2013年03月08日

春の風(桜井古墳のこと)


春の風(桜井古墳のこと)

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今日も行く二両の電車や春霞

この道や蛹をゆらす春の風


新田川朝きらめきて流るかな桜井古墳に東風の吹きくる

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今日吹いた風は複雑だだ。春北風(はるきた)が主だった。なまあたたかい風であり夏さえ感じられた。
新田川の川面を見ると海からの東風がふいてさざなみきらめいていた。水面にたつさざなみを見るとどの方面から風が吹いてきたかわかる。ただ主に吹いたのはやはり北風だけどなまめるい風だった。
新田川の桜井古墳は有名だけどそもそもこの古墳はなぜここにあるのか?それがよくわからない、これだけ海に近いのだから海と関係していた。大きな桜井古墳の前にも海に向かって小さな古墳があった。何らか海に向かっていたのである。海からの目印となるのか海と関係していたのではないか?
海に近すぎるということである。今でもこれだけ海に近いのは何かあるとなる。


そしてなぜ泉官衙跡というのがすぐ海の側にあったのか?後ろの山でから鉄を生産していたのでその管理する場所としてあったということもある。官道が直接通じていたし新田川には一部運河も作られていたのである。海との関係、交通は看過されやすい、小高の塚原に中世に港の機能があったということを書いた。あれもほとんど忘れられている。陸奥の真野の草原遠けれど・・の草原は港だったという自分の説もやはり今回の津浪で塩崎の市庭とか船着とかいう地名のところまで水がきていたことでも証明された。石巻に萱原という地名が残っているからあそこが江戸時代までこの歌の地だとされていた。ただそれをうらづける物証が少ないからここが有力視されるようになった。


ともかく港の機能は船の交通は盛んにあっても忘れられるのである。船も海に沈んだらわからない、そういう船が実は海にたくさん沈んでいるかもしれない、しかしもうわからないから一旦船の交通は途絶えたら証拠がないから歴史的なものとして残らないのが多いのである。

最近読んだ本で相馬藩が天明の飢饉で人口が激減したが立ち直ったのは相馬市の松川浦などに港がありそこを中継地点として物資が入ってきた。日立とか仙台の石巻に港があっても途中よるところがない、すると相馬辺りが中継地点として利用されたという。これも物証としては残っていないから忘れ去られるのである。それがもし飢饉で疲弊した藩の建て直しに役立ったなると海の機能は古代からつづいていたとなる。


今回の津浪ではこうして海のこといやおうなく意識させられたのである。津浪も桜井古墳の前まで来たが古墳は高い所にあった。津浪の被害はなかった。でも不思議なのは原町区の新田川近辺は古代に海ということはなかったのか?真野地域は塩崎まで海であった。そこはやはり低い土地だった。新田川は流域はどうだったのか?萱浜はもともと湿地帯であり江戸時代に開拓されたからやはり低い土地だったのである。津浪が老人ホ-ムまで襲うとは思いもよらなかった。あんなところまで津浪がおしよせたことの驚きである。やはりあの辺はもともとは海だった。湿地帯だったのである。


山脈は春霞だったのだろう。二両の電車があっている。あの電車が走れるの災害地域だからである。採算は全くとれていないだろう。道が閉ざされて常磐線もとざされてしまった。ただ春霞がかかった光景はのどかである。ただ津浪原発の混乱と苦しみはつづきなんら変わっていない、福島県から外にでた若い人は90パ-セント帰る気がないというのはショックである。福島県内だとそれでも60パ-セントは帰らないという、みんな帰る気をなくしている。まあ、なんとかここは残れたからいいとなる。