2013年03月10日

鴨長明「方丈記」を読む (この世には災難は常にあり無常の世であることにかわりなかった)


鴨長明「方丈記」を読む

(この世には災難は常にあり無常の世であることにかわりなかった)



ゆく河の流れは絶えることなく、しかも、もとの水ではない。そのよどみ[流れずに留まっているところ]に浮かぶ泡沫(うたかた)[泡沫。水上の泡のこと]は、あるいは消え、あるいは結びつき、久しく留ったためしはない。世の中に生きる人と住みかも、またそのようなものだ。


 玉を敷き詰めたような都(みやこ)のうちに、棟(むね)を並べ、軒(のき)を争うような、高貴なもの、貧しきものの住まいは、世の移り変わりにも、尽きることはないが、それが真実(しんじつ)かと尋ねれば、昔からある家は稀(まれ)である。ある家は去年焼けて、今年造り直す。あるいは大きな屋敷も、小家へと移(うつ)り変わる。住む人もこれに同じ。場所も変わらず、人も多く見えるが、かつて顔を見合わせた人は、二三十人がうちに、わずかにひとりふたりしかいない。朝(あした)に死に、夕べに生まれる人の営みは、ただ水の泡沫(あわ)にこそ似たものであろうか。


あるいは煙にむせながら、倒れてはうつ伏せになり、あるいは炎(ほのお)に目がくらんで、たちまち死んでしまう。あるいは自身だけは辛うじて逃れるものの、資財(しざい)[財産や宝物など]を取り出すことは適わず、七珍万宝(しっちんまんぽう)[あらゆる宝ものの例え]は、まるで灰燼(かいじん)[燃えた灰や、塵、燃えかす]のようになってしまった。その値(あたい)、いったいどれくらいであろうか。

このたび、公卿の家は十六も焼けた。ましてその他は、数え知ることさえ出来ない。すべて合わせれば、都(みやこ)のうち、三分が一も焼失したという。男女(だんじょ)、死んだもの数千人、馬や牛などにいたっては、際限さえ分からない。


京の慣習、何を行うにしても、もともとは田舎をこそ頼みとしているのに、それさえ途絶えて、のぼり来る物さえなくなれば、どうして体裁を取りつくろっていられようか。神に念じつつ、悲嘆に暮れながら、さまざまの財(たから)さえ、片端から捨てるように売るが、それに関心を持つ人さえいない。たまたま換え得たとしても、金の価値は軽く、粟の値段ばかりを重くする。乞食(こじき)は道のほとりにあふれ、憂い悲しむ声は、耳に響き渡った。


死者の数を知ろうとして、四月から五月にわたって数えたところ、みやこのうち、一条大路よりは南、九条大路よりは北、京極(きょうごく)大路よりは西、朱雀(すざく)大路よりは東の、道に横たわる頭(かしら)、あわせて四万二千三百あまりにもなったという




今回の津浪原発事故ほどまた無常を感じたことはない、この無常は自分の身内の認知症にも感じた。この六年間は一身上でも無常と苦難の連続だった。自ら病気にもなったしその中で親の介護をしなければならなかった。身寄りはなく助けもなかった。ただ弱みにくけこまれ犯罪にあい弱者としていじめられた。人間の非情もいやというほど体験したけどまた自然も非情であり無情だった。津浪ほど自然の無情を示したものはなかった。


そのよどみ[流れずに留まっているところ]に浮かぶ泡沫(うたかた)


人間は津浪にのまれ泡のように多くの命が消えた。日本では洪水も多く水の災害が多い。津浪も水の災害だった。


昔からある家は稀(まれ)である。ある家は去年焼けて、今年造り直す。あるいは大きな屋敷も、小家へと移(うつ)り変わる。住む人もこれに同じ。場所も変わらず、人も多く見えるが、かつて顔を見合わせた人は、二三十人がうちに、わずかにひとりふたりしかいない。

これも全く津浪で現実化した。また原発事故でもそうなった。大きな屋敷も、小家へと移(うつ)り変わる・・・・これは仮設住宅のことである。田舎ではみんな大きな屋敷に住んでいたのである。それが狭い仮設に住むことになった。この変化も大きいのである。

この辺では壊された家が多い。こんなに家が壊されてゆくのかとも思った。今もまた一つ近くで家が解体される。家の解体は無料になるのでこの辺では多くなっている。更地になったところが多い。一方で津浪などで家をなくした人が家を建てている。その数は壊された家より多くなっている。これも大きな変化である。住む人も本当に変わってしまう。今まで住んでいた人も今はどこに行ったかもわからない、いづれ自分の家もそうなってしまうのだろう。


資財(しざい)[財産や宝物など]を取り出すことは適わず、七珍万宝(しっちんまんぽう)[あらゆる宝ものの例え]は、まるで灰燼(かいじん)[燃えた灰や、塵、燃えかす]のようになってしまった。その値(あたい)、いったいどれくらいであろうか。


これも津浪でまざまざと見た。ここに別荘が建っていて1200万で売っていたな、でも流されて一文にもならなかった。ここにもう家を建てる人はいない、家そのものより町自体が喪失する、なくなるということも見た。ただその前に茫然としているほかなかった。それは今でもつづいている。津浪の跡に家は建たないし更地のままなのである。こういう場に直面した人はただ茫然自失するほかなかったのである。こんなことがありうるのか?これは夢ではないかと夢うつつになってしまった。事実を事実として認められなかったのである。素寒貧になり命だけ助かったなど川柳に読んでいたがそんな余裕ある心境ではなかった。

今までもっていたものをすべて失った人もいた。家族を失い家を失いその人は自殺した。それほど悲惨なことだった。損得の勘定をしているような状態ではなかった。ただ自分は命があったということであり死んだ人は無数にいた。家族を失った人はそのことを痛切に感じているし今も同じである。こういうことはいくら話を聞いても被害にあった人しかわからないものである。同情するにしてもお前は口だけだとか言われるだろう。俳優で泣いてみせた人がいたが俳優だからあういうこともできる。とても家族を失った人の悲しみはその人しかわからない、またそれぞれの自分の悲しみも苦しみも他人にはわからなかった。要するに相手の苦しみ悲しみはいくらひどくても他人事になるのだ。


京の慣習、何を行うにしても、もともとは田舎をこそ頼みとしているのに、それさえ途絶えて、のぼり来る物さえなくなれば、どうして体裁を取りつくろっていられようか。神に念じつつ、悲嘆に暮れながら、さまざまの財(たから)さえ、片端から捨てるように売るが、それに関心を持つ人さえいない。たまたま換え得たとしても、金の価値は軽く、粟の値段ばかりを重くする。乞食(こじき)は道のほとりにあふれ、憂い悲しむ声は、
耳に響き渡った。


