜の短歌はずいぶん書いてきた。日本の桜の名所は数限りなくある。近くでもそうだし福島県でも桜の名所は多い、未だ隠された桜も数多い。桜はどこでも咲いているからだ。今年の時間的感覚で不思議なのは結構寒く感じるのとなかなか桜が咲かないなと思うことである。時間がなかなか進まないという感じになっている。でもこの時間感覚が普通なのかもしれない、津波、原発事故から二年間は時間が過ぎるのが早かった。だから元のペ-スにもどってきたのかもしれない、時間が遅く感じるのは近くしか行けないしいつも近くで生活していると時間が長く感じられる。遠くに行くと時間は早く過ぎる。そういうことで時間の感覚は違ってくる。年とともにも時間の感覚は相当に違ってくる。
もう限りある命となってきている。そういう感覚は若いときはとはまるで違ったものなのである。
若者と老人の最大の相違はこの時間感覚なのである。


桜というのは桜前線だと二カ月間くらいは日本全国で咲く、ただ見れる桜は限られている。 桜で見事なのはやはり京都と大坂城かもしれない、そこが一番栄えた所だからである。だから思い出す桜がそこになる。でもそれも時間がたつと忘れてくる。ただ思い出す旅というものもあった。思い出すというとき心に深化して見るかからかえって趣深いものともなる。老人になるとあちゆるものを深化して意味深く見るようになるのだ。それもそうである限りある命を明確に意識して生きるようになるからだ。末期の眼で日々ものを見るようになるからだ。そこに老人の意義がある。若いときはそういうふうには見えない、何が本当に価値あるものかも見えない、熱い欲望にのみこまれてしまったいる。夢中の状態になっている。若いときは夢のように過ぎ去るのである。


ともかく桜が咲くのを待つのもいい、待つ時間も人生には必要である。待つ時間も貴重なのである。待ってこそ実りもある。人間はともかく急ぎすぎるのだ。事業でも早く成功して大金を得たいというか急ぎすぎるのが災いとなるのだ。文学でも早く成功しようとする。賞をもらって有名になろうとする。それはマスコミを通じて成される。だからマスコミを通じて有名になった人はまともな人はいない。原発事故で売り出した福島県の詩人もこの際に名を売り出したのだろう。そういう人もでてくるのである。

とにかく今年も動乱がつづいている。その中で桜が咲く。双葉の桜は街中の通りに咲いて有名だった。一回だけ見た。それほどのものでもないと思った。桜はどこでも咲いているし意外と注目されていない桜がいい場合もある。その人の見る眼がないとまた桜や美も発見されないのである。

会津の桜はほとんどわからない、山の奥にも咲いているからだ。そういうところには訪ねてゆくこともできない。


会津の松平容保公が詠まれた


山桜見て来ぬ人はおのがすむ 里のさかりも知らでやみなむ


けふぞしる里の桜の盛りをも 山路をわけてみるべかりける


山桜の美
http://www.musubu.jp/sakuranew-4.html


山桜など意外な所に咲いている。だから知り得ようがないということがある。会津だったらあれだけ山深いのだから知らない桜がどれだけ咲いているかわからないのである。


ここはまだ咲いていないけど桜の季節がまた巡ってきた。これは一年一年違って見えるのだ。それは人の心も回りの状況も変わってくるからである。それは時代によっても見る桜は違ってくる。
この辺は動乱であり人は各地に散らばり仮設住まいでありそういう中でまた二年過ぎて桜の時期を迎えたのである。


プログを書く意義は読んでもらうこともあるが自分の記録、日記としてもあとで役立つ、こんな動乱になると特にそうである。その時しか感じられないことがありそれで読み返してみみると不思議になった。つまり3月11日の5日前ほどに右田の松原をのことを書いていた。短歌や俳句にしていた。そのあと松原は消失したのだから短歌や俳句にすることはできなくなったのである。松原の風景は永遠に失われた。だから3月11日を境にして回りも激変してしまった。そういう心境を知るのにもプログは各自書く意義がある。

2011-3月11日の数日前のプログの記録 (津波原発事故境に戦前と戦後になった)


2011-3月11日の数日前のプログの記録

(津波原発事故境に戦前と戦後になった)

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津浪の数日前のプログの記録

福寿草(余裕なき現代社会の不幸)2011年03月10日
http://musubu.sblo.jp/article/43778288.html


春北風(はるきた)に松風鳴りて右田浜

春光に一艘白し船の行く
陸地には北風なおも吹きにつつ沖行く船の春日に白し


春北風(2011-3-5)
http://musubu.sblo.jp/article/43705488.html

津波が来る前のプログを読むと春北風(はるきた)であり3月11日は東風(こち)が吹いたからこの頃の季節はこういう風であった。今年の11日は東風は吹かなかったから不運だったのである。
そのあと東風が吹いているからやはり風の影響はまねがれなかった。

右田浜の松原を俳句にしたのはこれが最後だった!
漁する船がでていたし春北風に松風が鳴っていたのである。これ以後松原はなくなり松風の音も聞くことができなくなったから信じられないとなる。ここを境にして変わってしまったのである。
 

津浪の前に書いた昔の貧乏と今の貧乏

醤油もまともに使いなかった昔の貧乏と今の貧乏の相違
(島木健作-地方生活を読んで )
http://musubu.sblo.jp/article/43719033.html


今の日本の貧困は中進国の貧困より実はたちが悪い。
一度贅沢な暮らしを経験してしまうと気持ちが抜けられないため、余計に惨めになっている。
周囲の目も違いすぎる。
中進国の貧困は地域や親戚などのコミュニティで物々交換で互いに守り合い、人々は明るい。
戦後の日本もそうだった。

今の日本の貧困はやや金があっても完全に孤独でむしろホームレスに転落しやすい。
福祉の力を借りない真面目でプライドだけ高い人も多い。
ひょんなことで限界に来る。

・・・・・・・・・
貧乏についても書いていた。原発を導入したのは貧しさのためである。でも豊になったにしろその豊さを得るために急ぎすぎたこと、背伸びしすぎたこと、無理したこと、それは個々人にもあったし会社や団体にもあった。自分のプログではそういうことを常に書いてきたし津波の直前にも書いていたのである。元親戚の人にしても二家族が見栄のために金を使い一軒は遂に倒産して家までなくなった。経営が悪化していたのけど見栄があり金も使っていた。一旦それなりの生活をしているとそういう水準を落とせなくなる。金持ちから貧乏になることはかえって辛いのである。そうなると借金してまで外見をとりつくろう。もう一軒もそうだった。成功者のようにしていたからそれを今さら借金経営だったなどと言えないから外見をいいように見せる。でも最後は偽ることができないからどん底に落ちてしまう。人間は偽りつづけることができないのである。原発でもこれはまだ完成した技術でもない、そこに無理があった。背伸びして運営していた。ただ利を得るために無理をしていたのである。急ぐこと無理することはどこかで破綻をきたす危険がある。


結局津波原発事故を境にしてこの辺は激変して価値観まで変わった。それは様々な混乱状態はつづいている。戦争に負けた戦後と同じである。天皇一辺倒の国家主義(ナショナリズム)から民主主義に百八十度変わってしまった。鬼畜米国からアメリカ一辺倒に今度はなってしまって金が第一の社会になった。その変化が大きすぎたからその変化を生きる人はとまどい混乱したのである。この辺もそういう混乱、動乱状態にある。故郷が消失するということはあまりの衝撃だったのである。広島の原爆の跡でも東京空襲でも焼け野原になってもそこに人は住み続けて意外と早く復興したのである。だから奇跡の復興と言われたのである。ところが今回は30年とか帰れないとなっているからかえって今回の事故の方がひどいともなる。


ただ言えることは何か大きな価値観の変革が求められている。今までのやり方、価値観が否定された。その生活の土台となる土や水や森が汚染されたということが深刻なのである。原発事故がもたらしたものはそういう生活の基盤、根底になるものが奪われたことなのである。いくら金になるといってもそういう生活の土台が水すら使いないとなったら誰も原発などいらないとなってしまう。
つまり今回の津波でも原発事故地域でも町自体が消失して算盤で言えば御破算になってしまった。ゼロになってしまった。ゼロからのやり直しになってしまった。当然今までの価値観では成り立たなくさえなった。それは戦後の変化とにているのだ。ではどういう価値観で生きるのかとなると戦後のように天皇、天皇から民主主義、民主主義となったようにわからないということである。
だから貧乏時代の価値観を見直すことについても山尾三省の詩などを参考にして書いた。


では元の貧乏時代にもどるのかというとこれまた違ったものだろう。そういう価値観の変化が具体的に起こり問われているのである。それがどういうものかはまだ定まっていないし混乱状態なのである。他で就職するにしてもできないということもある。つまり宙ぶらりんな状態が10年くらいつづくかもしれないのだ。その間補償で生きる他ないともなる。でも十年のブランクはどうなるのか、三春辺りでは2年間耕作してなかったら荒地化してしまって元のようにいかなくなったとか農業でもブランクが長くなると荒廃してしまうのである。人間でも10年とか仕事せずぶらぶらして遊んでいたらどうにかなってしまうだろう。補償金で生活できても人間そのものがそこなわれてゆく。
いづれにしろ混乱状態はまだまだつづく、その中でいろいろ模索することになる。それは価値観とか思想とかも変革されてゆく、今までの生活の見直しが行われる。

ただ御破算になる、ゼロになるということは新しいことをするには適している皮肉がある。
戦後はまさに焼け野原になり今までのものがすべて否定されたから新しいものへの移り安かったのである。ただ伝統的なものをすべて否定するとそこにまた歪みが生まれた。
ただ宮城県でも津浪で町自体が消失したということはどう再建したらいいのだろうと途方にくれる。補償金で暮らすというわけにもいかないから町から人の流出がとまらず町が消えてゆく危機なのである。

 
posted by 老鶯 at 15:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

旅をふりかえり詠む桜の短歌 (白石千本桜-阿武隈川の桜-梁川-丸森)


旅をふりかえり詠む桜の短歌

(白石千本桜-阿武隈川の桜-梁川-丸森)

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東京の桜は嵐に散りにしと伝えられつつここも吹き荒る
みちのくに花咲く前に嵐かな遠くに行けず内にこもりぬ
(白石-千本桜)
訪ねれば千本桜は散るあとや相馬は遠し我が帰るかな
長々と白石川やその岸に千本桜や東北線かな
阿武隈川はここより広く蛇行して海に到るや花盛りなり

満開の桜そ映えぬ残雪の蔵王の迫る朝の光に
(阿武隈川-巻淵)
巻淵や阿武隈川の渦巻きつ淀み流れ桜の道行く

阿武隈川淀みの深く何ひそむ巻淵の名や桜咲くかな
残雪の吾妻嶺望み阿武隈渦巻き流れ満開の花

阿武隈川岸の桜の点々と流れ激して我がそい下る
(二本松)
二本松安達太良映えてその天守高くも朝の桜花かな

小浜城訪ねてみれば夕暮れに桜を見つつ麓も暮れぬ
(梁川-丸森)
丸森の峠を越えて梁川や城跡に夕べ桜の散りぬ

川岸に桜と梅や春草の土手に萌えつつ燕飛ぶかな
丸森や夕べ咲きにし桜かな峠を越えて相馬に帰る
六万石相馬の花は濁りたる堀に写りつ夕暮るるかも


白石の千本桜は有名である。あれを見るのはたいがい東北線の車窓から見ている。ところが自分が見たのは自転車で白石まで行ったときだった。その時はすでにみんな散っていたのである。それが何とも感慨深いものだった。桜が見れずにどうして感慨深いものかというとまずその距離感覚から見るものが違ってくるのだ。そこまで苦労して桜を見に行ったけど散っていたとなる。桜は満開に咲いているときだけが桜ではない、それは



花は盛りに・・


花はさかりに 月はくまなきをのみ見るものかは
雨にむかひて月をこひ たれこめて春の行方知らぬも なほ哀(あわれ)に情(なさけ)深し
咲きぬべきほどの梢 散りしをれたる庭などこそ 見所(みどころ)多けれ
歌の詞書(ことばがき)にも 「花見にまかれりけるにはやく散り過ぎにければ」とも
「さはる事ありてまからで」なども書けるは 「花を見て」といへるに劣れる事かは
花の散り 月の傾くを慕ふならひはさる事なれど ことにかたくななる人ぞ
「この枝 かの枝散りにけり 今は見所なし」などはいふめる


萬(よろず)の事も 始終(はじめおわり)こそをかしけれ
男女(おとこおんな)の情も ひとへに逢ひ見るをばいふものかは
逢はで止みにし憂さを思ひ あだなる契(ちぎり)をかこち 長き夜をひとり明し 
遠き雲井を思ひやり 浅茅(あさぢ)が宿に昔を偲ぶこそ 色好むとはいはめ
(徒然草-吉田兼好)



花は盛りにだけ風情があるのではない、花見というと盛り焦点をあてているが桜は散るときも風情がある。散ったあともしばらくは余韻があるのだ。さらに咲く前にもすでに花を見ようとしているから花見がはじまっている。花は盛りがすべてではないのだ。千本桜を訪ねた時はみんな散った後だった。でもそれが何か深い感慨として残っている。それはそこまで行った距離も関係していたし自転車で行ったということも関係していたのだ。車だったらまた違っている。車での花見は経験していないがやはり近いものとなるからまた違ったものとなる。現代が便利になったというとき深い感慨がもてないのは便利すぎるからなのである。江戸まで歩いて旅して日本橋まで来たのと新幹線で二時間で着いたよとなるのでは全然違った感覚になるのだ。その喜びは天と地のように違っている。便利になってかえって旅の喜びがなくなってしまったのである。

桜と城はあっている。城に桜は映える。二本松城は天守閣があったところが山の天辺だから見晴らしが一番いい。小浜城もそれなりの城だった。小さいにしてもそれなりの構えがあった。そこから安達太良の山が見えて暮れてゆく。そこを訪ねたときはもう日も暮れようとしていた。ここに行ったのも自転車だった。梁川城は会津までかかわった古い城である。阿武隈川を梁川から下った所は見物である。流れが早まり淵に渦巻き流れる。そこに満開の桜が咲いていた。眺めも残雪の吾妻嶺が見えて
ビュ-ポイントになっていた。そこから丸森に下り相馬に帰る道は情緒がある。桜と桃が一時に咲く場所でもある。あんなところまで放射能が影響したことは残念である。

