2013年03月28日

桜の蕾ふくらむ(遅くはなく例年通りの開花か) (百人一首-紫式部-夜半の月の鑑賞)

 

桜の蕾ふくらむ(遅くはなく例年通りの開花か)

(百人一首-紫式部-夜半の月の鑑賞)


ようやくに桜の蕾ふくらみつ町の畑に種まく人かな


東京の桜ははやも散りにしと早きものかな時のうつりは


今年の桜は遅いと思っていたが東京ではすでに散っていた。この6年間はめまぐるしかく変わった。一身上もそうでありそのあと回りもめまぐるしく変わった。家族が分離して暮らしている人が多く飯館村では年よりは呼ばれたがここから出ないと仮設で暮らしている。やはりもう年よりになると広島だとか遠くには移れなくなるだろう。そういう家族の分離がこの辺で起こった。自分も一時町内でもそうなった。町内ならいいがこれがどういうわけか広島とか京都とかに若い人が移って仕事するとなるとあまりにも遠すぎるのだ。なぜそうなっているのかよく事情がわからない?何らか援助があるのか、または嫁の実家なのか?そういう人が四国にいた。


町内の畑で種をまいている人がいた。わずかでも畑を作っている人がいる。それを見ているとほっとする。ともかく人の営みというのがない暮らしがない世界は異常なのである。仮設でパチンコ屋通いは暮らしではない、確かにそういう人は隣にいた。でもみんなそうなると異常である。田畑がありそこに働くことが当たり前だったのにそれがなくなった。すると「種蒔き桜」というのがあるけどそういう感覚もなくなる。桜が咲くとき種をまくというのはまさに今日見た光景だった。この辺では町内にも畑があるからなごむのである。でも新築の家は増えた。西町は広い住宅地だったけどかなり家が建った。こんな騒ぎがなかったら家を建てる人もいなかった。ずいぶん長い間土地も売れず家も建たなかった。土地自体が800万円とか高い、土地はこの辺で安くなっていなかった。住宅は建て売りの安いものだけどそもそも土地代にとられるから日本では簡単に家は建てられない、3000万くらいかかるのかな・・貯えがあり補償金などを多くもらえる人は建てられる。でもここに仕事がないから若い人は家を建てても住めるのかともなる。


今日も一日家事だった。まだ整理がついていない、家事は料理から掃除から金の管理とかいろいろあるのだ。買い物でも結構手間なのである。料理で困ったのは買い置きすると古くなって使えなくなり捨てるのが結構あって無駄なのである。生ものはその日の内に食べないとそうなりやすいのだ。
二人だからあまってしまって捨てるのが多くなる。自分は毎日食費代2000円くらい使っているかもしれない、食費だけで高くついている。買ってすますとそうなりやすい、お菓子類も食べているから金かかっている。ただ買って手間を省いているのだ。

 

百人一首-紫式部-鑑賞-夜半の月

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   めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に
     雲がくれにし 夜半(よは)の月かな


 紫式部(57番) 『新古今集』雑上・1499


この歌を読んだのは週刊誌だった。石原慎太郎のことをこの歌に例えていた。週刊誌は新聞より面白いことは確かであるがこれも大衆向きにしているからこういう短歌をのせない、もし時事問題でも古典とかこうした短歌をのせると教養を深めることになる。そしてあとでも読むようになる。大衆向きなのはその時その時で終わってしまう。鴨長明の「方丈記」だって震災の時事問題を書いたがそれが無常を示すものとして人間の普遍性として書いたから後世に残り読み続けられている。
今に起こっていることは昔もそれも千年前以上にもあったことなのである。そういう人間の普遍的視点で今のことも書くとそれが後世に残り参考になる。ただ大衆向きの興味だけからではゴシップ記事にすぎないとなりゴミ箱に捨てられるだけだとなる。

この短歌は意外と年にならないと深く鑑賞できない、12年前にあった地中海のクル-ズの青年だがそれが何年前かと錯覚していた。こんなくに時間がたってしまったことに驚いたのである。その青年の記憶はすでにかすかになり思い出すのもむずかしくなる。でもその人が死んだわかげはない、日本のどこかで生きている。これも不思議なことである。人間は本当に老人になるとわかる、「さよならだけが人生だ」と本当になる。ただ別れてゆくのが人生だとつくづく思う。確かにいろんな人とあった。でも今や何も残らない、東京であった人はもはや雑踏の中に消えて無数の一人にすぎない、何も思い出せない、現代は濃厚な人間の出会いというのなくなった。人間が印象に残らないのだ。そうでない時代でも人間の出会いなどはかないものだった。あったと思ったらその人はどこかに消えてしまった。


