2013年03月01日

仮設商店街で見直されたもの (津波原発事故は土着的な思考の欠如でもあった)


仮設商店街で見直されたもの

(津波原発事故は土着的な思考の欠如でもあった)


●仮設商店街の新しさと古さ


仮設商店街というのも新しくできたものだがこれも非日常化の世界であったが昔あった商店街の良さを見直すきっかけともなった。商店街は衰退したのだか仮設店舗として集中した結果そこに賑わいが生まれた。何か昔の商店街の復活を見たのである。商店は一軒一軒街中でも離れているから買い物しづらいのである。どうしても忙しい時代は一カ所で買い物をすませたい。車時代は距離が関係ないから余計にそうなった。でも震災や津波や原発事故をきっかけにこれも見直された。

多賀城市駅前は津波の被害を受けていないが駅から十分ほどの郊外型店舗は-イオン、ヤマダ電機、マクドナルド-などの津波で大きな被害を受けた。でもここにはボランティアがほとんど見当たらなかった。石巻にはボランティアが日中必ずいた。

商店街は単なる商業集積地ではない、津波の後も商店街に住み続ける人たちがいて家を流されてももどろうとする人たちがいて商売の再開を願っている人たちがいる。商店街は商業地区であるだけではなく人々の生活への意志があふれている場所である。だからこそ商店街の復興に少しでも役にたととするボランティアが後を絶たないのである。
(商店街はなぜ滅びるのか)新雅史


この一文はかなり示唆に富んだものである。大企業系の大規模商店、大資本の経営は小規模商店など商店街とは違ったのである。イオンなどでも便利にしても昔の商店街とはちがう。いろいろな条件でそういうものが繁栄したのが現代だった。コンビニもそうである。コンビニもやはり大規模な企業経営であり家族経営の商店とは違っていた。つまりこれは壊滅した小規模漁業にかかわる人が大企業の進出に反対する理由と同じである。大企業はあくまでも大企業中心でありその地元に住んでいるのではない、幹部は東京に住んでいる。その利益は収奪して東京に住むものの利益とする。そういうシステムであり地元に愛着がない、ただ利益還元のみを求めている。だから突然採算があわないと撤退してイオンでも空地化して街自体が衰退してしまうということも起きている。企業経営と昔ながらの小規模経営は根本的に違っている。あらゆる仕事が土着的であるべきということを書いたが現代は会社中心大資本の企業中心になるときそういうものが失われた。江戸時代まで戦前でも地縁血縁家族経営とかに根ざしたものであり土着的でありその土地に愛着もつものが仕事していたのである。企業経営はそれとまた違ったものとなる。


原発事故の仮設商店街ば石巻とかは別である。多額の補償金をもらっているから生活の心配がない、石巻のように三陸のようにぎりぎりに追い詰められてやっているのとは違う。ぎりぎりだから復興にも真剣になっている。そこで共感してそこにボランティアだった人が住むまでになっている。
原発事故の避難民の仮設店舗にはそういうことがない、人々の真剣な生活の意志がないのである。
多額の補償金で働かない方が金がもらえならそうなってしまう。だからまた原発避難民の仮設はまた別な問題をかかえているのだ。


●大資本の会社と土着的小規模商店の相違


東電にしてもあれだけ巨大な会社であったことに驚いている。地域社会が東電にのみこまれていたのだ。いわば怪物的な会社だったのである。その人たちが土着的に仕事しているなどということはない、その土地に愛着を持つ人がしているわけではない。一方東北電力は一応地元だからその副社長が岩沼で津波の伝説を知っていて女川の原発を津波を恐れて高い所に作った地元志向があった。土着的だったから救われたともなる。仕事は土着的なのにならないとうまく機能しないということがある。
浪江は標葉(しめは)郷であった。この地名に津波になり着目した人がいた。浪江は津波と関係あったとか津波の記憶があり浪江になったとか言っていた。そして標葉(しめは)郷とは万葉集にしきりにでてくる禁断の地だったのである。入ってはならない地だったのである。昔の呪術師や長老がここは危険な場所だから原発を建ててはならないとか言ったら科学者が必ずそんなこと迷信だとなって相手にもされなかったろう。もちろん科学の時代には地元の人でも科学者が神のようになっているからそんなことを注目している人もいなかった。でも科学では計りしりえないものが自然にありそれが今になると標葉(しめは)郷-禁断の地に危険な原発を造ったから事故になって罰を受けた、呪いを受けたとかなる。もちろん地鎮祭などをしていたがこれも形式的なものでありそんなことを今はすべて無視して科学の力に頼っている。そういうこともまた危険だったということである。土着的志向はあるゆるめ面で必要なのである。


医療にしても原町中央病院の産婦人科の院長は最近死んだけど南相馬市立病院で勤務していたがあとで地元の開業医となり土着して最後のミッションだと言って癌になっても仕事をつづけて死んだ。
一方南相馬市立病院でも勤務医も移動したし地元の看護師すら流出した。土着的だというこは永続的な志向がしり何かあったからと簡単に移動されると困ることがある。何か不利なことが不利益なことがあったら撤退するというのも困るのである。大資本の大企業にはそういう土着的志向がないからその土地に愛着をもつものでないから何かあったときすぐ撤退してしまう。一方その土地に住んでいる人は簡単に移住できないのである。そういうことが露骨に現れたのが津波や原発事故だった。
町や村自体がなくなるということは想像すらできなかったからだ。


土着的とはその土地に愛着をもち根ざして生きるということである。これは江戸時代から戦前まではその生活そのものがその土地のものを糧にしていたから自然にそうなってい。地縁と血縁とが結びついて地元に愛着を自然にもっていたのである。会社社会になったときそういうものが根こそぎ失われたのだ。第一次産業が田舎でもどこでも一割にも満たない社会になったからだ。田舎でも会社社会になっていた。この辺では東電に勤める人も多かった。双葉町や大熊町とかはすでに東電会社の一社員のようになっていた。漁業であれ農業であれそれはとても現代の生活を支えるものではなくなっていたからである。土着的というときその土地に根付くということもあるが時間軸で考えると何代にもわたり故郷を築いていくという志向がある。大資本の会社にはそういうことがない、グロ-バルに会社を展開して利益あれば移ってゆく、人すら移ってゆく。でも利益が出なければまた他に移る。土着的ではない、長い時間をすこで住み続けるということではない、そこに長く住みつづける人のことは無視する、そうでないと企業は成り立たないこともある。第一次産業を主体にしたならその土地を簡単に移動できない、その糧はその土地にあるからだ。


●土着的なことは人間的なこと


人間の正常な生活感覚として土着的でないということはやはり人間が漂流者になり根のないアイディンティを見いだせないものとなる。現代はまさにアイディンティを喪失してみんな根のない生活を送っているのだ。そこに生の充実感は得られない。そもそも原発事故自体がこの土着的志向がないから起きたということもある。東京に本社があり東京都のために電気を供給するというのは土着的ではない、東京都に原発を造るべきだったいうのは正論だったのである。本社が東京にあり事故でも直接人が話し合いできた。福島は離れているから現場との意思疎通が遅れたのである。
維新の党首の橋下氏が東京の議員が勝手に日銀の人事を決めることに文句を言った。大阪にいて何も言えないのは党首でもなんでもないと言った。これも大阪と東京が離れているため直接話し合いないために起きた。通信がいくら発達しても人間の意思疎通は直接あわないとできないということがある。これも土着的なものが必要だったのである。東京でもやはり大地がないにしろ山河がないにしろその土地に密着することが必要だったのである。

ケアという言葉は人に対する世話やメンテナンスを指す言葉である。ケアが必要なのは決して個人だけでない、 わたしたちは自分が暮らしそして子孫が暮らしていく地域全体をみなでケアせねばならない、地域を支える仕組みを考えねばならない
(商店街はなぜ滅びるのか)新雅史


土着的ということは地域全体を視野に入れて仕事することである。それは一大企業のためではない、そして子孫が暮らすのも地域である。時間軸で代々故郷に生きるということがある。子孫に伝えていきるものがあることなのだ。人間は子孫にもその子供や孫にも必ず責任がある。その人生自体もそうである。そういう土着的志向があれば原発というものを見直すことがあったかもしれない、今の時点で利益があってもあとで子孫が困ることは負担になることは恨まれるとなる。大資本の大企業にはそういう過去や未来の志向がない、今の時点で利益になればいいあとは野となれ山となれとなる。
現実に原発事故では野となれ山となれと街自体が喪失した。それは土着的でないからでもあった。

土着なくして職業も学問も芸術も報道もない
(故郷とは有機的に結合されたミクロコスモス)
http://musubu2.sblo.jp/article/55759722.html


医者には愛郷心がない、土着性がない職業?
http://musubu2.sblo.jp/article/54063801.html


 

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認知症の脳内地図(抽象画)



認知症の脳内地図(抽象画)


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認知症の脳内地図

認知症は字も書けなくなる、道には迷う、都会だと余計に複雑だから認識できなくなる。
頭の中がこんな感じなのか?字が認識できない、計算もできない、人間の複雑な頭の中も
認知症になったらもう悲劇である。最後は自分の生まれた場所も住んだ場所もなにもかもわからなくなった。

抽象画は認知症的でもあるんだよ、何か世界が抽象化して迷路のうようになっている。
正常な人でも都会なんか入り組んでどうなっているのかわかりにくい
必ず迷うんだよ、迷路に迷いこんだようになる、だから認知症的になる
都会では精神の安定性が保てないんだよ
何か中心になるものがないんだよ

抽象画が極めて現代を象徴したものかもしれない、世界が具象化して見えない
抽象化して見えてしまう、ピカソの絵のように見えてしまうんだよ
そこにはたしかな古代のような人間の像などイメ-ジできないんだよ・・・
エジプトのように神々の像で埋め尽くされた世界とは余りにも違っているんだよ

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春色多彩

ソフトが変わると別な抽象画できる。ソフトに影響されるのもパソコンの世界である。
ソフトを使いこなすのがめんどうだけど一つのソフトでは限界がある。

2013年03月02日

会津の仮設に二年住む原発難民の心境は? (避難民に代わりて詠める短歌十首)

 

会津の仮設に二年住む原発難民の心境は?

