2013年03月30日

春の浜街道-短歌十首(相馬市まで)


春の浜街道-短歌十首(相馬市まで)


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浜街道松に東風(東風)吹き古碑一つ

東風(こち)吹いて松並木かな浜街道城跡たずね梅の香りぬ
みちのくに花の咲きしは遅しかな南は散りてなお蕾なり
みちのくに花の遅しも我が待ちぬゆとりのあれや山を見るかな
浜街道道の閉ざされ悲しかな東風の吹きつつ春になれども
東風吹きて浜街道を旅行かむ道閉ざされて恨み深しも
街道に五本の松の残るかな春の夕陽の山脈に没る
紅梅の香りの満ちて星のごとイヌフグリ咲き蕗の薹いず
紅梅の御園に入りてその香りしばし満たして去りにけるかな
石神に住みにしといふ若き母ほのぼのとして紅梅香る
この里に愛しき人の棲むならば辺りもなごみ花も映えなむ
やさしくも甘きその声いやされぬほのぼのとして紅梅香る
悲しかな若きは去りぬ老いにしをなほ春ありて我が生きむかも
パン屋にて白髪の女性働きぬ春の日あわれいづこの人かな
赤々と春の夕陽の燃えにつつ没りにけるかな梅の香りぬ
春の陽の水面に輝き溜池に釣り人一人日も暮れゆかむ

旅心湧きにけるかな日永きの夕辺明るし我は老いしも

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今日は成田の方を回って相馬市に出た。途中紅梅の梅林の中に入りその香りにひたった。紅梅でもいろいろあり淡紅の紅梅だった。女性でも真っ赤な口紅をぬると嫌な感じになる。薄いのだとそうでもない。梅にも種類がある。紅梅でも真っ赤なのもある。ほのかに赤い紅梅もある。紅梅の香りはまた白梅とは違っている。どうしても紅梅を女性をイメ-ジするのだ。それも若い女性をイメ-ジする。
紅梅の下にはイヌフグリが咲き蕗の薹がでていた。紅梅の林はこの辺でもあまりない、そこには五六本あった。


最初北風の感じだった。それから東風が吹いてきた。陸前浜街道というから浜であり海沿いを行く街道なのである。ただ意外と海が見えないから海を意識しないのである。それは松原とか家にさえぎられてみえなかったのである。またそれなりに遠いから海が見えない,すると海を意識しない、でも浜街道であり海は近いのである。それがわかったのは津浪のためだった。街道の近くまで津浪が押し寄せて来たからだ。浜街道は仙台からつづき津浪が来ない山側に伸びていた。何か津浪を意識して街道を作ったということが言われた。それよりもともと海側は湿地帯だったので道が作りにくかったのである。そういう自然条件があり古い街道はできていたのである。ところが電車の線路はそうした自然条件を無視して新しく作っていた。明治以降であり新しいのである。街道ができたのは相当に古いだろう。江戸時代前よりそうした道があった。

今回の津浪や原発事故の教訓は古いもの知り古いものに準拠することが必要だった。そういうことを思いしらされた。400年前と300年前にも大きな津浪の被害が出ていたけど忘れていた。津浪の伝説は四倉にもあった。するとこの辺でも意識する必要があった。今は古いものが次々と新しいものになる。そこに古いものが省みられなくなり今回のような災いに見舞われる。古いものにも何か意味があるのだ。その意味が忘れ去られるとき問題が起きるのだ。
田舎というのはやはり土地と密接に結びついて暮らしてきた。江戸時代が村ごとに一つの家族のようにして住んでいた。これは原始時代なら部族にもなる。そうした部族はみんな親戚と同じである。
名付け親になったりするのもそのためである。今でもやはり土地によってその人が性格づけられる。最近知り合った石神の女性は石神の人かとなり病院で知り合った人は大原の人となり津浪の被害にあった人は海老の人や磯部の人となる。部落単位で人が意識される。昔は村ごとの結束があり対立があった。最近読んでいる「昨日までの世界-ジャレッド・ダイヤモンド」そうした昔の部族が今と比べてどういうものだったか詳しく考察しているので面白い。そういうところでは自然に談合があり争いを好まずなんとか折り合う方法を見いだしていたのである。パン屋で働いていた白髪の女性は店のオ-ナ-なのか?ただ雇われた店員なのか?
まあ、確かに高齢化社会は年よりも働く人がふえて来る。でも何かあわれだとかなる。そして田舎だとどこに住んでいる人なのか?どういう事情なのかとか詮索しやすいのである。


