2013年03月10日

初蝶を庭で見た!


初蝶を庭で見た


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初蝶を我が庭に見て老いゆきぬ

今日は黄色い蝶が一羽庭に飛んだ。初蝶を庭で見るのはめずらしい、たいがいこれまでは外でみていた。作家が庭作りに励むのがわかる。あの人は若いときはライダ-であり相当乱暴な人だった。でも年老いて庭作りに励んでいる。年とるとやはり遭難てゆく・・・何か庭作りが老後に向いている。

外に出てゆくより家とか庭とかが安らぎの場所になる。外に出ていかなくても中に入ってくるものが蝶のように美しいものだったらいいとなる。これまで入ってきたのは録なものがいなかった。
最悪の人しか来なかったのが悲劇だった。


初蝶を見るのはやはりこのところ異常にあたたかったしその影響もある。今は北風がぴゅうぴゅう吹いている。まだ梅は咲いていないから今年は遅いのだろう。プログは人に読んでもらうのもあるが
日記でありその時々の記録として書いている。初蝶が来たとか白鳥が来たとか帰ったとか書いておけば記録になる。ただ記録としても意味がある。


あとで読んでみると自分の書いたものすら相当に忘れている。自分の書いたものに感心しているのも不思議である。人間はそれほどわすれ安い動物なのである。だから記録するということは意外と大事なのである。この辺で起きた400年前の慶長地震の津浪で7百人溺死としか書いていないのはこうして庶民が記録する習慣がないのは字が書けない人が多かったためである。記録した人は役人であり庶民は記録できなかった。ただ記録しなくても庶民は言い伝えで伝説などで残すものがあったがそれも残らなかった。それがどうしてなのか?一つの謎である。すぐに忘れるほどのものだったのか?その辺がわからないのだ。伊達藩では記録されていたが相馬藩で一行だけだったのも解せないのである。


津浪から二年また春が巡ってきた。庭で初蝶を見たことは縁起がいいかもしれない、あまりにもいろいろなことが起こりすぎた。だから平穏な生活でありたい、これは自分だけではない、この辺ではみんなそうである。故郷でなくても春は来ることは確かであるがやはり故郷に帰りたいとなるだろう。実は浪江の高瀬川渓谷とか葛尾(かつろう)村とかは良くわからない場所だった。それなりに広いからである。まだまだ探求する場所であった。江戸時代からつづく過去があるにしろ実はまだそこでは見いだされないもの、人間化されないものがまだまだあった。その土地はまだまだ未知なものがあった。

鴨長明「方丈記」を読む (この世には災難は常にあり無常の世であることにかわりなかった)


鴨長明「方丈記」を読む

(この世には災難は常にあり無常の世であることにかわりなかった)



ゆく河の流れは絶えることなく、しかも、もとの水ではない。そのよどみ[流れずに留まっているところ]に浮かぶ泡沫(うたかた)[泡沫。水上の泡のこと]は、あるいは消え、あるいは結びつき、久しく留ったためしはない。世の中に生きる人と住みかも、またそのようなものだ。


 玉を敷き詰めたような都(みやこ)のうちに、棟(むね)を並べ、軒(のき)を争うような、高貴なもの、貧しきものの住まいは、世の移り変わりにも、尽きることはないが、それが真実(しんじつ)かと尋ねれば、昔からある家は稀(まれ)である。ある家は去年焼けて、今年造り直す。あるいは大きな屋敷も、小家へと移(うつ)り変わる。住む人もこれに同じ。場所も変わらず、人も多く見えるが、かつて顔を見合わせた人は、二三十人がうちに、わずかにひとりふたりしかいない。朝(あした)に死に、夕べに生まれる人の営みは、ただ水の泡沫(あわ)にこそ似たものであろうか。


あるいは煙にむせながら、倒れてはうつ伏せになり、あるいは炎(ほのお)に目がくらんで、たちまち死んでしまう。あるいは自身だけは辛うじて逃れるものの、資財(しざい)[財産や宝物など]を取り出すことは適わず、七珍万宝(しっちんまんぽう)[あらゆる宝ものの例え]は、まるで灰燼(かいじん)[燃えた灰や、塵、燃えかす]のようになってしまった。その値(あたい)、いったいどれくらいであろうか。

このたび、公卿の家は十六も焼けた。ましてその他は、数え知ることさえ出来ない。すべて合わせれば、都(みやこ)のうち、三分が一も焼失したという。男女(だんじょ)、死んだもの数千人、馬や牛などにいたっては、際限さえ分からない。