京都ではやはり食糧を田舎が供給していたから田舎を頼みとしていた。金の価値より食べものの粟が高くなったというのは戦争中と同じである。農家に高価の衣服をもってわずかの食糧と交換したのが都会の人だった。実は津浪の災難でもそれとにたことは何度も歴史上で起きていた。ただ戦後60年間は平和であり繁栄の時だったから忘れていたのである。戦争の苦難も3百万人以上死んだのも歴史的には最近のことだった。その生き残りもまだまだいる。そういう話を聞くのだが自らが苦しみにあっていないからよそ事になってしまっていた。3百万人以上死んだといっても実感をもてないのだ。
人間は自ら苦しまない限りその苦しみを自分のものとしてみないのだ。


NHKの特報首都圏という番組で、東京大空襲の戦災孤児の体験談のレポートがありました。
 あの夜、10万もの民衆が死に、同時に12万人もの孤児が生まれた。彼らは、暖を取るために死者の墓標を抜いて燃やし、食い物を盗んで飢えを凌いだ。街娼として町に立つ友達を見て驚き、疎開先でも孤児たちは邪険にされ、「犬小屋」と書かれた教室で学ばされた。
http://eiji.txt-nifty.com/diary/


こういう悲惨なことがあってもすでに忘れている。犬小屋というときやはり原発避難民のことを書いたがこれ異常に食う食わずの人たちがあふれ苦しんでいたのである。現代はあまりにも恵まれているが故に差別が生まれた。人間はそうした歴史的には人災もあり自然災害もあり百年単位とかになれば常にそういう苦しみを受けてきた。ただ平和がつづいたから忘れていたのである。人間の社会はこの世は無常だというとき常に言われてきたことである。それを津浪や原発事故でこの辺では苦しむ結果となったのである。無常こそこの世であり変化がこの世でありそれを否応なく思い知らされたのである。


財産に頼ってもその財産を失う、家族も失う、町自体がなくなるということは想像もつかなかった。市町村すらなくなってしまうことがあるという驚きだった。遂には国すら地球すらなくなってしまうという黙示録の恐怖に通じる。この世にあるものはみな変化し今日あるものは明日はないというまでになる。老人になれば本当に今日あっている人が明日は会わないということが実感する。だからこの世であった人はその人が悪人でもあっても縁がありこの世での何らかの定めだったかもしれないとも思う。これは例えは相手を憎んでいる人でもそうである。憎んでいる裏返しは愛しているからでもある。憎しみ合っても最後になると実は愛しているからだったとまでなる。無関心だったら憎みも愛しもしないからた。だから憎む人があったらそれなりにその人と縁があり愛の裏返しだったともなるかもしれない。


つまり世の中に生きるということはただこうして一時のことである。恨むも憎む愛すもそうである。たちまち人はこの世から消えてなくなる。「さよならだけが人生だ」に本当になるのが人生だった。そういうことが津浪でまざまざと現実で見た。常にそういうことは言われてきてもこれだけ大規模に無常をみることはなかった。でも戦争ではそうだったしそれは60年前がそうであり戦争を体験した人はこんなことは別にありうるから驚かないというのも本当だろう。こういうことを経験していない人はこれは何なのだとなるだけなのである。この世にはこういうことが無常が起きてくる。人災の戦争であれ自然災害であり常に起きてきたのである。人間が死ぬということから見ればこの世はすべて無常になる、虚しいとなるのだ。そういうことを具体的事実として示されたから驚嘆した。それは別に一身上でもすべての人に死がありすべてはただ無常と化してゆく。それが人間の変わらぬ現実であった。そこに宗教が生まれたのである。だから今回は災害のあった地域では宗教の発心が生まれやすい、無常を感じる時宗教を求めるからである。ただ葬式仏教とかカルトでは救いにならない。そういうところは宗教と何の関係もなくなっている。


戦争中の苦難と今を比べるとずいぶん楽だなともなる。でもそういう比較はまた時代が変わるから簡単にはできない、そににしても戦争中の苦難と比べれば楽だなともなるだろう。飢饉でも今日食べるものがないという切迫感の中に生きていたし現実に飢死した人が無数にいたのである。だから今回の津浪原発事故は過去に起きた受難の歴史を思い返す契機になったのである。

posted by 老鶯 at 14:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

初蝶を庭で見た!


初蝶を庭で見た


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初蝶を我が庭に見て老いゆきぬ

今日は黄色い蝶が一羽庭に飛んだ。初蝶を庭で見るのはめずらしい、たいがいこれまでは外でみていた。作家が庭作りに励むのがわかる。あの人は若いときはライダ-であり相当乱暴な人だった。でも年老いて庭作りに励んでいる。年とるとやはり遭難てゆく・・・何か庭作りが老後に向いている。

外に出てゆくより家とか庭とかが安らぎの場所になる。外に出ていかなくても中に入ってくるものが蝶のように美しいものだったらいいとなる。これまで入ってきたのは録なものがいなかった。
最悪の人しか来なかったのが悲劇だった。


初蝶を見るのはやはりこのところ異常にあたたかったしその影響もある。今は北風がぴゅうぴゅう吹いている。まだ梅は咲いていないから今年は遅いのだろう。プログは人に読んでもらうのもあるが
日記でありその時々の記録として書いている。初蝶が来たとか白鳥が来たとか帰ったとか書いておけば記録になる。ただ記録としても意味がある。


あとで読んでみると自分の書いたものすら相当に忘れている。自分の書いたものに感心しているのも不思議である。人間はそれほどわすれ安い動物なのである。だから記録するということは意外と大事なのである。この辺で起きた400年前の慶長地震の津浪で7百人溺死としか書いていないのはこうして庶民が記録する習慣がないのは字が書けない人が多かったためである。記録した人は役人であり庶民は記録できなかった。ただ記録しなくても庶民は言い伝えで伝説などで残すものがあったがそれも残らなかった。それがどうしてなのか?一つの謎である。すぐに忘れるほどのものだったのか?その辺がわからないのだ。伊達藩では記録されていたが相馬藩で一行だけだったのも解せないのである。


津浪から二年また春が巡ってきた。庭で初蝶を見たことは縁起がいいかもしれない、あまりにもいろいろなことが起こりすぎた。だから平穏な生活でありたい、これは自分だけではない、この辺ではみんなそうである。故郷でなくても春は来ることは確かであるがやはり故郷に帰りたいとなるだろう。実は浪江の高瀬川渓谷とか葛尾(かつろう)村とかは良くわからない場所だった。それなりに広いからである。まだまだ探求する場所であった。江戸時代からつづく過去があるにしろ実はまだそこでは見いだされないもの、人間化されないものがまだまだあった。その土地はまだまだ未知なものがあった。

2013年03月11日

復興はすすんでいるのか? (何が優先順位なのか-高齢化社会が復興をはばむ)

 

復興はすすんでいるのか?

