2013年03月24日

権力を持っている人が責任がある (原発事故は誰の責任なのか?)

 

権力を持っているものが責任がある

(原発事故は誰の責任なのか?)


●権力を行使できる人が責任ある


原発事故とか戦争の責任が誰なのか今やわからないし問われない、政府も東電も何ら責任をとっていない、官僚もとっていない、第一検察も東電の弁護をして原発を推進した方でありマスコミもそうだった。そして誰一人として責任をとらないのも解せないのである。戦争のときも300万人以上死んでも誰も責任をとらない、結局国民にも責任があったとして責任をとらない、原発事故も地元も積極的に誘致したのだから地元にも責任があるとして責任をとらない、みんな責任があるのだから誰も責任をとらないとなる。ただ人間は責任がないとかなんとか言っても必ず責任をとらされるのだ。
責任を逃れられないようにできているのだ。今は責任をとらされなくても百年後か二百年後かしらなけどいつか明るみに出されるし罪の結果は必ず暴かれる。偽りも必ず暴かれる、個人の犯罪でも集団の犯罪でもそうである。つまり必ずいつかは罪もあばかれ責任をとらされる。「死後裁きにあう」というときまさに責任を死んでも逃れられないという厳しさがある。生前は隠し通せても死後は隠せない。


責任というとき誰に責任があるのかということである。これを社会全体で考えるとわかりにくい、でも卑近な例で考えるとわかりやすいのだ。頼りにした因縁あった親戚の人は85才とかなり家に来ることもできなかった。最初は電車できていた。だから60才の娘の車がなければ自分の家に来ることもできなかった。そして年であり助けることもできなかった。何かできたのは娘だった。その娘は自分の家に来て何もしなかった、助けることをしなかった。こういう場合責任は誰にあるのか?何もできない人に責任はない、何かできるのにしない人に責任があるのだ。車にのせてもらわなければ来れないのにその娘がまるで来る気がなかったら母親も来ることさえできない、とすると母親には責任があったとしてもできないのだから責任を問うことはむずかしい。すると娘はできるのにしなかったから責任があるとなる。もちろん個々の事情がありそれはあなたの一方的な見方だということも言える。
ただここでは誰に責任があるかということのあくまでも一例としてあげた。


●単に金をもっているもの公務員も権力がある


何かできる人は何かできる権限がある人は責任が重いとなる。だから金持ちはそれが遺産として入るにしろ何にしろ金もっているだけで責任を課せられているのだ。あの人は土地を売って何十億の金が入ったというときそれは何十億の責任を課せられたのである。その金を放蕩に使えば社会はその責任を問うし責める。金を持っていない人は今の金万能社会で責任は問われない、盗みでもその額によって本当は責任が問われるのかもしれない、江戸時代は十両盗んだら首が飛んだ、盗んだ額によって罪の軽重が決められていた。でも実際は少額盗んでも刑罰は同じだったりする。はっきりいえばこの社会で百億でも盗む人は英雄になる。千人殺せば英雄になるのと同じである。それだけのことをするには相当の権力と地位をもたなければできないからだ。だから戦争はまさに千人を殺せば英雄になることを実現させたのである。普通の時の社会ではそういうことは絶対できないからだ。だから盗んだ額によって来世では裁きがあるかもしれない、なぜなら一万とか盗んでもそれは返せる、一千万とか盗むともう絶対に人は返さない、盗んだものの額が多いから手放せなくなる。盗みであれ財産を獲得することはさらに欲が生まれ返せなくなる。だからその罪は消えなくなる。現代はともかく金、金、金の社会になっているというとき金によって責任の過多があらゆる所で生まれているのだ。

公務員も結構責任あるし権力をもっている。自分の本が創価を批判しているかとこの町の図書館に置けなかった。それができたのは公務員はやはりそうした力をもっているということである。これは他でも共産党でも批判したら図書館に置けなくなったものがいた。こうして団体はみな権力をもっているからその権力で社会を支配しようとする。だから東電でも自治体の上のクラスの町長であれ公務員であれ目をつけてとりこんだという。そこには金が回っていて富岡町長の5億円の金庫が話題になったのである。それも煙がたたないところに噂もたたないから何か今度の原発事故を象徴していたのである。

創価などでも日々の活動はいかに社会の権力を掌握することにかかっている。だから教員とか公務員とか弁護士とか政治家でもすべて権力を掌握するために送られてくる。創価大学も権力の中枢に送るために作られたのである。公務員は公正ではない、必ず権力の働く場所なのである。だから団体の推薦で生活保護が受けられるというのは本当なのだろう。創価か共産党に入ればその権力で優先的に生活保護が受けられるとかなる。そういうことはいろいろな場所で普通に行われているのだろう。権力をもっている子息はマスコミに優先的に入社できるとかいろいろ普通にある。だから何であれそういう権力を行使できる人たちは一番責任がある。
検察でも警察でも一番責任ある部署である。そこでも権力の乱用は常に行われている。権力ですべてが決められるときこの世はただ公正な権力の使用ではなく権力あるものが勝手にすべて決められるとなる。ただその権力の所在がどこにあるのかはわかりにくいのが社会なのである。

原発事故がどうして起きたのか?その責任は誰にあるのか?それは結局人間がすべて権力を求めるだけのためにある、社会も権力を求める競争にある。その権力とは何かというと現代では金になるから金になりさえすればすべてが許される社会だからこそ原発事故が起きたとなる。安全より金だ権力だということではすべて一致する。政治家も官僚も宗教団体も経営者も労働組合も地元もそのことでは一致しているから団結できたのである。科学者もほんの一部の人は原発の危険を警告しても大多数はそうした多数の力に押されてしまったのである。権力機構そのものが善に向かって構成されるのではなく悪に向かって構成されるようになっているのだ。検察は正義の見方じゃないのかというとき原発とか大きな戦争とかなるとただ大きな権力側につくだけなのである。アメリカが検察を動かしているというのは嘘ではない、中国に支配されれば中国のいいなりになるのが検察機構なのである。だから小さいことに関しては公正さがあっても大きな国民的課題になると権力側につくように構成されているのだ。


●巨大な団体の責任は誰も問われないのか?


だからもはや社会自体が自浄能力がないものとなっている。誰も正せないし責任の所在もわからない、ただ権力を行使できる人が責任があることは確かである。でもそもそも様々な団体の責任はどこにあるのかとなる。政治団体であり官僚であれ組合であれ宗教団体であれそれらの責任の所在も明確にはならない、そもそも個人にはないのだからわからなくなる。その団体に問うても「私はただの一会員、社員にすぎません」となる。それはナチスと同じである。「私は上の命令でガス室送りに署名しただけです」それで終わりであり何も責任も感じないのである。大成建設の社員が除染で不正をしていても社員は上の命令でしていましたというだけで責任はとらない、団体は責任をとらない仕組みになっているのだ。大成建設という巨大な会社の責任を問うとなると一個人などできなくなっている。それは東電でも同じである。相手は弁護団をもっているしとても一個人では歯がたたなくなる。


でも自分の本を自分の町の図書室に置くなと断ったのはそこにいた人が責任がありその個人が執行したのである。その理由もはっきりしている創価を批判したから置けないという理由だったのである。こういうことはマスコミでも団体でもいくらでもある。個人は権力がないとしたら無力である。それがいかに正しくてもそうである。ただ団体はどんな悪でも権力があれば公務員でも支配できるということである。もちろん警察も検察も支配できる。そして団体の責任とかを問うことはできない、東電が責任があったとしてもなぜ誰一人として問われないのか?社長でする今では別な派遣先にうつり億の退職金もらったとかなっているのだ。社長や会長の責任も全く問われていない、地元では責任を逃れようとしても一応苦しい目にあったから違っている。政府とか官僚とか検察とかマスコミでも団体でも責任は問われないのである。


人間社会の不思議は百円盗んだら責任が問われる、十億円盗んだら責任を問われない、千人殺したら責任が問われない、巨悪はもはや責任を問うことすらできないということである。もはや人間の力では不可能だということでてある。だからここに神の介在がなければもう人間社会は改めることさえできないとなる。それが大津波だったのかもしれない、だから確かに中国で易姓革命(えきせいかくめい)というのがあるのだと思った。天変地異でこの世が変わってゆくということ改められるとうい巨悪が暴かれるということである。ノアの方舟の洪水もまさに人間の悪故に大自然災害が起きたのである。自然災害は規則的に科学的現象でありそういうものと関係ないとういが何か関係があるのだ。人間の巨悪とか奢りとかを正すために人間社会の想定を越えたことが起こってくる。それが大津波だったのである。


天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天命を革める)が起きるとされた。


人類の罪はアダムの堕落にはじまりカインの殺人がありプロメテウスの火を盗むことの刑罰も重いものだった。核も兵器として恐ろしいものであったが原発としても恐ろしいものだった。その扱いを誤れば人類滅亡になる恐ろしいものだった。つまり核そのものによって恐ろしい罰を受けたのが事故の直接被害を受けた所だったのである。


神々がシシューポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。


シシューポスの罰もこれは別に個々人にもある。普通に有益なことをしないものはこの罰が課せられる。確かに有益なことは何かは個々人で違っている。でもそれぞれに何かをしなければならない時がある。恩受けたり何か一方的に与えられているのにそれを返さないときそういう機会があっても何もしないものはこの罰が課せられる。パチンコで働くものもそこで遊んでいるものもある意味で無益なことをしている。働いて息抜き程度ならいいがそこで働くこともそれが毎日となると無益なことでありそれはあとで罰がくだされる。確かに今のうちはいい、今後そういうことをつづけていればいろいろ困ることが生じてくるし罰が与えられる。人間は生きている限り責任を負わされている。すでに生まれたこと自体が罪のためであり結果としてその罪の責任を負わされる。来世ではなく今世でその責任が負わされるのである。大きな世界でもそうだが個々人でも必ずそうした責任をとらされのだ。自分もまた種々の苦難がつづいたのも罰だったかもしれないのだ。
団体になるととらされなくなるから今回の自然災害とか想定外の自然の神の力が働く、最後は最後の審判で裁かれる。この世の悪が裁かれずに終わるということはないのだ。個々人でもそうだし全体でも団体でも同じなのである。ただ団体が罰せられるには時間がかかるのである。

posted by 老鶯 at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年03月25日

失われた貴重な右田の松原 (残された詩で思い出す)