(避難民に代わりて詠める短歌十首)

会津にそ住みて二年や雪かきに雪の難儀を身をもて知るかな
会津にそ二年住みて雪埋もる維新に果てし武士の墓かな
今日も見ゆ会津の城やなじみけり雪を踏みつつ二年の過ぎぬ
深々と会津に積もる雪なれや城も身近にともに過ごしぬ
東風(こち)吹きて会津に住みて故郷を想う人あれ海の恋しき
会津にそ飯豊の山も望みけり雪の厚くも溶けざるかな
峰々や会津の国の広しかな秋の星々澄みてきらめく
会津にそ住みて二年や川のあれその上想い秋深むかも
会津にそ住みて城見つ花のちる故郷遠く海は見えじも
尋ねえじ会津の奥の深しかもなお隠されて花の咲くかな
夏の日や川広々と風涼し瀬音ひびきて燕飛ぶかな

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会津には白河街道からも自転車で行ったし昭和村の方にも行った。舘岩村にも行った。ともかく会津は一つの山国であり広いのである。だから地理すらわかりにくいのだ。大きな川が流れているけどそれがどこから流れてくるのだろうと想うとき、阿賀野川は新潟まで流れているから実に大きな川である。でも地理的に栃木県の方から流れている感じが思い返すとした。この辺の川と違い大きすぎる川だからその川についてもとらえにくいのだ。鉄道も三つあり栃木県の方にゆく会津鉄道の方から流れてくる川かとも想った。栃木県だと平家落人の湯西川がありそんな方面も想いとして残る。

実際舘岩村から栃木県の方へ出て那須の野の方まで行ったことがあった。自転車の旅は鉄道とは違い記憶していることがある。それだんで月日がたてば忘れる。旅もまたいかに記憶するような旅をすることが大事なのである。時間がたつと忘れてしまう。団体の旅だとどこに行ったかもわからなくなる。自転車だって時間がたてばそうだった。ただ自転車は脳だけではない体で覚えているところがありそれであとで詩にもできたのである。旅で記憶に残る旅をしたいと思いば歩くか自転車でしないと記憶すら残らない。旅はその過程にあり苦労して峠を越えたとき峠のことが体に残って記憶されていて思い出すのである。頭だけでは記憶に残らなかったのである。ともかく何度も会津に行ったが本当に広いから方角すらわからなくなった。


不思議なのは浜通りから原発避難民が会津にも移り住んだ。そしてそこで雪かきしている姿がテレビに写される。そういう人たちは今どういう心境なのだろうかと思う。まず会津は山国であり雪国であるから海は見えない、海というとき猪苗代湖がその代わりになるだろう。でも猪苗代湖も山を越えないと見えない、海を常に見て暮らしている人とやつばかり見て作らしている人の感覚はかなり違ったものとなる。その感覚は住んでみなければわからない、雪もそうである。だから会津とか新潟とか山形など雪国の生活する感覚が浜通りなどでは理解しにくいのである。ただすでに今回移り住んで二年となると体で知ることになった。

会津も福島県なのだけど例えば明治維新の戦争で大きな被害があったが別に中通りとか浜通りはその被害について何か一体感がないのである。それだけ福島県は広すぎるのである。だから地理的一体感がもてないということがあった。会津で維新の戦争で死んだ会津藩の侍は名前すらつけられなかった。そういう墓を見るとき実際に移り住んで見るとき感じ方がより会津の人と一体となる感じ方になるのだ。でも福島県としてあるから会津のことを思う。浜通りには高い山がない、それがある意味で致命的であり高い山がないということは精神の形成にも影響する。山も精神を形成するのに不可欠なのである。山を見ていると独立自尊の思想が自ずと養われるのだ。


今回はやはり浜通りの人が移住したということで会津とのじかの交流があった。会津でも原発避難民は嫌われているが会津も福島県とういことで一応県外にでるよりはましだったのかと思う。県外になるとまた差別になった。原発避難民は集団だから差別されやすい、でも大熊町民双葉町民浪江町民というレッテルから離れられない、補償金がもらえなくなるからだ。補償金をもらうためにそのレッテルをもたざるをえない、もし少数だったら補償金が関係ないなら他の市町村民に今なら簡単になれる。江戸時代だったら藩から脱出することはできない、越中などから相馬藩が飢饉のとき移住した真宗系の人たちは大変な苦労をした。江戸時代は移動の自由がなかったからである。現代は移動の自由はあるが補償金のためにマイナスのイメ-ジしかない町民からめけられないのである。ある意味でユダヤ人化したともいえる。


自分はやはり自転車で旅したからその道のりを思いだして思索したり詩作したり短歌や俳句も作れる。そういう恵まれた時間があった。しかし
今や一日も旅することもできない、こも運命だったのか?
ともかくこの世は長い人生の間で何が起こるかつくづくわからない、


蒲生氏郷は享年40歳という若さで死んでしまう。


限りあれば 吹かねど花は 散るものを 心短き 春の山風


人間は突然思わぬことが起きる。事故で死んだりすることもある。自分も二回も入院したしそこで運が悪ければ死んでいたかもしれないという恐怖があった。今回の津波でも原発事故でも思いがけないことだった。会津に避難した人はこの歌を身近なものとして感じるだろう。もしかしたら避難民で高齢者が死んだ人がいるかもしれない、するとまさにこの歌が心にしみるとなるのだ。

 
 
 
 
 
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2013年03月04日

南相馬市鹿島区(小池)に増えた仮設住宅と新しいビジネスホテル (浪江の会社も移ってきている)

 

南相馬市鹿島区(小池)に増えた仮設住宅と新しいビジネスホテル

(浪江の会社も移ってきている)

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小池の新しい仮設と浪江の会社


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小池には三カ所くらいふえた



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善徳はここの地名である。

隣の新しい仮設は浪江の人たちが入っているのか?

ともかく新しいものが増えている



小池の方に新しいビジネスホテルができていた。一人用であり工事関係者用なのかどういう人が利用するのかわからない、最初見たとき新しい仮設住宅かと思った。ただ一人用だから違うとも思った。設備はWI=FIが設置されているから最新式である。このWI=FI通信が最近良くでてくるのだ。タブレットで通信する場合必要になる。アマゾンのキンドルでもなくてもできるがWI=FIにすると便利になる。こういうものを設置するとなると必ずしも土木の現場だけではなく知的仕事をする人も泊まることを見込んでいる。それにしても結構な数であり百人以上は泊まるかもしれない、大きな管理棟もある。被災者が入るのともちがう。仮設に入っている家族はばらばらであり訪ねてきたら泊まるとか言っていた。確かに仮設ではまず寝る所がない、狭いからないとする利用するようになるのか?
それだけでは需要があるのか?何か不思議である。ただなんらかこの辺はまだ工事関係者などが除染でも入っているからそういう人も入るだろう。


また浪江の人が移り住んでいる仮設もできたみたいだ。浪江の会社も移ってきていた。
南相馬市鹿島区は小高区や浪江などから流入した人たちで人口が増えている。浪江の人で空家に入っている家族を三人にあったし会社もこっちに移した。
それからアパ-トも西町とあさひにできる。人口か増えて津波などで家を失った人がいて住宅不足になっている。それで外部の人が建てている。アバ-トを建てていたのも茨城県の日立とかから来ていた。地元の人ではないのだ。するとビジネスホテルなどに泊まり仕事するようになる。それでホテルが不足して建てたのか「森のビジネスホテル」というのも小池は山の方だからである。


鹿島区は人口が増えて家も壊されたのも多いが建つ方が多くなっている。津波被災者には宮城県では復興住宅を作る計画をしていた。家がないのだからそういうものが必要になる。小高の人たちは家があっても帰れない、でも時々帰って様子みている。五年帰れないとかその期間が長いから困るのである。ただ補償金がもらえるから原発避難民は金の面では困っていないのである。かなり貯金だってできる人もいる。そうするとその面では余裕である。だから困ってなんとかしてくれなど騒がないのである。ただ復興住宅となるとかなり金がかかるからなかなか建てられないだろう。相馬の長屋風住宅にしてもアメリカの援助で建てられた。何らか国の大きな援助がないと建てられないだろう。

ただ仮設から復興住宅に入りたいという要望がある。小高の人でもそうである。そうすると鹿島区は家も増える。鹿島区や小高区はもっと人口が増えた方が良かった。それも街の中心部に集った方が福祉でも回るのが便利だし今は暮らしやすくなる。高齢化社会では街に集まり共同するような生活がいいのである。そういう新しい街作りもこのさい計画してもらいたいとなる。

 


 

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2013年03月05日

春になる八沢浦の変化 (変化しつづける津波の跡の風景)


春になる八沢浦の変化

(変化しつづける津波の跡の風景)

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争うや東風(こち)に北風浜通り
東風吹いて海に向き立つ観音像
津波にも残れる家に猫柳
春日さし残れる家のなごみかな
津波跡沼の二つや冬の暮
松二本寒の戻りや八沢浦
沼の岸冬芒かな松二本
春北風(はるきた)や坂越えて来る街中へ
喫茶店相馬に来て春の雲