京の慣習、何を行うにしても、もともとは田舎をこそ頼みとしているのに、それさえ途絶えて、のぼり来る物さえなくなれば、どうして体裁を取りつくろっていられようか。神に念じつつ、悲嘆に暮れながら、さまざまの財(たから)さえ、片端から捨てるように売るが、それに関心を持つ人さえいない。たまたま換え得たとしても、金の価値は軽く、粟の値段ばかりを重くする。乞食(こじき)は道のほとりにあふれ、憂い悲しむ声は、耳に響き渡った。


死者の数を知ろうとして、四月から五月にわたって数えたところ、みやこのうち、一条大路よりは南、九条大路よりは北、京極(きょうごく)大路よりは西、朱雀(すざく)大路よりは東の、道に横たわる頭(かしら)、あわせて四万二千三百あまりにもなったという




今回の津浪原発事故ほどまた無常を感じたことはない、この無常は自分の身内の認知症にも感じた。この六年間は一身上でも無常と苦難の連続だった。自ら病気にもなったしその中で親の介護をしなければならなかった。身寄りはなく助けもなかった。ただ弱みにくけこまれ犯罪にあい弱者としていじめられた。人間の非情もいやというほど体験したけどまた自然も非情であり無情だった。津浪ほど自然の無情を示したものはなかった。


そのよどみ[流れずに留まっているところ]に浮かぶ泡沫(うたかた)


人間は津浪にのまれ泡のように多くの命が消えた。日本では洪水も多く水の災害が多い。津浪も水の災害だった。


昔からある家は稀(まれ)である。ある家は去年焼けて、今年造り直す。あるいは大きな屋敷も、小家へと移(うつ)り変わる。住む人もこれに同じ。場所も変わらず、人も多く見えるが、かつて顔を見合わせた人は、二三十人がうちに、わずかにひとりふたりしかいない。

これも全く津浪で現実化した。また原発事故でもそうなった。大きな屋敷も、小家へと移(うつ)り変わる・・・・これは仮設住宅のことである。田舎ではみんな大きな屋敷に住んでいたのである。それが狭い仮設に住むことになった。この変化も大きいのである。

この辺では壊された家が多い。こんなに家が壊されてゆくのかとも思った。今もまた一つ近くで家が解体される。家の解体は無料になるのでこの辺では多くなっている。更地になったところが多い。一方で津浪などで家をなくした人が家を建てている。その数は壊された家より多くなっている。これも大きな変化である。住む人も本当に変わってしまう。今まで住んでいた人も今はどこに行ったかもわからない、いづれ自分の家もそうなってしまうのだろう。


資財(しざい)[財産や宝物など]を取り出すことは適わず、七珍万宝(しっちんまんぽう)[あらゆる宝ものの例え]は、まるで灰燼(かいじん)[燃えた灰や、塵、燃えかす]のようになってしまった。その値(あたい)、いったいどれくらいであろうか。


これも津浪でまざまざと見た。ここに別荘が建っていて1200万で売っていたな、でも流されて一文にもならなかった。ここにもう家を建てる人はいない、家そのものより町自体が喪失する、なくなるということも見た。ただその前に茫然としているほかなかった。それは今でもつづいている。津浪の跡に家は建たないし更地のままなのである。こういう場に直面した人はただ茫然自失するほかなかったのである。こんなことがありうるのか?これは夢ではないかと夢うつつになってしまった。事実を事実として認められなかったのである。素寒貧になり命だけ助かったなど川柳に読んでいたがそんな余裕ある心境ではなかった。

今までもっていたものをすべて失った人もいた。家族を失い家を失いその人は自殺した。それほど悲惨なことだった。損得の勘定をしているような状態ではなかった。ただ自分は命があったということであり死んだ人は無数にいた。家族を失った人はそのことを痛切に感じているし今も同じである。こういうことはいくら話を聞いても被害にあった人しかわからないものである。同情するにしてもお前は口だけだとか言われるだろう。俳優で泣いてみせた人がいたが俳優だからあういうこともできる。とても家族を失った人の悲しみはその人しかわからない、またそれぞれの自分の悲しみも苦しみも他人にはわからなかった。要するに相手の苦しみ悲しみはいくらひどくても他人事になるのだ。


京の慣習、何を行うにしても、もともとは田舎をこそ頼みとしているのに、それさえ途絶えて、のぼり来る物さえなくなれば、どうして体裁を取りつくろっていられようか。神に念じつつ、悲嘆に暮れながら、さまざまの財(たから)さえ、片端から捨てるように売るが、それに関心を持つ人さえいない。たまたま換え得たとしても、金の価値は軽く、粟の値段ばかりを重くする。乞食(こじき)は道のほとりにあふれ、憂い悲しむ声は、
耳に響き渡った。