阿武隈川の巻淵というのはどこにあるかわからなくなった。地図を見てもわからない、ただ記録に巻淵と残っているから確かにあった。そこでも桜は咲いていた。深い淀みがあり渦巻く流れがあり桜が咲いていた。島山とあるから島山の近くである。阿武隈の流れが狭まり島山というのは山で流れがさえぎられた所である。東和町の中にあった。


阿武隈川の流れは山間深く滔々と
巻淵に広く淵なし淀みつ流れ
島山に急流となりて磐間を激ち流れ
丸森にい出てや遠く残雪の蔵王を望む


この辺は変化に富んだ所だった。ただ人間は忘れやすいから旅は必ず記憶しておくべきなのである。あとで記憶が蘇るからである。別にこの辺は行けないということはない、日帰りコ-スだからである。電車だったら白石の千本桜は車窓からも見えるのである。

相馬の城跡の桜はいつも濁った堀に写るだけである。ともかく桜はいたるところに咲いているのだから名所だけの桜を見にゆくだけが花見ではない、すぐ近くにどこでも咲いているのである。
ただ会津の方の桜はわかりにくい、盛岡とか弘前城の桜はまだ見ていない、桜咲く時期に見ることがむずかしいのである。なんだからこれだけ桜のことを書いて花疲れになったというのも変であった。

2013年04月04日

地元の人に津浪の話しを聞く(鹿島区の御刀神社の後ろの家の人)(東部高速道路のようなものが津浪には有効だった)


地元の人に津浪の話しを聞く(鹿島区の御刀神社の後ろの家の人)

(東部高速道路のようなものが津浪には有効だった)


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海老村の歴史
http://musubu2.sblo.jp/article/43585610.html


北海老村-下海老村は壊滅した



今日はたまたま老人が家から出てきていたので津浪のことを聞いた。場所は写真の所である。御刀神社がありそこは林になっていてその後ろの家は結構被害が大きかった。ボランティアが来て泥をとるのを見ていた。京都や大阪から来ていた。今日話を聞いたのはその後ろの家である。床上ちょっとだけ浸水した。ただその前のは家は氏神の社を残してなくなった。御刀神社の前の家はほとんど喪失した。あそこが家が残るか残らないかの境界線だった。


ただ不思議だったのは津浪は海老の方から高くなって押し寄せてきたという。それでその前に坂になって高い道がありそれで波がさえぎられて助かったという。ええ、あんな坂が津浪をさえぎったのか?それを聞いて何か納得がいかなかった。津浪は海老の方で高く押し寄せたという、海老の家が密集している所は右田などから比べると高台になったのであそこが壊滅状態になったことで驚いた。
だから津浪は低い所に高く押し寄せたのかと思っていた。それがある部分的に高くなって津浪は押し寄せていた。それで海老の崖になっている所も高かったのだがあそこに高い波が押し寄せたからあんな被害になった。


反射・屈折・干渉などの「波」の性質を持っていて、条件により変化するため、予測されないところで被害が生じる場合がある。波の中では孤立波、その中でも伝播中に形状や速度が変化せずお互い衝突しても安定している「ソリトン」に分類される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E6%B3%A2


これはわからないにしても津浪と海底が浅かったり深かったりしても影響する。津浪は一様な高さで押し寄せるとは限らない、津浪はまた地形に影響されやすいことは前にも書いた。
今回聞いた津浪の話しでも同じだった。その地形とは高い坂になった道路だった。でもその道路はその道路だけが高いというのではない高台に作られた道路だったのである。道路というより地形の影響だったのだろう。津浪が海老の方から高く押し寄せてきて右田の方の平坦な地域からそれほど強い波が押し寄せたのではなかった。津浪の押し寄せる力は場所によって違っていたのだ。ただ御刀神社を境にしてその前の家はなくなった。全部流されたわけではないが被害がひどいので壊されてなくなった。御刀神社の後ろの家が残ったのは流された木材などが神社の林でおさえられたこともあったろう。その後ろの家は被害がひどく壊されてなくなった。
その後ろの家の人に今日津浪の話しを聞いた。家が三軒ほどでも前がさえぎられて海が見えなかった。


津浪が来たときその前の家の人に聞いて逃げたという。最初の一波はひたひたと押し寄せる低い波なのだ。その時逃げればみんな助かった。それは磯部の人も海を見に行ったら低い波がよせてきて逃げて助かった。最初の一波は低い波なのである。それから津浪はある程度距離があると津浪が来るのが見えてからでも必死で逃げれば助かる。大内は結構距離があるから津浪が来てトラックで逃げて助かった。八沢浦の人は海が近いのだけど前に小山があってその小山にさえぎられ津浪が弱められた。

そし津浪が見えていたから後ろの山に逃げて助かった。つまり津浪は見えてから逃げて助かるということがあった。あそこには4軒くらいしか家がないのにその家にさえぎられて前が見えないから海がみえないし津浪が来るのもわからないとなる。もちろん外に出ればあれだけ視界が開けているのだからわかる。ただ家から海の方が見えないのだ。この海が見えないということが死角になっていた。


多賀城と石巻とか都会は家が密集して海が全く見えないし海を意識すらしない、ただ砂押川をさかのぼってきたのでそれで川と海がつながっていることを改めて知ったのである。海が見えないということが意外と死角となっていた。石巻の大川小学校の悲劇も住宅にさえぎられて海が見えない、だから津浪が来るのが見えないからわからなかった。それで逃げ遅れたのである。海は意外と近くにいても見えない場所が多くなったのである。この辺でも松原があると海は見えなくなっていた。常磐線では海の見える地域が極一部である。だかち海が近くても海が見えないのである。浜吉田も浜がどこにあるのか海を意識したことがなっかたけどあそこまで津浪が押し寄せて海が近いと改めて知ったのである。


亘理から名取の海岸線を走る東部高速道路はかなり高いからバスからの眺めがいい、鳥の海とか河口か見えて海が見える、あそこの高速道路に必死に上って助かった人がいた。あれだけ高いと津浪には効果的だった。あれがもっと海岸線近くに作られていたら相当に津浪を防げたので参考になった。
今回聞いた話でもあの道路があのわずかに高い地形が影響して津浪をさえぎったというので不思議だった。津浪は地形に影響されるし津浪自体が良く解明されていない、それはかなり複雑なものであり海底の浅さや深さでも違ってくる。


南海老村は被害がなかった。下海老村と北海老村が壊滅した。そこはあとから人が海の方に向かって開けた地域である。だからその神社も新しいとなる。神社が津浪の被害からまねがれたというとき北海老や下海老村の神社は新しいから流された。古い神社は津浪が来た経験から高い所や津浪の来た地点を記憶していて昔の人が建てた。神社が古ければ古いほど津浪が来た所には建てていないというのは本当なのだろう。


あの辺の田んぼは塩害やら放射能で使い物にならないので農協であづかり広く整地するという。今まではなかなか土地を農家の人が手放さないのでできなかったがもう何もできないとあきらめて農協が一括してあづかることになったからできる。そういうことで大規模な農業経営に移行しやすいということもあった。宮城県などでも津浪で壊滅した町は御破算になってしまったから新しい町作りを一からはじめられることはある。そうはいってももう人が流出していてはできない。これだけ被害が大きいと今までの狭い土地に執着することや何か他でも新しい発想が必要になってくる。それが何なのか模索することになる。そうはいってもなかなか新しくするというのはむずかしいだろう。でも町自体消えることはそうならざるをえないということもあるのだ。

posted by 老鶯 at 17:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

桜が一輪咲いた(孫を抱いて梅が匂う)


桜が一輪咲いた(孫を抱いて梅が匂う)


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春日さし採り採り花一鉢に
鳩数羽喜々と飛ぶかな春の空
新築の家に子供や春の雲
大空や鳴き合い暮れぬ雲雀かな
新築の家の前広し雲雀鳴く
故郷や孫を抱きて梅におふ
梅散りてなおにおいたる夜道かな


真野川に鴎飛びきてその岸に桜一輪咲きにけるかな


真野川の桜は一輪咲いた。でも一分咲きにもならない、三輪四輪咲いて一分咲きとなればそうである。真野川には鴎が良く飛んでくる。それが海とつながっていることを示している。町の上も飛んでくる。でも墓の近くの枝垂れ桜は満開に咲いていたのは驚いた。あの桜はいつも早く咲くという。普通枝垂れ桜の咲くのは遅いはずである。ともかく明日はまちがいなく一分咲きになる。今日は春らしい気候だったからだ。

鉢の花は千円だとしたら安い、こういうふうに人も個性豊に色々に咲けばいい、ここに争いはない、そもそも花には争いはない、それぞれの個性を色を尽くして咲くだけで悪。人間だけに争いがあるのだ。

新築の家が一軒ぽつんと新しい家が建った。子供の自転車があったから子供がいる。この辺は新築の家がふえつつけている。新築ラッシュにもなっている。津浪で家を流された人や小高区から移った一部の人も家を建てている。鹿島には何もないと言っていたが新しいビジネスホテルも小池の方にできた。ここにはそんなホテルもなかった。あれは一人用ではあり確かに仮設では親戚が来ても寝る場所がないからあそこに泊まるのにはいい。
新築の家の前はには家がないから広々として気持ちいい、これは都会から比べれば贅沢である。
実際街内になるとたいがい家でさえぎられて見晴らしが悪いからだ。庭も狭いのである。
田舎でも都会と同じ様な狭い場所に住んでいる人も多いのである。


近くの知っている人か孫を抱いていて梅の香りにひたっていた。すでに団塊世代は孫をもつ世代である。孫がかわいいというのがわかる。孫を通じて命がひきつがれるという感覚になる。この感覚はやはりその世代にならないとわからない、ただまだ今は60代でも若い、そういう人がやたらふえてくるのだ。退職して何をしたらいいとか60代はいろいろ病気の世代でもあり悩むのである。

この辺では浪江などは悲劇である。故郷というとき孫を抱いて故郷に命がひきつがれてゆく、それが普通のことだった。故郷で代々くりかえされてきたことである。その故郷がなくなったということが悲劇なのである。ただ別に孫がいなくなったわけではない、でも故郷がないということはどういうことなのか?引き継がれるべき故郷がなくなったのである。孫をもっている世代とばらばらに暮らしている人も多い。孫は故郷の思い出がないとか言っていた。忘れてしまったと言っていた。新しい生活の場が故郷になってしまうのである。ただ故郷というとき自然がないと故郷にはならないだろう。

東京とか大きな都会に移ればそこは故郷となりにくい、すると故郷喪失者になってしまったのである。この辺ではまだ田畑が耕されなくても生活があるから孫にひきつがれる故郷は残っているからまだいい。故郷がなくなるなどということを未だに信じられない、そういう混乱と戸惑いがつづいている。

今日も一日自分は忙しかった。買い物のために三カ所よった。買い物が結構一仕事なのである。何で毎日こんなに買うものがあるのかと思う。ただこの辺では仕事しないでぶらぶらしている人が増えた。七割くらい仕事していないかもしれない、それでも補償金があるから余裕であり補償金のない積み津浪被害者とはかなり違っている。顔に余裕があるなとかのんびりしているのである。
ただ忙しい人はやたら忙しいのである。暇なやつはやたら暇である。だから今になるとそうした暇にしている人を見るとなんなんだと今は思ってしまう。この辺では津浪原発事故以後は価値観が変わった。働く人は金を持っている人より上である。働かない人は低くみられるし邪魔だとさえなる。
でも実際は働かない人がふえすぎたのである。自分の仕事は史(ふひと)なのである。郷土の歴史を記録することが一つの仕事である。津浪原発事故でそのことがふえたのである。

2013年04月05日

飯館を通り川俣へ新しい電動自転車で行く-短歌十首 (今日は東風がどこまでも吹き渡っていた)


飯館を通り川俣へ新しい電動自転車で行く-短歌十首

(今日は東風がどこまでも吹き渡っていた)

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栃窪まで


飯館

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ここは何だったのか?
何か地元の物を売っていたのか?

ここに誰か住んでみてもいいのでは
買物は川俣になるが・・・
水が飲めないとかやはり住めないだろう
これももったいないんだよな


川俣

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熊野神社

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クリックするとはっきり見えます!




この家や石は動かじ梅におふ
春日さし名もしれぬ墓いくつかな
飯館に弁当食うや蕗の薹
蕗の薹朝にとまれる山の蝶
さえづりや峠を越えて飯館に
春日あびイタチの道にいで歩む
飯館の春の夕暮れ埋もれ石


門古りて枝垂れ桜や誰が家や後ろの山は御山なるかな

この石に我は休みぬ飯館にひさかたに来て春日さすかな
一本の松や標(しるし)と行き来する車あまたや春になりけり
安達太良の峰そ高くも現れて峠越え下る春となりけり
山々を越えて東風吹くや川俣にきても吹きやまぬかも
東風は吹く海のかなたゆ悔しかな放射能も運ばれにけり
川俣の小手姫桜なお咲かじさえぎる山を越えてそ帰る
早咲きの神社の桜咲きにけり川俣の古き農家のここにあり
この御堂古りにけらしもその裏に石の一つや春日さすかな
山木屋へ道こそ分かれ旅心ここに湧くかな春としなれば
人住まぬ飯館に来て石いくつ淋しや我より帰る春の日


川俣まで最近買ったパナソニックの電動自転車で行ってきた。軽く走れるからこれは確かに遠距離用である。でも13アンペアと言っても坂でへるから川俣から引き返して最後は予備の電池もきれた。
電池でライトがつかるからそれがなくなり暗いところを走った。道は知っているから危ないことはなかった。電池きれるのがやはり問題だった。カメラの電池もきれて失敗だった。


今回川俣まで走ってはっきりわかった。東風(こち)が川俣へ水鏡峠を越えても今日はそうそうと吹いていた。今日は風が結構強かった。南から低気圧が迫っていたからだ。この東風は川俣を越えてさらに二本松や福島市までそうそうと吹き渡ってゆく、郡山までもふきわたって行ったのだ。だからこそ放射性物質が福島市や二本松市や郡山まで運ばれて放射線が高くなったのである。あの風を実際に感じればわかるのだ。前は想像で説明していたが本当に実感したし自分の想像したことと一致したのである。あの時は雪もふったから不運だったのである。