八沢浦海鳥飛び来ぬ春の朝雪の残れる遠山を見ゆ

八沢浦寥々として松二本残りてあわれ春北風(はるきた)の吹く
八沢浦二本の松や春来るも悲しみ深く二年の過ぎぬ
松が枝折れてとまれる烏二羽津波の跡や海老の浜かな

春北風(はるきた)に森の騒ぎて城跡や津波の被害のなお癒えざりき

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パノラマ写真


海老浜に海を向き観音像が建てられた。慰霊の像として建てられた。津波観音ともなる。他でも津波で死んだ人を供養するものが建てられているだろう。おりしも今日は朝に行ったのだが最初は東風だった、やはりこれくらいあたたかくなると東風は吹くし3月になれば東風が吹く度合いが増えてくる。今年は寒かったがそれでも今日は本当にあたたかい、東風を受けて観音様が海を向き立っているのもにあっている。巨大な観音様が各地に建てられているがそれはあまり意味もない、観光のために建てられていた、客集めのために建てられていたのである。そういうものには意味がない、金をかけても意味がない、この観音様はそういうものとは違っている。津波で死んだ人たちを弔うという人々の祈りがあって建てられたものだからである。だからこの観音様には津波で死んだ人たちの霊が宿るともなる。今回の津波で死んだ人たちをどう供養していいかわからないということがあった。これは一つの供養となるだろう。津浪の被害の記念碑なのである。それは末長く語り継がれるものである。

ただ人間は忘れやすいのである。四〇〇年前の慶長地震の津浪も今回と同じ様に大きかった。それを記念した津神社が相馬市の松川浦にも鹿島区にも原町区の小沢辺りにもあった。でも忘れてしまっていたのだ。何の謂われある神社かからなくなっていたのだ。やっぱり四〇〇年となると長い、これから四〇〇年すぎたら一体この辺はどうなっているのか?これも想像もつかないのである。


松が倒れた折れた枝に烏が二羽とまっていた。何か絵のようである。未だに津浪の跡の不思議な光景がつづいているのだ。八沢浦はまた変わっていた。二本の松が支えあうように立っている。道は新しくなった。一時あそこに自衛隊が鉄の橋をわたしていた。今はきれいな道路となった。八沢浦の海岸に近いところに何軒が家があったがあそこは一番危険だった。高潮で潮水に浸されたのは最近だった。そういう危険な場所だった。海老浜は高いからそういう危険を感じなかった。八沢浦の被害は海老や烏崎や磯部のように凄惨なものを感じなかった。実際は死んでいる人がいるのに何だ、美しい入江が蘇ったということで批判してきた人がいた。確かに死んだ人がいたが八沢浦の被害は大きくなかった。ガレキの山ともならなかった。意外と近くの家でも被害が少なかった。津浪が見えてから後ろの山に逃れて助かった人がいる。百メ-トルくらいしかない感じでも被害が少なかった。地形に影響されたのである。前に山がありそれで津浪の力がそがれたのだ。津浪は地形の影響が大きいのである。前に何も障害物がなければまともに津浪を受けて磯部のように壊滅した。

春日がさして残っている家を見てほっとした。津浪が来てから家でも見方が変わった。残り谷(家)という地名が残ったように津浪は根こそぎ家が流されて死んだものと家も残り家族も助かった人との差が大きいのである。一方はすべてを失い一方は助かったとなる。

八沢浦はもともと入江だった。明治になって開拓された。だから自分は不遜でも津浪のくる前からここが入江だったらどれだけ美しいだろうと想像していた。ここは狭いからイメ-ジしやすかったのである。右田から烏崎から大内から塩崎まで潮水に一時おおわれて海になった。これだけ広いとイメ-ジしにくいが万葉時代は海だったのである。その名残として八沢浦は明治まで残っていたのである。だからここが本当はかなりの名勝の地でありみちのくの歌枕の地だった。

ここはそういう美しい場所だったし開拓されてからもそういう面影は残っていたしイメ-ジできた。ただ人間の想像力には限界がある。今回の津浪で実際にかりてり奥まで水にひたされたことには驚いた。奥深い入江は四国や瀬戸内海にはあるが福島県にはなかった。いつも荒い波がうちつけていたので入江が生まれ春の光に波が光って岸辺に打ち寄せたのを見たときは信じられない、奇跡のようだった。ここはガレキの山になっていなかったのだ。だから批判はあってもそういう美しいものが再現されたのも現実であり津浪の一面だった。津浪が美しかったなどと報告している人はいないし写真もほとんどない、ただ凄惨な場面ばかりだった。だから津浪にも死者が出ても美しいものが再現したのである。それでこの八沢浦に残された古歌をリアルに鑑賞できた。


八沢浦八景


八沢浦の夜雨  磯桜八沢が浦の夜の雨に浪のうきねを明かしかねつつ

遠山の暮雪     高瀬さす八沢が浦の夕波に色をみだせる雪の遠山
行沼(なめぬま)の晩鐘 行沼の蘆の間ひとり歩み居ればあわれいづこに入相の鐘


津浪で蘇ったみちのくの歌枕-古歌
http://musubu2.sblo.jp/article/54362194.html


磯桜ということ自体、ここが入江でなければでてこない言葉である。入江にさざなみのうよに浦波がよせてきて磯桜がある。浦波はこの辺では見られない、入江の穏やかな波は見られない、荒波がいつも打ちつける荒寥とした風景だった。遠山の暮雪にしても朝に雪が遠山に残っていた。

八沢浦海鳥飛び来ぬ春の朝雪の残れる遠山を見ゆ

この山影が入江に写るからまた絵のように美しいものとなっていた。 夕波がたって色がみだれたというのはまさに雪の遠山に帰ってきた舟によ写った影がみだれたのである。行沼の晩鐘というのも
沼になっていたことでリアルにイメ-ジできるようになったのである。

ともかく今日は海から東風が吹いてきた。それからすぐに春北風(はるきた)になった。春北風は春の光のなかに吹く比較的あたたかい風である。今の季節は二つの風が交互に吹く、最後は相馬の城跡を回って帰ってきた。この辺は何か津浪原発事故で戦争のようにもなった。浪江が小高の出城が落城したようになり相馬の本拠地の城が最後の守りの城となった感じになる。小高の人が帰りたくないというときやはり浪江が封鎖されているからその影響もある。
この津浪原発が一段落するのには十年はかかる、神戸でも十年かかった。もう十年は帰れないとか覚悟するほかないのだろう。十年たって何かやっと十年一昔で落ち着くのではないか?そのくらいの大災害だったのである。
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2013年03月06日

高速通り仙台へ-(春の俳句十句) (フェルメ-ル展を見る)


高速通り仙台へ-(春の俳句十句)

(フェルメ-ル展を見る)


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広々と海に注ぎ入る春の河
広々と河口の光る春の朝
田起こしや仙台平野を一望に
復興や仙台平野に春の雲
通り行く少女の髪に春の風
ハイヒ-ル高く少女や春の街
大通り吹き抜けにけり春の風
春日さし鳩一列にフェルメ-ル展
喫茶店外国人や春の街
北へ行く新幹線や春の夕

一時や街灯ともる春の街

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仙台まで直通のバスで仙台へ行った。このバスは東部高速道路を行くので見える景色が違うようになった。鳥の海とか阿武隈川の河口が見えるのだ。それがまた違って気持ちがいい、同じ景色だとあきるのだ。東部高速道路は高いから見晴らしがいいのである。これで津浪がさえぎられたというのもわかる。かなり高いからである。もしこういう道路がもっと買い海岸線近くにあったら津浪をさえぎった。それだけ高いのである。これを作った時は津浪のことなど考えもしなかったろう。
仙台平野は本当にバスで行くと広いことを実感する。ここの米が江戸に船で送られたのである。

この広い稲作地帯が実は江戸と結ばれていた。江戸の庶民でもその腹を支えていたのである。
昔も田起こししていたらそれは江戸へ米を生産していたとなる。江戸時代でも江戸の食糧は遠くの人たちが作り支えていたのである。その食糧を供給する人を実際に見ることは労働を実感するからいい。実際はそうした労働を見ることを実感することもできないのが現代である。外国から食糧が入ってきてもそれを作る労働の現場を知り得ないのである。 宮城県は一番津浪の被害が大きかった。
一万人近く死んでいた。その復興はまだほとんど進んでいない。仙台の津浪の被害は今回は仙台の郊外の新住宅地に大きかった。山元町すら実際は仙台に通う人が多かった。仙台に勤める会社があって通っていたのである。だから仕事をなくしたわけではないというのは救われているのは本当なのだろう。三陸とか気仙沼とはまた事情が違っていた。


仙台市は東北では唯一街らしい街である。東北では仙台のように街らしい街はない、この辺では原町とか相馬市でも街らしい感覚はない、
人さえ通り歩いていない、仙台は若い人が大勢歩いている。
若い熱気が感じられるのは東北では仙台くらいかもしれない、あとは何か都会でもいなかじみているだろう。通りに春の風が吹いて少女の黒髪をなびかせたように何か若さを感じるのである。
喫茶店に外国人が日本人と英語でしゃべっていた。でもあの外国人はイタリア人なのだろう、カプチ-ノを飲んでいたからだ。ヨ-ロッパでは英語をしゃべる人は普通にいる。ただあの人はいかがわしい外国人かもしれない、今や外国人も普通にいるからいかがわしいのも多くなったのである。

