2013年03月15日

春寒し(相馬市への街道-忘れられた養蚕農家の家)


春寒し(相馬市への街道-忘れられた養蚕農家の家)


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二階が養蚕の部屋だった
二階を広くするために平な屋根になった
でもこれは中がどうなっているのかわかりにくい
町中にも農家が結構あったから養蚕していたことは
間違いないだろう

春寒し街道沿いの馬頭の碑
春の星満ちしも閉ざす遠き道
街道の細道あわれ春寒し養蚕の家二軒残りぬ
春の星きらめきふえぬ仰ぎつつまた新しき未来を望みぬ


日立木からイオンの相馬市へ出る細い道の家を見たら養蚕をした家だった。二階がそうなっていた。これと同じ作りの家が二軒あった。それが今まで気づかなかったのである。普通の家だと思っていたのである。数限りなく通っていても気づかなかったという不思議である。かえって阿武隈山地ではこういう作りの家が目立つから印象に残っていた。ここはいつも通っているのに気づかなかったのである。人間はつくづくこういうことがある。灯台下暗しなのである。馬頭観世音の碑がどこにでもあるから気づきやすい、意外と碑には注目していたから見ていた。街中だと普通の家だと思っていたのである。そしてあそこの道は本当に狭いのである。まさに奥の細道なのである。あういう道が江戸時代の道だったのである。曲がりくねって細いのである。六号線ばかり行っていると昔はほとんどわからない。馬頭観世音と言えば馬が運送の主役だった。そういう昔は街道が残っていればそこを何度も通っていると偲ばれる。その道は確かに江戸時代から変わらないものだからである。


養蚕は日本の主力産業でありアメリカへの輸出産業だったから今の車と同じだった。ただ養蚕はやはり農業であり桑の葉が大量に必要だった。だからどこでも田舎では桑の葉があった。桑の葉もあったし麦畑も必ずあり子供のときは麦御飯だった。養蚕は江戸時代からつづいていたのである。養蚕自体忘れられてしまったけど今の80代の人は養蚕関係にたずさわっている。工場も紡績工場であり原紡などは有名だった。これは日本全国で女性の働きの場であり現金収入の場だったのである。機織りはそれまで個々人の家でもしていた。でも大規模な工場化したのは大正時代辺りからである。機械が導入されてそうなった。結局この機織り工場で絹織物をアメリカに輸出して外貨をかせぎそれで富国強兵となり軍備に力を蓄え戦争になったという批判もある。ともかく街道の細道を通り養蚕の家を二軒見ると確かに昔が偲ばれるのである。そうでないと昔にそういう生活が暗たということ自体偲ばれなくなる。すると現代だけの社会となり


夜は春の星が満ちていた。ただイワキの方への道は閉ざされている。それは閉塞感を生むのである。ともかく介護で一日も自由にならないのも又運命だったのか?その分これまで自由だった分の復讐を受けているのかもしれない、実際に人間はそういうことがある。あまりに楽した人間は必ず苦難を受ける。苦は楽の元であり楽は苦の元にもなる。人間一生楽なことなどありえなかったのである。

今日は多少寒いから春寒しだったのだろう。気候の変動が激しいのが今年だった。