(何が優先順位なのか-高齢化社会が復興をはばむ)


●放送は震災関連一色


今日は一日震災関連の放送だった。いろいろな人がでてきた。南相馬市の産婦人科医の院長で最近死んだ高橋亨平氏のことも放送していた。「南相馬市に生まれてきてくれてありがとう」と生まれた子供に最後のメッセ-ジを残した。これもこういう状態だからこんな言葉が生まれた。そもそも子供をもっている看護師自体流出している。これも放射能にそんなにこの辺で敏感になっていいのかという疑問がある。この辺は放射能が低いからである。飯館村とか浪江とかともちがう。小高だって他と比べると中通りの方が高いのである。もし放射能が危険なら中通りの人口が多いところも若い人の子供をもっている人が流出しても不思議ではない、そんなことになったら福島県が崩壊する。

確かにここで子供を産み育てること自体大変なことになったから他に移るのもしかたないし止めることはできないというのも本当である。相馬藩のような江戸時代とは違うからそうなる。相馬藩が飢饉のときは相当な人の流出があったらしい。それは食えないのだからどうにもならない、その人たちが悪いとはならない、でもこの辺でそんなに放射能が危険なのかという疑問がある。地元出身者が多いとすると親もいるからその親を捨ててでていくのかともなる。それから何を優先して行うべきなのかということも問題になった。それは子供をここで生んでもらいここで育ってこの街に住んでもらいたいということで産婦人科医の院長が癌になっても奮闘して死んだ。優先順位がまずここで子供を生んで育てる、子供がいなければもうその市町村自体が衰退して崩壊するからだ。ただ津浪被害地域でも人の流出は激しく市町村が維持できない、崩壊寸前にあるいう危機的状態である。それに対処するいい方法が見つからないのだ。派遣された公務員も過労で自殺したというのも驚きである。自衛隊も過労で一時三人くらい自殺した。そのくらい厳しい現場になっているということである。


●何を優先順位にするのか?


何かこういう緊急事態になると何か優先順位なのか問題になる。無駄なやっていられない、そんなことに金使っていいのかとかいろいろある。陸前高田市の一本松を記念に残すにも億の金がかかったからそれは別な生活に役立つものに回すべきだという市民の意見もあった。優先順位を決めるのは実際はむずかしいのだ。いろいろな価値観に生きる時代でありそれが無駄だとしても簡単にはできない。この世の中は実際は膨大な無駄な労働からも成り立っているのだ。労働がみんな価値あるものとはならない、一時は公共事業自体がただ金をかけるだけだと言われた。無駄な労働と金が費やされていたのである。だからすべて働いているだけでそれがすべて有益だとはならないのが社会である。

個々人にとって無駄か有益かは違っている。老人に何が売れるのかとか今は高齢化社会だからキ-ワ-ドで探している人がいる。でも老人にはあまりモノは売れない時代である。モノよりそのモノを売りに来る人の方が価値があるともなる。意外とモノを売っている人はそこに気づいていない、モノよりその人が気立ていいの女性で気持ちが優しくていいとかなるとモノも売れるかもしれない、老人はモノよりそうした人と接することを望んでいるのだ。ところがモノを売る人はモノがいいからモノが欲しいのだと錯覚している。モノより人間的サ-ビスを欲している時代なのである。自分もモノより心優しい女性に一杯のお茶でもわかしてもらい飲ませてくれたらそれなりの金を払ってもいいと思った。毎日介護で疲れたからである。優先順位は必ずしもモノではなくなてっいる。モノが売れないというときそういう時代の変化があった。だから介護時代になったということもそれに呼応しているのだ。介護はモノを買うことではない、人のサ-ビスなのである。老人と心地よく優しく接しているくれる人を望んでいるのでありモノではない、そこを勘違いしているのである。

優先順位ではこの辺では異常である。みんな必死になって復興で働き命を削っているときパチンコ通いでパチンコ屋で人手がたりないからとなげている。これほど馬鹿げたことがあるだろうか?

高橋享平医師はは癌でも命を削って南相馬市の将来を思って子供たちに未来をたくした。一方で毎日パチンコ屋通いの人たちも仮設に多い。多額の補償金をもらえるから何もすることなくなったからそうなった。そんなところに優先順位があるわけがないのだけどこれもまた原発事故の被災地域の現実なのである。個々の地域でそれぞれ違った事情をかかえている。自分からすると介護で苦労しているから少しでも手伝ってもらえば助かるなというのが優先順位になる。ただ一方で老人なんか介護しても何にもならない、若い者の負担になるだけだから早く死んでほしいということも常に言われてきた。老人の医療とか介護自体を優先順位にすべきでなはい、もうそんなところに社会で金を税金を使うべきではないというのも今は公然と言われているし政策にもなりつつある。病院でも身内のものが手術するときまだ生かせたいですかとか露骨に言われた。その時も医者は過重な労働で高齢者の世話に疲れていたのである。それだけ高齢化の負担が過重になっているからそうなる。今回の震災でその高齢化の問題が極端化して現れた。もう被災した市町村から若い人が流出して老人だけが残される、姥捨山が現実化する恐怖である。被災地でなくても高齢者の世話するのは嫌だ無駄だと騒いでいる若者が多い。被災地ではその何倍もの負担が若い世代にかかってくるからこんなところに住むのは嫌だとなり流出してゆく、そういうことが深刻な問題として現実化したのが被災地でもあった。


●高齢化が復興をはばむ大きな要因


不思議なのは一方で津浪の被災地で壊滅したところでは年金生活者はどこでも暮らせるからいいがこの市町村に残っても働く場もないしとても生活がなりたたないと若い人が流出してゆく、つまり年金生活者はかえってもう誰も医療でも介護でも若い人がいないからできない状態になったら老人も流出する。年金生活者は困らないからそれができるだろうとなる。でも老人は故郷への愛着が強いから故郷を出たくないのだ。ただそういういろいろな葛藤とか矛盾が二年たっても噴出している。どうしていいかわからないというのも現実である。復興するにはもう高齢化社会ではできない、老人では復興できない、つまり老人は復興の負担にしかならないということもある。だから少数の若い人たちでも残り復興する。そこでは老人がいなくなるから医療や介護の負担もなくなるから最小限でまにあわせるとかなる。医療介護はほとんど高齢者であるからだ。こういうことはあまり考えなかった。

