2013年03月26日

春寒し-春満月(海老の人と会う)


春寒し-春満月(海老の人と会う)

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春寒し今日会いしは海老の人

我が町は仮説あまたや春寒し
街中に春満月やレストラン

春の夜や梟鳴きぬ月明かり

今日ス-パ-であったのは海老の人だった。地元の人で津浪の被害にあった人とはあまりであわなかった。その人から津浪の話しを聞こうと思ったらできなかった。あそこで前には浪江の人とあった。
たいがいは小高の人だと思っていた。でも海老でも津浪にあって仮説に住んでいる人はいる。ほかにもいる。この原発事故で問題になったのは補償金だった。鹿島区の人は補償金をもらえないからと交渉して一所帯百万とかもらった。ただ津浪の被害者は別に補償金はもらえないのだ。漁業関係者はもらえる。海老は漁業をししていないからもらえない、それで小高の人は補償金もらっているからと同じ仮説に住んでも羨むことになる。浪江の人も警戒区域の人はさらに小高よりもらえる。この辺は補償金の額で色分けされているのだ。相馬市では原発事故では補償金がもらえなかった。津浪の被害者は義援金などをもらっても原発の補償金はもらえないのである。だから一番辛いともなる。それで飯館村の人がトマト農家に採用にならなかったというとき津浪の被害者を優先したからである。
松川浦の漁業関係者は補償金がもらえる。常にこうして補償金で色分けさせられるのが被災地域なのである。宮城県では原発補償金そのものがないのだからこういうことはない。そこにこの辺の複雑さがある。


ただ仕事がなくなったのだから暇な人が増えているから何もせず買い物にきてス-パ-のベンチに座っている人がいてそういう人と会うのである。補償金からその人を見ると海老の人はもらえないからほかでも津浪の被害者はもらえないからあわれだとなるが補償金を十分にもらっている人はあわれだともならない、ただ地元でも羨(うらや)むだけになってしまう。あわれだ、かわいそうだというとき今回の津浪原発事故でみんなそうとはならない、原発事故関係者はそういうふうに見られない、補償金で遊んで贅沢しているじゃないかとなる。東京や仙台の歓楽街で遊んでいるとかも言われる。いくら金もらっても回りの眼が厳しくなる。狭い田舎だから西町の住宅地に一見だけ広い庭を石作りで囲んで家を建てるのが見えた。あれは立派な家が建つと思った。他は建て売りの安いのがほとんどである。ただ一軒だけ違っている。すると誰の家だろうとなる。それは鹿島とは限らない、浪江かもしれない、この辺は他からも入ってきているからわからない。ただ話題にはなるだろう。自分ではいち早く商売が繁盛して大きな家を40年前に建てた。その時まだ他は高度成長の恩恵に欲していないのでうらやまれた。いやがらせさえ行われた。それが田舎である。今はそういうことはない、みんな田舎では家を建てた人が多いからだ。この辺では宅地造成で何千万かの補助がでて新築したのである。


今日は原町のレストランのココスで和風膳というのを食べた。あれは安くても栄養があるからお得である。ちょうど春寒いのだが満月がでていて気持ちよかった。原町の駅前通りとかは事故後は本当にシャッタ-通りになってしまった。シャッタ-がみんなしまっていると何か異様にも感じてしまう。
空家なのかとも思ってしまう。街自体が消失してしまった感じになる。六号線の方はレストランとか店もありたいがいは駅前には来ない、街というとき六号線の方になってしまった。
何か寒いのだけど春の満月であり自分は心にも余裕が出てきた。結局身体障害者のままだったら悲惨だった。身体障害者とか障害者になると弱者のままでありそれは結局誰かに世話され続けることになりその世話する人の奴隷のうよになってしまうことの恐怖だった。そして世話する人には逆らえないのである。弱者から脱せられなくなる恐怖であった。今は体にも余裕があるから強者となっている。弱者としていじめられたからそういうとき実際はいじめた人は本当は恐怖せねばならぬ。復讐されるかもしれないのだ。人間は弱者になってもまた強者にもなる。だからへたに相手が弱者だとしていたぶったたら後で恐いという恐怖ももつべきである。