ただ仙台辺りだと外国人と交流する機会は多くなる。田舎では英語教師くらいだろう。なかなか交流できないのだ。東北では仙台に住みたいという人は多い。ただ大きなマンションとか見るとあんなところにつめこまれるのは嫌だないつもみている。やはり一軒家の方がいいのだ。

住んでみるのと一時的によるのとはまるで違ったものとなるのだ。仙台あたでは住環境がいいとはならない。でも仙台のデハ-トの地下では食べものが豊富だからオカズには困らないだろう。ただ高いから金はかかる。一人暮らしは明かに都会の方が暮らしやすいのだ。原町とか相馬市だったら簡単に外食できるからいいのだ。

「孤独が一流の男を作る-川北義則」とかを書店で買った。何かお一人様とかそういうのが普通になる時代だというのは本当だろう。一人暮らしが膨大にふえてくるからだ。今は一人暮らしでも食事でも困らないようにできているのだ。ただ野菜不足になるから新鮮な野菜をとるように心がける必要はある。一人暮らしは特殊な変わり者ではなく普通の状態になってしまったのである。ただ老後は共同生活しというのはそうかもしれない、一人暮らしはいろいろと困る。そういうことを身をもって経験したから人ごとではない。高齢化というのはなぜ老後をいろいろ問題にされるのか、それだけ数が多いからである。そしてこれだけの人が長生きする時代を経験していないからである。過去は参考にならないからである。60代辺りでは男女とも健康な人が多いのだ。回りを見回すとそういう人がいくらでもいる。何をしていいのかわからないような一人暮らしの男女がいる。女性なんか60代でも若いから処置に困る。だから男を求める欲望の強い人もいる。枯れていないのが今の時代なのである。まだぎらぎらはした欲望に満ちているのだ。


ともかく仙台には最低一か月に一回は行く必要がある。ただ留守もいない、連絡もとれないから不安なのである。春になったからどうしてもでかけるようになる。自分は手術してから普通にもどっている。旅行だって前と同じくできる。体に支障がないのだ。もちろん病気ではあるが普通の人と同じく行動できるのだ。このことは自分にとって大きかった。前は身体障害者でありこのままどうなるのか不安でしょうがなかった。今はそういうことがない、自転車でも別に疲れるとしても前のように走れるのだ。体そのものがそんなに弱っていない、健康だから人に頼らなくても、一人暮らしは病気になったら最悪になる。人に頼ることは前に書いてように誰かいじわるな人の奴隷にされてしまう。そして病気だからさからえなくなるのだ。そうして脅されたから本当に恐いことだった。人間は弱みをもったらその弱みにつけこまれ非情なものであることを知った。そういうことで人間は恨み犯罪が生まれている。

老後で一番大事なのは健康なのである。健康をなくしたらすべてを失いかねない、例えば病気になったら高額なうまいものすら味がなくなりうまいとはならない、何でも食欲がそもそもないのだから食べたくないのである。性欲だってそもそも肉体が弱体化すればなくなる。人間の欲望は実はその体にあり体が弱ればもういくら金があり欲望の対象がいくらあっても何の意味もなくなる。
人間は実は外部のものを感じるのは美でもすでに内部で心で感じることがそなわっているからともいえる。もし心に備わっていないなら外部の美に反応することもいなだろう。それは食欲でも性欲でもあらゆる欲がそうである。内部で反応する力を失いば外部がいくら豊でも意味がなくなるのである。

仙台にいるのも今は束の間である。何か追われるように束の間の時間を過ごすだけである。ほとんどが買い物の時間である。でもその一時だからこそ街灯がともりそれがなんとも貴重な時間だともなる。一種の短い旅なのである。

2013年03月07日

春風(庭いじりは農業と同じ)


春風(庭いじりは農業と同じ)


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冬深む日々根を見つつ水をやる

東風吹いて川面さざなむ夕暮も
石による松一本や春の風
海よりそふわふわふわと春の風
病癒え体一杯に春の風

争わぬ石の二つや福寿草

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写真の紅葉の樹は毎日水やらないと乾く、土の範囲が狭いからだ。だから毎日根を見て水をやっている。自然とかかわることで自然と一体化する、庭も自然なのである。庭作りも実際は農業とにている。植物を育てる見守ることでは同じなのである。ただ花か実かの違いなのである。普通は根には注目しないが根も大事である。根があってこそ樹がありうる。こういうことは実際に自分で水をやらないと自覚できない、つまり農業は実際に土をいじったり種を植えたりそういうことを自らしないと実感としてわからない、この辺では農業に副業でも従事していた人が多い。その仕事を奪われたとき生きがいもなくなった。水田でも水の管理が大事でありそれで上流に水を引き入れるところに水神様の碑があった。それも今は無用のものとなっている。田舎では別に直接農業にかかわらなくても農業は身近かだったのである。ただ庭作りでもただ水をやるだけでも自然とかかわる。自然とかかわることは自然にと通じることなのである。

今日は夕方まで春の風が吹いた。なにかなまぬるい風だった。北風は吹かない、一日春の風だった。それでふわふわふわとなり遠くに出かけたくなる。飯館辺りはどうなってしまったのだろうかと思う。今はみんな仕事しないというのも変な光景である。毎日パチンコ通いで外から批判される。
ニ-トなんか喜んでいるけどかえって同類とみなされ今は批判される。全体がニ-トになり遊び人になったらどうなるのか?でも現代のこうした大災害は広域化システム化しているから地域だけの力ではどうにもならないというのも本当なのかもしれない、成す術がないということもある。
まあ、田畑がだめなら大内村のように花栽培とかにするのもいいのかも、ソ-ラ-パネルも土地が確保できないことが問題である。農地は勝手にできないから困るのだ。


ともかくこの辺はこれからどうしたらいいのかというとその解答がないのだ。原発事故はその処理でも専門家しか入れない、たずさわれない、するとまた一体原発の中はどうなっているのかもいつ収束するのかもわからない、つまりお手上げだというのもそうなのかもしれない、自給自足のような昔の生活だったらなんとか自力で回復していた。それが原発事故などはできない、専門家や東電や政府まかせで何もできないというのも本当である。このままいけば補償金だけを求め被害だけを主張する
沖縄とかと同じになるだろう。そうなると他から嫌われる、今も嫌われている。将来的には補償金が切られても今度は生活保護をくれとかなり自主的に復興はできない、社会が巨大システム化したから一地域の努力ではどうにもならないというのも言える。


ここで大きな一つのポイントが次代につなぐことができなくなることである。農業も代々してきたことに意味があった。この辺ではそういう農業も断たれて未来が受け継がれないことは深刻なものとなる。だから津浪でも原発事故でも若い人が流出することは深刻な問題なのである。

自分の家は争いがあまりにも長かったけど一人死んで終わった。やはり夫婦仲がいい家庭で育った女性は気立てがいいというかまともである。人間は家庭によって基本は作られる。ただすべてが家庭で決まらない、悪い家庭でも環境でもすべての人が曲がった人となるわけではない、金持ちの家のものがすべて良く育つかといったらそうでもないから必ずしも環境がすべてとはならないのだ。
いくら家庭が悪いとか環境が悪いとか言っても最後は自分の責任になる。重大な犯罪を犯してそれは育った環境が悪かったからだとか言えないのである。

仙台市周辺の津浪被害の大きかったのはなぜ? (災害地名、津波被災地に「浜」「浮」- 宮城県多賀城市)

                           
仙台市周辺の津浪被害の大きかったのはなぜ?

(災害地名、津波被災地に「浜」「浮」- 宮城県多賀城市)
http://www.chunichi.co.jp/article/earthquake/
sonae/20130121/CK2013012102000078.html

別にこれが災害地名ということはない、思うに日本は災害列島であり地名自体の半分くらいが災害地名になってしまう。鹿島区の浮田などもそうなってしまう。浜などという地名はいくらでもある。
ただ多賀城市では末の松山の歌が貞観津浪から発していたというのは本当なのだろう。現実に今回も波は越さなかった。そこまで逃げて助かったという。ただなぜ宮城県の被害があれほど大きくなったのか?それは現代的なものがかなりあった。宅地造成が海の方に向かって急速に広がったことである。仙台市の周辺、郊外に住宅を求める人が増えたのである。山元町は仙台から遠いが仙台の通勤圏であり今回の津浪で駅まで流された。駅前に新興の住宅地があった。その辺に元プロ野球の選手の家もあった。仙台市の影響は福島県でも岩手県でも拡大している。東北の中心都市だからそうなる。


仙台空港が名取にあり電車で空港まで行くが名取まで仙台市のように見えた。家が仙台から密集しているからだ。名取や岩沼は仙台市の一部のように見えた。石巻まで行く仙石線でも野蒜辺りでも仙台の郊外の住宅地であった。元から住んでいる人たちではない、仙台市が拡大化して住宅が増えたのである。だから勤め先は仙台であり仕事は仙台だから失っていないという。石巻辺りでは水産関係で仕事自体を失った人たちが結構多いのとは違っていた。石巻と仙台周辺の相違は石巻はまだ地元志向土着的なところがあった。だからそこにはボランティアが商店街でもとぎれなく来ていたという。一方多賀城など仙台の周辺化した土地にはもともとそうした土着的志向がない土地でありイオンとかマガドナルドとかヤマダ電気など中央資本の建物が多かった。それらが津浪の被害を受けたけどボランティアは来ていなかった。多賀城では海が意識されなかった。家が密集しているから海も見えないしなぜあそこに末の松山があり波こさじなのか他からきた人はわかりにくくかった。でも砂押川をさかのぼって津浪が押し寄せ被害があったのである。海に近いところだった。多賀城からフェリ-乗り場に行ったことがある。海は確かに近かったのが意識されなかった。