失われた貴重な右田の松原

(残された詩で思い出す)


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松影老鴬

松影の道
釣人並び
沖行く船
老鴬鳴く
車輪梅咲き
南風そよぐ
我が歩む
海辺の道



右田の松原は松川浦よりもいい松原だった。調っていたし松風や松影が気持ちよかったのである。あの松原に注目していた人が少なかった。松の幹もそれなりに太かったしいい松原だった。あそこは一本一本の松として意識していない、今は残った松を一本一本意識している。松原としてあったから一本一本の松を意識しなかったのである。陸前高田市の松も一本一本の松ではなく松原として意識していた。あそこの松原の前の旅館に一度だけ泊まったことがあった。確実にあの旅館は津浪で流されてしまった。松も一本も残らなかった。前の広田湾は静かでいい湾だなと思っていたけどあそこあんな被害にあったのはショックである。今回の津浪は美しい光景の場所が津浪にあってめちゃくちゃにされた。陸前高田市でもあの松原は憩いの場所でありその生活に密着した場所だった。特にあそこは街と一体化していたから余計にそうだった。ただ街の方には行っていなかった。あんな大きな街があったとは知らなかった。風光明媚な地がもう人が住めないくらい破壊されたことは信じられない、街が大きかっただけでにダメ-ジも大きかった。そして松原は人の記憶にしか残らなくなった。

一本の松をその松原を思い出すために建てた気持ちもわからないではない。ただ松原としてあったのだから一本の松を建てても思い出とはなりにくい。右田の松原もあくまでも松原として意識されていた。ただ不思議なのもその松原が消失したのだから松原があったということはただ記憶の中にあるだけである。現実にはもうないということが未だに信じられないというか不思議だとなる。
松原がある風景の中で暮らしていたものが失われた。それは二度と経験できなくなったのである。
人工的自然であったがそれは失われたから二度ともどってこない、松原はただ思い出の中にしかなくなった。

だからこの詩もたいした詩ではないにしても松原を思い出すものとして貴重かもしれない、正直自分でもものたりないのだが松原があったときの風景を思い出す一つにはなる。
夏になると釣りする人が必ず車で来て並んでいたのである。その前の海には漁船が見えた。それは烏崎港から出た船だった。それは別になんでもないいつもの風景だったけどそういう風景をもう見ることができないのだ。車輪梅も咲いていたがそれも根こそぎ喪失した。崩れた防波堤があるのみである
実際このように消失してしまうと思い出すことがむずかしくなる。もっと写真とか画家がいたら松原の風景を描いてもらっていたら思い出したかもしれない、それももうできないというショックである。貴重な財産が一瞬にして喪失したのである。風景そのものが消失したというショックである。
それはここだけではない、松原は仙台辺りまで延々とつづいていたのだ。それらは根こそぎ喪失したショックである。そしてそれらはもう回復しないというのもショックである。ただもともと松原は人工的な風景だから元の自然に原野に帰ったといえばそれまでである。でもその衝撃は圧りにも大きすぎたのである。
posted by 老鶯 at 14:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2013年03月26日

見過ごしていたコメント (高齢化社会の恐怖-弱者を虐待する人間の悪魔性)


見過ごしていたコメント

(高齢化社会の恐怖-弱者を虐待する人間の悪魔性)


高齢化社会の恐怖-老人虐待が日常化する
(弱者はカルト宗教団体だけではない、個人も同じ手法で脅すことが普通にある)
http://musubu2.sblo.jp/article/61582877.html


ここにコメントされたものです



病院は刑務所と同じ。患者は研究対象のモルモットがストレス発散の為の玩具。90才の老人が痰吸引で苦しむ姿を見て笑う看護師…自分が指摘した母の臀部に出来た褥そうになる手間の水疱を水疱ではないと看護師に否定されました。しかし、水疱は破け褥そうが広がり、褥そうの処置に大声で痛みを訴え泣き叫ぶ母を見て笑ったり、「凝らしめたる」だとか、痰吸引で苦しむ姿を見ても何とも思わない看護師の恐ろしさ、母の泣き叫ぶ姿や自分は看護師や医者に裏切られ弄られても抵抗出来ない姿を思い出し、辛くなりました。医者は研究対象から外れたら、もうベッドを開けて欲しいから死期を早めることも自由自在。私が怒り苦情を言えば、私がいない間に母を弄り、今思えば、母が私に「もう、何も言わんといて」って言った意味が分かりました。こんな恐ろしい医療従事者がいるなんて信じられませんでしたが、自分の大切な人が被害にあい、恐ろしさを目の当たりにしました。事実は形に残して正解です。医療従事者の言いなりになり、物以下の扱いをされ過去形にするつもりはありません。


ストレスが原因とはいえ、目の前の癌患者を虐待した裏には、悪質な医者、カルト教団、見栄をはり消費者金融で借金して外見を飾り、会社経営して、しっかりしていると思わせたかった葛集団、母に借金の肩代わりさせた事実を隠蔽したかった元兄嫁や妹が繋がっていました。
高齢者や女子供や障害者が虐待の対象にされるケースが多いですが、虐待する側にも、同じ対象者が当てはまります。障害者にも色々で、精神薄弱者が加害者になる場合も多々あります。だいたい、カルト教団に入る様な人間やカルト教団と取引し悪事を重ねる事が出来る人間は自立出来ていませんし、攻撃機制があります。



90才の老人が痰吸引で苦しむ姿を見て笑う看護師・・・・


自分も入院した隣の90才以上の老人がそうでした、その人は特養の人で身寄りがなかった
だから看護師がおもちゃのように扱っていた、痰がつまるのは本当に苦しい、
その苦しむ声が毎日隣から聞こえてくるので眠れなかった
看護師はそれを笑ってやっていた。
看護師は天使にもなれば悪魔にもなるというとき悪魔になっていたのでしょう

病院は実際は恐ろしい所です、看護師にも一人だけど虐待的なことをされた
結局それも身寄りがないからそうなった、家族などみているものがないとしたいほうだいになる
だから身寄りがないものにとっては病院は恐怖です


痰吸引で苦しむ姿を見ても何とも思わない看護師の恐ろしさ・・・・端からみても地獄の苦しみでしたよ、あんななる前に死んだ方がいいと思った、つまり長生きするとは恐ろしいリスクが待っているというのも現実です、長生きさせられて生きながら地獄の苦しみを受ける恐怖です
病院で死ぬことは本当は相当に恐いことです


安楽死させろというとき安楽死の方があれをみていて人情的だなと思った
一層殺してくれと患者も言葉にも言えないが端からみてそうだった
安楽死の方があんな苦しみを受けるよりよほどいいと思ったし否定できない

長生きするということは苦しみも増えるということです
自分の姉は本当は脳出血で倒れて入院したけどそのまま死んだ方が楽だった
半年以上入院して地獄の苦しみを味わった
結局最後は老人は直らない病気になり死にいたるのだから
何でも病院にまかせるとただ苦しませられるだけになるし病院の方でもその治療や介護で膨大な労力を費やすことになるだけです

自分も親戚に言葉の虐待を受けました、これにカルト教団が加わったら最悪です、自分の場合は身寄りがないことですべてそうなった、病気のときまでいじめられると思わなかった

人間は全く残酷です、この六年間は介護や自らの病気や犯罪にもあい苦しみの連続でした
最近こんな非情な社会になったから津浪が起きたんじゃないかと思います
人間社会の終末が来ているのじゃないかと思いました
最後の審判のときが近づいているのだと思いました

自分はなんとか借金している親戚と切れましたし今は病気も一応回復したし身体障害者でなくなりましたから楽になりました、なんだかやっと楽になったなとほっとしています
自分の場合はなんとかあきらがつきます
だからただ忘れることを願うだけです

 


●身寄りのないものは入院すると最悪になる
このコメントを書いた人は裁判にするまで恨んだ。自分もこれと同じ様な経験をした。つまり人間は弱者になったときそれをいたわるどころではない、弱者になったことをいいことに脅迫するしてくる。もちろん火事場泥棒のような犯罪にもあった。それも自分が病気になり弱者になったからである。弱者を攻撃することは実に容易である。でも弱者になると何も言えない、お前には頼るものがいないから俺たちの言うことを聞くほかないと言われる。弱者になったことをいいことに責められるのだ。看護師も一人だけであるが入院して虐待された。それも恐怖だった。その看護師が怖くなってトラウマになり何も相談することもできなくなる。何か悪いところがあっても言えなくなる恐怖があった。弱者だからどうしてもみてもらいたいことがあっても言えなくなるのだ。医者とか看護師の前では患者は一方的に従うだけのものとなる恐怖である。何も言えない、もし寝たきりとかになると余計にそうである。もちろん認知症とか精神障害者はもう何も言えないから虐待されるままになる。


そういうときなぜかいろいろなカルト宗教団体が入り込んでくる。それは創価でも一票獲得のチャンスとなりまた他のカルトでも会員を増やすチャンスとみて入り込んでくる。同情などは全然ない、自分たちの勢力拡大のために入ってくる。またそういうものに頼らざるをえないことも恐怖なのである。自分が頼った親戚もそうだった。親戚でも金が欲しいだけでありいやいやながらやっていた。
だから何かするにもいちいち恩を着せるのである。手術するときも身寄りがないから保証人の欄に一応書いてもらった。たいした手術ではないにしろそういうことをしてもらうと多大な恩をきせられる。身寄りがないということはなってみないとわからない、もう誰にも頼れないという恐怖である。


人間は家族などがいなければ誰も同情などしないのである。病院でも医者も看護師も同情はしない、ただ物体のよう地扱うだけになる。そもそも医者や看護師側から見れば赤の他人であり次々に運ばれてくるしもう嫌だという感情がでてくる,同情しきれないという感覚になってゆくのかもしれない、人間的同情感覚正常な感覚が麻痺してくるのかもしれない、もうこんなに死にかける大量の老人を世話するのは嫌だという感覚になるのかもしれない、そういう感覚になることはイメ-ジできる。
それだけまた看護の現場が過酷だからまたいちいち同情していたら身がもたないということもあるだろう。だから看護師はやめる人が多いというのも納得がいく、あまりにも理想とはかけ離れた過酷な非情な現場だともなる。