しかし自分が弱者となったとき全くつけあがり言いたい放題でありまるで奴隷のうよに扱った。まあ、絶好したがそれでもあとが恐いということを知るべきである。だから弱者でもそういう人に接するのは注意が必要である。弱者になったとたん人をみくびり下にみて奴隷のように扱ったりしたらやはりあとで恐いとなる。ロ-マでも奴隷の反乱があったときいかに人間はいつまでも奴隷扱いのままではいないということである。それだけ人間の扱いはむずかしいのである。だからそもそも人間を雇うこと自体本当にむずかしいからしたくない。機械の方が楽だとなり機械がこれだけ発達したのだろう。人間はとても機械のように扱いないからだ。
でも時給制の労働は何か奴隷制のよう地も見えてくるのだ。現代的奴隷制なのかもしれない。


夜は梟が鳴いていたみたいだ。梟の声をこの辺で聞いたことがない、梟がいるということはそれなりに自然があることなのだろう。森がないと梟もいないし餌かないと梟も住まない,この辺は水田がなくなり原野化したのでノネズミが増えたからかもしれない、ノスリも増えたのもそうだったのかもしれない、水田がないということは自然に何か影響している。どういうふうに影響しているかはよくわからないのだ。土ばかりだと虫がふえているかもしれない、水田でも水生の虫がいたが土にはまた別な虫がふえていかもしれないのだ。自分は料理ができない、あと洗うのもめんどうだからレストランで食事した方が楽である。あとは介護だと弁当が楽なのだ。まずちょっとした食事の容易でもめんどうなのである。あと洗うのもめんどうである。外で食べた方がうまいものがある。納豆定食はなぜか牛丼屋で食べるのがうまいのである。あそこで朝食べればそれで結構一日のエネルギ-になる。洗うこともないので便利なのであるが鹿島になはないから困るのだ。一人暮らしがふえるというとき田舎はかえって不便である。4万くらいの都市だとそれなりのものがあるがここにはないからだ。

見過ごしていたコメント (高齢化社会の恐怖-弱者を虐待する人間の悪魔性)


見過ごしていたコメント

(高齢化社会の恐怖-弱者を虐待する人間の悪魔性)


高齢化社会の恐怖-老人虐待が日常化する
(弱者はカルト宗教団体だけではない、個人も同じ手法で脅すことが普通にある)
http://musubu2.sblo.jp/article/61582877.html


ここにコメントされたものです



病院は刑務所と同じ。患者は研究対象のモルモットがストレス発散の為の玩具。90才の老人が痰吸引で苦しむ姿を見て笑う看護師…自分が指摘した母の臀部に出来た褥そうになる手間の水疱を水疱ではないと看護師に否定されました。しかし、水疱は破け褥そうが広がり、褥そうの処置に大声で痛みを訴え泣き叫ぶ母を見て笑ったり、「凝らしめたる」だとか、痰吸引で苦しむ姿を見ても何とも思わない看護師の恐ろしさ、母の泣き叫ぶ姿や自分は看護師や医者に裏切られ弄られても抵抗出来ない姿を思い出し、辛くなりました。医者は研究対象から外れたら、もうベッドを開けて欲しいから死期を早めることも自由自在。私が怒り苦情を言えば、私がいない間に母を弄り、今思えば、母が私に「もう、何も言わんといて」って言った意味が分かりました。こんな恐ろしい医療従事者がいるなんて信じられませんでしたが、自分の大切な人が被害にあい、恐ろしさを目の当たりにしました。事実は形に残して正解です。医療従事者の言いなりになり、物以下の扱いをされ過去形にするつもりはありません。


ストレスが原因とはいえ、目の前の癌患者を虐待した裏には、悪質な医者、カルト教団、見栄をはり消費者金融で借金して外見を飾り、会社経営して、しっかりしていると思わせたかった葛集団、母に借金の肩代わりさせた事実を隠蔽したかった元兄嫁や妹が繋がっていました。
高齢者や女子供や障害者が虐待の対象にされるケースが多いですが、虐待する側にも、同じ対象者が当てはまります。障害者にも色々で、精神薄弱者が加害者になる場合も多々あります。だいたい、カルト教団に入る様な人間やカルト教団と取引し悪事を重ねる事が出来る人間は自立出来ていませんし、攻撃機制があります。



90才の老人が痰吸引で苦しむ姿を見て笑う看護師・・・・


自分も入院した隣の90才以上の老人がそうでした、その人は特養の人で身寄りがなかった
だから看護師がおもちゃのように扱っていた、痰がつまるのは本当に苦しい、
その苦しむ声が毎日隣から聞こえてくるので眠れなかった
看護師はそれを笑ってやっていた。
看護師は天使にもなれば悪魔にもなるというとき悪魔になっていたのでしょう