何かいい知恵がないかというときそんな考えもあるのかと思った。でもその社会に地域に老人がいなくなるというのも異常なことだろう。老人もその地域で必要なものとしてあった。ただ数が多いのと高齢すぎるというのが問題だったのである。現代の問題は世界的にも高齢化というのが大問題なのである。高齢化社会というのは人類で経験していない、人生50年とか社会的には世代間の新陳代謝が激しい社会だった。常に社会が子供が大量に生産され若い社会だったのである。高齢化社会というのは人類で経験していない問題だったのである。だからその解決方法がなかなか見つからない、高齢者の増大で一地域でもその圧迫で崩壊するまでになっている。特に震災地域は現実化している。

posted by 老鶯 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年03月12日

倒木-蕗の薹(故郷がなくなったらどうなる-まだアイディンティティ化されなかった自然)


倒木-蕗の薹

(故郷がなくなったらどうなる-まだアイディンティティ化されなかった自然)

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石静か庭に若芽や手入れかな
故郷の山や一杯に春日浴ぶ
放射能消えよ復興の蕗の薹
倒れ木の側に芽生えし蕗の薹
若き等の話しつ歩む春の街
軽快に電車の音や春の山
はるかにも沖行く船や春の海

倒れ木に春の日さして寂けきや安らかに死ぬ場をもつべしかな

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川子には森がある。森といっても本当の森ではない、隣はゴミを大量に埋めた敷地であり下を鉄道も通っている。でもそれなりに一応森なのである。だからあそこを通ると心がなごむ。近くに森があるのとないのとでは相当に心に影響する。あそこは夏になると日影が長く気持ちがいい、この辺はまだ自然が近くにあった。近くに自然がないと人間に心の安らぎがもてない、だから良く東京のような所に住んでいられると思う。自分は学生のとき東京に憧れで学生生活したがその後は性格なのだろう都会を嫌い隠者のようになってしまった。自分は都会には住めない、ただ地方都市には何とか住める。人間も自然の一部だから自然と一体化するようにできている、自然とアイディンティティ化するようにできている。都会の高層ビルとかとアイディンティティ化することが自己同一化などできないのだ。故郷では自分はそういう作業を詩を通じてしてきた。ただ故郷だけではものたりない,この辺では高い山がないことが致命的なのだ。だから高い山とアイディンティティ化するときは旅して見た山を思い出して詩にするほかない、一方で山国に暮らす人は海がないから海を常に意識できない、自然は多様だからあらゆる自然がある所はない、だから旅する必要がある。


倒木があり蕗の薹が芽生えた。この一シ-ンがまた自然なのである。一方で倒木となり森に還る命がある。この倒木が死んでいない、まだ生きているのだ。それは寝たきりの自分が介護しているような老人にも見える。一方で蕗の薹が芽生えた。新しい命が芽生えてくる。これも自然なのである。死んでゆき森に還る命がありまた芽生える命がある。その繰り返しが命であった。そういうものを感じるのは田舎である。都会ではそうした自然がないから感じないのである。死ぬ場所がどこかというと回りが高層ビルに囲まれた団地のような場所になり墓も自然の中にはなく小さな狭い場所におしこまれる。死んでからも死人も窮屈なのが都会である。都会の密集した大きなビルの住居は蟻の巣みたいで嫌なのである。田舎は多くは広い庭と家に住んでいた。だから仮設は窮屈さを感じているだろう。


原町区を回ったらイオンの前の団地は一杯に入っている。家々を見ても空家はなかった。一時避難していたときは空家が所々街中にあった。今はないから寂れたというのではない、まだ人口が流出していると言われるが外見はそれか感じられない、ただどこも人手不足だから若い人が流出していることは確かなのだ。郵便箱にロ-ソンで募集していた。人が集らないのだ。でも原町区5万の人口があり一万へっても4万だからその数は多い。原町区では別に農業はしていないから放射能とは関係なく会社があれば仕事がある。ただそれぞれの事情がどうなっているかはわかりにくいのだ。


ともかくこの辺で故郷を失うということは考えられなかった。それで故郷は何なのだろうとまで考えるようになった。この辺はそういうことはない、だから春の日を一杯に故郷の山が浴びて平和だなと思う。でもあの山の向こうは飯館村でありあそこは人が住んでいないのだ。だから平和ともいいきれない、浪江の方も住めないからそこも故郷の一部だから失われた。浪江には帰るまで十年かかるとか言われるからもう若い人は帰らないとどうなるのか?飯館村はまだ自由に誰でも出入りできるからいいのだ。だから春になったらからまた自転車で行ってみようとなる。でも浪江の高瀬川渓谷は景勝の地でも行けないのでがっかりしたのである。高瀬川渓谷はこの辺では一番景勝の地だったのである。ただ飯館村でも誰でも入れるのだ飼い犬が野犬化して異様に吠えていて恐かった。そういうのが出てきて襲われると恐いなとなる。立入禁止の軽快区域ては野良牛がいるからまた危険である。

浪江とか葛尾村(かつろう)は自転車で行くと遠いのでそんなに行っていない、つまり自分にとってはまだまだ未知の領域でありそこの自然とアイディティティ化されていなかったのである。自然とアイディティティ化することは時間がかかる。石の時間がありそれと一体化することはまた同じように石のような時間をもたなとできないのである。だから新しい場所に移るとなかなかその場と一体化できない、特に老人はもう時間がかかるからできない、そこで貯えられたものを生きるのが老人だからである。

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この石は高瀬川の近くである。この石には名前がない、まだつけられていない、ということはまだ人間化されていない、アイディンティティ化されていないのだ。これは一回しか見ていないからだ
この石はそれなり変わっていて老人の皺が深く刻まれたようにも見える。だから「皺石」とかなるか?まだ一回しか見ていないしもう見れないかもしれないとなると名づけようもないのだ。こうしてまだ人間化しなアイディンティティ化しない未発見の自然があった。

浪江と葛尾(かつろう)は遠いから一回くらいしか見ていないのがあるしまた見ていないものも結構あったのだ。それが立入禁止になったから入れないのが悔しいのである。
風光明媚な自然があるから田舎がいいのだがそこに入れない理不尽なのである。

初雲雀-初音を聞いた


初雲雀-初音を聞いた

初雲雀原町の野の広しかな
我が町は小家の多し初音かな
春の水土を潤し流るかな


初雲雀とか初音がどこで聞くか問題になる。毎年違っているからだ。初蝶を見たのは今年は庭だった。庭で初蝶を見たことがなかった。たいがい外である。初音を聞いたのは住宅地だった。こういうところでもあまり聞いていなかった。この辺では街に住んでいても鶯の声はどこからか聞こえてくるしこれからも雲雀の声も聞こえてくる。今までは白鳥の鳴く声も聞こえた。そういう自然が身近である。やはり自然の中で暮らすことは気持ちいいのである。飯館村だったらまた街に住むよりもっと自然が身近だった。それが福島市とかに住んでいる赤生木の(あこうぎ)の人からメ-ルあったがマンションとか団地とかに住むと違和感がかなりあるだろう。それで鬱的になったという人もいた。