不思議なのは自分の家族は異常なか家族だった。だから両親が仲良くて素直に育って結婚して子供をもちやはり普通に家族をもった女性を見ているとそんな人もいたのだなと感心するしそういう家族がいることは幸せだなと思う。ただまたそういう自分からみて恵まれた家族でもその本人は当たり前だと思っているのだ。この辺では家族が一緒に暮らすことなど当たり前だと思っていた。それがばらばらにされたり津浪で突然死んだりと激変があった。田畑もあるのも当たり前だけどこの辺ではない。そうした当たり前のことが一瞬にして失われたのだ。それで当たり前のことの価値を見いだしたのである。家族があること家族が一緒に暮らすことは当たり前なのである。でもそれが失われたとき家族がいかに尊いものか意識する。普通は家族があって普通だから意識しないのである。


平和というのも意識しない、平和を平和と叫ぶようなのが平和ではない、平和は意識されないとき平和なのである。平和というのも失ってはじめて平和の価値がわかる。アフガニスタンの少女が戦乱のなかで平和が欲しいというとき切実なのである。平和時の平和運動とはまるで違ったものとなる。
この辺ではまさにその平和が喪失した。だから平和を切実に願うようになった。
自分の場合は何かわからないけど六年間は地獄であり修羅場だった。一時は認知症の介護で自分も鬱病になっていた。それから今まで書いてきたように信じられないことの連続だった。自分も身体障害者となり病気になった。なぜこんなに苦しめられるのかわからなかった。

ただようやく今になって何か今年は平和を感じた。去年は感じていない、手術して身体障害者から解放されたことも大きかった。ああ 今年は平和だなというのが今年の春の短歌ににじみでている。
何か普通の状態にもどったなという感じがする。田畑はないが何か去年より平和で楽になったなと感じた。人間はやはり老いると孫とかに愛情を注ぐのがわかる。家族がいないにしろわかる。
若い人に接すると自分も若返るのだ。孫が特に愛しく思えるのは老人はそこに新しい命があり死にゆく命もまた孫を通じて生き返るという感覚になるからだ。命が引き継がれる感覚が生まれるからだ。春はまさに古いものから新しいものに変わる蘇りの季節だから余計にそうなるのだ。


ともかく今日はかなり日の永さを感じた。溜池釣りする人がいた。水面に春の陽がかがやき暮れようとしていた。何かここにも今までのような普通にあった平和を感じた。現実に右田の松原で車で来て海岸で釣りしていた人たちがいつもいた。そういう人たちはもうそこにはありえない、松原自体喪失ししてしまったからだ。だから釣りする人をみて平和だなと感じた。
そしてまた遠くに旅したくなった。ただショ-トスティでも二日でも手続きやらめんどうだし嫌だというのでも行けなくなった。近くならなんとか行けるが遠くなるとめんどうになった。こんなことになるとは思いもよらなかった。どこでもふらり旅して一か月くらい帰ってこなかった。その時は自分は余程恵まれていたのだ。
やはり浜街道を波立海岸やイワキの方に旅してみたいとなる。それができないから恨めしいとなるしそれがもういつ行けるかもわからない、十年くらい六号線が閉鎖されたままかもしれない、そのうち死んでしまうということもある。それが悔しいのである。旅が長いからどうしても旅する気持ちにいつもなってしまうのである。特に春になればそうなるのだ。