仙台市周辺の津浪被害も大きかった。新興住宅地が海岸の方に広がったからだ。そこで学者が津浪の危険があると忠告したら不動産屋が脅してきたという。土地の値段が下がると心配したためである。ここにも常に利益優先社会の弊害があった。山側でも地盤が軟弱なとこがあり地盤が地震で崩れた。千葉県でも液状化現象が起きた。そこはもともと沼地だった。日本にはもともと沼地とか湿地帯の所が多かった。実にそういう地名が多いのはもともと湿地帯だったからである。海岸地帯は特にそうだった。日本が災害列島だというときそれは日本の地形がもともとそうだった。平地が限られていて住む場所も山とかであり平地が少ないから海側に開拓するようになった。仙台平野も開拓してあれだけ広い地域を水田にしてその米を江戸に運んだ。もともとは湿地帯であった。

そういう所が日本全国いたるところにある。海に囲まれて平地がないから当然そうなる。南相馬市鹿島区の八沢浦は明治になって開拓されたものであり井田川浦も大正になって開拓された。土地がないから海側に土地を求めて稲作地帯を人工的に作り出したのだ。それで塩害をふせぐために松原を作った。それは白砂松原の風景として人工的な日本の美を作りだした。それは自然の風景ではなかったのだ。日本という国はとにかく平地が少ない、だから人口を増やすためには絶えず江戸時代から新田開発をしてきた。農業中心の社会だから土地がなくては農業はできないからだ。それで満州に憧れたのはとてつもない土地があってそこで農業をしようとしたことにあった。あの寒冷地帯で米を作ったことでもわかる。土地がないことが戦争の原因にまでなっていたのだ。


今回の津浪被害ではいろいろなことが問われた。その大きな問題の一つが自然条件を無理して人工化したことによって津浪の被害が拡大した。もともとあった自然条件を無視したことが自然からの反撃にあった。縄文時代海だったところ万葉時代までこの辺では塩崎まで海だった。その範囲は非常に広いのだ。そこまで海だったことが津浪で再現したのである。だからそういうもともとあった自然条件を無視した開拓でも宅地造成でも自然からの反撃を受けた。ただ無理といえばそもそもがこれだけ巨大な文明化したこと自体、自然の法則に反するものであり無理だったとなる。エネルギ-でも石炭でたりない、石油でたりない、原子力だとなった。それ自体無理をしていた。無理をしなければ文明を維持できなくなっていた。東京のような一千万都市をどうして維持できるのか?東京の都市を見たら目眩を起こすだろう。そういう巨大都市が世界にいくつあるのか、それだけで空恐ろしいともなる。それらの人間を食べさせエネルギ-供給すること自体限界を感じるのだ。


今回の津浪原発事故で文明の崩壊現象のようなものが現れた。全然復興が進まないというときそれは一地域の力ではどうにもならない、文明的広域の崩壊現象が現れたためである。グロ-バル化社会でもギリシャの財政破綻が世界恐慌になるとか騒がれた。世界は経済でも一体化しているからギリシャの経済破綻でも世界的に影響する。そういう巨大文明の崩壊現象があり復興か容易ではないというのも本当だろう。

自給自足の社会だったらもともと何もないのだからその土地にあるもので生活していたのだから復興は容易なのである。海岸でも津浪の被害にあっても掘っ建て小屋のような家に住み港もなく地引き網のような漁業をしているなら復興も楽なのである。巨大なインフラを復興させる必要もないからだ。巨大化した文明は災害にかえって弱いのである。石油が配達されなくなり車も使えなくなる。電気もきれたら燃料もない、水道も使えなくなる。その時、山の清水や井戸の水を使い裏山の薪を燃料としてしのいだ人たちがいた。水を歩いて運んでいたのである。自給自足の昔の生活にもどったのである。こういうことは牡鹿半島などではできた。大都会では水道も電気も石油も運ばれなかったもうどうにもならなくなる。そういう恐怖が大都会にはあるのだ。石油コンビナ-トととか燃えるものがありそれらが火の海と化してゆくのを見た。東京辺りだとこれ以上の災禍が襲ってくる。もう手をつけられない、恐るべき崩壊現象が起きてくる。そしてそこから復興するのにはまた今回の津浪原発事故と同じ様に簡単には自給自足の社会のようにはできなくなるのだ。だから巨大化した文明はバベルの塔のように崩壊する恐怖がある。文明自体の崩壊である。最後に生き残るのは自給自足していた人たちであったという皮肉がうまれかねない、そういう恐るべき経験を今回の津浪原発事故でしたのでありそれは今もつづいているのだ。


 

posted by 老鶯 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2013年03月08日

春の風(桜井古墳のこと)


春の風(桜井古墳のこと)

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今日も行く二両の電車や春霞

この道や蛹をゆらす春の風


新田川朝きらめきて流るかな桜井古墳に東風の吹きくる

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今日吹いた風は複雑だだ。春北風(はるきた)が主だった。なまあたたかい風であり夏さえ感じられた。
新田川の川面を見ると海からの東風がふいてさざなみきらめいていた。水面にたつさざなみを見るとどの方面から風が吹いてきたかわかる。ただ主に吹いたのはやはり北風だけどなまめるい風だった。
新田川の桜井古墳は有名だけどそもそもこの古墳はなぜここにあるのか?それがよくわからない、これだけ海に近いのだから海と関係していた。大きな桜井古墳の前にも海に向かって小さな古墳があった。何らか海に向かっていたのである。海からの目印となるのか海と関係していたのではないか?
海に近すぎるということである。今でもこれだけ海に近いのは何かあるとなる。


そしてなぜ泉官衙跡というのがすぐ海の側にあったのか?後ろの山でから鉄を生産していたのでその管理する場所としてあったということもある。官道が直接通じていたし新田川には一部運河も作られていたのである。海との関係、交通は看過されやすい、小高の塚原に中世に港の機能があったということを書いた。あれもほとんど忘れられている。陸奥の真野の草原遠けれど・・の草原は港だったという自分の説もやはり今回の津浪で塩崎の市庭とか船着とかいう地名のところまで水がきていたことでも証明された。石巻に萱原という地名が残っているからあそこが江戸時代までこの歌の地だとされていた。ただそれをうらづける物証が少ないからここが有力視されるようになった。


ともかく港の機能は船の交通は盛んにあっても忘れられるのである。船も海に沈んだらわからない、そういう船が実は海にたくさん沈んでいるかもしれない、しかしもうわからないから一旦船の交通は途絶えたら証拠がないから歴史的なものとして残らないのが多いのである。

最近読んだ本で相馬藩が天明の飢饉で人口が激減したが立ち直ったのは相馬市の松川浦などに港がありそこを中継地点として物資が入ってきた。日立とか仙台の石巻に港があっても途中よるところがない、すると相馬辺りが中継地点として利用されたという。これも物証としては残っていないから忘れ去られるのである。それがもし飢饉で疲弊した藩の建て直しに役立ったなると海の機能は古代からつづいていたとなる。


今回の津浪ではこうして海のこといやおうなく意識させられたのである。津浪も桜井古墳の前まで来たが古墳は高い所にあった。津浪の被害はなかった。でも不思議なのは原町区の新田川近辺は古代に海ということはなかったのか?真野地域は塩崎まで海であった。そこはやはり低い土地だった。新田川は流域はどうだったのか?萱浜はもともと湿地帯であり江戸時代に開拓されたからやはり低い土地だったのである。津浪が老人ホ-ムまで襲うとは思いもよらなかった。あんなところまで津浪がおしよせたことの驚きである。やはりあの辺はもともとは海だった。湿地帯だったのである。


山脈は春霞だったのだろう。二両の電車があっている。あの電車が走れるの災害地域だからである。採算は全くとれていないだろう。道が閉ざされて常磐線もとざされてしまった。ただ春霞がかかった光景はのどかである。ただ津浪原発の混乱と苦しみはつづきなんら変わっていない、福島県から外にでた若い人は90パ-セント帰る気がないというのはショックである。福島県内だとそれでも60パ-セントは帰らないという、みんな帰る気をなくしている。まあ、なんとかここは残れたからいいとなる。

2013年03月09日

原発避難民はなぜ嫌われるのだろう (金をもっていることが反発される-金だけでは解決しない問題)

 

原発避難民はなぜ嫌われるのだろう

(金をもっていることが反発される-金だけでは解決しない問題)

原発避難民か今になりなぜ非難されるのか、それは前にも書いたように多額の賠償金をもらっているからだ。まず百万とか百五十万も一か月もらえるとなれば回りのもらえない人はこれは何なのだとなる。そしてイワキあたりでは飲み屋に行って札びらを切っているというのも異常である。この辺で毎日パチンコ通いでパチンコ屋で人がたりないとか自分の家にきて言う人があった。自分の家でも苦しいのになぜパチンコ屋で働かねばならないのか、他に働くところがあるじゃないかとも思う。
もちろんこういう異常な状態だから何もすることがないからパチンコに行く他ないということもある。そういう人たちをみて回りで補償金をもらえない人はあの人たちは何なのだと何も困っていない、かえって買い物でも贅沢しているとかみる。女性は細かい他人の買ったものをス-パ-見ているのだ。あの人たちは原発避難民で高い買い物をしている。補償金もらっていいわね、こっちは安い給料で働きづめだわ・・とかなる。結局今の世の中なんでも金でもめる、金で何でもできる、解決できると思っているが今はそうなっていない、その金がかえって徒になっているのだ。