要するに人間は何でもなれる動物だというときなれないところに住むとステレスがひどくなるのだ。特に老人はそうなる。若い人でもそうなったのだから余計にそうである。若い人は順応性が強い。
海外旅行でも語学なんか関係ないのである。感がいいのと順応性があるからできるのだ。
語学など中学生の英語で十分である。


うぐひすのあちこちとするや小家がち 蕪村


この句はこの辺にあっている。仮設が増えたからである。江戸時代は大きな家は少ない、田舎でも庄屋のような家は大きいが他は小作人とかであり掘っ建て小屋と変わりないようなものに住んでいた。江戸であれあとは長屋住まいなのである。大きな立派な家に住んでいた人は少ない、ただ戦後は養蚕をしているから家がその作りになっているから山の方でも大きい家が多い。やはり町の方が小家が多かった。ともかくビルなどないから低い小家が多かったことは確かだろう。


原町は何か広い感覚になる。相馬市はそういう感じはない、それぞれに狭い領域でも個性があった。浪江は地形的にも魅力があった。海には請戸があり高瀬川があったからだ。大きな川が二つもあったの魅力である。二万人も住んでいたのだからそれなりに広かった。だから病院であった農家の人は15町の田畑を作り平に今のいわき市に作った野菜などを売って財を成した。でも重病となり手をあげるのがやっとでありあとは何もできない、しゃべることもできない、意思疎通は妻がくると手をにぎるために手をあげるためだった。妻はその頼もしい夫にすがるだけだった。よほど頼りにしていたことがわかる。今は一体どうしたのかあの重病で介護度5でどうなったのか、介護度5で自宅で介護していたのだ。それだけ思い入れが大きかった。介護というのはそもそもそうして個人的事情が家族ごとに反映しているのだ。

田んぼだったところにきれいな水が流れて潤ししていた。でも田は作らないから淋しいとなる。

放射能不思議は水をみてもきれいで変わりないから汚れた感じないことである。樹にしても枯れるわけでもない、でも特殊な写真でセシウムがはっきりと黒く映し出されていた。やはりあれだけ放射能が見えると恐いとなる。でもずいぶん放射線量は減ったみたいだ。この調子でゆくと5年後またさらに相当にへるのか?水で流れたというのはやはり本当だった。それから3月11日は東風が吹かなかった。寒かったからだ。だから飯館村とか本当に風により不運だったとなる。雨もふったのも不運だった。海岸沿いは風で海に流されたから低かったのである。


今日はやはり記録として初雲雀とか初音を聞いたのでプログに書いた。
出かけやすくなったので今度は飯館の方に行ってみよう。

2013年03月13日

桜は遠く梅は近くに(桜の季節がまたやってきた)


桜は遠く梅は近くに(桜の季節がまたやってきた)


桜は遠く梅は近くに香るかな

虫一つあれて飛びかな春の夕

近くの梅が咲いて香る。でも今年はやはり梅が咲くのが遅かった。まだ咲いたのわずかでありまだ咲いていないのがほとんどである。今年はそれだけ寒かった。梅は身近で香りを楽しむ。一方桜は桜前線のように九州ですでに桜が咲いたように北上してくる、桜前線になる。この桜前線は稚内までつづいていて6月まで桜は咲いていたのである。自転車で稚内まで行ったから知ったのである。一か月くらい旅行したからふらふらした。今やあのような旅はできない、そうした無理する旅は意外と短い、60過ぎても過酷な登山とか旅をする人が増えてきて遭難などにあっている。やはり無理になってくる。だから青春時代とかその世代世代でやれることをやらないとあとはもうやれなくなる。退職してから自由になるからやろうとしてもやれない、今度は暇があっても体力がないとかいろいろ支障がでてくるのだ。再三言っているけど老後は庭作りなどが一番向いている。でもこれは相当な贅沢でありみんなができないのである。
桜で自分が推奨するのは大坂城の桜であった。西の栄を象徴するのが大坂城の桜だった。夕陽が落ちて桜がまさに静心なく散りやまない、万だの桜であった。姫路城とかの桜も見事だった。西の桜は歴史的に栄えたからそれと呼応している。大きな城が多いのが西である。ただではこれだけ旅してもやはり桜は一時期にしか咲かないから見れないのが多いのである。弘前城の桜も見ていないし見れない桜がいくらでもある。桜が咲くのが一二週間だから見れないのだ。その時期に旅することはいくら旅しても見切れないのである。実際に桜の名所は無数にあり近くであっても時期が限られているから見れないのである。ただ桜は遠くに行って見たいというのがある。梅は近くで香りを楽しむのがいいが桜は遠くで見たいとなる。自分は桜前線のとき南に行ってそれからまた北に還って桜をみる、南の西の桜が散っても今度はみちのくの方で咲きはじめる。その時期がずれていることとその期間が実は稚内で6月まで咲くように長いのである。

最近仙台から格安で大坂まで4千円で行ける航空券が出るという、ええ、そんなに安いのかと驚く、往復二万くらいはかかる。4千円だったら安すぎる。ただそんなにみんな利用できるものなのか?
自分はわざわざ普通列車で青春18切符とかで行った。飛行機の旅はつまらないからである。でも今になるとできないから飛行機だったら大坂まで桜を見に行きたいと思った。しかしそれすらできないのである。弘前城の桜は日帰りでできるかもしれない、新幹線だと3時間くらいだからだ、往復でもそれほどかからない、でもこうなると旅という感じがない、不思議なのは今の時代、本当に旅することはかえってできないという皮肉があるのだ。旅することはかえって不便であると旅になるけどすると時間もかかるしかえって労力もかかる。それだけの時間をもつのは会社勤めではできない、今旅することは自ら演出しなければならないから相当な労力がかかる。ただそれほど金はかからない、時間がかかるのである。

結局人生は最後何に時間を費やしたかがその人の人生だったとなる。それが遊びでも雑学でも何でもそうである。あなたの人生は何でしたか?何に時間を費やしましたか?それを聞けばその人の人生がわかる。時間ほど貴重なものはない、だから無益なことに貴重な時間をとられることほど馬鹿げたことはない、虚しいことはない、時間はわずがの金で売るべきではない、会社とかにも時間を売るべきではないのだ。そして時間は絶対にとりもどせないのだ。あの時こうしていたらなと思っても絶対にもうその時間は帰ってこないのである。そういうショックが最後にやってくるのである。青春時代をとりもどそうとしても絶対にできない、それはすでに過ぎ去った遠い過去となり女性だったらどんなに若作りしても若さは絶対にとりもどせない、男性も同じである。
だから若い男女をみるとなんと輝いていることだろうとつくづく思う。それはみなん若いときもっていたものだが今は喪失してしまったものだったのである。花の命はあまりにも短いということである。

老いてなお遠くの桜見に行かむその華やかなる一時に酔わむ

桜前線の短歌
http://www.musubu.jp/sakuranewpage2.htm

ここもリニュ-アルする必要があった。御前桜のことなどはまた書いた。常に更新してゆけるのがインタ-ネットの強みであるからだ。

2013年03月14日

初燕を見た!