飯館は農協と郵便局は開いていた。ガソリンスタンドもやっている。これだけでも仕事をしていると完全な無人の世界とは違ってくる。自動販売機も三台くらいあったからいい。真野ダムでは小池の人が釣りをしていた。今は近くの人しか来ていない、前は遠くからの人が来ていたし警察もパトロ-ルしていたが今は地元の人しかしていない、飯館は原町から福島市までの幹線道路として機能しているからいいのだ。あそこちある一本の松が何か飯館村の標(しるし)のようになってしまった。

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この風の方向にまちがいなかった


ともかく人が入らないということは荒れ放題になってしまう。大倉では確かに猿が家の庭まで入ってきていたし飯館でも庭に雉が入っていた。そういうことはあるがまだ家が廃屋とかなっていない、荒れた家にはなっていない、人の出入りがあるからだ。人の出入りがないときそこは限界集落に人が住まなくなった廃墟となってしまう。幽霊村のようになってしまうのだ。だから警戒区域で入れない浪江とか双葉とかは深刻なものとなる。5年とか人が入らないと荒れ放題になり幽霊の出るような恐いものともなってしまう。それが家が壊れて廃屋が朽ちている所に雪が積もっていたりする廃村の風景になる。そうなると幽霊しか住み着かなくなる。だからともかく浪江でも一部わずかでもそこに人が住めば幽霊村にはならないのである。また人が自由に入れれば幽霊町にはならない。飯館村は人の出入りが自由だからそうはなっていないのだ。


飯館から坂をおりた所に熊野神社があった。それはいかにも古い、その前にまた古い構えの農家があった。これもかなり古い家である。川俣には古い農家がある。前にも写真にとった。養蚕農家がありもともと江戸時代から絹織物産地として有名であり江戸にも売りに出していた。川俣は一時は栄えていたから鹿島区の屋形からわざわざ天秤棒かついで鰻を売りに行ったという話しには驚いたがそういうことがあった。それは川俣に金持ちがいたということである。それは絹織物でもうけた金持ちがいたということなのだ。川俣は飯館の方が近い、だから飯館の学校は川俣に移動した。


飯館には結構石があり今日見たのは地中に埋もれるようにあった石であった。石はほかにもある。
飯館は石の村でもあった。ともかく人の出入りがあれば石でも樹でも人とともにあるということがまだあるのだ。警戒区域のようになると人が入らないから荒れてしまうのである。一旦人間化した自然は人間がいなくなると荒寥としたものとなる。前から人の入らない自然だったらそういうことはないのだ。そういう森が沖縄にありそれは自然の宝庫となっている。そういう所は別に人間がもともといないのだからそれが自然なのであり特別淋しいということもない、動物の棲家でもある。

一旦人間が森を開いて生活の場となった所は人がいなくなると一段と淋しくなり幽霊がすみつくような所になってしまうのである。幽霊か彷徨う村になってしまう。神社とか石碑も放置されるとそれが幽魂のうよになって成仏しないとかなる。墓も放置されて捨てられるとそこに幽霊化した異様なものとなり成仏しな霊が彷徨うような感覚になるのだ。だから一旦人が住み着いた場所は誰かが住み続ける必要があるのだ。

放射能は平均して3マイクロシ-ベルトくらい下がっていた。ただ5あるとして結構それでも高いと思った。でも3も下がったということはまだ下がるのか?それが救いだったともなる。
 
 
 
 
 

2013年04月06日

飯館村の放射線量はかなり低下 (同じ場所で計ったら平均3マイクロシ-ベルト減っていた)


飯館村の放射線量はかなり低下

(同じ場所で計ったら平均3マイクロシ-ベルト減っていた)

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除染した山

山をみんな除染は無理、道路は除染したのが多い。

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緑は草むら-茶色は泥-灰色は道路


2011年7月13日

飯館村の放射線濃度が急激に低下

3月20日に38.5μSv/h、4月1日に16.5μSv/h、5月1日に7.7μSv/h、6月1日に5.0μSv/hあったのが、7月4日には4.3μSv/hと低下している。最新の7月11日のデータは3.4μSv/hとなった。福島市杉妻町もここ一週間で1.0μSv/hから、0.8μSv/hへ低下している。
放射線濃度の低下理由は明確ではないが、放射性セシウムが雨などで流されているのだと思われる
http://www.anlyznews.com/2011/07/blog-post_1791.html

耕し、また耕し、堆肥を入れ、種を蒔き、収穫するという営みの中で、放射能を急激に減少させていたのです!
中島先生の科学的解説では、このようなプロセスがあったと思われます。
➊地中の粘土質がセシウムを電気的に吸着した。
➋堆肥の腐植物質が吸着した。
➌土中の微生物や地虫が取り込んだ。いったん微生物が吸収した放射性物質は根から吸収されにくくなる。
http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-432b.html



これの不思議は2011年7月13日の時点でこれだけ減っていたのである。やはり雨が降ると泥と一緒になって放射性物質が流れるというのは科学的に説明される。放射性物質は泥に一体となり付着しているから泥と共に流れてもゆく。日本では雨が大量にふるからその時放射性物質も泥とともに流れてゆく。川に流れ海に流れてゆく。飯館村は放射線量が高かったのだけど流れる量も大きかった。
今は2013年でありこんなに流れてからまた二年とかたてばさらに放射線量はへっへゆく。

それからやはり残っている人がいて畑を一部作っている。そこでも放射線量は減っている。つまり人が住み畑を耕すということで放射線量も減ってゆく不思議である。人間が住まないということが何かかえって放射線量を放置することになるのか?それも不思議な現象である。もともと放射性物質がどういう影響するのか実ははじめての経験だから予測できないしわからないということがある。科学者でもわからないのである。こうしてみたら効果があったとかどうして減ったのかとかわからないのである。ただ現実的に放射線量がへればそれでまた対処が変わってくる。老人なら住めるじゃないかとかなる。老人が住むには影響ない程度になってきているのだろう。ただ幼い子供をもっている人は敏感だから南相馬市でも子ども連れて流出している。

大倉では泥の所は前も高かった。今でも7マイクロシ-ベルとになっていたから高い、草は5であった。道路は2くらいだった。道路は除染している所がありへっている。7になっているのは泥がセシウムとともに流れないためだろう。泥には放射性物質はたまっていて高いのである。草むらも道路よりいつも高かった。ただ平均して3マイクロシ-ベルトくらい低くなっている。約二年たってこれだけ減ったというのは放射性物質は泥と流れて徐々に減ってゆくものなのか?あとまた一年に二年とたって減ってゆけばやがて住めるようになるのだろうか?チェルノブヘリでは老人だけがもどって住み野菜も作って食べていた。飯館村もそんなふうになるかもしれない、他の地域でも老人だけが戻り住むようになるかもしれない、誰も住まないと土地も荒廃してゆく、一旦人が住んだ地域は人が住まないと荒廃がひどくなる。人が住まなくなった廃墟のような村の写真が良くでているけど何か凄まじい。
幽鬼の棲家のようになっているのだ。成仏しない霊がさまよっている地獄のような所になっている。家は朽ちてゆくとそうなる。だから墓でも地蔵でも石碑でも何でも捨てられてしまうと人が住まなくなると霊が彷徨い出て漂っているような異様な風景になっているのだ。

科学的にわからないにしろ畑を耕していて放射線量が減ったというのは何か土も人の手が加えられると毒がのぞかれ生きた土となるのかもしれない、一旦人の手が加えられた自然は放置されるとそこは荒寥としたものとなる。だから人の手を加え続けねばならない、それは森や山でもそうである。
人間の住んだ所は純粋な自然の場所ではなくなっているからなのだ。人の手を要する自然に変化したものなのである。
posted by 老鶯 at 17:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

飯館村から川俣に出て二本松の城へ (二本松の城は東北で一番魅力がある)


飯館村から川俣に出て二本松の城へ(短歌十首)

(二本松の城は東北で一番魅力がある)


天守閣春一望の眺めかな


小宮へと分かれる道や春なれど人住まずして淋しかりけり

旅心湧きにけるかな山木屋へ行く道分かる春の昼かな
東風吹かれ峠を越えて川俣へ安達太良山を望み下りぬ
飯館へ行く道さえぐ山仰ぎ春日は没りぬ安達太良山に
残雪の安達太良山や朝日さし桜に染まる城にこそあれ
残雪の安達太良山や城跡の椿の赤く夕暮れせまる
城の内井戸の深しも椿落ち侍ここに仕え登りぬ
城跡の松に茶室や椿落ち井戸の深きを我が思うかな
城跡の山をめぐりて一日尽く名残り惜しむや残る花かな


飯館村には三つの別れ道があった。小宮へ行くのと草野に行くのと原町や大倉に行く道である。歩きでも自転車でもこの分かれ道が印象に残る。こっちの道はどこへ行くととなるとその方向に思いをはせる。それが旅なのである。決められたコ-スを行くのは旅ではない、思いがけない所に出るのが旅である。だから自動車というのは旅にならない、遠くの目的地に行くのはいいが分かれ道の旅の旅情はない、分去(分かれ去り)という地名が各地に残っているのはどうしてもそこで旅人が分かれてゆく基点となっていたからである。別に旅は遠くでなくてもすでに散歩の延長としても旅はある。
特に阿武隈の道は多岐に分かれているからだ。山木屋への道は塩の道であり相馬の塩は二本松まで運ばれた。参勤交代でも二本松にでて江戸に出た道でもあった。二本松と相馬藩はそれなりにゆかりがあった。


ただ二本松の城のことで特別人物が浮かんでこない、あそこの城は山全体が城になっていて大きく感じるのだ。あそこをめぐっているだけで一日が過ぎる感じなのだ。大坂城などもそうだが一日めぐっていて日が過ぎてしまうだろう。頂上に天守閣があったというのもあそこは見晴らしが特にいい、福島の地理的中心とも思える場に立つことになる。360度のパノラマ景観がある。あれだけ高い所にあるので気持ちがいいのだ。会津の城などそれほど魅力がない、平城だから見晴らしがいいとはならないからだ。二本松の城は立地といい魅力があった。安達太良山もまじかに望まれる。春は1700本近くの桜に染められるのも圧巻である。

そして印象に残ったのは天守閣もあるが深い井戸が二カ所くらいある。その井戸を覗き込むと深いのである。その井戸から水をくみ上げて茶室があり茶でもてなす、そして落椿が赤く夕暮れがせまっていた。城の内にある井戸が生命線だった。籠城するときその井戸水でしのいだ。だから熊本城の井戸は120もあった。


1877(明治10)年の西南戦争では政府軍の重要拠点となり、司令官・谷干城以下4000人の籠城で、西郷軍14000人を迎え撃ちました。加藤清正が築いた「武者返し」石垣の前に西郷軍は誰一人として城内に侵入することができませんでした。西郷隆盛は「「わしは官軍に負けたのではなく、清正公に負けたのだ」と言ったと伝わります。


城というとそこが最後まで死ぬまで籠城しても命を城とともに果てるという感覚があったのだろう。その感覚は今はわかりにくい、白虎隊が城が燃えた、落城したというとき城のもっている意味がそれだけ大きかった。その感覚は日本の城は小さいからわかりにくい、ヨ-ロッパのような城郭都市になると市民が育成されたようにそういう感覚になるだろう。そこが自立した一つの生活の場であり命もそこに尽くして果てるともなる。城にはそれだけの意味もあったとなる。現代はそういうアイデインティティの場をもっていない、会社がそうなるが会社はあくまでも利益を追求している仲間であり命をともにするまでにはならないだろう。でも地域より会社がアイデインティティになっているのが現代なのである。原発事故でわかったように一地域の経済力よりはるかに巨大な経済力があったのが東電だったのである。地域の一員というより地域が東電の社員になっていたのである。


ともかくあの城内の井戸水でお茶をもてなされたら格別だったろう。それこそ茶の道を感じる場でもあったのだ。水道水ではそれを感じない。ゆっくりと井戸水をくみあげて茶を出す家庭に茶の道があった。茶道はやはり全体の自然に組み入れられて意味をもつのである。文化とはあらゆるものがそうである。一部分が文化ではないのだ。全体の中に機能しているとき文化があるのだ。だから時代時代の文化は再現しにくいのである。全体が喪失しているのだから部分的にだけ茶室とか再現しても文化にならないのである。それは文化全般にそうなる。明治時代は江戸時代の日本文化の国風文化が興隆する素地が残っていた。それが文学でも現れた。正岡子規でも漱石でも啄木でも文人が大和言葉をまだ自分のものとしていた。江戸時代の連続性がまだあってその言葉使い継続されていたのである。

現代はまさにそうした連続性はもうないけどどうしてもやはり文学関係では漢詩の詩語や大和言葉を使う必要が出てくる。でも明治時代のようにしぜんてものではなく作られたものになってしまう。
日本文化はすでに部分化して死んでいるのだ。それはヨ-ロッパだって同じなのである。グロ-バル化で文化そのものが世界的に一様化してしまった。文化は長い時間のなかでその国々に培われて生まれたものである。だから百年とかの短い時間では作れないのである。それだけ奥深いものが文化なのである。


二本松に行くにしてもやはり飯館村から水境峠を越えて安達太良山を望むとき川俣に二本松に出ると自覚させられる。それが電車だとそうはならない、そこに今は旅でも感動できないものとなったのだ。あまりにも便利になり感動できないのである。とにかく水境峠を越えたとき明かに別世界になる。安達太良山を望むときそうなのである。浜通りには高い山がないから山の神秘性が感じられないのだ。山はやはり高く山でないと山ではない、阿武隈山脈は高原であって山ではないのだ。だから山の神秘は峠を越えたとき感じられるのだ。逆に海の神秘も峠を越えて八木沢峠辺りで太平洋を望んだとき感じられる。その感覚は海側に住むものと山側に住むものの感覚の相違である。


あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。


安達太良山の、阿多多羅山はあだだらは何か音のひびきがどっしりしていいのである。だからこれだけで詩になっていたのだ。ただここには城のことは歌われていない、城ぬきでは二本松はありえないのだ。二本松は菊人形祭りがあっても春の方いいのかもしれない、二本松県というのが構想されていたようにやはり福島県の中心的位置にあったのは二本松城があったからである。あの城は東北では一番魅力ある城の感じがする。青葉城でもそんな感覚がしない、市街にビルや家で埋められと眺めがいいとはならないからた。「天守閣春一望の眺めかな」これを感じる城というのは意外に現代になると少ないのである。


