2013年03月24日

権力を持っている人が責任がある (原発事故は誰の責任なのか?)

 

権力を持っているものが責任がある

(原発事故は誰の責任なのか?)


●権力を行使できる人が責任ある


原発事故とか戦争の責任が誰なのか今やわからないし問われない、政府も東電も何ら責任をとっていない、官僚もとっていない、第一検察も東電の弁護をして原発を推進した方でありマスコミもそうだった。そして誰一人として責任をとらないのも解せないのである。戦争のときも300万人以上死んでも誰も責任をとらない、結局国民にも責任があったとして責任をとらない、原発事故も地元も積極的に誘致したのだから地元にも責任があるとして責任をとらない、みんな責任があるのだから誰も責任をとらないとなる。ただ人間は責任がないとかなんとか言っても必ず責任をとらされるのだ。
責任を逃れられないようにできているのだ。今は責任をとらされなくても百年後か二百年後かしらなけどいつか明るみに出されるし罪の結果は必ず暴かれる。偽りも必ず暴かれる、個人の犯罪でも集団の犯罪でもそうである。つまり必ずいつかは罪もあばかれ責任をとらされる。「死後裁きにあう」というときまさに責任を死んでも逃れられないという厳しさがある。生前は隠し通せても死後は隠せない。


責任というとき誰に責任があるのかということである。これを社会全体で考えるとわかりにくい、でも卑近な例で考えるとわかりやすいのだ。頼りにした因縁あった親戚の人は85才とかなり家に来ることもできなかった。最初は電車できていた。だから60才の娘の車がなければ自分の家に来ることもできなかった。そして年であり助けることもできなかった。何かできたのは娘だった。その娘は自分の家に来て何もしなかった、助けることをしなかった。こういう場合責任は誰にあるのか?何もできない人に責任はない、何かできるのにしない人に責任があるのだ。車にのせてもらわなければ来れないのにその娘がまるで来る気がなかったら母親も来ることさえできない、とすると母親には責任があったとしてもできないのだから責任を問うことはむずかしい。すると娘はできるのにしなかったから責任があるとなる。もちろん個々の事情がありそれはあなたの一方的な見方だということも言える。
ただここでは誰に責任があるかということのあくまでも一例としてあげた。


●単に金をもっているもの公務員も権力がある


何かできる人は何かできる権限がある人は責任が重いとなる。だから金持ちはそれが遺産として入るにしろ何にしろ金もっているだけで責任を課せられているのだ。あの人は土地を売って何十億の金が入ったというときそれは何十億の責任を課せられたのである。その金を放蕩に使えば社会はその責任を問うし責める。金を持っていない人は今の金万能社会で責任は問われない、盗みでもその額によって本当は責任が問われるのかもしれない、江戸時代は十両盗んだら首が飛んだ、盗んだ額によって罪の軽重が決められていた。でも実際は少額盗んでも刑罰は同じだったりする。はっきりいえばこの社会で百億でも盗む人は英雄になる。千人殺せば英雄になるのと同じである。それだけのことをするには相当の権力と地位をもたなければできないからだ。だから戦争はまさに千人を殺せば英雄になることを実現させたのである。普通の時の社会ではそういうことは絶対できないからだ。だから盗んだ額によって来世では裁きがあるかもしれない、なぜなら一万とか盗んでもそれは返せる、一千万とか盗むともう絶対に人は返さない、盗んだものの額が多いから手放せなくなる。盗みであれ財産を獲得することはさらに欲が生まれ返せなくなる。だからその罪は消えなくなる。現代はともかく金、金、金の社会になっているというとき金によって責任の過多があらゆる所で生まれているのだ。

公務員も結構責任あるし権力をもっている。自分の本が創価を批判しているかとこの町の図書館に置けなかった。それができたのは公務員はやはりそうした力をもっているということである。これは他でも共産党でも批判したら図書館に置けなくなったものがいた。こうして団体はみな権力をもっているからその権力で社会を支配しようとする。だから東電でも自治体の上のクラスの町長であれ公務員であれ目をつけてとりこんだという。そこには金が回っていて富岡町長の5億円の金庫が話題になったのである。それも煙がたたないところに噂もたたないから何か今度の原発事故を象徴していたのである。

創価などでも日々の活動はいかに社会の権力を掌握することにかかっている。だから教員とか公務員とか弁護士とか政治家でもすべて権力を掌握するために送られてくる。創価大学も権力の中枢に送るために作られたのである。公務員は公正ではない、必ず権力の働く場所なのである。だから団体の推薦で生活保護が受けられるというのは本当なのだろう。創価か共産党に入ればその権力で優先的に生活保護が受けられるとかなる。そういうことはいろいろな場所で普通に行われているのだろう。権力をもっている子息はマスコミに優先的に入社できるとかいろいろ普通にある。だから何であれそういう権力を行使できる人たちは一番責任がある。
検察でも警察でも一番責任ある部署である。そこでも権力の乱用は常に行われている。権力ですべてが決められるときこの世はただ公正な権力の使用ではなく権力あるものが勝手にすべて決められるとなる。ただその権力の所在がどこにあるのかはわかりにくいのが社会なのである。