●安楽死もある場合は肯定されるべきだろう


高齢化社会の大きな負の面が過度な介護とか延命治療にある。だから安楽死させろというのも一面わかる。入院した隣の人は安楽死させたた方がどれほど情があるのかとさえ思った。看護師のおもちゃにさせられて苦しめられるためにある。特養だからその人に金はなくても国で出すから生かしておく、生かされることがもはや地獄の刑罰のうよになっていたのだ。それは延命治療でもあるし自分の姉も地獄の苦しみを味わった。泣き方が異常だったのである。それほど苦しかったということである。これは他の人も病院でそうした苦しみを受けているのだ。だからあるところからはただ苦しませるために生かしておくとまでなっているのが今の医療なのである。人命は生きる限り尊いものだというのではない、それほど苦しんで人はもう生きたくないのだ。

結局人間は最後に自分の死を選べない、意識不明とかなり病院に入れられてそこで眼が醒めたら地獄の苦しみを味わう場になっていて逃れられなくなるそこが拷問の場とさえなっていた。延命治療は直るならいいが直らない患者を苦しませるために長生きさせるだけのものとなる恐怖である。特に特養の老人がそうだったように何も抵抗できないしただ弄ばれるだけだという恐怖があるのだ。
それも身寄りがないということはそういう身寄りを作らないことが悪いのだともなるだろう。

自業自得としてその罰を受けろとまでなるのかもしれない、人間の最後をよほど真剣に考えていないと今の時代は恐怖である。孤独死が言われるが別にこれが悲惨ということではない、瀕死の状態で病院に運ばれて延命治療されて苦しみが長びくことこそ恐怖なのである。助かるにしても高齢になるともう死だけになり苦しんで死ぬだけになるからだ。姉も半年長生きしたとしても異常な苦しみを経験しただけだった。でも今は必ず救急車を呼ぶから呼ばざるを得ないからどうしても苦しむ期間が長くさせられるのである。


●弱者には親戚やカルト教団がからみ食い物にされる


ストレスが原因とはいえ、目の前の癌患者を虐待した裏には、悪質な医者、カルト教団、見栄をはり消費者金融で借金して外見を飾り、会社経営して、しっかりしていると思わせたかった葛集団、母に借金の肩代わりさせた事実を隠蔽したかった元兄嫁や妹が繋がっていました。


これも自分と多少にていた。その人は会社を経営していて成功したように装っていたのだ。
それもただ見栄のためだった。借金をしているからどうしても金にこだわり自分が病気になったときそれをいいことに暗黙の内に金を要求するようになる。まあ、別にそれなりに同情して助けてくれるならいいが実際は同情は全然ないし恐喝まがいのことをしてきたのである。こんな人に頼ること自体最悪だったのだ。こういうことは20代で若くして父親がアルツハイマ-になった人がインタ-ネットに書いていた。親戚にいいようにされ金をとられてだまされたとか書いてあった。その恨みを延々と書いていたことが自分にもあてはまる。人を見るとき弱者にどういう態度をとるのか?それをみているとわかる。弱者に横柄な態度になり虐待までする。そこに人間性が見えてくる。それは男女関係でもある。女性が齢から虐待されるのだ。虐待することに喜びを感じるのも悪魔的性格が人間は誰にでももっているのだ。


人間はまさにショ-ペンハウエルのように悪魔的なのである。それは自分もないと思ったがある。人間は誰しもジキルとハイドなのである。そういう悪魔的側面が隠されていてそれが自分のように病気とか弱者になるとそれ幸いとつけこんできて虐待されるのだ。人間は一面恐ろしいものなのだ。愛とか慈悲を説く宗教とはあまりにもかけ離れている人間の本性は悪魔だともなる。
カルト教団は悪魔的なものである。宗教看板にして弱者救済するように見せかけて勢力拡大を計るだけである。そもそも弱者に同情する人がこの世にいるのかとなる。

もちろんそういう側面は自分にもあるからただ他者を責めるということもできないのだ。弱者を虐待して快感を覚えることは男女の関係でもあるし常に人間に備わっているものなのである。だから人間が弱者になったとき本当に同情する人は希有な人である。一人だけ馬鹿正直な女性が同情したのである。その女性は本当に同情したから今になると今の世の中ではありえないとさえ思った希有の女性だったのである。


 

春寒し-春満月(海老の人と会う)


春寒し-春満月(海老の人と会う)

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春寒し今日会いしは海老の人

我が町は仮説あまたや春寒し
街中に春満月やレストラン

春の夜や梟鳴きぬ月明かり

今日ス-パ-であったのは海老の人だった。地元の人で津浪の被害にあった人とはあまりであわなかった。その人から津浪の話しを聞こうと思ったらできなかった。あそこで前には浪江の人とあった。
たいがいは小高の人だと思っていた。でも海老でも津浪にあって仮説に住んでいる人はいる。ほかにもいる。この原発事故で問題になったのは補償金だった。鹿島区の人は補償金をもらえないからと交渉して一所帯百万とかもらった。ただ津浪の被害者は別に補償金はもらえないのだ。漁業関係者はもらえる。海老は漁業をししていないからもらえない、それで小高の人は補償金もらっているからと同じ仮説に住んでも羨むことになる。浪江の人も警戒区域の人はさらに小高よりもらえる。この辺は補償金の額で色分けされているのだ。相馬市では原発事故では補償金がもらえなかった。津浪の被害者は義援金などをもらっても原発の補償金はもらえないのである。だから一番辛いともなる。それで飯館村の人がトマト農家に採用にならなかったというとき津浪の被害者を優先したからである。
松川浦の漁業関係者は補償金がもらえる。常にこうして補償金で色分けさせられるのが被災地域なのである。宮城県では原発補償金そのものがないのだからこういうことはない。そこにこの辺の複雑さがある。


ただ仕事がなくなったのだから暇な人が増えているから何もせず買い物にきてス-パ-のベンチに座っている人がいてそういう人と会うのである。補償金からその人を見ると海老の人はもらえないからほかでも津浪の被害者はもらえないからあわれだとなるが補償金を十分にもらっている人はあわれだともならない、ただ地元でも羨(うらや)むだけになってしまう。あわれだ、かわいそうだというとき今回の津浪原発事故でみんなそうとはならない、原発事故関係者はそういうふうに見られない、補償金で遊んで贅沢しているじゃないかとなる。東京や仙台の歓楽街で遊んでいるとかも言われる。いくら金もらっても回りの眼が厳しくなる。狭い田舎だから西町の住宅地に一見だけ広い庭を石作りで囲んで家を建てるのが見えた。あれは立派な家が建つと思った。他は建て売りの安いのがほとんどである。ただ一軒だけ違っている。すると誰の家だろうとなる。それは鹿島とは限らない、浪江かもしれない、この辺は他からも入ってきているからわからない。ただ話題にはなるだろう。自分ではいち早く商売が繁盛して大きな家を40年前に建てた。その時まだ他は高度成長の恩恵に欲していないのでうらやまれた。いやがらせさえ行われた。それが田舎である。今はそういうことはない、みんな田舎では家を建てた人が多いからだ。この辺では宅地造成で何千万かの補助がでて新築したのである。


今日は原町のレストランのココスで和風膳というのを食べた。あれは安くても栄養があるからお得である。ちょうど春寒いのだが満月がでていて気持ちよかった。原町の駅前通りとかは事故後は本当にシャッタ-通りになってしまった。シャッタ-がみんなしまっていると何か異様にも感じてしまう。
空家なのかとも思ってしまう。街自体が消失してしまった感じになる。六号線の方はレストランとか店もありたいがいは駅前には来ない、街というとき六号線の方になってしまった。
何か寒いのだけど春の満月であり自分は心にも余裕が出てきた。結局身体障害者のままだったら悲惨だった。身体障害者とか障害者になると弱者のままでありそれは結局誰かに世話され続けることになりその世話する人の奴隷のうよになってしまうことの恐怖だった。そして世話する人には逆らえないのである。弱者から脱せられなくなる恐怖であった。今は体にも余裕があるから強者となっている。弱者としていじめられたからそういうとき実際はいじめた人は本当は恐怖せねばならぬ。復讐されるかもしれないのだ。人間は弱者になってもまた強者にもなる。だからへたに相手が弱者だとしていたぶったたら後で恐いという恐怖ももつべきである。


しかし自分が弱者となったとき全くつけあがり言いたい放題でありまるで奴隷のうよに扱った。まあ、絶好したがそれでもあとが恐いということを知るべきである。だから弱者でもそういう人に接するのは注意が必要である。弱者になったとたん人をみくびり下にみて奴隷のように扱ったりしたらやはりあとで恐いとなる。ロ-マでも奴隷の反乱があったときいかに人間はいつまでも奴隷扱いのままではいないということである。それだけ人間の扱いはむずかしいのである。だからそもそも人間を雇うこと自体本当にむずかしいからしたくない。機械の方が楽だとなり機械がこれだけ発達したのだろう。人間はとても機械のように扱いないからだ。
でも時給制の労働は何か奴隷制のよう地も見えてくるのだ。現代的奴隷制なのかもしれない。


夜は梟が鳴いていたみたいだ。梟の声をこの辺で聞いたことがない、梟がいるということはそれなりに自然があることなのだろう。森がないと梟もいないし餌かないと梟も住まない,この辺は水田がなくなり原野化したのでノネズミが増えたからかもしれない、ノスリも増えたのもそうだったのかもしれない、水田がないということは自然に何か影響している。どういうふうに影響しているかはよくわからないのだ。土ばかりだと虫がふえているかもしれない、水田でも水生の虫がいたが土にはまた別な虫がふえていかもしれないのだ。自分は料理ができない、あと洗うのもめんどうだからレストランで食事した方が楽である。あとは介護だと弁当が楽なのだ。まずちょっとした食事の容易でもめんどうなのである。あと洗うのもめんどうである。外で食べた方がうまいものがある。納豆定食はなぜか牛丼屋で食べるのがうまいのである。あそこで朝食べればそれで結構一日のエネルギ-になる。洗うこともないので便利なのであるが鹿島になはないから困るのだ。一人暮らしがふえるというとき田舎はかえって不便である。4万くらいの都市だとそれなりのものがあるがここにはないからだ。