二本松の城の桜(2)短歌十首
http://musubu2.sblo.jp/article/37187722.html


二本松の城の桜(1)短歌十首
http://musubu.sblo.jp/article/28451498.html


前に書いた短歌だけど忘れていた。読み返すと思い出した。これはこの連作になっている。

2013年04月07日

九州から大阪へ-春の旅の短歌十首 (人間は最後は記憶をたどる旅になる)

 


九州から大阪へ-春の旅の短歌十首

(人間は最後は記憶をたどる旅になる)


nagareharu.jpg
クリック拡大! 春の潮-題を変えた


 

外国(とつくに)へ開けし海や平戸かな桜の下に按針の墓
平戸には春の潮の渦巻きつ城と教会と寺の古りしも
長崎に雨しととふる眼鏡橋出島やあわれ夕暮れにけり
長崎に大船去りぬ長々と入江の深く春の日暮れぬ
開聞岳去りゆく船に見えにつつ春の夕陽にそまりけるかな
明石城花に暮れるや淡路島真近に見えて船行き来する
大阪に船のすすみぬ夜は明けて太平洋に春の曙
大坂城夕陽落ちゆくあわれかも花散りやまず惜しみ去るかな
大坂城我が一時や花に酔ふ時の流れの今あわただし
醍醐寺の花見の宴や金屏風贅を尽くして西の栄えぬ


平戸
http://akkamui212.blog86.fc2.com/blog-entry-499.html


人間の特徴は何か?それが老人になると何も哲学者でなくても普通の人でもわかる。とにかく忘れやすいのである。忘れる動物なのである。記憶することがいかにむずかしいかということである。400年前にあった大津波の被害もこの辺ではたった一行しか記録されていないしまるっきり忘れていた。人間は何かに書いていないと記していないと忘れて思い出すことすらできない。自分の書いたものをすでにかなりの部分忘れている。こんなことを書いたのかと短歌や俳句や詩にしても自分が書いたことを忘れている。こんなことを書いたのかということを自分が書いたのに忘れているのである。人間はいろいろなことを経験しても忘れやすい、そして思い出すことがむずかしくなる。
旅もそうなのである。ついにどこに行ったかもわからなくなる。団体旅行だとおしゃべりなどしているとその場のことなどが記憶されなくなる。思い出せないのである。旅行というのもあわただしくすぎる余計に思い出せなくなる。

自分が最初に旅して感動したのは平戸の海だった。それが入江のようになって広く感じた。それは東北の太平洋の海とは違っていた。この海は外国に通じている海だと思った。実際に外国人はここに早い時期に入ってきた海だった。それで按針の墓があった。それは満開の桜の下にあった。ただ写真とっていたと思ったがそれもない、その頃デジカメがなく写真をとるのは金がかかり貴重だった。
デジカメ時代は記録するものとして便利になった。なぜなら人は忘れやすいから何でも記録することが大事なのである。人間がなぜ最後にあらゆることを忘れる認知症になるのだろうか?これも極めて人間的病気だったのである。最後は記憶もあいまいとなりその記憶すらたどることができなくなるのだ。それはすでに60代とかからはじまっている。それが極端化して病気になったのが認知症だったのである。遂に自分の娘息子すら忘れる。最後はみんな忘れて遂に自分がどこにいるかもわからなくなった。自分の生まれ場所すらわからなくなったのである。そこに80年とか住んでいても自分の住んでいる場所さえ忘れてしまったのである。それが人間の最後だったのである。


旅の記憶にしても平戸に行ったのは30年以上過ぎている。すると思い出すことが容易ではない、ただあそこには寺があり教会があり入江のように海がありあの時は桜の満開の時期だったとか覚えている。春の潮が入江に流れこんでいたようでもあった。古い城もあった。そういうことはおぼろげに覚えている。ただおぼろげになってしまった。開聞岳を覚えているのは船はゆっくりと離れてゆくからである。これが電車だったりすると覚えていない、新幹線だったら記憶には残らない、早すぎるから記憶には残らない、目的地につくにはよくても記憶する旅には向いていない、結局最後は人間は記憶をたどる旅になってしまう。近くだとまだ行った所があるのだから記憶が蘇るから忘れることはない、それでもその場から去ると忘れやすいのである。


ともかくこの辺は津浪や原発事故で日々あわただしく過ぎたからまたそうした現実に過去は記憶から消えてやすくなる。これだけのことが起こるとまた日々追われて過ごすことになり過去は記憶から消えてゆく、それでまた過去の記憶は消えやすいのである。自分はゆっくり旅しても記憶から消えているのだから今のように早く急ぎすぎる旅はさらに記憶に残らない。船旅が好きでかなりしたから船旅はゆっくりした時間があるから記憶しやすいということはある。時間をかければかけるほど記憶に残りやすい、それでも終わってみればただ一時の時間だったのである。

2013年04月08日

死語となった言葉 (戦前から戦後十年は江戸時代の継続があった)


死語となった言葉

(戦前から戦後十年は江戸時代の継続があった)


死語となった言葉

日本列島の狭さ
五反百姓
五反田の地名の多さ
女工
原紡
御蚕様
女中
肺病
梅干し弁当
麦御飯
飯台一つ
トタン屋根
裸電球
尋常小学校
女学校
おふる
三男坊
鈍行車
停車場
炭屋
銭湯
五右衛門風呂
鉄砲風呂

駄菓子屋
金魚売り
煙草屋
酒屋
どぶろく
質屋
鍛冶屋
馬車屋
万歳
映画館
秋市


これらの言葉はもはや使わない、日常生活から消えたものだからである。江戸時代から明治時代になったときも江戸時代に使われた言葉が消えた。明治時代に西欧化した時、日本人は漢字で西欧化したものを現した。それが今では中国で使われている。言葉は単なる言葉ではない、長く営まれた生活の重みがあるのだ。その一つ一つが使われたときはその言葉は単なる言葉ではない、必需品としてなくてはならないものだったのである。ただ日本は貧しい時代が長かった。庶民は戦後十年までくらいは戦前とたいして変わりなかったのである。自分の子供時代はそういう貧しい時代だった。団塊の世代はその貧しい子供時代を経験している。でもこの経験は貴重であり楽しいものだった。何か貧しいけども人情味ある社会だったのである。豊になって人間は日本人にあった人情などはなくなった。ただ金だけを追い求めるようになった。それでも日本人は貧しかったから貧しい時代はすべていいとはならない、五反百姓とか五反田とかの地名はまさに貧乏な百姓が多数だったことを如実に示していたのである。


戦後十年くらいは家にあるのは飯台一つでありそれを囲んで食事していた。電気製品はも一つもなかった。裸電球があっただけなのである。それも家の中に一つくらいしかなかった。屋根はトタン屋根で雨漏りしていた。いつも洗面器などを並べてしのいでいた。瓦屋根の家もあったがトタン屋根の家も多かったのである。ご飯は麦ご飯でありその頃水田が多くても麦畑も多かったのである。燃料は炭であり炭屋があった。山では炭焼きであった。飯館辺りではそれで財を成したという家もあってうらやまれた。炭焼きは山の重要な現金収入となっていた。つまり戦前からの継続が戦後の十年くらいはあったのだ。自給自足の生活だった。

ともかく貧乏だった。自分の家は駄菓子屋のようなものをはじめた。店屋でもその頃簡単にできたのである。インド辺りではバラックのような所で店を出していた。品物も極端に少ない、そうした小商いがあったのは江戸時代からの継続でもあった。棒ふりなど江戸時代のものだと思っていたが戦前でも天秤棒は使われていた。荷物を運ぶのは天秤棒だった。明治の話しとなるが天秤棒担いで鹿島から川俣まで鰻売りに行ったという話には驚いた。でも天秤棒は中国では今でも使われているように量を運ぶには良かったのである。前と後ろに荷物をのせられるからである。でもかなり肩にずしりと重さがかかるから体力が必要だったろう。鹿島から川俣までは急峻な坂がある。その坂を天秤棒を担いで上った。それが信じられないのである。でも基本的に歩くことが移動することであった。江戸時代の継続がそこにあったのだ。子供のときぎんぎょえ-きんぎょ・・というのも天秤棒を担いで金魚を売っていたのだ。天秤棒は結構使われていた。中国では相当まだ使われている。やはり荷物を運ぶには便利なものだったのである。


母は尋常小学校でありほとんどがそうだった。そして原紡に勤めた。絹織物の生産が全国で行われ女工哀史で有名なように若い女性はみんなそこで働いた。それくらいしか勤め先がなかった。あとは女中だったのである。女中の数が多かった。洗濯でも食事の容易でも家電製品がないのだから全部人間の手でやるとなると一仕事であり女中が必要な家がたくさんあったのである。母も東京で女中していた。たいがい同じ様な経験をしている。子守りして学校に行けなくて小説読んで字を覚えたとかその頃学校も満足に行かない人がいたのである。女学校は高根の花であり特別選ばれた人が行く所だったのである。ただ大倉の女性が親戚の家に住んで相馬の女学校に通ったというから金持ちなら入れた。大倉は山をもっている人は木を売って金持ちがいたのである。団塊の世代の親の世代は大正生まれも結構いるからいろいろ親から聞くから意外と身近なものに感じる。一世代前までは親の世代であり
生々しいものとしてその言葉もまだ感じるのである。明治の人は江戸時代が身近だったと同じである。団塊の世代から下になると豊かな時代に生まれているから何か遠い歴史の世界のようになってしまうのだ。


蚕様というとき蚕は農家で飼っていて桑畑もいたるところにあった。相馬市にぬける街道の細道に二軒蚕を飼っていた家が残っていた。二階がそうだった。そういう農家はいたるところにあった。江戸時代からあって白川郷の合掌作りは有名である。あそこでも養蚕する場が二階にあった。そしてどぶろくを飲んでいたのである。酒すらまともに飲めない人がいたのだ。どぶろくは自家製もあり安いから飲めた。家族でも三男坊というと長男からすると何かどうでもいいとかなる。そういうひびきがこの言葉にはこもっていたのである。長男は家の跡継ぎだから大事にされた。その頃は子だくさんだから長男以下は軽んじられた。着るものもおふるとかお下がりとかになる。そういう貧しい時代だったのである。


映画館なども今や死語になった。映画は映画館で見るものだった。ニュ-スすら映画館で見ていたのである。テレビが入ったのは戦後十年ちょっとたったときだったのである。テレビに対する熱狂はすさまじかったのである。いつもプロ野球をみんなテレビで見ていた。相撲も見ていた。それで「大鵬、巨人、玉子焼き」になったのである。玉子焼きが食べられるようになったのはテレビがでるようになってからのようだった。貧しい時代から豊かな時代へ移りつつあったのだ。
秋市などという言葉もまだ市が開かれていた。その時いろいろものが集まり売っていた。何かサ-カスみたいなものも来ていたのである。今や秋市などというのも死語になった。「あきいち」という言葉を聞くとなつかしいとなる人も結構いるだろう。それらの一つ一つの言葉がなつかしさを感じる。過ぎたものに対する愛着が人間には残るのだ。


石神で紙漉きをしていた農家があったというときそれは江戸時代からあった。紙漉き沢が相馬市の山上にあるからだ。ということは江戸時代はどこでも紙を作る農家もあったということである。今でも一軒くらいあって自分の家で終わりだとかテレビにでてくる。紙漉きも相当数のものが普通にしていた仕事だったのである。要するには江戸時代から明治時代になったとき急速に工業化して変わってしまったのである。ただ紙漉きをしている家があったのかと聞くだけでリアルに昔を感じる。
それもこれは山の生業であった。石神とか山上にあったことでもわかる。


あかぎれの 手をいたはりて 紙を漉く
http://www.balloon.ne.jp/453room/new_page_36%20kamisukisikoro.htm


紙漉きは冬に行われるから冷たい水にぬれる。それであかぎれになる。あかぎれというとき母も良くあかぎれになっていた。食器洗うにも冷たい水だからそうなった。今は温かい水だからそうならない。


城崎温泉の各外湯は、「柚子湯」です。古来より冬至の日には浴槽に柚子を入れ、ひびやあかぎれを治すといわれています

あかぎれ地蔵などもあかぎれきような地蔵なのか?あかぎれというのは女性がみんななるからそれにまつわる話しも多いとなる。結局今になるといろいろ便利になり豊になりそうした苦労はなくなったのである。でも人間のわからないのはそうした苦労がなくなっても苦労がなくなることはなかったのである。必ず別な苦労が生まれるのが人間社会なのだ。豊になればなったでやはり苦労が絶えないのである。鬱病が増えるとかいろいろな豊さ故の問題が生まれてくる。この辺の原発事故などもまさに豊かさを求めてそれを実現したのだか事故が起きて以後は様々な問題が起きている。人間には何になろうが苦労が絶えることはないのだ。豊かさを求めすぎでかえって苦しむということもあったのである。
 
 

天秤棒を画像検索するといろいろでてくる。でも本だと引用できないのが問題であった。本の写真はリンクできないしコピ-できないから
困る。本は一つの閉鎖された世界だという面があった。写真などは共有になりにくいのである。

 


 

posted by 老鶯 at 14:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

五稜郭の桜(榎本武揚など-明治の青春)


五稜郭の桜(榎本武揚など-明治の青春)


劇的に船は沈みぬ函館に風雲の日や桜咲くかな

五稜郭ここも日本や桜咲く明治の青春ここにありしも
五稜郭鴎飛びつつ桜咲く白波よせて戦いに死す
榎本の波しゆられて五稜郭海風やまず花の咲くかな


函館の五稜郭の桜を放送していた。今はまだ咲いていないにしろこれから咲く、明治維新の動乱の場所が函館だったのである。その時五稜郭落城して榎本武揚降伏したのである。
 
 五稜郭写真
 http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2009/05/post_38.html
 
 見張り塔が屋根の上にあるのは伊達政宗の瑞巌寺の寺と同じだった。あそこの寺は城だったのである。
 
        靺鞨の山 青一髪 我が行 此に至りて 豪に堪ゆ
        宝刀横ふる処 鬼呵護すべし 胡馬嘶く時 風は怒号す
        短鞨早天 暁霧を衝き 孤帆残月 秋濤に乱る
        扶桑南望 三千里 頭上驚きみる 北斗の高きを
       

靺鞨の山というのは古代からあった国のことであり多賀城碑にでている。扶桑とは日本のことである。北海道は当時新天地であり新しい蝦夷共和国を作ることを夢見ていたのである。

