2013年03月29日

永正9年(1512)の津浪が四倉にあった?-1696-元禄磐城小名浜大津波もあった (400年周期で大きな地震と津浪が太平洋側にあった)


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永正9年(1512)の津浪が四倉にあった?-1696-元禄磐城小名浜大津波もあった

(400年周期で大きな地震と津浪が太平洋側にあった)


本多徳次さんが昭和61(1986)年に著した『四倉の歴史と伝説』という本に「千人塚」の話が載っている。本を読むまで知らなかった。伝説をかみくだいて言うと、ざっと500年前の永正年間、四倉の大浦全域に津波が来襲し、家屋が流失した。死者が続出したため、仁井田浦に遺骸を合葬して「千人塚」を築いた。今は跡形もないという。 永正年間に津波が押し寄せたのは事実なのだろうか。

千人塚ができたのは永正年間から下ること100年余、元禄 9(1696)年の大津波のときだった。
その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余。四倉、小名浜に千人塚を築く」。そのわずか19年前の延宝5(1677)年にも、磐城の浜に「大津波来襲、死者800名余」の大惨事になった。
http://www.j-cast.com/2012/01/22119521.html


永正9年(1512)8月4日、津波が宍喰を襲い、宍喰浦で3,700余人の犠牲者が出て、1,500余人は助かったという。この時代には、城や宍喰の中心は現在の正梶の地にあったが、津波により街が壊滅したため、その後現在の愛宕山に城を移したと言われている。なお、この永正9年の津波は幻の津波と呼ばれている。この日、徳島はもちろん、国内のどこにも地震の記録が見当たらず、外国の遠地津波によるものでもないようである。暴風津波(高潮)という説もあるが、被害規模から、被害地域が宍喰浦のみというのは疑問が残る。


一つは「村越伝説」である。静岡県史には、この頃浜名湖を襲った津波・高潮として、応永13年(1406年)、明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の3件の記載がある。
http://murakushi.net/information/history_06.html


1498(明応7)年の大地震の津波で太平洋の遠州灘の接する箇所決壊して海と湖水が通じ、
さらに1511(永正7)年の大津波でその間が広まり、今切という地名の名前が生まれた。

舞阪の象徴ともいえる浜名湖に浮かぶ弁天島は、1498(明応7)年の大地震で島となったところで、1709(宝永6)年に今切り渡船の安全を祈願して弁天神社が建てられてから、弁天島と呼ばれるようになった。
http://home.q08.itscom.net/you99/maisaka.htm


1605年2月3日(慶長9年12月16日)慶長地震 - 東海東、南海道で津波による死者多数。津波地震と推定される。

1611年12月2日(慶長16年10月28日)慶長三陸地震 - 東北の慶長津波(千島海溝沿いを震源とする説あり)、津波地震と推定され、伊
達政宗領内で溺死者5,000人[12]。仙台平野で内陸を2km溯上したと見られ、北海道南東部沿岸も大きな被害。最古の「津波」という語句の記載(『駿府記』)。


相馬藩政記-700人溺死



こうした記録は何を語っているのだろうか?津浪の記録は消失しやすい、だから永正9年(1512)の津浪は幻の津浪とされている。ただその後の慶長津浪は伊達藩にあり明確に記録されている。相馬藩政記-700人溺死と記されている。しかしただ一行だけでありどういう被害があったかは記されていない。
永正9年(1512)の津浪が四倉にあったというのは推測であり不明である。「千人塚」も津浪の死者を埋めたところとは限らない、戦死者とか台風とか他の被害もある。インタ-ネットでは津浪の被害で死んだというのは見いだされない。ただあまりにも多くの人が死んだので墓標のように埋められた死体があった。だから千人塚とういうこともありうることは推測できる。塩木が塩が来る-潮来というのもどうなのか?塩を焼く木を切った所かもしれない、そういう地名はあった。山の方でなく海辺にある村とするとどうなのか?そもそも四国や静岡などで起こった津浪が磐城地方でも起きたのか?
そういう明確な記録がないだろう。第一この津浪が幻とされているのだから磐城地方の四倉にあったということはどういうことなのか謎である。幻と言ってもそれなりに記録や伝承があるのだからあったことは確かだろう。