金をもっているということは人間を傲慢にする。俺は金があるんだから何も困っていない、金を払っているだから別に頼む必要もない、頼まれても頼む必要はないとかなる。でも実際に本当に困った人ならなんとか助けてくださいとお願いにくるだろう。金があるからそういうこともない、だから避難民は回りから嫌われた。それは何か態度も悪かったのか?原発避難民というのは特権者になったのか、そういうことは確かにあった。自分たちは原発事故の被害者なのだから待遇を良くされても当然だとなった。だから避難した先でも謙虚さがなかったのかもしれない、どうぞお世話になりますとか言う心の謙虚な姿勢がなかった。その後も多額の補償金をもらっているから回りに気づかうこともなかったのか?この辺でも小高区と鹿島区の人たちで仮設商店を出すのに小高区の人は四軒しか出させないというのは差別だった。でもなんか小高区の人も回りに気づかうことがなかったのかもしれない、お世話になりますとかいう気遣いがなかった、もし鹿島区の人たちに一言でもそういうことを言う人があればまた違っていたかもしれない、そんなことは全然ない、他に避難した人たちもそうである。

人間の矛盾は人間は本当に食うものもないとき助けられたら恩義に感じてその人のために尽くそうとするだろう。でも普通の場合はしない、かえって金があり俺たちは何も困らないんだよ、むしろ金を払っているから尽くしてもらいたいとなれば誰も交流もあまりなくなる。住居は狭いにしても困った人たちと助けてくれという人たちではないとみられてしまう。ただ金をもらっているということで回りの反感を買うだけだとなる。今の世の中、金の世界だというとき金をもっているだけで回りは許さない、民主主義は必ずどんなことであれ平等を主張する。とにかくみんな同じでなければならない、そこにいかなるものでも不平等があってはならないのだ。例えその人が才能がないにしてもその相手が才能があったらそれも平等でならばならない、努力しようがしまいがそんなことは関係ない、とにかく平均して同じでなければならない。そうでないと必ず恨んだりねたまれたりと許せないとなるのだ。いくら謙虚になれと言ってもおそらく賠償金を高くもらっていればいるほど回りでは羨みねたみ許せないとなるのだ。だから避難民はその土地の人といつまでも溶け合わないとなる。
津浪の被害者で原発避難者のように補償金がもらえない人も仮設にいる。すると原発避難民はもらって俺たちはもらえないと不満を言っていた。結局今の世の中金がすべてとなったとき金でもめていることもまた同じだった。金がかえって協力させないようにしているのだ。金の世の中の矛盾が被災地にも露骨に現れたのである。


そもそも今回の津浪原発事故では金ではどうにもならない問題が起きたのではないか?宮城県などでも町自体が消失したような所がある。陸前高田市などでも街自体が壊滅した。ではそういうところに一億円やるから住んでくださいと言っても住む人がいないだろう。原発事故の放射能汚染地帯でもそうである。一億円やるから住んでくださいと言っても誰も住まない、住む価値のある場所じゃなくなったのだ。金はそこで何の力も発揮しない、病院も介護施設もなにもないとなれば金があっても何の役にも立たない、そこで商売をはじめようとした人がいたが回りに人がいないなのだから帰ってこないのだから売れないから商売にもらならないとなる。金が有効なのはそこに投資する価値がある場所だとそうなる。しかし壊滅した街を見てここで何をしたらいいのかとかなると金を投資しても無駄だとなる。金があっても有効に働かないのである。原発事故地域でも賠償金で二百億円くら銀行に金が増えた。でもそれは有効に使われない、銀行でも金がたまりすぎても困るという。
銀行は金を貸しているとき一番有効に働いているという。その金を貸すものがいないのである。


だからただ金は紙幣としてあるだげでありそれは紙にしかすぎないともなる。一見今の世の中金ですべて解決するように思えるけど被災地域では金だけでは解決しない問題が生じているのだ。牡鹿半島辺りの小さな漁港では牡蠣などがとれるのでそれで会社で資金をだしてもらいその会社に勤めることでそこに残ることができたと報道があった。60以上の人が多いからもう資金を出してやっていけないからだ。ただそこに会社が入ってきたのは牡蠣とか他にも養殖の貝とかがとれるからである。常にそういう糧がありとれるということが復興につながっていたのである。だからこそ会社が入ってきて資金も供給した。

そこはまだ小さな港だからできたのかもしれない、大きな街が壊滅したような所ではむずかしいかもしれない、ただ現代は一次産業が主力ではない会社があればそこで生活が成り立つ、でも若者が流出して人手不足とかなる地域には会社も入りにくい、金が万能ではなく金を産むものが何かということが問題なのである。現実に銀行や信用組合に二百億円増えたけどそれは活かされていないのである。中国などに世界から工場が進出したのは何もないけど安い労働力があった。それが金を産む元だったのである。やはり補償金だけに頼るようになるとそこは嫌われ人も入ってこない、イメ-ジ的にも悪くなるのだ。

posted by 老鶯 at 20:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年03月10日

鴨長明「方丈記」を読む (この世には災難は常にあり無常の世であることにかわりなかった)


鴨長明「方丈記」を読む

(この世には災難は常にあり無常の世であることにかわりなかった)



ゆく河の流れは絶えることなく、しかも、もとの水ではない。そのよどみ[流れずに留まっているところ]に浮かぶ泡沫(うたかた)[泡沫。水上の泡のこと]は、あるいは消え、あるいは結びつき、久しく留ったためしはない。世の中に生きる人と住みかも、またそのようなものだ。


 玉を敷き詰めたような都(みやこ)のうちに、棟(むね)を並べ、軒(のき)を争うような、高貴なもの、貧しきものの住まいは、世の移り変わりにも、尽きることはないが、それが真実(しんじつ)かと尋ねれば、昔からある家は稀(まれ)である。ある家は去年焼けて、今年造り直す。あるいは大きな屋敷も、小家へと移(うつ)り変わる。住む人もこれに同じ。場所も変わらず、人も多く見えるが、かつて顔を見合わせた人は、二三十人がうちに、わずかにひとりふたりしかいない。朝(あした)に死に、夕べに生まれる人の営みは、ただ水の泡沫(あわ)にこそ似たものであろうか。


あるいは煙にむせながら、倒れてはうつ伏せになり、あるいは炎(ほのお)に目がくらんで、たちまち死んでしまう。あるいは自身だけは辛うじて逃れるものの、資財(しざい)[財産や宝物など]を取り出すことは適わず、七珍万宝(しっちんまんぽう)[あらゆる宝ものの例え]は、まるで灰燼(かいじん)[燃えた灰や、塵、燃えかす]のようになってしまった。その値(あたい)、いったいどれくらいであろうか。

このたび、公卿の家は十六も焼けた。ましてその他は、数え知ることさえ出来ない。すべて合わせれば、都(みやこ)のうち、三分が一も焼失したという。男女(だんじょ)、死んだもの数千人、馬や牛などにいたっては、際限さえ分からない。


京の慣習、何を行うにしても、もともとは田舎をこそ頼みとしているのに、それさえ途絶えて、のぼり来る物さえなくなれば、どうして体裁を取りつくろっていられようか。神に念じつつ、悲嘆に暮れながら、さまざまの財(たから)さえ、片端から捨てるように売るが、それに関心を持つ人さえいない。たまたま換え得たとしても、金の価値は軽く、粟の値段ばかりを重くする。乞食(こじき)は道のほとりにあふれ、憂い悲しむ声は、耳に響き渡った。


死者の数を知ろうとして、四月から五月にわたって数えたところ、みやこのうち、一条大路よりは南、九条大路よりは北、京極(きょうごく)大路よりは西、朱雀(すざく)大路よりは東の、道に横たわる頭(かしら)、あわせて四万二千三百あまりにもなったという




今回の津浪原発事故ほどまた無常を感じたことはない、この無常は自分の身内の認知症にも感じた。この六年間は一身上でも無常と苦難の連続だった。自ら病気にもなったしその中で親の介護をしなければならなかった。身寄りはなく助けもなかった。ただ弱みにくけこまれ犯罪にあい弱者としていじめられた。人間の非情もいやというほど体験したけどまた自然も非情であり無情だった。津浪ほど自然の無情を示したものはなかった。


そのよどみ[流れずに留まっているところ]に浮かぶ泡沫(うたかた)


人間は津浪にのまれ泡のように多くの命が消えた。日本では洪水も多く水の災害が多い。津浪も水の災害だった。


昔からある家は稀(まれ)である。ある家は去年焼けて、今年造り直す。あるいは大きな屋敷も、小家へと移(うつ)り変わる。住む人もこれに同じ。場所も変わらず、人も多く見えるが、かつて顔を見合わせた人は、二三十人がうちに、わずかにひとりふたりしかいない。

これも全く津浪で現実化した。また原発事故でもそうなった。大きな屋敷も、小家へと移(うつ)り変わる・・・・これは仮設住宅のことである。田舎ではみんな大きな屋敷に住んでいたのである。それが狭い仮設に住むことになった。この変化も大きいのである。

この辺では壊された家が多い。こんなに家が壊されてゆくのかとも思った。今もまた一つ近くで家が解体される。家の解体は無料になるのでこの辺では多くなっている。更地になったところが多い。一方で津浪などで家をなくした人が家を建てている。その数は壊された家より多くなっている。これも大きな変化である。住む人も本当に変わってしまう。今まで住んでいた人も今はどこに行ったかもわからない、いづれ自分の家もそうなってしまうのだろう。