この脱走は最初から不運が付き纏いました。犬吠埼で暴風に遭い、咸臨丸が政府軍に捕まり、運送の座礁等があり、ようやく9月26日仙台港に集まり、修理に進めました。ところが、この時既に会津若松城は落城し、仙台藩も降伏を決定していました。奥羽の各反政府同盟(奥羽越列藩同盟)は早くも壊滅状態で、希望を失った旧幕臣たちは最後の抵抗を試みるため榎本の元に集まりました。
戊辰戦争で敗れ、北海道移住を余儀なくされた仙台藩片倉小十郎家臣団401名を乗せて仙台の寒風沢を出港した咸臨丸は、箱館経由で小樽に向かう途中、1871年(明治4年)9月20日、木古内町のサラキ岬沖で座礁。


この時いかに激動のなかにあったか?陸では会津が落城して仙台藩の片倉家臣団が寒風沢から咸臨丸にのって出航した。仙台藩は北海道に伊達市があるようにかなりの武士が移住した。この時の激動も凄まじいものだったのである。ここで船が相当にかかわっていた。船で脱出して新天地の北海道を目指したのである。

明治の青春は函館が啄木の青春の地だったように気宇壮大なものがあった。時代が日本の青春そのものだったのである。だから青春の時代絵巻があった。その中には無名のうちに死んだ人も無数である。ぼっしん戦争では東北に責めてきた九州福岡の人が浪江辺りの寺の墓に死んで埋もれている。
土地の人が葬ったのである。相馬藩も一時戦い相手を殺したり自らも死んだ。


長州の毛利、筑前の黒田、大和郡山の柳沢、芸州広島の浅野、伊勢の藤堂、常州笠間の牧野、熊本の細川、因州鳥取の池田、筑後久留米の有馬ら各藩の軍勢だった。
相馬藩には以下の通達が行われた。
http://boshinken.info/hoshisenseironbun.html


芸州となるとどこの人となる、安芸藩であり広島の方になってしまうのだ。九州の福岡県の人も戊辰の役で死んで墓が残っている。福岡の人が歴史を探りに墓を訪ねていたりする。
http://musubu.sblo.jp/article/9378228.html


忘れらる相馬に果てる福岡の侍の墓春の夕暮    


戊辰戦争ではとても薩摩長州の連合軍の勢いにはかなうものではなかった。錦の御旗をたてられて進軍してくる勢いはとめられるものではなかった。それがやはり時代の趨勢だったのだろう。相馬藩はその勢いにたちまちのまれて敗退して軍門に下って仙台藩と戦うことになった。その境界が丸森であり戦場跡として残っている。大砲もそこで使われたのだ。


大砲をここにすえつつ戦いて死せる者かな春の夕陽没る

武器でも劣っていたから勝ち目はなかった。東北連合は成らずばらばらだったのである。それで白虎隊や二本松少年隊の悲劇があった。二本松では兵力すらなかったから12才の少年まで狩りだされた。まさに城と共に討ち死にしたのである。 仙台藩の侍も結局榎本武揚と同じ様に北海道に逃れた。亘理藩が移住したから伊達市となった。その激動は錯綜しているからわかりにくい、ただ大砲が武器として重要であり八重の桜では主題にもなっていた。そもそもヨ-ロッパの城の時代が終わったのは大砲が武器となったときである。大砲のために城壁は無力化して城の時代は終わったのである。


この地にそ轟く大砲その音や丸森にひびき春の日没りぬ
 

扶桑南望 三千里 頭上驚きみる 北斗の高きを・・・この漢詩は北海道からさらにロシアまで眼中にした雄大な詩だった。北斗の高きを・・というのはロシアまで視界にして本州を見ているのだ。
我等には新天地北海道がありロシアがある、樺太がある・・・北斗があるとなる。


明治維新庄内藩&会津藩のプロイセン(ドイツ)結合

最近発掘された資料でわかったように会津が閉鎖された山国で情報にうといというものでもなかった。プロイセンに北海道の会津藩の支配地域を売ろうとしていた。それは日本の領土だからそういうことは日本を売ることにもなっていた。でもぎりぎりの所で外国の力を借りようとしていた。
これは伊達政宗はヨ-ロッパに使節を派遣して連合を計ろうとしたのとにている。
だから必ずしも東北は閉鎖された辺境とも言えない、外国と結んで薩摩長州連合と対抗しようとしていた。人間は日本国というよりまだ藩単位のアイディンティティに生きていたからである。

はとにかく一つの雄大な詩であった。錯綜していても何か人間的だから詩にもなり小説にもなる。そこには英雄が存在した。一方太平洋戦争には何かそうした人間的なものがないから詩になりにくい、むごたらしい戦死者の数のみがあるだけなのである。だから報われないともなる。つまり明治は江戸時代の武士の文化の延長としてなおあったのだ。だから内村鑑三などが北海道でクラ-クに指導された強力な指導者になりキリストに命をささげた独立伝道者になった。北海道はその時日本のフロンティアになっていたのだ。啄木でもやはり時代精神の現れがあり若くしてあれだけの短歌を作った。それは明治という全体の時代の産物だったのである。明治は今になれば西欧化の華の時代であり詩的なテ-マになりやすい、詩の時代だったのである。それから大正とか昭和になると散文的時代となる。時代的に高揚するはいうより何か文明の頽廃的様相を呈してしきた。デカダンスとかが主流となってきたのである。戦後はアメリカに負けて日本の精神すら根こそぎ断たれた。明治は一番日本の国粋文化も高揚していたのである。漢詩が一番興隆したのが明治だったことでもわかる。漢詩は志を述べるものだからである。志の時代、まさに志士の時代だったのである。

だから明治の青春こそ無名でも一人一人が青春を生きていたのである。それは今や埋もれてしまいわからなくなった。結局明治の青春を作ったのは時代を作ったのは武士がいたからである。武士のモラルがまだ生きていて西欧化でもその魂が融合したのである。和魂、洋魂の時代だった。300年の武士の時代が明治になって死んだわけではなかったのである。その蓄積が実は技術面とか他でも華開いたのが明治だったのである。ルネサンスにしてもそこにイスラム文化とかギリシャの文化-ロ-マの文化などが融合して一大ルネサンスが生まれたのである。過去の蓄積が融合して華開いたのである。こういうことは個人的にもある。一人の天才がいてその才能が次代のものに新たなものになって蘇る、模倣ではない新しいものとして蘇るのである。ただ今や現代は個人的にしかそうした文化的なものは受け継がれないのだ。明治のように時代全体として受け継がれることはないのである。大衆化した文明というのはそうした文化の創造などないのである。宗教はカルトとなり数の政治にすぎないし文化的創造的なものは団体などから生まれない、政治と実用の科学の時代なのである。

現代とは一番詩が欠如した時代なのである。それで上野霄里氏などがニ-チェのようにアウトサイダ-化して絶叫するようになるのだ。上野霄里氏が自分は高杉晋作ににているというときまさにそういう詩人的行動者だったからそう言ったのである。詩が欠如している時代は時代的に衰退している。散文的な金だけを追い求める物質的なものとなり高邁な精神の高揚もなく低俗大衆文化の時代なのである。この辺の原発事故でもそうである。第一次産業に農業に漁業に林業でも自然とかかわることで生活することは詩的なことである。しかし工業化して文明化すると自然から離れるから詩的なものとはならない、詩は自然なくしてはありえないのである。原発によって自然が汚染され破壊され人まで住めなくなったことはまさに黙示録的世界がこの辺に現れたのである。津浪もまた大きな時代の変革をうながすのとして起きてきたのかもしれない、人間より神の力のいかに偉大かを示したものなのかもしれない、無情ではあるがそういう恐るべきものを見せつけたのである。


扶桑南望 三千里 頭上驚きみる 北斗の高きを・・北斗の高きを・・・というときこれには宇宙からの視点もあった。それだけ雄大な志に生きて果てたというのが明治の青春だった。現代の青春はカルトととかいかに金もうけて金で自分を誇示して偉くみせるとか物資的になりすぎているのだ。結局現代人の望みは金持ちになることしかないのである。志に生きるなどはすでに夢にも浮かばない、というのは会社自体が利益を追求するのであり利益が最大の眼目だからである。そこにいかなる志も芽生えない、いかに他者を蹴落としてもうけるか金になるかしかないのである。そういう功利的人間しかいなくなったのである。まさに志に生きる武士はいなくなった。日々利を求めて追われているだけなのである。この辺でも結局補償金の金でもめているだけでありどこにも絆などない、最初のうちだけあっただけだったのである。

2013年04月09日

桜は満開に(桜井古墳の土筆の写真)

 

桜は満開に(桜井古墳の土筆の写真)
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沈丁花香りに浸り朝の蝶
復興や桜井古墳に土筆かな
道の駅桜満開真昼かな
ヒヨドリに椿の赤さ映えにけり

みちのくの名もなき里や花曇り

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苦しみを乗り越えてこそ今のあれ今年の桜ことさらに映ゆ

咲き初めし桜に嵐その時の定めは知らじ時は移りぬ
みちのくに桜は咲けど雨しとと行く人まれに夕暮れにけり
満開の桜や今日は穏やかに道の駅にし人は来たりぬ
春の日に桜井古墳我が立てば海に川に野のひらき見ゆ


この蝶はアカタテハである。庭に飛んでくるのはめずらしい。おりしも沈丁花が馥郁と匂っていた。馥郁とにおうのは梅とか沈丁花である。昨日まで嵐の風だった。今日はことのほか穏やかである。

桜の時期の天候はいつも違っている。ただ必ず荒れた日がある。今年は咲く前から荒れていたのが特徴だった。午前中はなんとなく花曇りという感じでもあった。それで「みちのくの名もなき里の花曇り」となった。 「春なれや名もなき山の薄霞-芭蕉」と類似俳句になる。
もともと津浪とか原発事故の前はこの辺は知られていない、飯館村だって知られていない、名もない里だったのである。その時が幸せな時だった。今は世界まで知られているが平和がない所になってしまったのである。フクシマといえば放射能かと世界でなってしまった。


道の駅の桜も満開だったし病院の桜も満開だった。ただ六号線は通じていないから遠くからの客や旅人は来ない、それが淋しいとなる。それでもまだボランティアが来ていたのである。
桜井古墳に立つと見晴らしがいい、あそこに土筆が一杯出ていた。何か復興の象徴のようでもあった。桜井古墳のある所はやはり原町では一番いい場所だったのである。新田川があり海も近く望まれたし野もひらけていたのである。最適の地にあったのだ。古墳があるところは一番最初にひらけた場にあった。だから古墳のある場所には立ってみる必要があるだろう。そこがその土地の中心地だったかもしれないからである。


南相馬市はこれからどうなるのか?やはり原町中心で復興するようになる。でも今度は鹿島に住宅がふえた。アパ-トが二軒も建築中だし小池に一人用のビジネスホテルもできた。鹿島には高校もなにもない、施設もないと訴えていたが住宅が増えて人口もふえた。その分小高は人口が減ってゆくしこれからどれくらい復興するのか?やはり人口がへり原町、鹿島に家を建てる人も増えてくる。どうしても隣の浪江が警戒区域になっているから嫌だとなり帰りたくないという人がいるのもわかる。

ともかく今の時代六号線とか東京と交通が通じないと市町村の復興もないとなる。それだけ外との交通が大事になった社会だからである。高速道路は二年後に開通するとなるとその辺で復興のはずみがでてくるのか?


自分もこの六年間は苦しみの連続だった。どうにもならない苦しみだった。64才で俳優が同じ病気になっていた。やはり年になるとなりやすい病気である。でも今は楽である。だから普通に行動できる。やはり身体障害者が脱したことが大きかった。あのままではどうにもならなくなっていたのである。まず健康でなければ介護は負担が大きすぎる。健康がすべての基であり健康を失うことは金を失うより辛いことだったのである。60代以後一番大事なのは健康なのである。同級生で体が曲がったようになった人はショックである。なぜなら外にも堂々と出れないということもある。体があれほど曲がったように目立ったら出れないということがある。いづれにしろ60代は明らかに病気の世代であり
ここで最初の老いがきてつまづく、そして死にいたる人も結構いるのだ。

 

2013年04月10日

みちのくには花曇りがあっていた? (憎むことは愛することにもなる)


みちのくには花曇りがあっていた?

(憎むことは愛することにもなる)

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みちのくに老いにけるかな花曇り

みちのくの知られぬ里や花曇り
我が里や人を憎まず花の影


今年は嵐とか花曇りが多い。今日は花曇りである。みちのくの名もなき里の花曇り--を知られぬ里に直した。名もない里というのはないだろう。何かしら名がついている。
みちのくというとき何か歴史的にこめられたものがある。歴史的に性格づけられたものがある。
みちのくはそもそもぱっと花が咲かない、西のように繁栄したことがない地域だから花曇りがあっているのかもしれない、みちのく全般にそういう感覚になるのか、北海道とみちのくは歴史的に相当違っている。北海道は明治以降開けたのだから新しい土地である。みちのくの歴史は古代からあるから全く北海道とは違っている。ただみちのくの感覚は西の奈良や京都から見て遅れた拓けない地域としてのみちのくなのである。奈良や京都からみた感覚としてのみちのくなのである。

みちのくは何かもしかしたら老いにふさわしい場所かもしれない、東京や大阪のような所で老いたくはない、死にたくはないということがある。だから退職して田舎に移り住むという心情もわかる。
死に場所をどこにするかという問題である。ただ都会から田舎へ移りすむのは親戚とか頼りになる人がいないと住みにくいことはある。それから福祉が充実した所でないと困るだろう。
相馬は浜通りで気候がよかったからそれなりに移り住む人がいた。もう誰も住まない、そもそも地元の人すら住みたくないとか流出しているのだから余計にそうである。
でも警戒区域とかの老人は故郷で死にたいとか言っていた。どうしても老人になるとそうなるのだ。新しい所でなじむのがむずかしくなってくる。


小さな町で憎むべき人と結構会うからこまる。いなくなれば人間は去れば忘れるのが早い、ただ故郷とか田舎に住むということは悪人も実際いても一緒に住まねばならない、農家の人などは村八分にしても田んぼの水の管理は一部がぬけると他にも影響するとかなりそうもできなかった。農耕民は遊牧民のように簡単に移れないのである。だからもめごとがあってもなんらか折り合いをつけていた。
談合が基本に有りなんとか一緒に住む。部族的社会の延長が田舎だったのである。
ともかく何があれひどいことされても憎むことは負けだ。その低劣な人と悪人と同じレベルになるから恐いのである。結局善人は悪人に験されるのもこの世である。どんなことしたったこの世は善人だけではない、必ず悪人に遭遇する。また自分自身にしたってそうした悪になるとも限らない。この世ではどんなことしたって悪に遭遇する。この世はそうした悪が決してなくならない、この世が滅びるまで罪の世であり悪の世である。それはもはや改善できない、ただ最後の審判を待つだけなのである。

いづれにしろ憎むことは逆にその人に関心をもつことであり憎ませる人は意外と深い縁があったともなる。普通だったら全く関心もたないからだ。憎むことはその人に異常に関心をもつことなのである。憎しみの反対は愛でもあるから不思議である。60年間も憎み合った、同じ屋根の下に暮らした。
その憎むこと自体がすでに愛でもあったのだ。そんな長い間一緒にいたということは憎むこと自体愛になっていたのである。だから憎むということは愛しているというまでになるのだ。
いづれにしろ小さな田舎では極力もめごとはさける知恵が働いていた。それでなければ毎日顔を見合わす範囲にいたら一緒に暮らせないからだ。人間どこに住んでもろくでもない人はいるし悪人もいるしそれがこの世はそういうところだからどうにもならない、結局この世から悪は絶えることはない、悪が絶えたらこの世でなくなる、天国になってしまうからである。


 

みちのくのアイディンティティは何か (今も霊場的なものがあるのではないか?)