2013年03月27日

キプロス危機を貨幣の歴史からふりかえる (文明の十字路-キプロス)


キプロス危機を貨幣の歴史からふりかえる

(文明の十字路-キプロス)


シェイクスピアの「オセロ」では、
主人公であるヴェネチアの将軍オセロが、
当時ヴェネチア領だったキプロスをトルコ艦隊から
防衛するために現地に派遣される。
 
物語の主題は恋を巡る悲劇であるからして、だしに使われた
トルコ艦隊は早くも序盤において嵐のため海に沈むという形で
処理されてしまい、以後出番がない。
 
恋物語と悲劇はさておき、実際の歴史においては16世紀後半に
オスマントルコ帝国がヴェネチアからキプロスを奪い取り、
イギリスに獲られるまでの間保持した。。
http://www.hushigi.com/north_cyprus/gazimagusa/othello.html


キプロス・ポンド(英語: Cypriot pound)はキプロスと、イギリスの主権基地領域であるアクロティリおよびデケリア[1][2]において2007年12月31日まで使われていた通貨。リラ(ギリシア語: λ?ρα / 複数形 λ?ρε?, トルコ語: lira)という名称でも呼ばれていた。ただし北キプロス・トルコ共和国においてはキプロス・ポンドではなく新トルコリラが使われており、キプロスのユーロ移行後も引き続き使用されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%97%E3%83%AD%
E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%83%89


キプロスの預金没収と終わりなきユーロ危機
http://blogos.com/article/58797/

銅(どう、英: copper、羅: cuprum)は原子番号29の元素。元素記号は Cu。
周期表では金、銀と同じく11族に属する遷移金属である。元素記号の Cu は、ラテン語の cuprum から。この語はさらに cyprium aes(キプロス島の真鍮)に由来し、キプロスにフェニキアの銅採掘場があったことに由来する[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85


コインの歴史
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/A014.htm


十字軍のコイン
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/S049.htm


「キプロス王国」は、第三回十字軍に参加したイングランド王がキプロスを占領し、それをフランスの騎士に売却したのが始まりです。この国は、十字軍の中継基地として重要な役割を果たしていました。
デザインはキプロス王家の紋章になっている「キプロスのライオン」です。貨幣の単位「デニエ」は故国フランスの貨幣単位です。
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/S049.htm


第3回十字軍の際、十字軍はキプロス王国を建国した。イングランド王リチャード1世が聖地に向かう途中でキプロスを征服したが、島は1489年までエルサレムから追われたエルサレム王国の末裔たちによって統治された。


地図と変遷(キプロス)-これは必見
http://atlas.7jigen.net/jp/historical/kingdom_of_cyprus

 
エレクトロン貨(エレクトロンか、Electrum )とはメソポタミア時代すなわち紀元前670年頃に存在したリディア王国の世界最古の鋳造貨幣である。

リディアのエレクトロン貨はバクトロス川の河床から得られた大粒の砂金、すなわち自然金に極印を打ったものであり、自然金は数%から数十%の銀を含む自然合金である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%
82%AF%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%B3%E8%B2%A8


キプロスについてインタ-ネットでこれだけ調べられた。キプロスに興味をもったのは船で6時間くらい寄っただけであるが一応足を留めたのである。何か春であり地中海に向かって樹の花が咲いていて気持ちよかった。今の時代の不思議はなぜイスラエルで期間労働者のように働いていた青年がいたことである。別に学生でもないのにイスラエルにいたのである。イスラエルからキプロスに船は寄ったのである。その青年は外国はおおらかでいい、日本に帰って働くのは嫌だとしきりに言っていた。これもなかなか理解できない時代になっている。日本では労働時間がきっちり決められていてル-ズでないことが嫌ならしい。外国では労働時間がル-ズだから楽だとなる。日本のように一分も遅れないで電車くるという国は世界でも珍しい。そういう几帳面さが日本にはある。ブラジル人も日本人のイメ-ジはメガネをかけた几帳面な真面目な遊びのない姿である。ブラジル人もまたおおらかであるからそうなる。日本人の勤勉さは世界的に見ると異常だともなる。

キプロスの歴史は古い、世界の歴史をみるときいろいろあってむずかしいが一つは物から見るのも面白い。貨幣からみると一つの具体的物だからわかりやすい。外国にゆくといろいろな貨幣を使うから貨幣に興味をもつ、キプロスで船でおりてどういうわけかイギリスの貨幣と交換した。ユ-ロ-を使う前だからキプロスはイギリス領にもなっていて軍隊の基地もあった。その歴史をたどると


「キプロス王国」は、第三回十字軍に参加したイングランド王がキプロスを占領し、それをフランスの騎士に売却したのが始まりです。この国は、十字軍の中継基地として重要な役割を果たしていました。
デザインはキプロス王家の紋章になっている「キプロスのライオン」です。貨幣の単位「デニエ」は故国フランスの貨幣単位です。
http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/S049.htm


ここですでにイギリスの王が占領していたのだ。それでシェ-クスピアのオセロの舞台ともなった。その主役は黒人だった。その後も複雑に世界の歴史が交差するのがキプロスだった。オスマントルコに支配されて今はギリシャとトルコに分断されている。トルコを旅したとき自分はキプロスから来た。自分はキプロスに船をもっいいるという。ええ、ということはトルコでも金持ちがいたのかと思った。それからトルコのエフェス遺跡を見てそこでロ-マの貨幣だと嘘ついて売っているのを買ってしまった。そのロ-マの遺跡はあまりにも立派なものだった。キプロスももちろんロ-マの歴史がかかわっている。まるでキプロスは地層のように歴史が重なった地なのである。世界歴史の要衝の地なのである。不思議なのはそこで自衛隊の幹部が駐屯して訓練していた。それはなぜなのか?インタ-ネットで会話していたことがあった。日本の自衛隊もかかわるほどだからそこが軍事的要衝の地であり今はロシアが保養地として利用して多額の貯金していてその貯金がなくなるということでロシアが騒ぐことになった。ロシアはギリシャ正教で親しみがあったというのもまた歴史の因縁でそうなっている。

イギリスは七つの海を支配したからエジプトがエジプトボンドでありイギリス領だったからそうなった。トルコもボンド貨幣でありボンドはイギリスの支配のときはドルと同じく世界で最も通用した貨幣だったのである。不思議なのはキプロスに近くリディアがありここは世界最古の貨幣を生み出した所であった。貨幣のル-ツの場所だった。キプロスの名前は銅からきていてフェニキアの銅の採掘場だったというとき商業の民のフィニキアとすでにかかわっていたのである。リディアの貨幣は金と銀の合金だから銅ではなかった。金は一番貴重な金属だから金貨になった。


キプロスの騒動で近未来の情景が具体化して現れたことである。銀行が封鎖されカ-ドが使えなくなった。銀行が倒産するということが現実に起こった。それも格付けが低い銀行が倒産した。カ-ドが使えなくなることは一時日本でも騒がれた。やはりカ-ドは危険な面があった。キプロスでは貯金に30パ-セントの税金をかけたとか日本でも老人の貯金に税金をかけろとか騒いだから何か日本での金融危機を近未来を見るようだった。貯金は安全ではない、日本でもそうなることはありえると一時盛んに言われたのだ。キプロスの貯金は少額でもイタリアやスペインに連動するから見逃せないという。世界のニュ-スを見ていたらフランスでは失業者10パ-セントであり会社が倒産した場面を報じていた。そんなにフランスも景気がわるいのかと思った。いいのはドイツだけだになるのか?ユ-ロ-の危機はそういうところにもありドイツばかりがその損を引き受けるから嫌だと言うのもわかる。ユ-ロ-の危機は世界に波及して日本のアベノミックスの景気も吹っ飛んでしまうかもしれない、キプロスのようにな所から世界紛争に発展する危険もあるという指摘もあった。キプロスは世界の歴史の要衝の地点にありそれで世界をまきこむ場ともなりうるからだ。あの辺の歴史は古く複雑に入り組んでいる。世界もその場に6時間であれ寄っただけで興味をもつ、一度も足を踏み入れない地はなかなか世界でも興味がもてないのである。6時間でも実際にその島の地を踏んだということがあとでふりかえると大きなものとなって記憶となって残っているから興味をもったのである。


キプロスの悲劇-詩と文
http://www.musubu.jp/jijimondai3.htm#きぷ



インタ-ネットは編集しながら読む

歴史はやっぱりヒストリ-なのだ。キプロスの歴史も実に古い。歴史が交差したところは歴史を学ぶにはいい。それにしても2000年に書いたとすると今は2013年だから、ええ13年前に行ったのか?
いつのまにこんな時間が過ぎてしまったのだ!
ともかく時事問題の深層に書いていて良かった。誰にも読まれたかわからないがインタ-ネットは時系列で記録されているからそれが宝となる。プログとかインタ-ネットで書いても自分さえ何を書いたか忘れているからまた読み直す必要がでてきている。

インタ-ネットやはり編集しながら芋ずるしきにたどっていくと一つの世界が生まれる。それが結構手間になるがこれだけをたどって読むだけで相当キプロスの歴史を知ることができる。歴史は学ぶには教科書的に学ぶと興味がなくなる。貨幣に興味もったら貨幣から歴史を学んでゆく。漠然として学ぶと学べないのである。何かを書くということはその分野についての知識を集めないと書けない、今は確かに本をアマゾンで何でも注文できる。でも本の一ペ-ジとか読んで編集するには向いていない、こういうふうに一ペ-ジでも関連したものを並べるだけで新しいキプロスのストリ-を提供できるのだ。本では古いからロシアのことは書いていない、今はキプロスの主役はロシアになっていたのである。そこでここが世界的紛争の火種にもなると警告された理由がわかるのだ。
 
posted by 老鶯 at 19:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2013年03月28日

アマゾンで安易に注文したホルモン剤の危険 (TPP、グロ-バル化は安全が無視されやすい)


アマゾンで安易に注文したホルモン剤の危険

(TPP、グロ-バル化は安全が無視されやすい)