京都ではやはり食糧を田舎が供給していたから田舎を頼みとしていた。金の価値より食べものの粟が高くなったというのは戦争中と同じである。農家に高価の衣服をもってわずかの食糧と交換したのが都会の人だった。実は津浪の災難でもそれとにたことは何度も歴史上で起きていた。ただ戦後60年間は平和であり繁栄の時だったから忘れていたのである。戦争の苦難も3百万人以上死んだのも歴史的には最近のことだった。その生き残りもまだまだいる。そういう話を聞くのだが自らが苦しみにあっていないからよそ事になってしまっていた。3百万人以上死んだといっても実感をもてないのだ。
人間は自ら苦しまない限りその苦しみを自分のものとしてみないのだ。


NHKの特報首都圏という番組で、東京大空襲の戦災孤児の体験談のレポートがありました。
 あの夜、10万もの民衆が死に、同時に12万人もの孤児が生まれた。彼らは、暖を取るために死者の墓標を抜いて燃やし、食い物を盗んで飢えを凌いだ。街娼として町に立つ友達を見て驚き、疎開先でも孤児たちは邪険にされ、「犬小屋」と書かれた教室で学ばされた。
http://eiji.txt-nifty.com/diary/


こういう悲惨なことがあってもすでに忘れている。犬小屋というときやはり原発避難民のことを書いたがこれ異常に食う食わずの人たちがあふれ苦しんでいたのである。現代はあまりにも恵まれているが故に差別が生まれた。人間はそうした歴史的には人災もあり自然災害もあり百年単位とかになれば常にそういう苦しみを受けてきた。ただ平和がつづいたから忘れていたのである。人間の社会はこの世は無常だというとき常に言われてきたことである。それを津浪や原発事故でこの辺では苦しむ結果となったのである。無常こそこの世であり変化がこの世でありそれを否応なく思い知らされたのである。


財産に頼ってもその財産を失う、家族も失う、町自体がなくなるということは想像もつかなかった。市町村すらなくなってしまうことがあるという驚きだった。遂には国すら地球すらなくなってしまうという黙示録の恐怖に通じる。この世にあるものはみな変化し今日あるものは明日はないというまでになる。老人になれば本当に今日あっている人が明日は会わないということが実感する。だからこの世であった人はその人が悪人でもあっても縁がありこの世での何らかの定めだったかもしれないとも思う。これは例えは相手を憎んでいる人でもそうである。憎んでいる裏返しは愛しているからでもある。憎しみ合っても最後になると実は愛しているからだったとまでなる。無関心だったら憎みも愛しもしないからた。だから憎む人があったらそれなりにその人と縁があり愛の裏返しだったともなるかもしれない。


つまり世の中に生きるということはただこうして一時のことである。恨むも憎む愛すもそうである。たちまち人はこの世から消えてなくなる。「さよならだけが人生だ」に本当になるのが人生だった。そういうことが津浪でまざまざと現実で見た。常にそういうことは言われてきてもこれだけ大規模に無常をみることはなかった。でも戦争ではそうだったしそれは60年前がそうであり戦争を体験した人はこんなことは別にありうるから驚かないというのも本当だろう。こういうことを経験していない人はこれは何なのだとなるだけなのである。この世にはこういうことが無常が起きてくる。人災の戦争であれ自然災害であり常に起きてきたのである。人間が死ぬということから見ればこの世はすべて無常になる、虚しいとなるのだ。そういうことを具体的事実として示されたから驚嘆した。それは別に一身上でもすべての人に死がありすべてはただ無常と化してゆく。それが人間の変わらぬ現実であった。そこに宗教が生まれたのである。だから今回は災害のあった地域では宗教の発心が生まれやすい、無常を感じる時宗教を求めるからである。ただ葬式仏教とかカルトでは救いにならない。そういうところは宗教と何の関係もなくなっている。


戦争中の苦難と今を比べるとずいぶん楽だなともなる。でもそういう比較はまた時代が変わるから簡単にはできない、そににしても戦争中の苦難と比べれば楽だなともなるだろう。飢饉でも今日食べるものがないという切迫感の中に生きていたし現実に飢死した人が無数にいたのである。だから今回の津浪原発事故は過去に起きた受難の歴史を思い返す契機になったのである。

posted by 老鶯 at 14:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係