みちのくのアイディンティティは何か

(今も霊場的なものがあるのではないか?)


みちのくにともに死なむや花曇り


みちのくのアイディンティティはどういうものなのか?アイディンティティには風土的、地理的、政治的、文化的、歴史的アイディンティティとか重層化しているから一つのアイディンティティで一体化はない、基本的には地理的風土的アイディンティティが基本である。地理的風土的アイディンティティからみると会津と浜通りは全く異次元の世界なのである。山のアイディンティティと海のアイディンティティでありその文化も根本的に違ったものとなる。みちのくといっても広いから一くくりにできない、相馬藩のアイディンティティ歴史的地理的にある。地理的に見ると水境峠を越えて川俣に出ると安達太良山が見えるから山の領域に入ったことになる。浜通りにはあのような大きな山がないからだ。そして川俣から飯館の方をみると山がさえぎっていてあれではなかなかこの峠を越えてゆくのは難儀だなと実感した。それは自転車だから余計にそうだった。かなりの坂を上らねばならないからだ。だから自然的地理的境界線があの山になっていることは理屈ではない、地形によってあらかじめ定められていたのである。

ただ飯館村が相馬藩になったのは経済的理由かもしれない、川俣から飯館に行くより険しい山を越えねばならない、八木沢峠を上ってみればわかる。飯館村は標高が高いから夏でも涼しいし冬は寒い、だから飢饉もあった。稲作には適していなかったのである。塩の道があり松川浦の原釜から塩を運んだということで飯館村は中継所になっていたから経済的役割が大きかったかもしれない、ともかく相馬藩に組み入れられたのである。相馬藩は六万石だけどアイディンティティをもつには適度の広さであった。あまりに広いとアイディンティティをもちにくい、中国のような国がどうしてアイディンティティをもつのか?それは日本だって広いのにあれだけ馬鹿でかかったら同胞だという感覚もなくなる。だから三国志になり熾烈な争いとなったのである。もともとあれだけ広い国をまとめること自体今でも無理なのである。


みちのくというとき伊達藩は伊達政宗の時一番政治的結合があった。政宗という英雄が出たためにそうなった。それからみちのくは政治的結合はなかった。それがわかったのは明治維新のとき戊辰戦争のとき東北連合を目指してもばらばらになってたちまち西軍に制圧されてことでもわかる。内部分裂して連合できなかったのである。みちのくは最初は日高見国としてアラハバキ族がその子孫だったかもしれない、それが蝦夷の一部としてあったのかもしれないが大和朝廷に征服されて不明となった。みちのくといっても実際はあまりに広すぎるのである。今回の津浪で意識されたことは津浪に襲われた海岸線が海の文化としてのアイディンティティをもつ地域ではなかったかと再認識した。海のことは忘れられていたけど海によってつながっていた同じ文化圏であったと思えたのである。海の交通などは遺跡としても残りにくく船も沈むから忘れられやすいのである。伊達政宗はヨ-ロッパに使節を派遣したのものやはり松島辺りが石巻でも一つの海の文化圏としてあったからできたことである。

だから明治維新のとき榎本の咸臨丸が寒風沢島によって函館に脱出した。そして函館の五稜郭で蝦夷共和国を作ろうとしていた。だから東北連合ができて榎本が指揮すれば西軍と対抗できたかもしれない、西軍は薩摩長州連合ができたから幕府に対抗できたのである。ただ東北にはもともと政治的には結合するものがなかったのかもしれない、会津はどこまでも会津だったし他も一体化しなかったのだろう。

地理的には仙山線で行くと山形の山寺にでる。そこにトンネルがあり春でも山に雪が見える。トホネルをぬけると雪国だったというのにぴったりなのである。山寺は霊場であり「静けさや岩にしみいる蝉の声-芭蕉」となる場だった。あそこも境界線としてわかりやすいのである。

日本ではあまり川が境界線とはなりにくい、大きな長い川がないからである。ドイツだったらライン川はロ-マとゲルマンの明確な境界線であり風土も文化もそこで線が引かれたからわかりやすいのである。大陸には平坦な地が多いから川が境界線の役目をにないやすい、日本は山が多いから山が境界線となる。ただ仙台から平泉や盛岡方面に行くのにはあまり境界線を意識しない、高い山にさえぎられるわけでもないからだ。みちのくをふたわけ・・・この蔵王が境界線になるとは思えない、ただ相馬から蔵王は見えるからそれなりに蔵王は東北の象徴であるが境界線となっているのともちがう。そもそもみちのくというのはやはり平泉までの芭蕉の奥の細道の旅の行程がみちのくという感覚なのだろう。するとみちのくのアイディンティティは平泉までとなるのか?青森となると遠すぎるのである。


みちのくの特徴というと山寺や恐山などあるが霊場だったかもしれない、霊が眠る場所としてふさわしい場だったのかもしれない、奈良だと吉野山のような性格があった。大阪とか江戸は極めて政治的経済的場だった。みちのくの辺境はそうした政治的場となったことがない、伊達政宗のときだけ一時的になった。政治経済的場として日本の役目をになっていなかったのである。だからみちのくは霊場的性格がありそれにふさわしい場だともなる。確かに政治的経済的には後進の地域なのだが霊的になにか日本の故郷のような感覚があるかもしれない、大阪のような商人の世界とはあまりにも違っている。人間もまた違いすぎるのである。東北人はまず自分もそうだが商人には全くあわない、みんな無口な農民的気質なのである。いろいろ変わっていろいろ人がいるにしろ以前として東北人気質は変わらないところがある。東北にはまだ辺境意識がある。それは悪い方にとれば遅れているが現代の文明から逃れた場所として安らぎを与える場所としての役目をになうのには良かった。ただ原発事故などによりそがれてしまった。


日本でもやはり地域地域で違った文化を醸成されてきたしそれを基にして発展するべきなのだ。
九州は外国の窓口で役割になったのは地理的位置からだった。四国が霊場となったのはやはり峻険な山が多いことにもあった。多少みちのくとにている。山が多いから経済的発展をはばまれたのである。ともかくみちのくは霊場的な所がありここでだからともに死なむ・・という感覚にもなる。
死に場所ふさわしい場だともなる。ということは老後にふさわしい場だともなる。ともに死ぬ場所だということでアイディンティティがもてる場だともなる。だからここであまり世俗の競争を持ち込むことは向いていない、大阪のようになることは地域的特色がなくなる。人間は60すぎると死を絶えず意識する。すでに一割は死んでいる。すると死ぬ場所が大事になるのだ。原発事故で避難した老人はどうしても故郷に帰り死にたいと言っていた。それはまさに根源的アイディンティティの場所が故郷になっているからだ。みちのく全体をアイディンティティとしてあるがやはりまたさらに濃厚なアイディンティティの場所がそれぞれの狭い故郷なのだろう。


やはり東京とか大阪とかあういう場所で人は死にたいと思うだろうか?人間も自然の一部であるから死ぬなら自然に帰りたいという願望が自然に芽生える。ビルの谷間で死ぬのは嫌だとなるのが正常な感覚ではないだろうか?ともに死なむ・・という場所はやはり共同のアイディンティティの場であり連帯を生むのである。みちのくという同じ大地に眠る、死ぬということは何か安らぎを覚えるのである。ただみちのくといっても果たして会津の人はどういう感覚になるのか?また山形の人はどうなるのか?盛岡の人はどうなるのか?青森の人はどうなるのか?やはりそれぞれ違っていてみちのくで一くくりにはできない問題もある。でも歴史的アイディンティティとして形成されたものはやはり根強くある。だから陸奥から生まれのはみちのくらしいとなる。宮沢賢治の文学などは別にみちのくらしいともならない、みちのくの大地とどうつながるのか、天才だからそういう土地の感覚から逸脱している。自分の場合は普通だからみちのく的になっているのかもしれない、いづれにしろ歴史は地理だというとき地理がわからないとあらゆるものがわからないのだ。ただ地理とか風土の問題は相当奥深いからなかなかわかりにくいのである。福島県で会津に住まないものは会津のことはなかなかわかりにくいのである。あれだけの山国でありその山のことがわかりにくいから別世界になってしまうのである。

 
桜の季節に春に死ぬのは気持ちいいことなのだろう。


ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃 西行


春死ぬということは願ったのはやはり花を心に死にたいという日本人的美意識が西行によって生まれた。寒いとき死ぬのは何か荒寥としている。春に死ぬとなにか華やかだともなる。春の光につつまれて痛みもなく眠るように死んだら最高だとなる。ただともに死なむ・という感覚はここにはいない、個人的なものである。ただ死には個人的なものと共同的なものが必ずある。墓地自体が共同性をもっていることは確かである。江戸時代では庶民は墓がなくホトケッポとか共同墓地に一緒に葬られていたことでもわかる。もともと共同性の中で生きていたから一緒に葬られることは自然だったのである。今は共同性が得られにくいから死ぬ場所をどうしたらいいとか悩む時代なのである。
 

posted by 老鶯 at 19:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2013年04月12日

船岡の一目千本桜と蔵王の短歌20首 (山は場所によってまるで見え方が違う)


船岡の一目千本桜と蔵王の短歌20首

(山は場所によってまるで見え方が違う)


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春の日やキジが見送る逢隈駅

岩沼や線路交わり燕来る
ぽかぽかと春の雲浮き電車待つ
伊達領の船岡城跡花に雲
途中下車北白川や蛙鳴く
一本の椿の木や北白川
北白川待つ人一人春の昼
花に雲ゆうたり歩み花尽きじ


歩む道千本桜尽きず咲く大枝ゆれて長き道かな

延々と千本桜咲きつづき尽きることなく日々移るかな
城跡に登りて高き花に雲さえづり高く山にひびきぬ
蔵王映え吹き下ろす風なお寒し千本桜八分咲きかな
蔵王なお雪打ち煙り年輪を重ねし桜咲きつづくかも
みちのくの千本桜やなお寒し蔵王は雪に打ち煙ぶるかな
みちのくに千本桜咲きにしも畑耕す人のありしも
雄大に蔵王の映えてみちのくの千本桜咲きにけるかも
雄大に蔵王の映えてみちのくの千本桜春なお寒しも
蔵王映え雄大にして新幹線走り去るかな樹々の芽吹きぬ
雄大なる心をもてや蔵王映ゆさえづり高く山にひびきぬ
雄大な蔵王の映えて何か言う千本桜の咲きてこそあれ
瑣末なる生活に痛む我が心蔵王を望み明日をたくさむ
雄大な蔵王を望み人の世の悩みそいかに心晴れにき
みちのくの心とあれや蔵王映え春にしなおも雪打ちふぶきぬ
何故に人の心のいやしきを花と咲き蔵王を仰ぎ忘るべきかな
貧しくも蔵王を仰ぎみちのくに住みし幸い春のおとずれ
美しき心となならむ花に映え蔵王を仰ぐみちのくの春
人の世の心はただに金のみやみちのくの宝蔵王にそあり
人生きるこの世の闇の深きかな蔵王を仰ぎ忘るべきかな
今更に蔵王ありしと我が仰ぐ近くにありし宝なるかな
ゆうたりと桜の大枝ゆれにつつ千本桜にたんぽほの映ゆ
みちのくに大いなる詩(うた)の起こらむや千本桜に蔵王を仰ぐ
啄木の歌碑一つあり船岡に蔵王を歌わず死する悲しさ
この世の々誰か背負わむみちのくの花の盛りやしばし忘れむ
みちのくに桜前線電車のり追いて旅せし時のしあわせ
蔵王映え雄大にして新幹線走り去るかな樹々の芽吹きぬ
仙台の人と語りぬバスを待ち桜はまだと夕暮れにけり
仙台に来しも長きや時流れ世の移るかな花また咲かむ


岩沼から船岡へは近かった。前にも千本桜を見ていたけど実際は良くみていなかった。意外と近くを良くみていないのだ。こんな近くに蔵王あれほど雄大に美を極めて聳えているとは思わなかった。
船岡城跡から見た蔵王は最も映えていた。山は富士山でもそうだが見る地点によって全く違ったように見えるのだ。山は大きく見える所が一番いい、蔵王は確かに電車で阿武隈川を渡るとき見えるのだがその山はいつも見ているのだが感動しなかった。今回はあんなに雄大に見えることに感動した。
ヒマラヤでもそうだが3000メ-トルまで上らないとヒマラヤの山の雄大さはわからない、3000メ-トルまで上ったときまるで天に到達するようにヒマラヤ見えるのだ。見る場所によって全く違ったように山は見えるのだ。富士山にしても日本橋から見える富士山を浮世絵に描いているが富士山がぼつんとでているふうにしか見えない、蔵王にしてもぽつんと出てるのしか見えない場が多い、肝心な山形県側から見るとあそこはまるで蔵王の雄大さ美が全く見えないのだ。蔵王の裏側になって全く映えない。