●薬には必ず副作用がある


手術後にホルモン剤を飲むなとかどこかで書いてあったことを思い出した。筋肉を強化する薬はアメリカ製でありアマゾンで直輸入できる。でも飲んだ人は体の調子がおかしくなったと書いた人が一人いた。あとはやる気がでてきたとか効果があった。ただ自分が失敗したのは手術後でありその影響を考慮しなかったことだった。健康だったら副作用もたいしたことがないかもしれない、手術後はこれはまたわからないし危険度が増していたのである。薬は安易に飲みすぎる。病院にゆくとやたら大量の薬を飲まされる。十種類の薬を飲んでいるとか言う人もいる。それは明かに過剰な薬の投与なのだけど病気になるとやはり藁をつかむ思いで薬に頼るのだ。精神病系統の薬はたいがい副作用があり悪いと言うのは本当だろう。精神系統はまだ良くわかっていないからだろう。薬で常に頭に入れて置かねばならなかったのが副作用があるということであった。効く薬はまた副作用が強い。抗ガン剤でも副作用がありかえって悪くする人もいる。薬の使い方はやはり慎重であらねばならなかった。


ただ医者が飲めという薬は飲まないとは言いにくいから困る。つまり薬の利用はむずかしいのである。筋肉系の薬でも一人は副作用があったとしても他の人は別にそういうことはなく良かったとかなる。それは体質とも関係しているし他にも何か個々人で関係しているものがあり全部に効いたりしないしまた副作用があるわげはない。ただ薬は慎重にしないと副作用が必ずあるということなのだ。
それから医者は手術をしたがるという批判もある。日本の外科医は特にその傾向があるという。

切りたい切ってみたい、切って腕をあげたい、切って優秀なところ見せたいとかの気持ちがあるのかもしれない、手術も成功すると効果が大きいからそうなる。失敗すると逆に薬の副作用のようにその影響が大きすぎるのだ。手術には必ずミスがつきものなのである。人間の体を傷つけるのだらいくら慎重にしてもそうなりやすいのである。ともかく患者も薬に頼りすぎるし手術にも頼りすぎることがある。手術が万能のような感覚に陥っている面がある。手術で致命的障害を負った人はいくらでもいる。ただすべて手術を否定することはできない、手術でしか治療をほどこせないものも多いからだ。

●安全は保証できない

 


 Q 混合診療を解禁すると、米国にどんな利益があるの。
 A 米国の巨大な製薬会社や保険会社は日本でシェア拡大を狙っている。解禁で保険適用が認められれば、自由診療を利用する人が増えて、高い薬も売れる。高い診療費をカバーするため、民間保険に入る人も増える。


ドラッグラグ・未承認薬が発生する直接的な原因は、次の2つに集約される。

日本の制度では効能・効果毎の承認を受けないと保険適用されないため、保険診療では承認されていない効能・効果には使えない(効能拡大問題に限る)。
未承認医薬品は、何時まで経っても、製薬会社が申請しようとしない。

 


自分がアマゾンからアメリカ制の薬を買おうとしたがこれは未承認の薬なのだろう。そういうものも販売されている。安全性が保証できないものも販売されている。インタ-ネットでそういうものが買える時代でもある。そこにまた落とし穴がある。グロ-バル化は安全性の面ではかなりマイナスな面があった。ウィルスが世界中に蔓延する危険や家畜の伝染病など世界中にたちまち蔓延してしまう。グロ-バル化のデメリットはかなり看過されていた。アメリカ人にヨ-ロッパ人でも食生活が根本的に違っているからその体質から特定の病気になりやすいものがある。アメリカ人は肉食に適したように酵素がでるという、日本人は穀物などを消化するので牛のように腸が長くなった。その土地の風土によって体まで作られてきた。だから風土にあった生活していると体にはいいのである。人間は世界中の食べものを輸入して食べる必要はないのである。牛肉などは本当は食べなくても他でタンパク質はとれていた。むしろ日本食が健康食として見直されたのは肉食民族と違った郷土料理があるためなのだ。

食生活は世界史にも大きく影響した。肉食民族のヨ-ロッパでは胡椒が不可欠になりアジアとの貿易を必要としてアジアに進出した。ヨ-ロッパはアジアより食生活で貧しかったのである。

ヨ-ロッパにはもともと資源や富はなかった。それでなぜ豊になったかというと知識や技術力だったのである。産業革命がそれを成し遂げたからこそイギリスが世界を七つの海を制覇した。工業化の結果として世界を制覇した。資源はない食生活も貧しかったけれどヨ-ロッパには知識と技術の集積ができあがった。ヨ-ロッパには天才が多いのも特徴である。天才もただ個人が傑出しても生まれない、やはりそれなりの全体の環境があって天才も生まれてくる。アフリカから天才は生まれないのはそうした知識技術の集積がなかったからである。日本が明治維新に西欧化に成功したのは江戸時代までの知識技術文化の集積がそれなりにあったから成功した。中国やインドもあったが遅れたのは日本のようにコンパクトな国でなかったからかもしれない、でも今や追いつきつつある。大きな国を改革するのは時間がかかるということもあった。


●原子力発電も安易に日本にとり入れたための失敗


ともかく現代の病気は栄養のとりすぎで糖尿病になったり体質にあわないのに欧米化の料理になったり肉食過剰になったり薬の飲み過ぎとかそういう贅沢から病気になる。一方で江戸時代辺りは脚気など栄養不足と薬のないことかなっている。一方で糖尿病のようなものはなかった。江戸時代に一割近く眼病があったというのも栄養不足だったのである。今は栄養過多から病気が起こりやすいのである。TPPの問題はアメリカのものが安易に入りやすい、薬でも危険な物が入りやすい、食糧でもそうである。遺伝子操作された食糧でもそうである。中国の食品は危険だから食べないという人も多くなった。日本の売りは安全だったのである。日本は外国と比べて治安も良かった。バッグを忘れてもどってくる国はほとんどないだろう。日本では警察に届けられることがある。田舎では忘れ物はほとんど届けられている。これは外国人も驚くだろう。ただ大きな犯罪は田舎でもありそれはまた別な所にあった。人と人が向き合うところに大きな犯罪が起きてくる。これは田舎でも同じである。

ただ原発事故のことでずいぶん書いてきたけどなぜ日本で事故が起きたのか?技術力があり安全の国ということで外国の評価が高かった日本でなぜ起きたのか?それはやはり日本の独自の風土と文化が根底に関係していた。原子力というのを何かわからずに明確に検討されずに安易に導入したのである。コストが安いからとか安全の面を考慮されていなかった。外国料理でも日本人にあう料理になる。技術もやはりその風土にあったものとしてとり入れることが必要だった。日本人は外国文化を入れるとき取捨選択して入れていたのである。それがグロ-バル化でなくなった。ただ便利だからいいということで無防備に入れてしまったのである。グロ-バル化でもTPPでも安全がないがしろにされることが一番恐い、でも安全は保証できない、すると原発事故のようにとりかえしがつかなくなる。
国さえ滅びかねないともなる。グロ-バル化は安全に対しては無感覚にしてしまった。あまりにも自由にヒトもモノも出入りすることを許してしまった。それが致命的なものとして事故が起きる。
原発をとり入れたことは日本では致命的だった。地震国であり津浪がある国ではどれほど危険だったか?また事故が起きたら国土が狭いのだから逃れる場所もない、原発は日本国土にあっていなかった。TPPさらなるグロ-バル化であり安全性は保証できない、原発のような落とし穴がある。薬のように副作用が大きくそれが致命傷になるということがあるから恐いのである。

桜の蕾ふくらむ(遅くはなく例年通りの開花か) (百人一首-紫式部-夜半の月の鑑賞)

 

桜の蕾ふくらむ(遅くはなく例年通りの開花か)

(百人一首-紫式部-夜半の月の鑑賞)


ようやくに桜の蕾ふくらみつ町の畑に種まく人かな


東京の桜ははやも散りにしと早きものかな時のうつりは


今年の桜は遅いと思っていたが東京ではすでに散っていた。この6年間はめまぐるしかく変わった。一身上もそうでありそのあと回りもめまぐるしく変わった。家族が分離して暮らしている人が多く飯館村では年よりは呼ばれたがここから出ないと仮設で暮らしている。やはりもう年よりになると広島だとか遠くには移れなくなるだろう。そういう家族の分離がこの辺で起こった。自分も一時町内でもそうなった。町内ならいいがこれがどういうわけか広島とか京都とかに若い人が移って仕事するとなるとあまりにも遠すぎるのだ。なぜそうなっているのかよく事情がわからない?何らか援助があるのか、または嫁の実家なのか?そういう人が四国にいた。


町内の畑で種をまいている人がいた。わずかでも畑を作っている人がいる。それを見ているとほっとする。ともかく人の営みというのがない暮らしがない世界は異常なのである。仮設でパチンコ屋通いは暮らしではない、確かにそういう人は隣にいた。でもみんなそうなると異常である。田畑がありそこに働くことが当たり前だったのにそれがなくなった。すると「種蒔き桜」というのがあるけどそういう感覚もなくなる。桜が咲くとき種をまくというのはまさに今日見た光景だった。この辺では町内にも畑があるからなごむのである。でも新築の家は増えた。西町は広い住宅地だったけどかなり家が建った。こんな騒ぎがなかったら家を建てる人もいなかった。ずいぶん長い間土地も売れず家も建たなかった。土地自体が800万円とか高い、土地はこの辺で安くなっていなかった。住宅は建て売りの安いものだけどそもそも土地代にとられるから日本では簡単に家は建てられない、3000万くらいかかるのかな・・貯えがあり補償金などを多くもらえる人は建てられる。でもここに仕事がないから若い人は家を建てても住めるのかともなる。


今日も一日家事だった。まだ整理がついていない、家事は料理から掃除から金の管理とかいろいろあるのだ。買い物でも結構手間なのである。料理で困ったのは買い置きすると古くなって使えなくなり捨てるのが結構あって無駄なのである。生ものはその日の内に食べないとそうなりやすいのだ。
二人だからあまってしまって捨てるのが多くなる。自分は毎日食費代2000円くらい使っているかもしれない、食費だけで高くついている。買ってすますとそうなりやすい、お菓子類も食べているから金かかっている。ただ買って手間を省いているのだ。