病院は実際は恐ろしい所です、看護師にも一人だけど虐待的なことをされた
結局それも身寄りがないからそうなった、家族などみているものがないとしたいほうだいになる
だから身寄りがないものにとっては病院は恐怖です


痰吸引で苦しむ姿を見ても何とも思わない看護師の恐ろしさ・・・・端からみても地獄の苦しみでしたよ、あんななる前に死んだ方がいいと思った、つまり長生きするとは恐ろしいリスクが待っているというのも現実です、長生きさせられて生きながら地獄の苦しみを受ける恐怖です
病院で死ぬことは本当は相当に恐いことです


安楽死させろというとき安楽死の方があれをみていて人情的だなと思った
一層殺してくれと患者も言葉にも言えないが端からみてそうだった
安楽死の方があんな苦しみを受けるよりよほどいいと思ったし否定できない

長生きするということは苦しみも増えるということです
自分の姉は本当は脳出血で倒れて入院したけどそのまま死んだ方が楽だった
半年以上入院して地獄の苦しみを味わった
結局最後は老人は直らない病気になり死にいたるのだから
何でも病院にまかせるとただ苦しませられるだけになるし病院の方でもその治療や介護で膨大な労力を費やすことになるだけです

自分も親戚に言葉の虐待を受けました、これにカルト教団が加わったら最悪です、自分の場合は身寄りがないことですべてそうなった、病気のときまでいじめられると思わなかった

人間は全く残酷です、この六年間は介護や自らの病気や犯罪にもあい苦しみの連続でした
最近こんな非情な社会になったから津浪が起きたんじゃないかと思います
人間社会の終末が来ているのじゃないかと思いました
最後の審判のときが近づいているのだと思いました

自分はなんとか借金している親戚と切れましたし今は病気も一応回復したし身体障害者でなくなりましたから楽になりました、なんだかやっと楽になったなとほっとしています
自分の場合はなんとかあきらがつきます
だからただ忘れることを願うだけです

 


●身寄りのないものは入院すると最悪になる
このコメントを書いた人は裁判にするまで恨んだ。自分もこれと同じ様な経験をした。つまり人間は弱者になったときそれをいたわるどころではない、弱者になったことをいいことに脅迫するしてくる。もちろん火事場泥棒のような犯罪にもあった。それも自分が病気になり弱者になったからである。弱者を攻撃することは実に容易である。でも弱者になると何も言えない、お前には頼るものがいないから俺たちの言うことを聞くほかないと言われる。弱者になったことをいいことに責められるのだ。看護師も一人だけであるが入院して虐待された。それも恐怖だった。その看護師が怖くなってトラウマになり何も相談することもできなくなる。何か悪いところがあっても言えなくなる恐怖があった。弱者だからどうしてもみてもらいたいことがあっても言えなくなるのだ。医者とか看護師の前では患者は一方的に従うだけのものとなる恐怖である。何も言えない、もし寝たきりとかになると余計にそうである。もちろん認知症とか精神障害者はもう何も言えないから虐待されるままになる。


そういうときなぜかいろいろなカルト宗教団体が入り込んでくる。それは創価でも一票獲得のチャンスとなりまた他のカルトでも会員を増やすチャンスとみて入り込んでくる。同情などは全然ない、自分たちの勢力拡大のために入ってくる。またそういうものに頼らざるをえないことも恐怖なのである。自分が頼った親戚もそうだった。親戚でも金が欲しいだけでありいやいやながらやっていた。
だから何かするにもいちいち恩を着せるのである。手術するときも身寄りがないから保証人の欄に一応書いてもらった。たいした手術ではないにしろそういうことをしてもらうと多大な恩をきせられる。身寄りがないということはなってみないとわからない、もう誰にも頼れないという恐怖である。


人間は家族などがいなければ誰も同情などしないのである。病院でも医者も看護師も同情はしない、ただ物体のよう地扱うだけになる。そもそも医者や看護師側から見れば赤の他人であり次々に運ばれてくるしもう嫌だという感情がでてくる,同情しきれないという感覚になってゆくのかもしれない、人間的同情感覚正常な感覚が麻痺してくるのかもしれない、もうこんなに死にかける大量の老人を世話するのは嫌だという感覚になるのかもしれない、そういう感覚になることはイメ-ジできる。
それだけまた看護の現場が過酷だからまたいちいち同情していたら身がもたないということもあるだろう。だから看護師はやめる人が多いというのも納得がいく、あまりにも理想とはかけ離れた過酷な非情な現場だともなる。