今回見た船岡と穴場として北白川駅をおりて見た蔵王は本当に荘厳だった。北白川はたまたま乗り違い下りてしまったのである。それがかえって良かった。そこから新幹線が通っていたし最近でたはやぶさも走っていた。緑色の車体が新鮮だった。あそこは仙台に近いのに鄙びた場所だった。駅も無人駅だった。あの辺なども電車では通っていたがあそこに下りたことはなかった。あそこで新幹線と東北線が交わっていた。人間はつくづく近くのことを良くみていないのだ。船岡はあれだけ蔵王が雄大に見えるのだからあういう所に住みにはいい、浜通りの最大の弱点はこうした大きな高い山が見えないことなのだ。あういう雄大な山を毎日みていれば心に必ず影響する。そこから雄大な詩でも絵でも芸術が生まれてくる。


この六年間世間のことでせめさいなまされてきた。今も継続中である。人間の世の中はあまりにもささいなことで悩まされる苦しめられるから嫌になる。つまり蔵王のような雄大な山とはにてもにつかなささいないことで責められる場所なのである。人間である限り死ぬまでそうなのだろう。ささないことも無視はできないものにしろ最近は嫌になってしまう。だから30年間この世と交わらず生きていたときは本当に幸せだったことがわかった。桜前線を追って電車できままに悩むこともなく旅した時が自分の最高の幸せだった。その気分が今回の小旅行でよみがえったのである。春の雲が浮いて途中下車して思わぬ景色に遭遇したのもそうである。やっぱりこの世のわずらいから離れて自由に旅しているときは最も幸せだったのである。それが一日でも近くでも電車にのってよみがえったのである。人間はつくづく幸福が何かわからないのだ。

そんなに自由に旅していたときそんなに幸福なことか思わなかった。それが全くできなくなったとき何と幸福だったろうとかなる。それは別に

自分だけでなく今回の津浪や原発事故で避難者になった人たちもそうである。故郷を追われ狭い部屋におしこめられている。すると故郷で大きな家に家族一緒に暮らして庭いじりもできた。そんな家族と家と故郷を失ってはじめてあの時は幸せだったなとなるのである。それが当たり前のときそんなことを思いもよらないのだ。そういうことはこの世で長く生きれば経験しているだろう。突然境遇が変わることがあるからだ。人間は一生恵まれたままでは終わらない、どこかで必ず災難があり苦しめられるのである。苦しみのない人生などなかったのである。今や自分もなにやかやと詰問される身になったのである。それも自業自得といえはそうなのかもしれない、ただ人間は雄大なもの大きくなりたいというのがある。ささいなことにぐじぐじ生きたくない、蔵王のように雄大なものになりたい、そこに自然の意味がある。


船岡には啄木の歌碑が一つホ-ムにあった。あれは何なのか?啄木は別に東北でも故郷の渋民村と盛岡とかを短歌にしたけどあとはしていない、松島であれ蔵王を歌っていない、それだけの時間がなく死んでしまったのである。なぜ東北では啄木と賢治がぬきんでているのか?それはやはり天才の独創性があったからだ。それはまねできないものでありあれだけの若さで生み出した独創性があった。
芸術は独創性がなければ何の価値もない、その独創性は簡単に出せるものではないのだ。


斎藤茂吉などは「.陸奥をふたわけざまに聳えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ.」などの短歌があるがこれも確かにいいとしても何かしっくりこない、蔵王はみちのくを二つに分けるほど大きな山だというが分けるというより山形県と宮城県から見えるという山である。だからそれほどこの短歌から雄大なものを感じるというものではない、つまり斎藤茂吉にはどうしても正岡子規の写生の継承者であり地味だということがある。それは自分も写生からはじめたから同じである。茂吉には啄木や賢治の独創性はない。詩人というものでもない、短歌の専門家のうよなになっていた。だから意外と芸術的評価は低くなるかもしれない、芸術の評価は相当にむずかしい。ただ時代的にやはり変化する。かえって評価があがるものもあるし全くかえりみられなくなるのもある。啄木と賢治はこれほどなお文学的生命をもっているのは天才の独創性がありそれがまねのできないものだからである。それもあの若さで成し得たということが驚きなのである。もちろんその批判もある。でもやはりその独創性がまねできないということである。


宮城県美術館で「高橋英吉展」見てきた。やっぱり実物を見ないとわからないことがあった。芸術にしろ自然でも実物を見ないかぎり本当の感動はない、彫刻とか建築は特にそうである。
「潮音」は潮風を深く吸い込んでいる感じが良く出ていた。あの像からは潮風がふきつけ潮風と一体となっているものを感じた。もう一つの漁夫像は体が丸み帯びて豊かな肉体の安らぎを感じた。


潮風を深く吸いつつかなた見ゆ海の広さや春は来にけり

漁夫像の肉のまるみや働けるものの喜び充足のあり


高橋英吉もこれだけの独創性と才能があった。それも若くてそうだった。もし長生きしていたら世界的彫刻家になったかもしれない、その才能も戦争で奪われたのである。戦争では相当の才能ある人の命が奪われた。生き残った人たちはずるい人たちだったかと言われ、その人たちが本当は日本をだめにしたのだとかも言われる。実際に戦犯の人もいて読売新聞社の原子力発電の父と言われた正力松太郎がそうだった。その時も裁かれるべき人間が裁かれなかったのである。今度の原発事故でも誰も裁かれないのとにている。


ともかく一目千本桜は八分咲きであり昨日は寒かった。もう今日明日は満開である。ただ仙台は一分咲きにもなっていなかったのは不思議だった。たいして距離もないのになぜ咲かないのかと思った。やはり桜前線は寒暖の影響が距離で起きているためである。だから桜前線を追って旅することが日本の春でもある。この辺は交通の便悪くなった。帰りは直通のバスだった。これは便利であるからいい、やはり電車は楽である。バスは何か疲れるのである。
逢隈駅ではキジがでてきて電車を見送った。あそこは山になっているから野鳥がさえづったり蝉がなく、やはり自然があると違っている。電車の旅は駅にとまり駅を楽しむことが旅でもある。
でも今は通りすぎるのが多いから旅にならない、やはり時間をかけて途中下車するのが楽しいのだがそれだけの時間がない、そして今はロ-カル線は一旦途中下車したたら次の電車がいつまでも来ないとなるから簡単におりられないとなる。東北線は本数が多いから途中下車しても白石-仙台間は困らないからいいのだ。まあ、春は旅したい季節なのである。一日でも近くで楽しむことができたので良かった。

2013年04月13日

カルマの法則は現実にある (なぜ子は親と同じような人生になりやすいのか?)


カルマの法則は現実にある

(なぜ子は親と同じような人生になりやすいのか?)



カルマの法則・・・前世での行為の清算のために、あるときは義務を負う側に、
あるときはそれを受け取る側に身を置き、何度も何度も繰り返す。


ある人が何かの出来事で人の命を奪ってしまったら、その後には、同情を覚えるほどの
辛い状況が待っているでしょう。
もしかしたら、来世では医者になって、人の命を助ける仕事について、全身全霊で人(生命)を
愛し、その生涯を捧げるかもしれない。



知人に、自分の前世を、昨日の事のように覚えている看護婦がいる。
その人は、戦国時代に「山賊」であったという。戦いで傷を負って落ち延びた武者を襲い、
金品を奪い、手を切り落としたり、足を切り落としたり、時には、命まで奪っていたという。
そんなことを全部覚えているという。


そして今、勤めている病院に、自分が前世で殺した人が診察を受けに来ることもあると言う。
前世で足を切った人が、足が不自由なままに入院したり、自分が「刀」で切りつけた人が
背中に傷跡がそのまま残っていたりするという。「今は姿・顔形は違うけど、魂が同じなので、
すぐ分かるという」。


そんな人を見るたびに、「すみません、すみません」という思いでいっぱいで、
ただひたすら心の中で詫びるという。


他の看護婦さんが、あの患者さんはわがまま、扱いにくいと言う人もいるけど、
「私はとてもじゃないけど、そんなことは言えない。自分のやってきたことを考えたら、
そんな事を言える資格はない」。今はすべての人を愛したい、出会うすべての人に
ありったけの愛を注ぎ、全身全霊で人に奉仕をしたいという。
そして、休みの日には、ボランティア活動に励んでいる。
http://www.ne.jp/asahi/aquarius/messenger/books_008.htm



カルマというときそもそも前世の因縁があるのかどうかということがある。前世での悪行を今償うために医者や看護師の仕事など福祉やボランティアをしている。それが動機になるというのも不思議である。しかしこの動機は全く根拠もないものでもないし悪いとは言えない、それだけの善行を行う動機づけになっているのだ。そんなものないよと否定するのもいいが実際の動機となり善行になっているからだ。ここまで前世のことを真剣に考える人は普通はいない、医者だって看護師だって種々雑多でありこんなにしてまでこんな動機でやる人は極わずかである。そして医者や看護師でも結構性格の悪い人だって金だけを求める人だって天使が変じて悪魔にもなりやすい職業でありきれいごとはこの世はすべてすすまない。だから前世のことをこれだけ真剣に考えることは特殊であり動機が悪いとはならない、いい動機になっているのだ。でもこの前世で悪いことしたからそれを現世で償わねばならないというのはすべて否定することもできないむしろ事実なのである。


たいがいなぜ親と同じ様な人生を送りやすいのか?親の因果が子に報いとかなるのか?親が離婚していると子も離婚しやすい、親が苦労したことを子も同じ様な苦労をする。借金で親が苦労したらやはり子供も借金で苦労する。親に捨てられたという人は自分が親になったら子供捨てていたということもある。何かそういう因果がある。それはほとんど一部にあてはまるのではなく統計的な数字として確実なのである。だから家系の研究している人はそうした一つの法則があることを割り出した。親が悪いことをしていたらその因果は子に受け継がれる。それは仏教でも聖書でも同じである。三代四代までその因果が継続されたたるともなる。その罪の報いは一見関係ない子供が受けることになる。これも理不尽と言えば理不尽なのだがそれが因果の法則なのである。悪行はそれだけ恐ろしいことなのである。しかし軽い気持ちで悪は常に行うのも人間なのである。

この看護師は極端にしてもこういうことはありうるのだ。前世でないにしろ今世でもそうである。

例えば恩を受けたら恩を返すことが要求されているのだ。恩を返すことなど別にするしないは自由であると考える。でも恩を受けたことがカルマとなっているのが人間なのである。だからそのカルマが生まれたのだから返さねばならない、それをしないとどうなるのか?その人はそのカルマを返さないからカルマは解消せず自分自身を不幸におとしいれる。そういうことは現実にみている。恩を返す機会がありまざまざとみていたのに何もしなかった。ただ見て笑っていただけだったとなればその人は何だったのかとなる。それで今の不幸があるとしか言いようがない、それは自分にも起きたことだった。もちろんそれは一方的な見方だということもある。悪行の結果はすでに必ず別に死ぬ前に現れるのである。カルマ(業)をそれぞれ背負っているからこの看護師のように極端ではないにしろカルマを解消するためにはカルマは罪障でありそれが行為として示さないと消えないというのが現実としてある。


例えばここにホ-ムレスがいたとする。この人は自分とは何の関係もない、この人はよほどでたらめな人生を送ったのだろうとか思いその人の苦しみなど全く無視するのが普通である。ところが逆に人間は会社が急に倒産したりして自らがホ-ムレスにならないとも限らないのだ。そして人間は結局決して自分が苦しまない限り他者には同情しない、病気になった人は病気の人に同情するようになる。ホ-ムレスの苦しみはホ-ムレスにならない限りわからない。病気の苦しみも同じである。貧乏の苦しみもそうである。現代ではどうしても貧乏の苦しみを実感することが普通はできない、過去の貧乏とはあまりにも違っているからだ。だから医者とか看護師は別に病気などしていない人が多いから意外と病気はみていても同情しない人が多いのである。だから病人を残酷に扱う悪魔にもなりうる職業だということである。

ところがそういう人も医者でも看護師でもいつか病気に必ずなる。するとなんであのとき患者にあんな冷たい扱いをしたのかと反省する。そういうカルマの繰り返しが人間なのである。だからこの看護師は極端にしてもカルマを解消するためにはそれくらいすることも異常ではないのである。
普通はこの逆であったり全然していないからである。その結果として自らに不幸を招く、でも自分自身のことは反省しないで他人のせいにしたする。そのことは自分自身もこの六年間こんなに苦しむのはなぜだろうと考えたがやはり自分のカルマだったのである。それは今も継続中なのである。


そして仏教でもキリスト教でもシャカやキリストがどういう人生を送ったか?それが忘れているのだ。それは大伽藍に飾られて大聖堂に祭られたりしているからシャカは洞窟で暮らした乞食だったしキリストは枕するところなしというホ-ムレスだったということを全く忘れている、感じられないのである。大伽藍や大聖堂の主がそんなことがありえないとなる。でも現実は二人ともホ-ムレスだったのである。この世では住む家すら与えられなかった。今の宗教者はこの正反対である。清貧の生活すらしている人はまれだとなる。それは江戸時代からそうであった。だから宗教者ということ自体何なのかともなる。袈裟を来ているだけの見せかけだとなる。ともかく人間はいくら言葉で説教しようが自分自身が同じ苦しみを受けない限り同情することはないのだ。ホ-ムレスの苦しみはホ-ムレスになってみなければわからないし病気や貧乏もそうである。そういう同じ苦しみを受けると同情するようになるのである。そうでないと口だけになってしまうのである。だからかえって人の苦しみをみて他人の不幸は蜜の味となっているのが普通である。自分が苦しまないから実際は関係ないとなる。金持ちは貧乏人に同情しないし無関心である。

また自分が苦しんできたから他人も同じ苦しみを受けるべきだともなりざまあみろとなって同情しない人もいる。こういう人もまた多いのである。そういう人は他人の不幸を心から願っているのである。自分と同じ様に不幸になればいいと暗黙の内に願っているのだ。そういう人とつきあうことも危険である。だから現代では特に同情する人はまれである。そもそも前世のことをこれほど思ってカルマを解消しようとしているのは特殊でありほとんどないから貴重だともなる。
そういう立場の人を理解できないのである。
自分のこの六年間の苦しみもやはりカルマだった。そしてこのカルマは未だ解消していないのである