若いときはそんなふうに思わない、あなたと本当にあう人はもしかしたら数人であり数人すらいない、あなたの心の深くにあった人が残るのは数人もいない、自分だと家族があって60年過ごしたからその二人くらいしかない。これはただ年数が長いということで記憶される。人間はそれだけの間長い時間あれば記憶に残る。夫婦はそういう時間をもっていることが貴重なのである。なぜなら老人になればわかる。絶対にそういう時間をもう作れないからだ。そして人はそうして心の奥深くまであう人は本当に少ない、みんなどこかに消えてしまう。

現代は特に人と会ったとしてもモノの売買などで会うだけであり深い所で会うということがない。ともにする時間がない、ここにいたなと思ったらいなくなったりしている。これは都会だと余計にそうなる。人間のこの世での出会いなどはかないものである。今日あって明日はこの世にいない、そんなふうに最後はなってしまう。そして死んだ人を思い出す人はさらに少なくなる。血縁で家族でも忘れてしまう。忘れられるのがまた早いのである。人間はそうして次々に消えてゆくだけ別れてゆくだけなのである。
だからこの短歌は人間の普遍的な真理を歌っているから深いのである。

老子が言っていたな、「会うことは奇であり、別れることこそ常である」とかな

この世で会うことこそ本当に奇しきことなのである。それは家族でさえそうである。

家族さえ別れからである。それぞれの家族となぜそうして長く過ごす時間をもっていることが不思議なのである。

人間は最後は永遠に会わない、会えない・・・それが常であり真実である。
会うということこそ奇しきことなのである。


今ここであっているな、どういう因縁なのかね、あとは永遠に会わないんだから
永遠に会えないということこそ会うことに厳粛さをもたらしている
だから昔は一期一会となったのである。

アマゾンで安易に注文したホルモン剤の危険 (TPP、グロ-バル化は安全が無視されやすい)


アマゾンで安易に注文したホルモン剤の危険

(TPP、グロ-バル化は安全が無視されやすい)

●薬には必ず副作用がある


手術後にホルモン剤を飲むなとかどこかで書いてあったことを思い出した。筋肉を強化する薬はアメリカ製でありアマゾンで直輸入できる。でも飲んだ人は体の調子がおかしくなったと書いた人が一人いた。あとはやる気がでてきたとか効果があった。ただ自分が失敗したのは手術後でありその影響を考慮しなかったことだった。健康だったら副作用もたいしたことがないかもしれない、手術後はこれはまたわからないし危険度が増していたのである。薬は安易に飲みすぎる。病院にゆくとやたら大量の薬を飲まされる。十種類の薬を飲んでいるとか言う人もいる。それは明かに過剰な薬の投与なのだけど病気になるとやはり藁をつかむ思いで薬に頼るのだ。精神病系統の薬はたいがい副作用があり悪いと言うのは本当だろう。精神系統はまだ良くわかっていないからだろう。薬で常に頭に入れて置かねばならなかったのが副作用があるということであった。効く薬はまた副作用が強い。抗ガン剤でも副作用がありかえって悪くする人もいる。薬の使い方はやはり慎重であらねばならなかった。


ただ医者が飲めという薬は飲まないとは言いにくいから困る。つまり薬の利用はむずかしいのである。筋肉系の薬でも一人は副作用があったとしても他の人は別にそういうことはなく良かったとかなる。それは体質とも関係しているし他にも何か個々人で関係しているものがあり全部に効いたりしないしまた副作用があるわげはない。ただ薬は慎重にしないと副作用が必ずあるということなのだ。
それから医者は手術をしたがるという批判もある。日本の外科医は特にその傾向があるという。

切りたい切ってみたい、切って腕をあげたい、切って優秀なところ見せたいとかの気持ちがあるのかもしれない、手術も成功すると効果が大きいからそうなる。失敗すると逆に薬の副作用のようにその影響が大きすぎるのだ。手術には必ずミスがつきものなのである。人間の体を傷つけるのだらいくら慎重にしてもそうなりやすいのである。ともかく患者も薬に頼りすぎるし手術にも頼りすぎることがある。手術が万能のような感覚に陥っている面がある。手術で致命的障害を負った人はいくらでもいる。ただすべて手術を否定することはできない、手術でしか治療をほどこせないものも多いからだ。

●安全は保証できない

 


 Q 混合診療を解禁すると、米国にどんな利益があるの。
 A 米国の巨大な製薬会社や保険会社は日本でシェア拡大を狙っている。解禁で保険適用が認められれば、自由診療を利用する人が増えて、高い薬も売れる。高い診療費をカバーするため、民間保険に入る人も増える。


ドラッグラグ・未承認薬が発生する直接的な原因は、次の2つに集約される。

日本の制度では効能・効果毎の承認を受けないと保険適用されないため、保険診療では承認されていない効能・効果には使えない(効能拡大問題に限る)。
未承認医薬品は、何時まで経っても、製薬会社が申請しようとしない。