この頃浜名湖を襲った津波・高潮として、応永13年(1406年)、明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の3件の記載がある。


明応7年(1498年)、永正7年(1510年)

1605年2月3日(慶長9年12月16日)慶長地震 - 東海東、南海道で津波による死者多数。津波地震と推定される。
1611年12月2日(慶長16年10月28日)慶長三陸地震 - 東北の慶長津波(千島海溝沿いを震源とする説あり)、津波地震と推定され、伊達政宗領内で溺死者5,000人[


明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の間は12年
慶長地震から慶長三陸地震津浪は6年である


12年後と3年後にまた津浪が来ている。そんなに短い間に津浪が来るものなのか?3年後としたらこの辺は2年過ぎて3年目になるのだから津浪の警戒が必要だとなる。

伊達政宗領内で溺死者5,000人という数字はほぼ正確ではないか?相馬藩の700人溺死も数としてほぼ正確ではないか?なぜなら今回の津浪被害で宮城県が一番大きかったからだ。伊達藩は山元町までありそこも浜の方で被害が大きかった。伊達藩では津浪の後も開拓して米作りしていた。人手がたりなくなったので相馬藩の武士も開墾に従事した。その時は今のように津浪の来る所をさけるようなことがなかった。それより江戸に送る米が必要だからあえて危険でも開拓した。塩分はぬけるし米は塩分にも強いらしい。松川浦の和田の人は塩分の田んぼでも米をがとれたとか言っていた。放射能よりはましだとなる。


こういう記録を見ると400年前に慶長津浪は確実にあり 東南海地震,津浪もあったのだから周期的に東北でも東海道、四国でも起きることは推測されていた。それは科学者の仕事でもあり最近は貞観津浪が相馬市の松川浦の奥まで押し寄せたという砂が発見された。他にも貞観津浪の痕跡が明確に証拠として発見されていた。記録的にも400年後であり大きな地震が東北にも東南海にも起きる時期だったのである。貞観津浪のことは言われていたが慶長津浪のことはあまり言われなかった。
やはり記録からして東南海地震や津浪はいつ起きても不思議ではない、ただその時は東南海地震の6年後に慶長三陸地震が起きた。つまり今回とは逆になるのだ。でもプレ-トがつながっているから互いに影響し合うことが考えられる。互いにプレ-トがバランスをとるために交互に大きな地震が起きる。これは素人の推測だが何かわかりやすい解釈である。最近の河口湖の水が退いているのも前触れなのか?何か不気味である。

四倉は今回は被害は大きくない、広い砂浜が緩衝地帯になりあれだけ海に近くても被害が少なかった。海岸の松によじのほって助かった人がいたがここでは松ごと流されたから助からなかった。
津浪は地形に影響されやすいのだ。四倉の街が津浪にのまれたら大被害になった。久之浜は海岸にじかに接しているから被害が大きかった。だから四倉に永正9年(1512)の津浪があったということは何か疑問なのである。記録では海嘯としているからそれはあたっている。津浪は慶長三陸津浪のあとに呼ばれるようになったからだ。

元禄 9(1696)年の大津波のときだった。 その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余
 
元禄磐城小名浜大津波 ……… 1696年7月25日(元禄9年6月27日)
http://www.bosaijoho.jp/topnews/item_5820.html

この津浪の名前が磐城小名浜大津波であり限定された地域の津浪だった。津浪が幅広く押し寄せるときこれはどうしてなのだろうか?局所的大地震だったのか?プレ-ト地震ではなかったのか?
磐城小名浜にこれだけの津浪があれば原発のあった所の双葉浪江でも影響があったろう。
相馬藩の記録にはない、この地震の津浪なら四倉に確実に影響した。