資財(しざい)[財産や宝物など]を取り出すことは適わず、七珍万宝(しっちんまんぽう)[あらゆる宝ものの例え]は、まるで灰燼(かいじん)[燃えた灰や、塵、燃えかす]のようになってしまった。その値(あたい)、いったいどれくらいであろうか。


これも津浪でまざまざと見た。ここに別荘が建っていて1200万で売っていたな、でも流されて一文にもならなかった。ここにもう家を建てる人はいない、家そのものより町自体が喪失する、なくなるということも見た。ただその前に茫然としているほかなかった。それは今でもつづいている。津浪の跡に家は建たないし更地のままなのである。こういう場に直面した人はただ茫然自失するほかなかったのである。こんなことがありうるのか?これは夢ではないかと夢うつつになってしまった。事実を事実として認められなかったのである。素寒貧になり命だけ助かったなど川柳に読んでいたがそんな余裕ある心境ではなかった。

今までもっていたものをすべて失った人もいた。家族を失い家を失いその人は自殺した。それほど悲惨なことだった。損得の勘定をしているような状態ではなかった。ただ自分は命があったということであり死んだ人は無数にいた。家族を失った人はそのことを痛切に感じているし今も同じである。こういうことはいくら話を聞いても被害にあった人しかわからないものである。同情するにしてもお前は口だけだとか言われるだろう。俳優で泣いてみせた人がいたが俳優だからあういうこともできる。とても家族を失った人の悲しみはその人しかわからない、またそれぞれの自分の悲しみも苦しみも他人にはわからなかった。要するに相手の苦しみ悲しみはいくらひどくても他人事になるのだ。


京の慣習、何を行うにしても、もともとは田舎をこそ頼みとしているのに、それさえ途絶えて、のぼり来る物さえなくなれば、どうして体裁を取りつくろっていられようか。神に念じつつ、悲嘆に暮れながら、さまざまの財(たから)さえ、片端から捨てるように売るが、それに関心を持つ人さえいない。たまたま換え得たとしても、金の価値は軽く、粟の値段ばかりを重くする。乞食(こじき)は道のほとりにあふれ、憂い悲しむ声は、
耳に響き渡った。


京都ではやはり食糧を田舎が供給していたから田舎を頼みとしていた。金の価値より食べものの粟が高くなったというのは戦争中と同じである。農家に高価の衣服をもってわずかの食糧と交換したのが都会の人だった。実は津浪の災難でもそれとにたことは何度も歴史上で起きていた。ただ戦後60年間は平和であり繁栄の時だったから忘れていたのである。戦争の苦難も3百万人以上死んだのも歴史的には最近のことだった。その生き残りもまだまだいる。そういう話を聞くのだが自らが苦しみにあっていないからよそ事になってしまっていた。3百万人以上死んだといっても実感をもてないのだ。
人間は自ら苦しまない限りその苦しみを自分のものとしてみないのだ。


NHKの特報首都圏という番組で、東京大空襲の戦災孤児の体験談のレポートがありました。
 あの夜、10万もの民衆が死に、同時に12万人もの孤児が生まれた。彼らは、暖を取るために死者の墓標を抜いて燃やし、食い物を盗んで飢えを凌いだ。街娼として町に立つ友達を見て驚き、疎開先でも孤児たちは邪険にされ、「犬小屋」と書かれた教室で学ばされた。
http://eiji.txt-nifty.com/diary/


こういう悲惨なことがあってもすでに忘れている。犬小屋というときやはり原発避難民のことを書いたがこれ異常に食う食わずの人たちがあふれ苦しんでいたのである。現代はあまりにも恵まれているが故に差別が生まれた。人間はそうした歴史的には人災もあり自然災害もあり百年単位とかになれば常にそういう苦しみを受けてきた。ただ平和がつづいたから忘れていたのである。人間の社会はこの世は無常だというとき常に言われてきたことである。それを津浪や原発事故でこの辺では苦しむ結果となったのである。無常こそこの世であり変化がこの世でありそれを否応なく思い知らされたのである。


財産に頼ってもその財産を失う、家族も失う、町自体がなくなるということは想像もつかなかった。市町村すらなくなってしまうことがあるという驚きだった。遂には国すら地球すらなくなってしまうという黙示録の恐怖に通じる。この世にあるものはみな変化し今日あるものは明日はないというまでになる。老人になれば本当に今日あっている人が明日は会わないということが実感する。だからこの世であった人はその人が悪人でもあっても縁がありこの世での何らかの定めだったかもしれないとも思う。これは例えは相手を憎んでいる人でもそうである。憎んでいる裏返しは愛しているからでもある。憎しみ合っても最後になると実は愛しているからだったとまでなる。無関心だったら憎みも愛しもしないからた。だから憎む人があったらそれなりにその人と縁があり愛の裏返しだったともなるかもしれない。


つまり世の中に生きるということはただこうして一時のことである。恨むも憎む愛すもそうである。たちまち人はこの世から消えてなくなる。「さよならだけが人生だ」に本当になるのが人生だった。そういうことが津浪でまざまざと現実で見た。常にそういうことは言われてきてもこれだけ大規模に無常をみることはなかった。でも戦争ではそうだったしそれは60年前がそうであり戦争を体験した人はこんなことは別にありうるから驚かないというのも本当だろう。こういうことを経験していない人はこれは何なのだとなるだけなのである。この世にはこういうことが無常が起きてくる。人災の戦争であれ自然災害であり常に起きてきたのである。人間が死ぬということから見ればこの世はすべて無常になる、虚しいとなるのだ。そういうことを具体的事実として示されたから驚嘆した。それは別に一身上でもすべての人に死がありすべてはただ無常と化してゆく。それが人間の変わらぬ現実であった。そこに宗教が生まれたのである。だから今回は災害のあった地域では宗教の発心が生まれやすい、無常を感じる時宗教を求めるからである。ただ葬式仏教とかカルトでは救いにならない。そういうところは宗教と何の関係もなくなっている。


戦争中の苦難と今を比べるとずいぶん楽だなともなる。でもそういう比較はまた時代が変わるから簡単にはできない、そににしても戦争中の苦難と比べれば楽だなともなるだろう。飢饉でも今日食べるものがないという切迫感の中に生きていたし現実に飢死した人が無数にいたのである。だから今回の津浪原発事故は過去に起きた受難の歴史を思い返す契機になったのである。

posted by 老鶯 at 14:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

初蝶を庭で見た!


初蝶を庭で見た


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初蝶を我が庭に見て老いゆきぬ

今日は黄色い蝶が一羽庭に飛んだ。初蝶を庭で見るのはめずらしい、たいがいこれまでは外でみていた。作家が庭作りに励むのがわかる。あの人は若いときはライダ-であり相当乱暴な人だった。でも年老いて庭作りに励んでいる。年とるとやはり遭難てゆく・・・何か庭作りが老後に向いている。

外に出てゆくより家とか庭とかが安らぎの場所になる。外に出ていかなくても中に入ってくるものが蝶のように美しいものだったらいいとなる。これまで入ってきたのは録なものがいなかった。
最悪の人しか来なかったのが悲劇だった。


初蝶を見るのはやはりこのところ異常にあたたかったしその影響もある。今は北風がぴゅうぴゅう吹いている。まだ梅は咲いていないから今年は遅いのだろう。プログは人に読んでもらうのもあるが
日記でありその時々の記録として書いている。初蝶が来たとか白鳥が来たとか帰ったとか書いておけば記録になる。ただ記録としても意味がある。


あとで読んでみると自分の書いたものすら相当に忘れている。自分の書いたものに感心しているのも不思議である。人間はそれほどわすれ安い動物なのである。だから記録するということは意外と大事なのである。この辺で起きた400年前の慶長地震の津浪で7百人溺死としか書いていないのはこうして庶民が記録する習慣がないのは字が書けない人が多かったためである。記録した人は役人であり庶民は記録できなかった。ただ記録しなくても庶民は言い伝えで伝説などで残すものがあったがそれも残らなかった。それがどうしてなのか?一つの謎である。すぐに忘れるほどのものだったのか?その辺がわからないのだ。伊達藩では記録されていたが相馬藩で一行だけだったのも解せないのである。


津浪から二年また春が巡ってきた。庭で初蝶を見たことは縁起がいいかもしれない、あまりにもいろいろなことが起こりすぎた。だから平穏な生活でありたい、これは自分だけではない、この辺ではみんなそうである。故郷でなくても春は来ることは確かであるがやはり故郷に帰りたいとなるだろう。実は浪江の高瀬川渓谷とか葛尾(かつろう)村とかは良くわからない場所だった。それなりに広いからである。まだまだ探求する場所であった。江戸時代からつづく過去があるにしろ実はまだそこでは見いだされないもの、人間化されないものがまだまだあった。その土地はまだまだ未知なものがあった。

2013年03月11日

復興はすすんでいるのか? (何が優先順位なのか-高齢化社会が復興をはばむ)

 

復興はすすんでいるのか?