●安楽死もある場合は肯定されるべきだろう


高齢化社会の大きな負の面が過度な介護とか延命治療にある。だから安楽死させろというのも一面わかる。入院した隣の人は安楽死させたた方がどれほど情があるのかとさえ思った。看護師のおもちゃにさせられて苦しめられるためにある。特養だからその人に金はなくても国で出すから生かしておく、生かされることがもはや地獄の刑罰のうよになっていたのだ。それは延命治療でもあるし自分の姉も地獄の苦しみを味わった。泣き方が異常だったのである。それほど苦しかったということである。これは他の人も病院でそうした苦しみを受けているのだ。だからあるところからはただ苦しませるために生かしておくとまでなっているのが今の医療なのである。人命は生きる限り尊いものだというのではない、それほど苦しんで人はもう生きたくないのだ。

結局人間は最後に自分の死を選べない、意識不明とかなり病院に入れられてそこで眼が醒めたら地獄の苦しみを味わう場になっていて逃れられなくなるそこが拷問の場とさえなっていた。延命治療は直るならいいが直らない患者を苦しませるために長生きさせるだけのものとなる恐怖である。特に特養の老人がそうだったように何も抵抗できないしただ弄ばれるだけだという恐怖があるのだ。
それも身寄りがないということはそういう身寄りを作らないことが悪いのだともなるだろう。

自業自得としてその罰を受けろとまでなるのかもしれない、人間の最後をよほど真剣に考えていないと今の時代は恐怖である。孤独死が言われるが別にこれが悲惨ということではない、瀕死の状態で病院に運ばれて延命治療されて苦しみが長びくことこそ恐怖なのである。助かるにしても高齢になるともう死だけになり苦しんで死ぬだけになるからだ。姉も半年長生きしたとしても異常な苦しみを経験しただけだった。でも今は必ず救急車を呼ぶから呼ばざるを得ないからどうしても苦しむ期間が長くさせられるのである。


●弱者には親戚やカルト教団がからみ食い物にされる


ストレスが原因とはいえ、目の前の癌患者を虐待した裏には、悪質な医者、カルト教団、見栄をはり消費者金融で借金して外見を飾り、会社経営して、しっかりしていると思わせたかった葛集団、母に借金の肩代わりさせた事実を隠蔽したかった元兄嫁や妹が繋がっていました。


これも自分と多少にていた。その人は会社を経営していて成功したように装っていたのだ。
それもただ見栄のためだった。借金をしているからどうしても金にこだわり自分が病気になったときそれをいいことに暗黙の内に金を要求するようになる。まあ、別にそれなりに同情して助けてくれるならいいが実際は同情は全然ないし恐喝まがいのことをしてきたのである。こんな人に頼ること自体最悪だったのだ。こういうことは20代で若くして父親がアルツハイマ-になった人がインタ-ネットに書いていた。親戚にいいようにされ金をとられてだまされたとか書いてあった。その恨みを延々と書いていたことが自分にもあてはまる。人を見るとき弱者にどういう態度をとるのか?それをみているとわかる。弱者に横柄な態度になり虐待までする。そこに人間性が見えてくる。それは男女関係でもある。女性が齢から虐待されるのだ。虐待することに喜びを感じるのも悪魔的性格が人間は誰にでももっているのだ。


人間はまさにショ-ペンハウエルのように悪魔的なのである。それは自分もないと思ったがある。人間は誰しもジキルとハイドなのである。そういう悪魔的側面が隠されていてそれが自分のように病気とか弱者になるとそれ幸いとつけこんできて虐待されるのだ。人間は一面恐ろしいものなのだ。愛とか慈悲を説く宗教とはあまりにもかけ離れている人間の本性は悪魔だともなる。
カルト教団は悪魔的なものである。宗教看板にして弱者救済するように見せかけて勢力拡大を計るだけである。そもそも弱者に同情する人がこの世にいるのかとなる。

もちろんそういう側面は自分にもあるからただ他者を責めるということもできないのだ。弱者を虐待して快感を覚えることは男女の関係でもあるし常に人間に備わっているものなのである。だから人間が弱者になったとき本当に同情する人は希有な人である。一人だけ馬鹿正直な女性が同情したのである。その女性は本当に同情したから今になると今の世の中ではありえないとさえ思った希有の女性だったのである。