初燕を見た!


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旅路来て赤絵の町や初つばめ


風そよぎ竹のゆれにつ初燕

タンポポやコンビニの外にコ-ヒ-飲む

田舎住みしつこく残る冬芒

竹林が風にそよぎゆれて初燕を見た。これは一瞬であった。初雲雀-初音-初燕・・・ともう完全に春だ。初燕は見たのが早い気がする。ただこうして最初にみる燕はととまらず遠くへ去ってゆく。
ここにとどまる燕はまたあとである。やはり最初の燕は一番感動する。これは春を告げる鳥であり遠くから飛んでくるからだ。


初燕というときこれもどこで出会うかが問題である。旅して九州の有田焼の赤絵町で初燕を見た。
九州というと遠いから旅して出会った感激は大きかった。これもよほど旅していないと出会いない、現代は皮肉なことに便利になりすぎて感動的な旅を体験できないのである。
旅はやはり感動的なものであるが何か現代は車の騒音や雑音やらに打ち消されてしまう。
「静けさや岩にしみいる蝉の声」などという静けさは現代にないからこんな句ができえようがないのだ。旅は道連れとかもない、そういう道行が行程がないのである。それにはゆったりとした時間が必要なのである。それが江戸時代などにはあった。江戸時代は牛のような時間だったのだろう。
時間はゆっくりと進んでいる。急がせるものもなかったのである。ただ歩くから早立ちにはなる。
それなりに急いでいたということもある。いづれにしろ時間の感覚は全然違ったものだった。


九州は二回くらいしか行ってないからまだまだ未知の領域だった。ここから九州は北海道より遠いのである。北海道は意外と近く感じられるのだ。だから梅雨の時期には仙台からフェリ-で苫小牧から北海道に十回くらい行った。どうしても梅雨の時期から逃れたいからそうなった。
今は外国に行っている人が実に多い。ヒマラヤのトレッキングでは一人で十回登ったという人がいた。その人はガイドもなしに登っていた。相当になれている。ヒマラヤは見物である。三千メ-トルまで上ると天に達するような高さを感じる8000メ-トル級の山を望むことになる。それも夢のように思えた。ただ春だったので山が隠れて見えなかったのが残念だった。ヒマラヤは10月ころだと見える。春になると雨になったり曇って見えなくなるのだ。この辺では高い山がないので山に憧れる。

日本にないものが外国にある。パリに八回行ったとかそんな人は今はざらにいる。それほど金がかからなくなったからである。だから贅沢とも言えないのである。一般の庶民が行っている時代なのである。日本より外国に詳しい人が普通にいるのが現代なのである。
スイスでも山を一番身近に感じた。アルプスとは違い山が大きく感じられた。ここも一回くらい行ってもなかなか自然はとらえがたい、外国旅行は歴史的なものの感動と自然の感動がある。ただこれも相当に時間をかけないと深く感動はできないのだ。
自分は手術して行動が自由になったからまだ旅もできる、無理すれば登山もできるみたいだ。ただ介護でできないのである。

ともかく旅で感動するには深く記憶するような旅でないとあとあと思い出すこともできない、外国は特にそうだった。変わっているから忘れやすいのである。
ここ6年間は苦しみの連続だった。今年の春は楽な感じがする。自分の場合は津浪原発事故の影響はそれぼどなかった。仮設に住むようなこともなかった。津浪で家族が死んだわけでもない、ただ介護とか自分の病気で苦しんだのである。助けるものがいないから大変なことになった。その弱さにただつけこまれて苦しめられた。人間の非情を思い知らされたのである。田舎だからは昔の人情的なものを未だに思っている人がいるがそういうのはもうない、都会と同じなのである。都会と同じだというとき地域社会がすでに崩壊して田舎でも会社人間になっている。だからなぜ復興しないかというと地域自体がすでに崩壊していて東電とかの会社に田舎自体がとりこまれていた。だからその会社の一員になっているような状態では地域の復興はない、結局以前として原発事故の近い地域は東電に頼っているのである。そういう構造になってしまっていたのである。
今はただ近くを買い物などで行ったり来たりしているだけである。買い物は結構毎日あるものだと思う。結構金も使っている。やっぱり金はかかる。金があればやはり今の時代はこんな状態になっても暮らしていけるのである。


枯れた芒が消えずに残っている、これも何か高齢化社会を象徴している。枯れた芒は延々消えない、田舎だと何かそういうしつこさがある。

またパッグ忘れた。コンビニの外で新聞読んでいた忘れた。でも誰かがコンビニにもってきてくれた。
すでに十回くらい忘れているけど帰ってこないことはなかった。ただ一回だけ警察に届けられて5千円謝礼払った。
田舎はどこに忘れたかわかる。仙台でも忘れたとき警察に届いていた。
日本ではそういうことでは他の国と違っている。

ただ犯罪は別なところはやってくる。大きな犯罪は意外な所からやってくる。直接人と接することからやってくる。
これは都会でも田舎でも同じである。こんな人いたのかとびっくりしたし恐怖したからだ。 

津浪がもたらした良いもの (海がきれいになった?人間界の悪を暴いた)


津浪がもたらした良いもの

(海がきれいになった?人間界の悪を暴いた)


津波のおかげ、と言ったらいいのでしょうか。
湾内の海底がきれいになりました。

津波は、人間が生産し、排出したヘドロを、陸上へと返して寄越したんですね。
まるで、天罰のよう。


その後、重茂地区を襲った津波の写真を再び見ました。
外洋の津波の色は、青いのです。
だから、黒い津波は、人間の色。
人間は、たぶん腹黒い。


そして、今、岸壁に付着している海藻類やシュウリ貝を成長を目にし、たくさんの稚魚を見ると、海がきれいになったような気がする。

津波は、海を再生させたんだ、きっと。


津波の記憶 11
http://platinum-room.seesaa.net/category/11960509-1.html


津浪はあまりにも陰惨な悲惨な光景しか写しださなかった。それで自分が津浪で美しい八沢浦がもどったという記事を書いたとき「お前はここで死んだ人のことを考えないのか」と意見があった。実際に死んだ人はいた。一家で三人くらい死んだ人もいる。でも一方で本当に八沢浦開拓する前の元の入江にもどった。そのことに自分は正直驚嘆した。八沢浦は村が壊滅するようなことはなかった。家も入江になった中には一二軒しかなかった。海岸に接してあったが数軒だった。自分はいつもあそこが入江だったらどんなに美しいだろうとイメ-ジしていた。それが一時現実にそうなったからそっちの方に関心が向いてしまった。奥まで水が入り込んでキラキラと朝日に光り浦波が岸辺によせてきたときは本当に奇跡のように感じた。これは偽らない感情である。あとで確かに泥の中を自衛隊が死体を探していた。その残酷さ無惨さも事実であり一時津浪によって美が現れたことも事実なのである。