千人塚ができたのは永正年間から下ること100年余、元禄 9(1696)年の大津波のときだった。
千人塚がこの時のものだとすると永正7年(1510年の津浪で死んだ人たちではない。


明治の学者・大須賀筠軒の著した「塩木村誌」を読む。「耕田寺縁起を按スルニ永正年間海嘯アリ近隣諸村併セ民家悉(コトゴト)ク流滅ス。天文ノ頃海嘯猶ホ来る故ニ潮来(シホキ)村ト名ツク後轉ジテ塩木村ニ作(ナ?)ルト云フ」


海嘯は慶長三陸津浪の前の名前だった。ただこの記録はどうして四倉に残ったのか?

ただこれらの記録から推察すればいかに双葉や浪江は近いのだから危険だったか明瞭である。
なぜ東電や政府はこうした津浪に警戒しなかったのか?その責任は重いはずである。
津浪には全く警戒していなかったのだ。ただ一応危険を指摘はしていたが何の対策もしなかった。
コストがかかるとあいまいにしてしなかったのである。


元禄磐城小名浜大津波 ……… 1696年7月25日(元禄9年6月27日)


この津浪を話題にしているものがほとんどないというのも不思議である。すぐ近くだから危機感があってもいいはずだった。これは300年前のことだった。津浪は短い期間の間にも来るし300年とかの間にも大きな津浪がどこかに来るということである。プレ-トだけではない、局所的なものとして津浪が来ることが記録から判明している。プレ-トのことばかり指摘しているが地震はどこに起きるかわからないのである。それに応じて津浪もどこに起きるかわからないのである。だから原発は日本では危険なのである。



「大仏石」が伝えていた大津波 過去の自然災害に鈍感だった【福島・いわき発】

http://www.j-cast.com/2012/10/05149145.html

こういう伝承があるだけで津浪に関心をもつ、相馬ではそういう伝承があったとしても身近に聞いたことがない
そういうモノも残っていない、神社さえ津浪を記念したとしても由来が不明になっていたのだ。

こういうものがあるとすると塩来は津浪由来なのかな・・・・

 

posted by 老鶯 at 20:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

永正9年(1512)の津浪が四倉にあった?-1696-元禄磐城小名浜大津波もあった (400年周期で大きな地震と津浪が太平洋側にあった)


永正9年(1512)の津浪が四倉にあった?-1696-元禄磐城小名浜大津波もあった

(400年周期で大きな地震と津浪が太平洋側にあった)


本多徳次さんが昭和61(1986)年に著した『四倉の歴史と伝説』という本に「千人塚」の話が載っている。本を読むまで知らなかった。伝説をかみくだいて言うと、ざっと500年前の永正年間、四倉の大浦全域に津波が来襲し、家屋が流失した。死者が続出したため、仁井田浦に遺骸を合葬して「千人塚」を築いた。今は跡形もないという。 永正年間に津波が押し寄せたのは事実なのだろうか。

千人塚ができたのは永正年間から下ること100年余、元禄 9(1696)年の大津波のときだった。
 その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余。四倉、小名浜に千人塚を築く」。そのわずか19年前の延宝5(1677)年にも、磐城の浜に「大津波来襲、死者800名余」の大惨事になった。
http://www.j-cast.com/2012/01/22119521.html


永正9年(1512)8月4日、津波が宍喰を襲い、宍喰浦で3,700余人の犠牲者が出て、1,500余人は助かったという。この時代には、城や宍喰の中心は現在の正梶の地にあったが、津波により街が壊滅したため、その後現在の愛宕山に城を移したと言われている。なお、この永正9年の津波は幻の津波と呼ばれている。この日、徳島はもちろん、国内のどこにも地震の記録が見当たらず、外国の遠地津波によるものでもないようである。暴風津波(高潮)という説もあるが、被害規模から、被害地域が宍喰浦のみというのは疑問が残る。