 

百人一首-紫式部-鑑賞-夜半の月

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   めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に
     雲がくれにし 夜半(よは)の月かな


 紫式部(57番) 『新古今集』雑上・1499


この歌を読んだのは週刊誌だった。石原慎太郎のことをこの歌に例えていた。週刊誌は新聞より面白いことは確かであるがこれも大衆向きにしているからこういう短歌をのせない、もし時事問題でも古典とかこうした短歌をのせると教養を深めることになる。そしてあとでも読むようになる。大衆向きなのはその時その時で終わってしまう。鴨長明の「方丈記」だって震災の時事問題を書いたがそれが無常を示すものとして人間の普遍性として書いたから後世に残り読み続けられている。
今に起こっていることは昔もそれも千年前以上にもあったことなのである。そういう人間の普遍的視点で今のことも書くとそれが後世に残り参考になる。ただ大衆向きの興味だけからではゴシップ記事にすぎないとなりゴミ箱に捨てられるだけだとなる。

この短歌は意外と年にならないと深く鑑賞できない、12年前にあった地中海のクル-ズの青年だがそれが何年前かと錯覚していた。こんなくに時間がたってしまったことに驚いたのである。その青年の記憶はすでにかすかになり思い出すのもむずかしくなる。でもその人が死んだわかげはない、日本のどこかで生きている。これも不思議なことである。人間は本当に老人になるとわかる、「さよならだけが人生だ」と本当になる。ただ別れてゆくのが人生だとつくづく思う。確かにいろんな人とあった。でも今や何も残らない、東京であった人はもはや雑踏の中に消えて無数の一人にすぎない、何も思い出せない、現代は濃厚な人間の出会いというのなくなった。人間が印象に残らないのだ。そうでない時代でも人間の出会いなどはかないものだった。あったと思ったらその人はどこかに消えてしまった。


若いときはそんなふうに思わない、あなたと本当にあう人はもしかしたら数人であり数人すらいない、あなたの心の深くにあった人が残るのは数人もいない、自分だと家族があって60年過ごしたからその二人くらいしかない。これはただ年数が長いということで記憶される。人間はそれだけの間長い時間あれば記憶に残る。夫婦はそういう時間をもっていることが貴重なのである。なぜなら老人になればわかる。絶対にそういう時間をもう作れないからだ。そして人はそうして心の奥深くまであう人は本当に少ない、みんなどこかに消えてしまう。

現代は特に人と会ったとしてもモノの売買などで会うだけであり深い所で会うということがない。ともにする時間がない、ここにいたなと思ったらいなくなったりしている。これは都会だと余計にそうなる。人間のこの世での出会いなどはかないものである。今日あって明日はこの世にいない、そんなふうに最後はなってしまう。そして死んだ人を思い出す人はさらに少なくなる。血縁で家族でも忘れてしまう。忘れられるのがまた早いのである。人間はそうして次々に消えてゆくだけ別れてゆくだけなのである。
だからこの短歌は人間の普遍的な真理を歌っているから深いのである。

老子が言っていたな、「会うことは奇であり、別れることこそ常である」とかな

この世で会うことこそ本当に奇しきことなのである。それは家族でさえそうである。

家族さえ別れからである。それぞれの家族となぜそうして長く過ごす時間をもっていることが不思議なのである。

人間は最後は永遠に会わない、会えない・・・それが常であり真実である。
会うということこそ奇しきことなのである。


今ここであっているな、どういう因縁なのかね、あとは永遠に会わないんだから
永遠に会えないということこそ会うことに厳粛さをもたらしている
だから昔は一期一会となったのである。

2013年03月29日

永正9年(1512)の津浪が四倉にあった?-1696-元禄磐城小名浜大津波もあった (400年周期で大きな地震と津浪が太平洋側にあった)


永正9年(1512)の津浪が四倉にあった?-1696-元禄磐城小名浜大津波もあった

(400年周期で大きな地震と津浪が太平洋側にあった)


本多徳次さんが昭和61(1986)年に著した『四倉の歴史と伝説』という本に「千人塚」の話が載っている。本を読むまで知らなかった。伝説をかみくだいて言うと、ざっと500年前の永正年間、四倉の大浦全域に津波が来襲し、家屋が流失した。死者が続出したため、仁井田浦に遺骸を合葬して「千人塚」を築いた。今は跡形もないという。 永正年間に津波が押し寄せたのは事実なのだろうか。

千人塚ができたのは永正年間から下ること100年余、元禄 9(1696)年の大津波のときだった。
 その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余。四倉、小名浜に千人塚を築く」。そのわずか19年前の延宝5(1677)年にも、磐城の浜に「大津波来襲、死者800名余」の大惨事になった。
http://www.j-cast.com/2012/01/22119521.html


永正9年(1512)8月4日、津波が宍喰を襲い、宍喰浦で3,700余人の犠牲者が出て、1,500余人は助かったという。この時代には、城や宍喰の中心は現在の正梶の地にあったが、津波により街が壊滅したため、その後現在の愛宕山に城を移したと言われている。なお、この永正9年の津波は幻の津波と呼ばれている。この日、徳島はもちろん、国内のどこにも地震の記録が見当たらず、外国の遠地津波によるものでもないようである。暴風津波(高潮)という説もあるが、被害規模から、被害地域が宍喰浦のみというのは疑問が残る。


一つは「村越伝説」である。静岡県史には、この頃浜名湖を襲った津波・高潮として、応永13年(1406年)、明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の3件の記載がある。
http://murakushi.net/information/history_06.html


1498(明応7)年の大地震の津波で太平洋の遠州灘の接する箇所決壊して海と湖水が通じ、
さらに1511(永正7)年の大津波でその間が広まり、今切という地名の名前が生まれた。

舞阪の象徴ともいえる浜名湖に浮かぶ弁天島は、1498(明応7)年の大地震で島となったところで、1709(宝永6)年に今切り渡船の安全を祈願して弁天神社が建てられてから、弁天島と呼ばれるようになった。
http://home.q08.itscom.net/you99/maisaka.htm


1605年2月3日(慶長9年12月16日)慶長地震 - 東海東、南海道で津波による死者多数。津波地震と推定される。

1611年12月2日(慶長16年10月28日)慶長三陸地震 - 東北の慶長津波(千島海溝沿いを震源とする説あり)、津波地震と推定され、伊
達政宗領内で溺死者5,000人[12]。仙台平野で内陸を2km溯上したと見られ、北海道南東部沿岸も大きな被害。最古の「津波」という語句の記載(『駿府記』)。


相馬藩政記-700人溺死



こうした記録は何を語っているのだろうか?津浪の記録は消失しやすい、だから永正9年(1512)の津浪は幻の津浪とされている。ただその後の慶長津浪は伊達藩にあり明確に記録されている。相馬藩政記-700人溺死と記されている。しかしただ一行だけでありどういう被害があったかは記されていない。
永正9年(1512)の津浪が四倉にあったというのは推測であり不明である。「千人塚」も津浪の死者を埋めたところとは限らない、戦死者とか台風とか他の被害もある。インタ-ネットでは津浪の被害で死んだというのは見いだされない。ただあまりにも多くの人が死んだので墓標のように埋められた死体があった。だから千人塚とういうこともありうることは推測できる。塩木が塩が来る-潮来というのもどうなのか?塩を焼く木を切った所かもしれない、そういう地名はあった。山の方でなく海辺にある村とするとどうなのか?そもそも四国や静岡などで起こった津浪が磐城地方でも起きたのか?
そういう明確な記録がないだろう。第一この津浪が幻とされているのだから磐城地方の四倉にあったということはどういうことなのか謎である。幻と言ってもそれなりに記録や伝承があるのだからあったことは確かだろう。


この頃浜名湖を襲った津波・高潮として、応永13年(1406年)、明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の3件の記載がある。


明応7年(1498年)、永正7年(1510年)

1605年2月3日(慶長9年12月16日)慶長地震 - 東海東、南海道で津波による死者多数。津波地震と推定される。
1611年12月2日(慶長16年10月28日)慶長三陸地震 - 東北の慶長津波(千島海溝沿いを震源とする説あり)、津波地震と推定され、伊達政宗領内で溺死者5,000人[


明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の間は12年
慶長地震から慶長三陸地震津浪は6年である


12年後と3年後にまた津浪が来ている。そんなに短い間に津浪が来るものなのか?3年後としたらこの辺は2年過ぎて3年目になるのだから津浪の警戒が必要だとなる。

伊達政宗領内で溺死者5,000人という数字はほぼ正確ではないか?相馬藩の700人溺死も数としてほぼ正確ではないか?なぜなら今回の津浪被害で宮城県が一番大きかったからだ。伊達藩は山元町までありそこも浜の方で被害が大きかった。伊達藩では津浪の後も開拓して米作りしていた。人手がたりなくなったので相馬藩の武士も開墾に従事した。その時は今のように津浪の来る所をさけるようなことがなかった。それより江戸に送る米が必要だからあえて危険でも開拓した。塩分はぬけるし米は塩分にも強いらしい。松川浦の和田の人は塩分の田んぼでも米をがとれたとか言っていた。放射能よりはましだとなる。


こういう記録を見ると400年前に慶長津浪は確実にあり 東南海地震,津浪もあったのだから周期的に東北でも東海道、四国でも起きることは推測されていた。それは科学者の仕事でもあり最近は貞観津浪が相馬市の松川浦の奥まで押し寄せたという砂が発見された。他にも貞観津浪の痕跡が明確に証拠として発見されていた。記録的にも400年後であり大きな地震が東北にも東南海にも起きる時期だったのである。貞観津浪のことは言われていたが慶長津浪のことはあまり言われなかった。
やはり記録からして東南海地震や津浪はいつ起きても不思議ではない、ただその時は東南海地震の6年後に慶長三陸地震が起きた。つまり今回とは逆になるのだ。でもプレ-トがつながっているから互いに影響し合うことが考えられる。互いにプレ-トがバランスをとるために交互に大きな地震が起きる。これは素人の推測だが何かわかりやすい解釈である。最近の河口湖の水が退いているのも前触れなのか?何か不気味である。