プログなどで報道を素人がするようになったとき、報道とは何だろうと思った。それは事実を報道することなのだ。いろいろ解説する前に事実を報道することなのである。ところが事実が報道されないのだ。テレビでも新聞でも事実が報道されない、必ず隠蔽されるものがある隠されるものがある。
津浪のプラスの面は報道されていない、津浪によって暴かれた悪が確かにあったのだ。それは前にも書いた。それは戦争中と同じ悪だった。すべてが原発の利権に群がり原発を推進してきたのである。そこでは原発で不祥事が小さな事故があっても報道されなかった。報道管制がしかれていたのである。報道はいろいろと解釈するのではなくまず事実の報道がベ-スになるべきなのである。その事実が報道されないのである。だからまずニュ-スにテレビ局やマスコミで色をつけないで事実そのものを報道すればいいといわれる。その事実が報道されないことが大きな過ちにつながる。ある意味で事実を報道することは命懸けになるのである。


この世の中は複雑であり悪と善が入り交じり何が悪か善かも見えない世界である。まさに津浪のように醜悪なものと美が混在していたのも事実なのである。圧倒的に醜悪な陰惨なものであったがその中に津浪のプラスの面もあったのである。これも事実だったのである。だから津浪には海を浄化する作用があったということである。それは原発事故の悪を暴いたと同じではないか?おそらく津浪がなかったらこんな巨大な悪は暴かれることはなかったのである。検察までかかわり巧妙に絶対的権力で隠蔽されていたからである。だから朝日新聞さえ東電からかなりの宣伝費をもらっていたのである。これは戦争中と同じだったのである。日本が原発で大政翼賛会になっていたのである。創価などのカルト宗教団体もそうだしあらゆるものがそうだったのである。金が入れば利権になればと原発を推進してきたのである。それは地元の人でもそうである。国民も戦争に熱狂的だったとか言われるのと同じである。こうなると事実であっても隠蔽されるから本当のことはもう闇の中になり突然今回のような事故で明るみに出される。それは人間の力ではない、自然の力というか神の力さえ感じた。

津浪は海上では青かった。ところが陸地に入ってくると黒くなっていたのである。まさに人間の住む陸地に向かったときどす黒くなった。これも意外だった。津浪は海上から黒いと思っていたからだ。まさに腹黒いという表現がひったりである。人間界は腹黒いやつで一杯なのである。


外洋の津波の色は、青いのです。
だから、黒い津波は、人間の色。
人間は、たぶん腹黒い。


津浪とはだから自然の浄化作用という側面もあった。今回の津浪が想定外というときこれも人間の奢りを打ち砕いたのである。このプログの記事は漁師だから海を津浪を良く冷静に観察していたのである。一般には津浪を冷静に観察できない、津浪に対する憤りに満ちていたからだ。
津浪は大きな人間の想定を越えた自然の作用であった。そして神からの警告でもあった。原発のようなものを日本のような地震国には作るなという警告であった。でもまたこの警告は忘れられようとしている。

posted by 老鶯 at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2013年03月15日

春寒し(相馬市への街道-忘れられた養蚕農家の家)


春寒し(相馬市への街道-忘れられた養蚕農家の家)


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二階が養蚕の部屋だった
二階を広くするために平な屋根になった
でもこれは中がどうなっているのかわかりにくい
町中にも農家が結構あったから養蚕していたことは
間違いないだろう

春寒し街道沿いの馬頭の碑
春の星満ちしも閉ざす遠き道
街道の細道あわれ春寒し養蚕の家二軒残りぬ
春の星きらめきふえぬ仰ぎつつまた新しき未来を望みぬ


日立木からイオンの相馬市へ出る細い道の家を見たら養蚕をした家だった。二階がそうなっていた。これと同じ作りの家が二軒あった。それが今まで気づかなかったのである。普通の家だと思っていたのである。数限りなく通っていても気づかなかったという不思議である。かえって阿武隈山地ではこういう作りの家が目立つから印象に残っていた。ここはいつも通っているのに気づかなかったのである。人間はつくづくこういうことがある。灯台下暗しなのである。馬頭観世音の碑がどこにでもあるから気づきやすい、意外と碑には注目していたから見ていた。街中だと普通の家だと思っていたのである。そしてあそこの道は本当に狭いのである。まさに奥の細道なのである。あういう道が江戸時代の道だったのである。曲がりくねって細いのである。六号線ばかり行っていると昔はほとんどわからない。馬頭観世音と言えば馬が運送の主役だった。そういう昔は街道が残っていればそこを何度も通っていると偲ばれる。その道は確かに江戸時代から変わらないものだからである。


養蚕は日本の主力産業でありアメリカへの輸出産業だったから今の車と同じだった。ただ養蚕はやはり農業であり桑の葉が大量に必要だった。だからどこでも田舎では桑の葉があった。桑の葉もあったし麦畑も必ずあり子供のときは麦御飯だった。養蚕は江戸時代からつづいていたのである。養蚕自体忘れられてしまったけど今の80代の人は養蚕関係にたずさわっている。工場も紡績工場であり原紡などは有名だった。これは日本全国で女性の働きの場であり現金収入の場だったのである。機織りはそれまで個々人の家でもしていた。でも大規模な工場化したのは大正時代辺りからである。機械が導入されてそうなった。結局この機織り工場で絹織物をアメリカに輸出して外貨をかせぎそれで富国強兵となり軍備に力を蓄え戦争になったという批判もある。ともかく街道の細道を通り養蚕の家を二軒見ると確かに昔が偲ばれるのである。そうでないと昔にそういう生活が暗たということ自体偲ばれなくなる。すると現代だけの社会となり


夜は春の星が満ちていた。ただイワキの方への道は閉ざされている。それは閉塞感を生むのである。ともかく介護で一日も自由にならないのも又運命だったのか?その分これまで自由だった分の復讐を受けているのかもしれない、実際に人間はそういうことがある。あまりに楽した人間は必ず苦難を受ける。苦は楽の元であり楽は苦の元にもなる。人間一生楽なことなどありえなかったのである。

今日は多少寒いから春寒しだったのだろう。気候の変動が激しいのが今年だった。
 


 

2013年03月16日

名所観光がつまらないのはなぜ(3) (福島県の奥の細道はどこに)


名所観光がつまらないのはなぜ(3)