結局人間は罪の故に業(カルマ)の故にカルマを誰でも背負っている。だからこの世でカルマを消滅させる必要がある。でもかえって必ずまたこの世でそんなカルマの自覚より新たにカルマ(罪と業)を積んでゆく。するとまたカルマが消滅していないから生まれ変わり苦しむことになる。その因果の繰り返しだともなる。ただこの看護婦の場合は強制されたものでなく自らそう思ってカルマを消滅させるために人の看護をする。逆にカ-スト制はカルマによって身分制化したもので強制されてしまっているからいいとはいえない。強制されてやるのと自らが悟ってやるのでは相当にちがう。
前世など関係ないというけど現世ですでに誰でもカルマを背負わされている。そして自らもカルマを積んでゆく宿命にある。殺人を犯したような人はすでにこの世ではそのカルマを消滅することなどできない。とすると来世でまた生まれ変わりそのカルマを消滅させるために生きることになるというのも不思議ではない、殺人したから今度は医者となり他人の命を救うために働くというのもわかる。
なぜこの人はこんなに懸命に働くのだろう。金のためだけではない、本当に他人に尽くすために働いているとなるとその動機が何なのだろうとなる。それは前世からの因縁でそうなったというのも一つの解釈にはなる。


ただ人間は決して自分のカルマを認めたりしない、だからこの看護師の言うことは特殊でありまれである。逆に自分の犯した積んだカルマを他人のせいにするのだ。他人に自分のカルマを負わせようとする。それもまた普通にある。自分で自覚してカルマを消滅させようとしないで他人に押しつけるのである。借金というのがそうかもしれない、自分が贅沢するために遊ぶために見栄のために借金していてそれを他人のせいにして借金する。カルマが関係ない第三者にも負わされるのである。結局この世はそうしたカルマが充満して解消しないのがこの世だとなる。それはどなんことしたって永遠に解消しない、変わらずにカルマを積んでゆく、その大きな原因が欲望があるからになる。欲望はどんなことしたって断つことができない、そこからカルマが生まれてくる。そういう因果の繰り返しなのである。カルマが消滅するのはいつなのか、それはこの世が滅び新たにされるときしかない。人間という種が滅び新しい種になる。それはこの世ではありえないからこの世は欲で滅びるとなる。
最後の審判があり人間の欲が滅ぼされてようやくカルマが消滅するとなる。

2013年04月15日

保証人がいないために苦しんでいる人 (これから増える保証人問題)


保証人がいないために苦しんでいる人

(これから増える保証人問題)

●保証人で苦しむ例は無数にある



身元保証人には資産がなく、会社も身元保証書を提出させただけで、身元保証人の資産確認・身元保証人の意思確認もしていないため、身元保証を重要視していなかったとして、身元保証人の責任を4割とした。(東京地裁平成6年9月7日判決)


借金の保証人と病院の保証人は法的には同じものです。
保障する人ですからね。
金額の大きさによっては悩むところだと思われます。
ご主人は、病気で手術入院と聞いて数百万円の保証人になると思われたのではないでしょうか?

確かに保証人になれば支払わない場合請求されます。しかし貴方は娘さん。記入するのは当然といえば当然です。金融関係の保証人ならまだしも・・・
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1263959382


自分は学生時代からすでに友人が皆無だ
だから1の言いたいことが身にしみてわかる
それに自分でいうのもあれだが自分にはコミュニケーション能力がない
だから人間関係は作れない
そんな自分は市ねというのがこの制度だ!
こんな制度なくなってしまえ!


家賃の連帯保証人て
保証人が死んだら
その息子、孫まで有効なんだってな
こりゃなるもんじゃないと思った


老人ホーム入居するにも、二人の保証人の実印(印鑑証明添付)が要る
所も多い。独居老人で子供は近くにいない、いても遠くに一人とか、
小無し、生涯独身者もこれから急増するわけで

就職先の保証人ってなんか失礼というか・・。
こっちは収入を得るために働くあたまなのに
あっちは懲罰と損失回収前提に保証させる。
信用できないなら採るなよ!!!1
http://unkar.org/r/soc/1247055911


よほどの事が無ければ他人の保証人になる奴は居ないからな。
経理職とかは横領とか有れば何千万の賠償も有りえる。
普通の従業員でも会社の車で人をひき殺したりするれば同じで
人生終わる。
 他人の為にそんな危ない橋は渡れない。


保証人が必要なのは会社の物や金を持ち逃げすね奴が多いからだよ
保証人が必要ない会社はほとんどブラック企業だよ、
家族ぐるもの泥棒一家も最近は多いからな当然だろう

共済型の生命保険に入れられて半年後に事故死だろうな

カネ借りるわけじゃないけどやっぱ「保証人」と聞くとみんな例外なく尻込みするからな、、、
人間関係壊れることもあるよ頼んだだけで。

俺このあいだ実の弟に頼んで断られた。泣いたよ。そこまで信用がないのかとね・・・

あのね 今はお墓を買うにも保証人が必要なんだよ
金を払わない奴がいるからね、雇う側にもなってみろよ
どこの馬り骨かわからん奴を使えるか、よく考えろ
75 :
http://w1.log9.info/~2ch/20126/kohada_2ch_net_job/1272544002.html


中小零細企業が事業資金を借り入れする場合、およそ8割以上が連帯保証人をつけて融資を受け、連帯保証人の数はおよそ2000万人に上るといわれています(公式なデータはありません)。
そして、自己破産者の約10%が、連帯保証人になったがため自己破産するとされています。
このことは、国会でも取り上げられました。以下その概略です。
 中小零細企業の経営者、自営業者の自殺が依然多く、自殺の予備軍で、再起不能になった人の数が相当になるものと思われます。
 http://www.nin-bai.or.jp/article/14218820.html
 
 大分県宇佐市が、市営住宅の家賃を19年滞納した50代女性と連帯保証人で
同県中津市に住む弟に約300万円の支払いと女性の退去を求めて提訴し、弟と争っている。
弟は「過去、市からも姉からも何の話もなかった。20年近く放置した責任は行政にもある」と、
市は「連帯保証人への請求は法的に問題ない」とそれぞれ主張している。
http://www.logsoku.com/r/newsplus/1286827826/


一旦貸してしまうと家賃を払ってもらえなくても追い出すことができなくなるんです。(過去の判例から)もしも家賃を払わない人を強制的に追い出すことが可能であればアパートももっと貸しやすいと思いますよ。
たとえば3カ月借りたいから3カ月分の家賃先払い、その後そのまま居座りをつづけても強制退去できるなら(家賃を先払いしなかった場合)これなら、みんな貸すと思いますよ。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1480445379


身元保証とは、従業員の故意または過失によって雇い主が損害を受けた場合に第三者が賠償することを約束する、雇い主と当該第三者との間の法律関係であり、身元保証契約によって生じる。この契約によって賠償責任を負担する者を身元保証人と呼ぶ。

証券会社に損害を与えた社員の身元保証人に1億円もの金額が請求され、4割(4,000万円)の支払いを認めた判例もあり、身元保証人になることは非常にリスクが大きい
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%9D%E8%A8%BC%E4%BA%BA



●保証人の責任は何なのか明確にわからない?


保証人制度がなぜあるのか?部屋を借りるとき外国では保証人はいらないという。日本だけが保証人が必要でありいたるところで保証人が必要になってくる。自分の場合はまず病院の手術であり市の介護施設のショ-トスティとかで保証人が必要とされた。二日ばかりだけど保証人が要求された。
緊急時の連絡だけとなるとこれはそれほど重いものではないかもしれない、ただそもそもその保証人の責任は明確化されていない、法律的にも明確化されていない、どこまで責任を負うのか文書でも明確化されていない、連帯保証人とは違っている。その保証人の責任は何なのだろうかわからずに保証人になっている人もいるし、あとで請求されて困る場合もある。病院の入院とか手術にしてもそれは金銭的な保証人なのだろうか?思った以上医療に金がかかりそれで払えないとかなり保証人に要求されるのだろうか?それが法律的に明文化されているのだろうか?


ここにあげた例はほんの一部でありインタ-ネットには膨大にある。こういう点でインタ-ネットは便利である。就職でも保証人が必要でありそれだってその保証人がどこまで責任をとるのか明文化されていない、横領とかあって保証人に要求された裁判もある。連帯保証人なら別だが様々な場所で日本では保証人が必要になっているのだ。連帯保証人では自殺などの被害が大きいから廃止の方向に向かっている。


連帯保証人の数はおよそ2000万人に上るといわれています


これが本当でないにしてもそんなにいるのか?自殺で一番多いのが金銭問題が確かかもしれない、次に多いのが病気だろう。これが人間の最大の問題だからである。人生の中でこの二つに苦しまない人はないというくらいだからだ。これも医者や看護師の言い分と患者の言い分が分かれるのとにているのだ。貸す方にすると相手をどう信用していいかわからないからだ。まず人見たら泥棒と思えというごとく人は信用できないものだとわかった。自分が大被害を受けたから経験でわかった。一回こういう手痛い目にあうと人は絶対に人を信用しなくなるのだ。これは自分が世間にうといから起こったことである。世間はもう会社経営でも何でもそういうことをあらかじめわかっている。人間は信用できないものとして取り扱うほかないから保証人制度ができたのである。だから保証人を要求する側にもそれなりの言い分がある。人を雇うことは実際は相当なリスクがあるのだ。人は信じられない、そしたら多額の金銭を扱う会社では余計にそうなる。会社はそうして人をみることにたけている。そうでなければ会社は経営できない、会社がみんなそうした悪い人に食い物にされて会社自体成り立たなくなるだろう。


ただ一方で保証人は弱者いじめでもある。すべての人が悪いとなるないし保証人になってもらうことは親族でもむずかしい場合かある。保証人になってくださいというとき誰でも何だろうと身をひくだろう。それは保証人の責任が何かあいまいで明確化されていないからだ。金銭に限ることならわかりやすい。老人施設に入るのにも二人の保証人が必要だというときそれは何の保証なのだろうか?
金銭が払えないときの保証なのだろうか?ともかく何かあったときの保証なのだろうか?
ショ-トスティ二日間の保証人は何の保証なのだろうか?緊急連絡時だけのものなのか?

ショ-トスティならそうなるが高齢者だから何になるかわからないからなのかそのために保証人なのか?書類が十枚ほどきてすべてに実印を押すし保証人の実印も必要なのである。そしたらなかなか頼めない人も相当いる。それでネットカフェとか就職できない人もかなりの数になる。この世の中弱者はとことんいじめられるということがある。弱者になるのは一般的には金銭問題と思っているがそうでもない、身寄りがないということは最大の弱者になったということである。弱者になるのは別に金持ちでもなる。金があっても施設に入れられた老人は多くそこで家族のような待遇を受けられることは無理である。金持ちの親は子供が世話したくないからたいがい高額な高齢者施設に入れられているのだ。だから金があったから常に強者ともならないのだ。どんなに金があっても恵まれてもまず病気になったら則弱者の仲間入りである。そしてそのリスクはみんながかかえているのだ。
弱者になると弱者をいじめ弱者を搾取するとかそういうことが普通に行われているのかこの社会だった。高齢化することも弱者化することなのだ。だからいくら子供がいても親の財産目当てだけになり親のめんどうをみない子供などいくらでもいるのだ。だから高齢者虐待は高齢者社会では日常化するということを書いた。


●保証人になれる信用ある人は意外と少ない


保証人というときこれもみんながなれるものではない、まず借金している人は保証人になれない、借金している人はすでに信用がなくなっているのだ。だから借金の調査を会社で雇う場合しているし借金している人とは組まないという経営者もいる。ところが借金しているかどうかわからないのが多いのだ。だからその人を信用する人も多い、社会的に成功しているとみせかけていた人もいた。それは借金していたそうだった。保証人になるのは別に誰も調査などできない、だから結構でたらめな人もなっているのだ。そもそも住宅ロ-ンなど組んでいる人は借金している。あらゆるところで借金が普通になっているのが今の社会である。リ-マンショックも借金して家を建てていたことから発していたのだ。でもわからないから保証人になっている。社会にはいろいろな抜け道があり別に保証人でもそれ自体を商売にするのもでてきた。そこには相当いかがわしいものもある。でも社会では一応保証人がいるなとなり信用したりする。

まず保証人の調査などできないからだ。とにかく借金している人は金銭的な面に関しては保証人になれない、それはかなり重大なことである。借金することは信用を失うことなのだ。もちろん返せばいいが信用されないということがある。なぜなら借金している人に保証人になってもらったが今度はその保証人になってもらったことで借金を請求されることになる。奇妙なことだが借金の保証人にされることにもなるのだ。お前の保証人になったから俺の借金の保証をするのは当たり前だろうとなる。でも入院とか手術とか他でもいろいす保証人がありそれらそんなに重いものと感じられていないし責任が明文化されていない、これはかなりの法律問題なのだろう。
ただ保証人になってくれというと誰でもしり込みする、良くわからないのとどれだけの責任が課せられるのかわからないからしり込みする。するとこれだけ保証人が要求されるのに保証人になってくれないとなる。それで民間で会社で保証人を引き受けるものがでてきている。これもいかがわしいのがあるから危険な面がある。でも普通は簡単に保証人にはなってくれないから頼むほかないとなる。

現代社会は大家族でもないし地域の連帯も崩壊している。それで何を信用していいかわからないからかえって保証人がどこでも必要になっているのかもしれない、人を雇うにしても雇う方にすると人を見たら泥棒と思えが極端な時代だからそうなっている。現代はもう相互不信が飽和状態になった時代なのかもしれない、人は人を信用できない、そして社会は崩壊状態にあるのかもしれない、原発事故だって東電のうよな大会社も政府と結託してマスコミから官僚から宗教団体からすべてと結託して大事故になった。地元の政治家も主導していたのだから政治家も信用できない、すべて信用できないとなった。それはすでに社会崩壊がはじまっているのでありそれで津浪の被害が合ったのも神の罰だったともなる。社会崩壊を早めるために津浪が原発事故が襲ってきたのかとさえ思う。互いに人は信用しない、金だけを求めて心は冷たくなり離反している。もう弱肉強食が極端化した地獄である。

食うか食われるかの地獄の世界と化しているからノワの方舟のような大自然災害が神の意志で起きたのかもしれない、社会をひっくりかえす大災害が起きて人間も目覚めさすためだったのかもしれない、それほど現代の人間はもう人間不信も極限状況にきているしもう社会がばらばらになって救いようのない状態になっている。もう世の滅びは近い状態なのかもしれない、この辺では特にそういうことを感じてしまうのだ。

posted by 老鶯 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層