四倉は今回は被害は大きくない、広い砂浜が緩衝地帯になりあれだけ海に近くても被害が少なかった。海岸の松によじのほって助かった人がいたがここでは松ごと流されたから助からなかった。
津浪は地形に影響されやすいのだ。四倉の街が津浪にのまれたら大被害になった。久之浜は海岸にじかに接しているから被害が大きかった。だから四倉に永正9年(1512)の津浪があったということは何か疑問なのである。記録では海嘯としているからそれはあたっている。津浪は慶長三陸津浪のあとに呼ばれるようになったからだ。

元禄 9(1696)年の大津波のときだった。 その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余
 
元禄磐城小名浜大津波 ……… 1696年7月25日(元禄9年6月27日)
http://www.bosaijoho.jp/topnews/item_5820.html

この津浪の名前が磐城小名浜大津波であり限定された地域の津浪だった。津浪が幅広く押し寄せるときこれはどうしてなのだろうか?局所的大地震だったのか?プレ-ト地震ではなかったのか?
磐城小名浜にこれだけの津浪があれば原発のあった所の双葉浪江でも影響があったろう。
相馬藩の記録にはない、この地震の津浪なら四倉に確実に影響した。

千人塚ができたのは永正年間から下ること100年余、元禄 9(1696)年の大津波のときだった。
千人塚がこの時のものだとすると永正7年(1510年の津浪で死んだ人たちではない。


明治の学者・大須賀筠軒の著した「塩木村誌」を読む。「耕田寺縁起を按スルニ永正年間海嘯アリ近隣諸村併セ民家悉(コトゴト)ク流滅ス。天文ノ頃海嘯猶ホ来る故ニ潮来(シホキ)村ト名ツク後轉ジテ塩木村ニ作(ナ?)ルト云フ」


海嘯は慶長三陸津浪の前の名前だった。ただこの記録はどうして四倉に残ったのか?

ただこれらの記録から推察すればいかに双葉や浪江は近いのだから危険だったか明瞭である。
なぜ東電や政府はこうした津浪に警戒しなかったのか?その責任は重いはずである。
津浪には全く警戒していなかったのだ。ただ一応危険を指摘はしていたが何の対策もしなかった。
コストがかかるとあいまいにしてしなかったのである。


元禄磐城小名浜大津波 ……… 1696年7月25日(元禄9年6月27日)


この津浪を話題にしているものがほとんどないというのも不思議である。すぐ近くだから危機感があってもいいはずだった。これは300年前のことだった。津浪は短い期間の間にも来るし300年とかの間にも大きな津浪がどこかに来るということである。プレ-トだけではない、局所的なものとして津浪が来ることが記録から判明している。プレ-トのことばかり指摘しているが地震はどこに起きるかわからないのである。それに応じて津浪もどこに起きるかわからないのである。だから原発は日本では危険なのである。
 

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永正9年(1512)の津浪が四倉にあった?-1696-元禄磐城小名浜大津波もあった (400年周期で大きな地震と津浪が太平洋側にあった)


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永正9年(1512)の津浪が四倉にあった?-1696-元禄磐城小名浜大津波もあった

(400年周期で大きな地震と津浪が太平洋側にあった)


本多徳次さんが昭和61(1986)年に著した『四倉の歴史と伝説』という本に「千人塚」の話が載っている。本を読むまで知らなかった。伝説をかみくだいて言うと、ざっと500年前の永正年間、四倉の大浦全域に津波が来襲し、家屋が流失した。死者が続出したため、仁井田浦に遺骸を合葬して「千人塚」を築いた。今は跡形もないという。 永正年間に津波が押し寄せたのは事実なのだろうか。

千人塚ができたのは永正年間から下ること100年余、元禄 9(1696)年の大津波のときだった。
その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余。四倉、小名浜に千人塚を築く」。そのわずか19年前の延宝5(1677)年にも、磐城の浜に「大津波来襲、死者800名余」の大惨事になった。
http://www.j-cast.com/2012/01/22119521.html


永正9年(1512)8月4日、津波が宍喰を襲い、宍喰浦で3,700余人の犠牲者が出て、1,500余人は助かったという。この時代には、城や宍喰の中心は現在の正梶の地にあったが、津波により街が壊滅したため、その後現在の愛宕山に城を移したと言われている。なお、この永正9年の津波は幻の津波と呼ばれている。この日、徳島はもちろん、国内のどこにも地震の記録が見当たらず、外国の遠地津波によるものでもないようである。暴風津波(高潮)という説もあるが、被害規模から、被害地域が宍喰浦のみというのは疑問が残る。


一つは「村越伝説」である。静岡県史には、この頃浜名湖を襲った津波・高潮として、応永13年(1406年)、明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の3件の記載がある。
http://murakushi.net/information/history_06.html


1498(明応7)年の大地震の津波で太平洋の遠州灘の接する箇所決壊して海と湖水が通じ、
さらに1511(永正7)年の大津波でその間が広まり、今切という地名の名前が生まれた。

舞阪の象徴ともいえる浜名湖に浮かぶ弁天島は、1498(明応7)年の大地震で島となったところで、1709(宝永6)年に今切り渡船の安全を祈願して弁天神社が建てられてから、弁天島と呼ばれるようになった。
http://home.q08.itscom.net/you99/maisaka.htm


1605年2月3日(慶長9年12月16日)慶長地震 - 東海東、南海道で津波による死者多数。津波地震と推定される。

1611年12月2日(慶長16年10月28日)慶長三陸地震 - 東北の慶長津波(千島海溝沿いを震源とする説あり)、津波地震と推定され、伊
達政宗領内で溺死者5,000人[12]。仙台平野で内陸を2km溯上したと見られ、北海道南東部沿岸も大きな被害。最古の「津波」という語句の記載(『駿府記』)。


相馬藩政記-700人溺死



こうした記録は何を語っているのだろうか?津浪の記録は消失しやすい、だから永正9年(1512)の津浪は幻の津浪とされている。ただその後の慶長津浪は伊達藩にあり明確に記録されている。相馬藩政記-700人溺死と記されている。しかしただ一行だけでありどういう被害があったかは記されていない。
永正9年(1512)の津浪が四倉にあったというのは推測であり不明である。「千人塚」も津浪の死者を埋めたところとは限らない、戦死者とか台風とか他の被害もある。インタ-ネットでは津浪の被害で死んだというのは見いだされない。ただあまりにも多くの人が死んだので墓標のように埋められた死体があった。だから千人塚とういうこともありうることは推測できる。塩木が塩が来る-潮来というのもどうなのか?塩を焼く木を切った所かもしれない、そういう地名はあった。山の方でなく海辺にある村とするとどうなのか?そもそも四国や静岡などで起こった津浪が磐城地方でも起きたのか?
そういう明確な記録がないだろう。第一この津浪が幻とされているのだから磐城地方の四倉にあったということはどういうことなのか謎である。幻と言ってもそれなりに記録や伝承があるのだからあったことは確かだろう。


この頃浜名湖を襲った津波・高潮として、応永13年(1406年)、明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の3件の記載がある。


明応7年(1498年)、永正7年(1510年)

1605年2月3日(慶長9年12月16日)慶長地震 - 東海東、南海道で津波による死者多数。津波地震と推定される。
1611年12月2日(慶長16年10月28日)慶長三陸地震 - 東北の慶長津波(千島海溝沿いを震源とする説あり)、津波地震と推定され、伊達政宗領内で溺死者5,000人[


明応7年(1498年)、永正7年(1510年)の間は12年
慶長地震から慶長三陸地震津浪は6年である


12年後と3年後にまた津浪が来ている。そんなに短い間に津浪が来るものなのか?3年後としたらこの辺は2年過ぎて3年目になるのだから津浪の警戒が必要だとなる。

伊達政宗領内で溺死者5,000人という数字はほぼ正確ではないか?相馬藩の700人溺死も数としてほぼ正確ではないか?なぜなら今回の津浪被害で宮城県が一番大きかったからだ。伊達藩は山元町までありそこも浜の方で被害が大きかった。伊達藩では津浪の後も開拓して米作りしていた。人手がたりなくなったので相馬藩の武士も開墾に従事した。その時は今のように津浪の来る所をさけるようなことがなかった。それより江戸に送る米が必要だからあえて危険でも開拓した。塩分はぬけるし米は塩分にも強いらしい。松川浦の和田の人は塩分の田んぼでも米をがとれたとか言っていた。放射能よりはましだとなる。


こういう記録を見ると400年前に慶長津浪は確実にあり 東南海地震,津浪もあったのだから周期的に東北でも東海道、四国でも起きることは推測されていた。それは科学者の仕事でもあり最近は貞観津浪が相馬市の松川浦の奥まで押し寄せたという砂が発見された。他にも貞観津浪の痕跡が明確に証拠として発見されていた。記録的にも400年後であり大きな地震が東北にも東南海にも起きる時期だったのである。貞観津浪のことは言われていたが慶長津浪のことはあまり言われなかった。
やはり記録からして東南海地震や津浪はいつ起きても不思議ではない、ただその時は東南海地震の6年後に慶長三陸地震が起きた。つまり今回とは逆になるのだ。でもプレ-トがつながっているから互いに影響し合うことが考えられる。互いにプレ-トがバランスをとるために交互に大きな地震が起きる。これは素人の推測だが何かわかりやすい解釈である。最近の河口湖の水が退いているのも前触れなのか?何か不気味である。

四倉は今回は被害は大きくない、広い砂浜が緩衝地帯になりあれだけ海に近くても被害が少なかった。海岸の松によじのほって助かった人がいたがここでは松ごと流されたから助からなかった。
津浪は地形に影響されやすいのだ。四倉の街が津浪にのまれたら大被害になった。久之浜は海岸にじかに接しているから被害が大きかった。だから四倉に永正9年(1512)の津浪があったということは何か疑問なのである。記録では海嘯としているからそれはあたっている。津浪は慶長三陸津浪のあとに呼ばれるようになったからだ。

元禄 9(1696)年の大津波のときだった。 その年、「大津波来襲、磐城七浜で死者2400名余
 
元禄磐城小名浜大津波 ……… 1696年7月25日(元禄9年6月27日)
http://www.bosaijoho.jp/topnews/item_5820.html

この津浪の名前が磐城小名浜大津波であり限定された地域の津浪だった。津浪が幅広く押し寄せるときこれはどうしてなのだろうか?局所的大地震だったのか?プレ-ト地震ではなかったのか?
磐城小名浜にこれだけの津浪があれば原発のあった所の双葉浪江でも影響があったろう。
相馬藩の記録にはない、この地震の津浪なら四倉に確実に影響した。

千人塚ができたのは永正年間から下ること100年余、元禄 9(1696)年の大津波のときだった。
千人塚がこの時のものだとすると永正7年(1510年の津浪で死んだ人たちではない。


明治の学者・大須賀筠軒の著した「塩木村誌」を読む。「耕田寺縁起を按スルニ永正年間海嘯アリ近隣諸村併セ民家悉(コトゴト)ク流滅ス。天文ノ頃海嘯猶ホ来る故ニ潮来(シホキ)村ト名ツク後轉ジテ塩木村ニ作(ナ?)ルト云フ」


海嘯は慶長三陸津浪の前の名前だった。ただこの記録はどうして四倉に残ったのか?