(福島県の奥の細道はどこに)



名所観光がつまらないのはなぜ(1)
http://musubu2.sblo.jp/article/46974438.html


名所観光がつまらないのはなぜ(2)
http://musubu2.sblo.jp/article/46982436.html

名所観光がなぜつまらないのか、今はあまりにも簡単に名所に行けるということもある。新幹線で二時間で平泉についたよ、これが金色堂かやっぱりこんなものか、ここはこれくらいしか見るものはないな、次は何を見るんだ、もう終わりか、また新幹線で遠くへ行こうとなる。
これでは芭蕉の感じた「奥の細道」は全く感じられなくなったのだ。自分も前に書いたけど平泉で印象に残ったのが金色堂ではなくその裏方の普通の農家だった。それがいかにも農家らしい農家であり古い碑があり納屋がありとかで深々と雪に埋もれていたのである。そこにもののあわれ北国の情緒を感じた。観光地化した平泉には感じなかった皮肉があるのだ。


深々と雪に埋もれし農家かな金色堂の華やかさもなし


金色堂の華やかさもなくてもその土地に根を降ろした農家は平泉が栄えた時代からあったのだ。それは今も変わらずあったのである。必ず農家には風情がある。それも本当に農家らしい農家だったそうなる。そこに日常の暮らしがあり冬は雪に埋もれてひっそりとしている。今の農家は一面農家らしい農家が少なくなっている。農業だけで暮らしている農家が少ないと風情もなくなる。その風情は観光者のために作られたのではない、自然とまさに自然の暮らしのなかで自ずと生まれてきたものである。そこは観光地用に作られたのではない、そこが現代はあまりにもあらゆるものが観光地化してもののあわれを失ったのである。そして観光というときみんな急いでいる。だからともかくいいとこどりして早く見て早く帰ってゆく、それで旅が印象に残らないものとなった。旅には時間が必要であり現代はただ車で突っ走り通り過ぎてゆくだけなのである。歩いて通りすぎるなら体で記憶に刻まれることがあるが車だとそこで風も感じないし記憶に残らないのである。ただ遠くへ遠くへ通りすぎてゆく旅になってしまう。

福島県も相当に見どころある場所である。ところがこれも会津の白虎隊とか名所とかばかりに気をとられているのだ。別に名所でなくても見る所がいくらでもある。奥の細道というとき相馬藩などは注目されていないけどプログで何度も書いたように六号線ではなく日立木から入り松並木を通り城跡のある相馬市に入る道が歴史の道であり情緒ある道だった。そこは細く曲がりくねっていていかにも奥の細道の感じがでているのだ。あのような細い曲がりくねった道でありそこは歩いて旅する道だった。白河の関に出る道が森があり木暗い道であり境の明神がありいかに奥の細道に入る道としてふさわしいがあとは頻繁に車の通る道になるからその面影は全く感じられなくなるのだ。時々東京辺りから六号線を歩いてくる旅人がいた。でもその人も昔の街道を歩いていない、六号線はわかりやすいから歩くにしてもそうする。ただ歴史に興味ある人が街道の昔の跡を訪ねて歩いてインタ-ネットに出していた。その人は地元の人より詳しく見ていたのである。

昨日見たその日立木からの細いくねり曲がった道の脇に養蚕をした農家が二軒あった。それも気づいていなかった。六号線ができたのはすでに40年前とかなるにしてもその前は六号線がなかったからこの街道の細い道が唯一の道だったのである。相馬市まで鹿島から梨をリヤカ-で運んだという女性がいたがそれは六号線ではない、旧街道である。今になるとすべてが六号線で運ばれたような錯覚に陥るのだ。車がこんなに普及してわからなくなったのである。車時代になると車があるのが当たり前になるからわからなくなる。それまでの運搬は馬だったから馬頭観世音の碑が多いのである。


桑畑、麦畑、養蚕農家の景観は後進国では今でもそうである。ネパ-ル辺りでは麦畑と水田が半々にある。昔の景観が残っていることが後進国では面白いのである。過去にタイムスリップした感じになるからだ。養蚕農家を見るとそこに重厚な暮らしがあったと思う。三階建ての白川郷の合掌作りも養蚕するためにあのような作りになった。今は何か農家の重みがない、会津辺りにある曲がり屋でも生活の重みが感じられた。そこに生活がなくなるときやはりもののあわれは感じない、水田とか畑があるということが風景としても必要なのである。外国からTPPで輸入して米すら作れなくなったらどうなるのか、この辺の原発事故の放射能で荒廃化した大地のようになってしまうだろう。何だかわからないけどTPPはアメリカの策略であり地震は人工地震でありTPPを日本におしつけるためだったと言うひともいる。確かにもう放射能で農業も漁業も林業もできなくなったというとき何で食べてゆくのだとなる。自動車工場とか何か日本の農業は壊滅してしまうかもしれない、農業は日本の大地の景観を維持するためにも必要だった。それがなくなることは日本の精神自体にモラルにも影響してくる。
そういう観点から論じられない、ただ経済的効率のかみしか論じられないのである。そこに原発事故が起きたように大きな落とし穴があるのだ。


福島県の観光でどこがいいのかとなると推奨するのは松林があり静かな船津浜辺りがいいのではないか?真正面に秀麗な磐梯山が見える。松林があるのもいい、あまり観光地化されていない、志田浜は観光地化しているからいいとはいえない。そこから福良にゆく白河街道はやはり忘れられた奥の細道であった。そこを自転車で旅したから記憶に残っている。福良はその時まだ茅葺きの家が通りに何軒かあった。今はないだろう。何か寂れていたのだ。そこの蔵の宿にたまたま泊まった。それも情緒があった。その裏の路地に紫菖蒲が咲いていた。そこで思い出して一句作った。

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蔵の宿紫菖蒲に福良かな


福良から会津に出る道が情緒がある。でもあそこはあまり行かない、六月でしとしとと雨がふって田植えしていた情景も情緒があった。あそこはあまり車も通らない、今はこうして名所観光地を目指して一直線に行き一直線に帰る。そして名所はつまらなかったとあとでみんな言う。会津は白虎隊だけではないのだ。また八重の大河ドラマのように作られたものが今では観光になる。ドラマと歴史的事実は違っている。何かドラマが歴史的事実のように錯覚しているのだ。名所が架空のドラマによって作られているのだ。映画の舞台が名所になっていることでもわかる。そういうところに旅の感動はないのである。

白河街道の詳しい写真
http://www42.tok2.com/home/kaidoweb/sira/05.htm


こういうふうに詳しく見れないのだ。これを見れば白河街道の情緒が再現される。自分が旅してもやはり通り過ぎてみていない、自転車も通り過ぎるのが多いのだ。写真から一枚失敬した。

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夏草に埋もれむ道や雨しとと