一つは「村越伝説」である。静岡県史には、この頃浜名湖を襲った津波・高潮として、応永13年(1406年)、明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の3件の記載がある。
http://murakushi.net/information/history_06.html


1498(明応7)年の大地震の津波で太平洋の遠州灘の接する箇所決壊して海と湖水が通じ、
さらに1511(永正7)年の大津波でその間が広まり、今切という地名の名前が生まれた。

舞阪の象徴ともいえる浜名湖に浮かぶ弁天島は、1498(明応7)年の大地震で島となったところで、1709(宝永6)年に今切り渡船の安全を祈願して弁天神社が建てられてから、弁天島と呼ばれるようになった。
http://home.q08.itscom.net/you99/maisaka.htm


1605年2月3日(慶長9年12月16日)慶長地震 - 東海東、南海道で津波による死者多数。津波地震と推定される。

1611年12月2日(慶長16年10月28日)慶長三陸地震 - 東北の慶長津波(千島海溝沿いを震源とする説あり)、津波地震と推定され、伊
達政宗領内で溺死者5,000人[12]。仙台平野で内陸を2km溯上したと見られ、北海道南東部沿岸も大きな被害。最古の「津波」という語句の記載(『駿府記』)。


相馬藩政記-700人溺死



こうした記録は何を語っているのだろうか?津浪の記録は消失しやすい、だから永正9年(1512)の津浪は幻の津浪とされている。ただその後の慶長津浪は伊達藩にあり明確に記録されている。相馬藩政記-700人溺死と記されている。しかしただ一行だけでありどういう被害があったかは記されていない。
永正9年(1512)の津浪が四倉にあったというのは推測であり不明である。「千人塚」も津浪の死者を埋めたところとは限らない、戦死者とか台風とか他の被害もある。インタ-ネットでは津浪の被害で死んだというのは見いだされない。ただあまりにも多くの人が死んだので墓標のように埋められた死体があった。だから千人塚とういうこともありうることは推測できる。塩木が塩が来る-潮来というのもどうなのか?塩を焼く木を切った所かもしれない、そういう地名はあった。山の方でなく海辺にある村とするとどうなのか?そもそも四国や静岡などで起こった津浪が磐城地方でも起きたのか?
そういう明確な記録がないだろう。第一この津浪が幻とされているのだから磐城地方の四倉にあったということはどういうことなのか謎である。幻と言ってもそれなりに記録や伝承があるのだからあったことは確かだろう。


この頃浜名湖を襲った津波・高潮として、応永13年(1406年)、明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の3件の記載がある。


明応7年(1498年)、永正7年(1510年)

1605年2月3日(慶長9年12月16日)慶長地震 - 東海東、南海道で津波による死者多数。津波地震と推定される。
1611年12月2日(慶長16年10月28日)慶長三陸地震 - 東北の慶長津波(千島海溝沿いを震源とする説あり)、津波地震と推定され、伊達政宗領内で溺死者5,000人[


明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の間は12年
慶長地震から慶長三陸地震津浪は6年である


12年後と3年後にまた津浪が来ている。そんなに短い間に津浪が来るものなのか?3年後としたらこの辺は2年過ぎて3年目になるのだから津浪の警戒が必要だとなる。

伊達政宗領内で溺死者5,000人という数字はほぼ正確ではないか?相馬藩の700人溺死も数としてほぼ正確ではないか?なぜなら今回の津浪被害で宮城県が一番大きかったからだ。伊達藩は山元町までありそこも浜の方で被害が大きかった。伊達藩では津浪の後も開拓して米作りしていた。人手がたりなくなったので相馬藩の武士も開墾に従事した。その時は今のように津浪の来る所をさけるようなことがなかった。それより江戸に送る米が必要だからあえて危険でも開拓した。塩分はぬけるし米は塩分にも強いらしい。松川浦の和田の人は塩分の田んぼでも米をがとれたとか言っていた。放射能よりはましだとなる。