ただこれらの記録から推察すればいかに双葉や浪江は近いのだから危険だったか明瞭である。
なぜ東電や政府はこうした津浪に警戒しなかったのか?その責任は重いはずである。
津浪には全く警戒していなかったのだ。ただ一応危険を指摘はしていたが何の対策もしなかった。
コストがかかるとあいまいにしてしなかったのである。


元禄磐城小名浜大津波 ……… 1696年7月25日(元禄9年6月27日)


この津浪を話題にしているものがほとんどないというのも不思議である。すぐ近くだから危機感があってもいいはずだった。これは300年前のことだった。津浪は短い期間の間にも来るし300年とかの間にも大きな津浪がどこかに来るということである。プレ-トだけではない、局所的なものとして津浪が来ることが記録から判明している。プレ-トのことばかり指摘しているが地震はどこに起きるかわからないのである。それに応じて津浪もどこに起きるかわからないのである。だから原発は日本では危険なのである。



「大仏石」が伝えていた大津波 過去の自然災害に鈍感だった【福島・いわき発】

http://www.j-cast.com/2012/10/05149145.html

こういう伝承があるだけで津浪に関心をもつ、相馬ではそういう伝承があったとしても身近に聞いたことがない
そういうモノも残っていない、神社さえ津浪を記念したとしても由来が不明になっていたのだ。

こういうものがあるとすると塩来は津浪由来なのかな・・・・

 

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2013年03月30日

春の浜街道-短歌十首(相馬市まで)


春の浜街道-短歌十首(相馬市まで)


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浜街道松に東風(東風)吹き古碑一つ

東風(こち)吹いて松並木かな浜街道城跡たずね梅の香りぬ
みちのくに花の咲きしは遅しかな南は散りてなお蕾なり
みちのくに花の遅しも我が待ちぬゆとりのあれや山を見るかな
浜街道道の閉ざされ悲しかな東風の吹きつつ春になれども
東風吹きて浜街道を旅行かむ道閉ざされて恨み深しも
街道に五本の松の残るかな春の夕陽の山脈に没る
紅梅の香りの満ちて星のごとイヌフグリ咲き蕗の薹いず
紅梅の御園に入りてその香りしばし満たして去りにけるかな
石神に住みにしといふ若き母ほのぼのとして紅梅香る
この里に愛しき人の棲むならば辺りもなごみ花も映えなむ
やさしくも甘きその声いやされぬほのぼのとして紅梅香る
悲しかな若きは去りぬ老いにしをなほ春ありて我が生きむかも
パン屋にて白髪の女性働きぬ春の日あわれいづこの人かな
赤々と春の夕陽の燃えにつつ没りにけるかな梅の香りぬ
春の陽の水面に輝き溜池に釣り人一人日も暮れゆかむ

旅心湧きにけるかな日永きの夕辺明るし我は老いしも

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今日は成田の方を回って相馬市に出た。途中紅梅の梅林の中に入りその香りにひたった。紅梅でもいろいろあり淡紅の紅梅だった。女性でも真っ赤な口紅をぬると嫌な感じになる。薄いのだとそうでもない。梅にも種類がある。紅梅でも真っ赤なのもある。ほのかに赤い紅梅もある。紅梅の香りはまた白梅とは違っている。どうしても紅梅を女性をイメ-ジするのだ。それも若い女性をイメ-ジする。
紅梅の下にはイヌフグリが咲き蕗の薹がでていた。紅梅の林はこの辺でもあまりない、そこには五六本あった。


最初北風の感じだった。それから東風が吹いてきた。陸前浜街道というから浜であり海沿いを行く街道なのである。ただ意外と海が見えないから海を意識しないのである。それは松原とか家にさえぎられてみえなかったのである。またそれなりに遠いから海が見えない,すると海を意識しない、でも浜街道であり海は近いのである。それがわかったのは津浪のためだった。街道の近くまで津浪が押し寄せて来たからだ。浜街道は仙台からつづき津浪が来ない山側に伸びていた。何か津浪を意識して街道を作ったということが言われた。それよりもともと海側は湿地帯だったので道が作りにくかったのである。そういう自然条件があり古い街道はできていたのである。ところが電車の線路はそうした自然条件を無視して新しく作っていた。明治以降であり新しいのである。街道ができたのは相当に古いだろう。江戸時代前よりそうした道があった。

今回の津浪や原発事故の教訓は古いもの知り古いものに準拠することが必要だった。そういうことを思いしらされた。400年前と300年前にも大きな津浪の被害が出ていたけど忘れていた。津浪の伝説は四倉にもあった。するとこの辺でも意識する必要があった。今は古いものが次々と新しいものになる。そこに古いものが省みられなくなり今回のような災いに見舞われる。古いものにも何か意味があるのだ。その意味が忘れ去られるとき問題が起きるのだ。
田舎というのはやはり土地と密接に結びついて暮らしてきた。江戸時代が村ごとに一つの家族のようにして住んでいた。これは原始時代なら部族にもなる。そうした部族はみんな親戚と同じである。
名付け親になったりするのもそのためである。今でもやはり土地によってその人が性格づけられる。最近知り合った石神の女性は石神の人かとなり病院で知り合った人は大原の人となり津浪の被害にあった人は海老の人や磯部の人となる。部落単位で人が意識される。昔は村ごとの結束があり対立があった。最近読んでいる「昨日までの世界-ジャレッド・ダイヤモンド」そうした昔の部族が今と比べてどういうものだったか詳しく考察しているので面白い。そういうところでは自然に談合があり争いを好まずなんとか折り合う方法を見いだしていたのである。パン屋で働いていた白髪の女性は店のオ-ナ-なのか?ただ雇われた店員なのか?
まあ、確かに高齢化社会は年よりも働く人がふえて来る。でも何かあわれだとかなる。そして田舎だとどこに住んでいる人なのか?どういう事情なのかとか詮索しやすいのである。


不思議なのは自分の家族は異常なか家族だった。だから両親が仲良くて素直に育って結婚して子供をもちやはり普通に家族をもった女性を見ているとそんな人もいたのだなと感心するしそういう家族がいることは幸せだなと思う。ただまたそういう自分からみて恵まれた家族でもその本人は当たり前だと思っているのだ。この辺では家族が一緒に暮らすことなど当たり前だと思っていた。それがばらばらにされたり津浪で突然死んだりと激変があった。田畑もあるのも当たり前だけどこの辺ではない。そうした当たり前のことが一瞬にして失われたのだ。それで当たり前のことの価値を見いだしたのである。家族があること家族が一緒に暮らすことは当たり前なのである。でもそれが失われたとき家族がいかに尊いものか意識する。普通は家族があって普通だから意識しないのである。


平和というのも意識しない、平和を平和と叫ぶようなのが平和ではない、平和は意識されないとき平和なのである。平和というのも失ってはじめて平和の価値がわかる。アフガニスタンの少女が戦乱のなかで平和が欲しいというとき切実なのである。平和時の平和運動とはまるで違ったものとなる。
この辺ではまさにその平和が喪失した。だから平和を切実に願うようになった。
自分の場合は何かわからないけど六年間は地獄であり修羅場だった。一時は認知症の介護で自分も鬱病になっていた。それから今まで書いてきたように信じられないことの連続だった。自分も身体障害者となり病気になった。なぜこんなに苦しめられるのかわからなかった。

ただようやく今になって何か今年は平和を感じた。去年は感じていない、手術して身体障害者から解放されたことも大きかった。ああ 今年は平和だなというのが今年の春の短歌ににじみでている。
何か普通の状態にもどったなという感じがする。田畑はないが何か去年より平和で楽になったなと感じた。人間はやはり老いると孫とかに愛情を注ぐのがわかる。家族がいないにしろわかる。
若い人に接すると自分も若返るのだ。孫が特に愛しく思えるのは老人はそこに新しい命があり死にゆく命もまた孫を通じて生き返るという感覚になるからだ。命が引き継がれる感覚が生まれるからだ。春はまさに古いものから新しいものに変わる蘇りの季節だから余計にそうなるのだ。


ともかく今日はかなり日の永さを感じた。溜池釣りする人がいた。水面に春の陽がかがやき暮れようとしていた。何かここにも今までのような普通にあった平和を感じた。現実に右田の松原で車で来て海岸で釣りしていた人たちがいつもいた。そういう人たちはもうそこにはありえない、松原自体喪失ししてしまったからだ。だから釣りする人をみて平和だなと感じた。
そしてまた遠くに旅したくなった。ただショ-トスティでも二日でも手続きやらめんどうだし嫌だというのでも行けなくなった。近くならなんとか行けるが遠くなるとめんどうになった。こんなことになるとは思いもよらなかった。どこでもふらり旅して一か月くらい帰ってこなかった。その時は自分は余程恵まれていたのだ。
やはり浜街道を波立海岸やイワキの方に旅してみたいとなる。それができないから恨めしいとなるしそれがもういつ行けるかもわからない、十年くらい六号線が閉鎖されたままかもしれない、そのうち死んでしまうということもある。それが悔しいのである。旅が長いからどうしても旅する気持ちにいつもなってしまうのである。特に春になればそうなるのだ。