 


自分がアマゾンからアメリカ制の薬を買おうとしたがこれは未承認の薬なのだろう。そういうものも販売されている。安全性が保証できないものも販売されている。インタ-ネットでそういうものが買える時代でもある。そこにまた落とし穴がある。グロ-バル化は安全性の面ではかなりマイナスな面があった。ウィルスが世界中に蔓延する危険や家畜の伝染病など世界中にたちまち蔓延してしまう。グロ-バル化のデメリットはかなり看過されていた。アメリカ人にヨ-ロッパ人でも食生活が根本的に違っているからその体質から特定の病気になりやすいものがある。アメリカ人は肉食に適したように酵素がでるという、日本人は穀物などを消化するので牛のように腸が長くなった。その土地の風土によって体まで作られてきた。だから風土にあった生活していると体にはいいのである。人間は世界中の食べものを輸入して食べる必要はないのである。牛肉などは本当は食べなくても他でタンパク質はとれていた。むしろ日本食が健康食として見直されたのは肉食民族と違った郷土料理があるためなのだ。

食生活は世界史にも大きく影響した。肉食民族のヨ-ロッパでは胡椒が不可欠になりアジアとの貿易を必要としてアジアに進出した。ヨ-ロッパはアジアより食生活で貧しかったのである。

ヨ-ロッパにはもともと資源や富はなかった。それでなぜ豊になったかというと知識や技術力だったのである。産業革命がそれを成し遂げたからこそイギリスが世界を七つの海を制覇した。工業化の結果として世界を制覇した。資源はない食生活も貧しかったけれどヨ-ロッパには知識と技術の集積ができあがった。ヨ-ロッパには天才が多いのも特徴である。天才もただ個人が傑出しても生まれない、やはりそれなりの全体の環境があって天才も生まれてくる。アフリカから天才は生まれないのはそうした知識技術の集積がなかったからである。日本が明治維新に西欧化に成功したのは江戸時代までの知識技術文化の集積がそれなりにあったから成功した。中国やインドもあったが遅れたのは日本のようにコンパクトな国でなかったからかもしれない、でも今や追いつきつつある。大きな国を改革するのは時間がかかるということもあった。


●原子力発電も安易に日本にとり入れたための失敗


ともかく現代の病気は栄養のとりすぎで糖尿病になったり体質にあわないのに欧米化の料理になったり肉食過剰になったり薬の飲み過ぎとかそういう贅沢から病気になる。一方で江戸時代辺りは脚気など栄養不足と薬のないことかなっている。一方で糖尿病のようなものはなかった。江戸時代に一割近く眼病があったというのも栄養不足だったのである。今は栄養過多から病気が起こりやすいのである。TPPの問題はアメリカのものが安易に入りやすい、薬でも危険な物が入りやすい、食糧でもそうである。遺伝子操作された食糧でもそうである。中国の食品は危険だから食べないという人も多くなった。日本の売りは安全だったのである。日本は外国と比べて治安も良かった。バッグを忘れてもどってくる国はほとんどないだろう。日本では警察に届けられることがある。田舎では忘れ物はほとんど届けられている。これは外国人も驚くだろう。ただ大きな犯罪は田舎でもありそれはまた別な所にあった。人と人が向き合うところに大きな犯罪が起きてくる。これは田舎でも同じである。

ただ原発事故のことでずいぶん書いてきたけどなぜ日本で事故が起きたのか?技術力があり安全の国ということで外国の評価が高かった日本でなぜ起きたのか?それはやはり日本の独自の風土と文化が根底に関係していた。原子力というのを何かわからずに明確に検討されずに安易に導入したのである。コストが安いからとか安全の面を考慮されていなかった。外国料理でも日本人にあう料理になる。技術もやはりその風土にあったものとしてとり入れることが必要だった。日本人は外国文化を入れるとき取捨選択して入れていたのである。それがグロ-バル化でなくなった。ただ便利だからいいということで無防備に入れてしまったのである。グロ-バル化でもTPPでも安全がないがしろにされることが一番恐い、でも安全は保証できない、すると原発事故のようにとりかえしがつかなくなる。
国さえ滅びかねないともなる。グロ-バル化は安全に対しては無感覚にしてしまった。あまりにも自由にヒトもモノも出入りすることを許してしまった。それが致命的なものとして事故が起きる。
原発をとり入れたことは日本では致命的だった。地震国であり津浪がある国ではどれほど危険だったか?また事故が起きたら国土が狭いのだから逃れる場所もない、原発は日本国土にあっていなかった。TPPさらなるグロ-バル化であり安全性は保証できない、原発のような落とし穴がある。薬のように副作用が大きくそれが致命傷になるということがあるから恐いのである。