こういう記録を見ると400年前に慶長津浪は確実にあり 東南海地震,津浪もあったのだから周期的に東北でも東海道、四国でも起きることは推測されていた。それは科学者の仕事でもあり最近は貞観津浪が相馬市の松川浦の奥まで押し寄せたという砂が発見された。他にも貞観津浪の痕跡が明確に証拠として発見されていた。記録的にも400年後であり大きな地震が東北にも東南海にも起きる時期だったのである。貞観津浪のことは言われていたが慶長津浪のことはあまり言われなかった。
やはり記録からして東南海地震や津浪はいつ起きても不思議ではない、ただその時は東南海地震の6年後に慶長三陸地震が起きた。つまり今回とは逆になるのだ。でもプレ-トがつながっているから互いに影響し合うことが考えられる。互いにプレ-トがバランスをとるために交互に大きな地震が起きる。これは素人の推測だが何かわかりやすい解釈である。最近の河口湖の水が退いているのも前触れなのか?何か不気味である。

四倉は今回は被害は大きくない、広い砂浜が緩衝地帯になりあれだけ海に近くても被害が少なかった。海岸の松によじのほって助かった人がいたがここでは松ごと流されたから助からなかった。
津浪は地形に影響されやすいのだ。四倉の街が津浪にのまれたら大被害になった。久之浜は海岸にじかに接しているから被害が大きかった。だから四倉に永正9年(1512)の津浪があったということは何か疑問なのである。記録では海嘯としているからそれはあたっている。津浪は慶長三陸津浪のあとに呼ばれるようになったからだ。

元禄 9(1696)年の大津波のときだった。 その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余
 
元禄磐城小名浜大津波 ……… 1696年7月25日(元禄9年6月27日)
http://www.bosaijoho.jp/topnews/item_5820.html

この津浪の名前が磐城小名浜大津波であり限定された地域の津浪だった。津浪が幅広く押し寄せるときこれはどうしてなのだろうか?局所的大地震だったのか?プレ-ト地震ではなかったのか?
磐城小名浜にこれだけの津浪があれば原発のあった所の双葉浪江でも影響があったろう。
相馬藩の記録にはない、この地震の津浪なら四倉に確実に影響した。

千人塚ができたのは永正年間から下ること100年余、元禄 9(1696)年の大津波のときだった。
千人塚がこの時のものだとすると永正7年(1510年の津浪で死んだ人たちではない。


明治の学者・大須賀筠軒の著した「塩木村誌」を読む。「耕田寺縁起を按スルニ永正年間海嘯アリ近隣諸村併セ民家悉(コトゴト)ク流滅ス。天文ノ頃海嘯猶ホ来る故ニ潮来(シホキ)村ト名ツク後轉ジテ塩木村ニ作(ナ?)ルト云フ」


海嘯は慶長三陸津浪の前の名前だった。ただこの記録はどうして四倉に残ったのか?

ただこれらの記録から推察すればいかに双葉や浪江は近いのだから危険だったか明瞭である。
なぜ東電や政府はこうした津浪に警戒しなかったのか?その責任は重いはずである。
津浪には全く警戒していなかったのだ。ただ一応危険を指摘はしていたが何の対策もしなかった。
コストがかかるとあいまいにしてしなかったのである。


元禄磐城小名浜大津波 ……… 1696年7月25日(元禄9年6月27日)


この津浪を話題にしているものがほとんどないというのも不思議である。すぐ近くだから危機感があってもいいはずだった。これは300年前のことだった。津浪は短い期間の間にも来るし300年とかの間にも大きな津浪がどこかに来るということである。プレ-トだけではない、局所的なものとして津浪が来ることが記録から判明している。プレ-トのことばかり指摘しているが地震はどこに起きるかわからないのである。それに応じて津浪もどこに起きるかわからないのである。だから原発は日本では危険なのである。
 

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