原発事故がどうして起きたのか?その責任は誰にあるのか?それは結局人間がすべて権力を求めるだけのためにある、社会も権力を求める競争にある。その権力とは何かというと現代では金になるから金になりさえすればすべてが許される社会だからこそ原発事故が起きたとなる。安全より金だ権力だということではすべて一致する。政治家も官僚も宗教団体も経営者も労働組合も地元もそのことでは一致しているから団結できたのである。科学者もほんの一部の人は原発の危険を警告しても大多数はそうした多数の力に押されてしまったのである。権力機構そのものが善に向かって構成されるのではなく悪に向かって構成されるようになっているのだ。検察は正義の見方じゃないのかというとき原発とか大きな戦争とかなるとただ大きな権力側につくだけなのである。アメリカが検察を動かしているというのは嘘ではない、中国に支配されれば中国のいいなりになるのが検察機構なのである。だから小さいことに関しては公正さがあっても大きな国民的課題になると権力側につくように構成されているのだ。


●巨大な団体の責任は誰も問われないのか?


だからもはや社会自体が自浄能力がないものとなっている。誰も正せないし責任の所在もわからない、ただ権力を行使できる人が責任があることは確かである。でもそもそも様々な団体の責任はどこにあるのかとなる。政治団体であり官僚であれ組合であれ宗教団体であれそれらの責任の所在も明確にはならない、そもそも個人にはないのだからわからなくなる。その団体に問うても「私はただの一会員、社員にすぎません」となる。それはナチスと同じである。「私は上の命令でガス室送りに署名しただけです」それで終わりであり何も責任も感じないのである。大成建設の社員が除染で不正をしていても社員は上の命令でしていましたというだけで責任はとらない、団体は責任をとらない仕組みになっているのだ。大成建設という巨大な会社の責任を問うとなると一個人などできなくなっている。それは東電でも同じである。相手は弁護団をもっているしとても一個人では歯がたたなくなる。


でも自分の本を自分の町の図書室に置くなと断ったのはそこにいた人が責任がありその個人が執行したのである。その理由もはっきりしている創価を批判したから置けないという理由だったのである。こういうことはマスコミでも団体でもいくらでもある。個人は権力がないとしたら無力である。それがいかに正しくてもそうである。ただ団体はどんな悪でも権力があれば公務員でも支配できるということである。もちろん警察も検察も支配できる。そして団体の責任とかを問うことはできない、東電が責任があったとしてもなぜ誰一人として問われないのか?社長でする今では別な派遣先にうつり億の退職金もらったとかなっているのだ。社長や会長の責任も全く問われていない、地元では責任を逃れようとしても一応苦しい目にあったから違っている。政府とか官僚とか検察とかマスコミでも団体でも責任は問われないのである。


人間社会の不思議は百円盗んだら責任が問われる、十億円盗んだら責任を問われない、千人殺したら責任が問われない、巨悪はもはや責任を問うことすらできないということである。もはや人間の力では不可能だということでてある。だからここに神の介在がなければもう人間社会は改めることさえできないとなる。それが大津波だったのかもしれない、だから確かに中国で易姓革命(えきせいかくめい)というのがあるのだと思った。天変地異でこの世が変わってゆくということ改められるとうい巨悪が暴かれるということである。ノアの方舟の洪水もまさに人間の悪故に大自然災害が起きたのである。自然災害は規則的に科学的現象でありそういうものと関係ないとういが何か関係があるのだ。人間の巨悪とか奢りとかを正すために人間社会の想定を越えたことが起こってくる。それが大津波だったのである。


天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天命を革める)が起きるとされた。


人類の罪はアダムの堕落にはじまりカインの殺人がありプロメテウスの火を盗むことの刑罰も重いものだった。核も兵器として恐ろしいものであったが原発としても恐ろしいものだった。その扱いを誤れば人類滅亡になる恐ろしいものだった。つまり核そのものによって恐ろしい罰を受けたのが事故の直接被害を受けた所だったのである。


神々がシシューポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。


シシューポスの罰もこれは別に個々人にもある。普通に有益なことをしないものはこの罰が課せられる。確かに有益なことは何かは個々人で違っている。でもそれぞれに何かをしなければならない時がある。恩受けたり何か一方的に与えられているのにそれを返さないときそういう機会があっても何もしないものはこの罰が課せられる。パチンコで働くものもそこで遊んでいるものもある意味で無益なことをしている。働いて息抜き程度ならいいがそこで働くこともそれが毎日となると無益なことでありそれはあとで罰がくだされる。確かに今のうちはいい、今後そういうことをつづけていればいろいろ困ることが生じてくるし罰が与えられる。人間は生きている限り責任を負わされている。すでに生まれたこと自体が罪のためであり結果としてその罪の責任を負わされる。来世ではなく今世でその責任が負わされるのである。大きな世界でもそうだが個々人でも必ずそうした責任をとらされのだ。自分もまた種々の苦難がつづいたのも罰だったかもしれないのだ。
団体になるととらされなくなるから今回の自然災害とか想定外の自然の神の力が働く、最後は最後の審判で裁かれる。この世の悪が裁かれずに終わるということはないのだ。個々人でもそうだし全体でも団体でも同じなのである。ただ団体が罰せられるには時間がかかるのである。

posted by 老鶯 at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連