(何が優先順位なのか-高齢化社会が復興をはばむ)


●放送は震災関連一色


今日は一日震災関連の放送だった。いろいろな人がでてきた。南相馬市の産婦人科医の院長で最近死んだ高橋亨平氏のことも放送していた。「南相馬市に生まれてきてくれてありがとう」と生まれた子供に最後のメッセ-ジを残した。これもこういう状態だからこんな言葉が生まれた。そもそも子供をもっている看護師自体流出している。これも放射能にそんなにこの辺で敏感になっていいのかという疑問がある。この辺は放射能が低いからである。飯館村とか浪江とかともちがう。小高だって他と比べると中通りの方が高いのである。もし放射能が危険なら中通りの人口が多いところも若い人の子供をもっている人が流出しても不思議ではない、そんなことになったら福島県が崩壊する。

確かにここで子供を産み育てること自体大変なことになったから他に移るのもしかたないし止めることはできないというのも本当である。相馬藩のような江戸時代とは違うからそうなる。相馬藩が飢饉のときは相当な人の流出があったらしい。それは食えないのだからどうにもならない、その人たちが悪いとはならない、でもこの辺でそんなに放射能が危険なのかという疑問がある。地元出身者が多いとすると親もいるからその親を捨ててでていくのかともなる。それから何を優先して行うべきなのかということも問題になった。それは子供をここで生んでもらいここで育ってこの街に住んでもらいたいということで産婦人科医の院長が癌になっても奮闘して死んだ。優先順位がまずここで子供を生んで育てる、子供がいなければもうその市町村自体が衰退して崩壊するからだ。ただ津浪被害地域でも人の流出は激しく市町村が維持できない、崩壊寸前にあるいう危機的状態である。それに対処するいい方法が見つからないのだ。派遣された公務員も過労で自殺したというのも驚きである。自衛隊も過労で一時三人くらい自殺した。そのくらい厳しい現場になっているということである。


●何を優先順位にするのか?


何かこういう緊急事態になると何か優先順位なのか問題になる。無駄なやっていられない、そんなことに金使っていいのかとかいろいろある。陸前高田市の一本松を記念に残すにも億の金がかかったからそれは別な生活に役立つものに回すべきだという市民の意見もあった。優先順位を決めるのは実際はむずかしいのだ。いろいろな価値観に生きる時代でありそれが無駄だとしても簡単にはできない。この世の中は実際は膨大な無駄な労働からも成り立っているのだ。労働がみんな価値あるものとはならない、一時は公共事業自体がただ金をかけるだけだと言われた。無駄な労働と金が費やされていたのである。だからすべて働いているだけでそれがすべて有益だとはならないのが社会である。

個々人にとって無駄か有益かは違っている。老人に何が売れるのかとか今は高齢化社会だからキ-ワ-ドで探している人がいる。でも老人にはあまりモノは売れない時代である。モノよりそのモノを売りに来る人の方が価値があるともなる。意外とモノを売っている人はそこに気づいていない、モノよりその人が気立ていいの女性で気持ちが優しくていいとかなるとモノも売れるかもしれない、老人はモノよりそうした人と接することを望んでいるのだ。ところがモノを売る人はモノがいいからモノが欲しいのだと錯覚している。モノより人間的サ-ビスを欲している時代なのである。自分もモノより心優しい女性に一杯のお茶でもわかしてもらい飲ませてくれたらそれなりの金を払ってもいいと思った。毎日介護で疲れたからである。優先順位は必ずしもモノではなくなてっいる。モノが売れないというときそういう時代の変化があった。だから介護時代になったということもそれに呼応しているのだ。介護はモノを買うことではない、人のサ-ビスなのである。老人と心地よく優しく接しているくれる人を望んでいるのでありモノではない、そこを勘違いしているのである。

優先順位ではこの辺では異常である。みんな必死になって復興で働き命を削っているときパチンコ通いでパチンコ屋で人手がたりないからとなげている。これほど馬鹿げたことがあるだろうか?

高橋享平医師はは癌でも命を削って南相馬市の将来を思って子供たちに未来をたくした。一方で毎日パチンコ屋通いの人たちも仮設に多い。多額の補償金をもらえるから何もすることなくなったからそうなった。そんなところに優先順位があるわけがないのだけどこれもまた原発事故の被災地域の現実なのである。個々の地域でそれぞれ違った事情をかかえている。自分からすると介護で苦労しているから少しでも手伝ってもらえば助かるなというのが優先順位になる。ただ一方で老人なんか介護しても何にもならない、若い者の負担になるだけだから早く死んでほしいということも常に言われてきた。老人の医療とか介護自体を優先順位にすべきでなはい、もうそんなところに社会で金を税金を使うべきではないというのも今は公然と言われているし政策にもなりつつある。病院でも身内のものが手術するときまだ生かせたいですかとか露骨に言われた。その時も医者は過重な労働で高齢者の世話に疲れていたのである。それだけ高齢化の負担が過重になっているからそうなる。今回の震災でその高齢化の問題が極端化して現れた。もう被災した市町村から若い人が流出して老人だけが残される、姥捨山が現実化する恐怖である。被災地でなくても高齢者の世話するのは嫌だ無駄だと騒いでいる若者が多い。被災地ではその何倍もの負担が若い世代にかかってくるからこんなところに住むのは嫌だとなり流出してゆく、そういうことが深刻な問題として現実化したのが被災地でもあった。


●高齢化が復興をはばむ大きな要因


不思議なのは一方で津浪の被災地で壊滅したところでは年金生活者はどこでも暮らせるからいいがこの市町村に残っても働く場もないしとても生活がなりたたないと若い人が流出してゆく、つまり年金生活者はかえってもう誰も医療でも介護でも若い人がいないからできない状態になったら老人も流出する。年金生活者は困らないからそれができるだろうとなる。でも老人は故郷への愛着が強いから故郷を出たくないのだ。ただそういういろいろな葛藤とか矛盾が二年たっても噴出している。どうしていいかわからないというのも現実である。復興するにはもう高齢化社会ではできない、老人では復興できない、つまり老人は復興の負担にしかならないということもある。だから少数の若い人たちでも残り復興する。そこでは老人がいなくなるから医療や介護の負担もなくなるから最小限でまにあわせるとかなる。医療介護はほとんど高齢者であるからだ。こういうことはあまり考えなかった。

何かいい知恵がないかというときそんな考えもあるのかと思った。でもその社会に地域に老人がいなくなるというのも異常なことだろう。老人もその地域で必要なものとしてあった。ただ数が多いのと高齢すぎるというのが問題だったのである。現代の問題は世界的にも高齢化というのが大問題なのである。高齢化社会というのは人類で経験していない、人生50年とか社会的には世代間の新陳代謝が激しい社会だった。常に社会が子供が大量に生産され若い社会だったのである。高齢化社会というのは人類で経験していない問題だったのである。だからその解決方法がなかなか見つからない、高齢者の増大で一地域でもその圧迫で崩壊するまでになっている。特に震災地域は現実化している。

posted by 老鶯 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年03月12日

倒木-蕗の薹(故郷がなくなったらどうなる-まだアイディンティティ化されなかった自然)


倒木-蕗の薹

(故郷がなくなったらどうなる-まだアイディンティティ化されなかった自然)

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石静か庭に若芽や手入れかな
故郷の山や一杯に春日浴ぶ
放射能消えよ復興の蕗の薹
倒れ木の側に芽生えし蕗の薹
若き等の話しつ歩む春の街
軽快に電車の音や春の山
はるかにも沖行く船や春の海

倒れ木に春の日さして寂けきや安らかに死ぬ場をもつべしかな

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川子には森がある。森といっても本当の森ではない、隣はゴミを大量に埋めた敷地であり下を鉄道も通っている。でもそれなりに一応森なのである。だからあそこを通ると心がなごむ。近くに森があるのとないのとでは相当に心に影響する。あそこは夏になると日影が長く気持ちがいい、この辺はまだ自然が近くにあった。近くに自然がないと人間に心の安らぎがもてない、だから良く東京のような所に住んでいられると思う。自分は学生のとき東京に憧れで学生生活したがその後は性格なのだろう都会を嫌い隠者のようになってしまった。自分は都会には住めない、ただ地方都市には何とか住める。人間も自然の一部だから自然と一体化するようにできている、自然とアイディンティティ化するようにできている。都会の高層ビルとかとアイディンティティ化することが自己同一化などできないのだ。故郷では自分はそういう作業を詩を通じてしてきた。ただ故郷だけではものたりない,この辺では高い山がないことが致命的なのだ。だから高い山とアイディンティティ化するときは旅して見た山を思い出して詩にするほかない、一方で山国に暮らす人は海がないから海を常に意識できない、自然は多様だからあらゆる自然がある所はない、だから旅する必要がある。


倒木があり蕗の薹が芽生えた。この一シ-ンがまた自然なのである。一方で倒木となり森に還る命がある。この倒木が死んでいない、まだ生きているのだ。それは寝たきりの自分が介護しているような老人にも見える。一方で蕗の薹が芽生えた。新しい命が芽生えてくる。これも自然なのである。死んでゆき森に還る命がありまた芽生える命がある。その繰り返しが命であった。そういうものを感じるのは田舎である。都会ではそうした自然がないから感じないのである。死ぬ場所がどこかというと回りが高層ビルに囲まれた団地のような場所になり墓も自然の中にはなく小さな狭い場所におしこまれる。死んでからも死人も窮屈なのが都会である。都会の密集した大きなビルの住居は蟻の巣みたいで嫌なのである。田舎は多くは広い庭と家に住んでいた。だから仮設は窮屈さを感じているだろう。


原町区を回ったらイオンの前の団地は一杯に入っている。家々を見ても空家はなかった。一時避難していたときは空家が所々街中にあった。今はないから寂れたというのではない、まだ人口が流出していると言われるが外見はそれか感じられない、ただどこも人手不足だから若い人が流出していることは確かなのだ。郵便箱にロ-ソンで募集していた。人が集らないのだ。でも原町区5万の人口があり一万へっても4万だからその数は多い。原町区では別に農業はしていないから放射能とは関係なく会社があれば仕事がある。ただそれぞれの事情がどうなっているかはわかりにくいのだ。


ともかくこの辺で故郷を失うということは考えられなかった。それで故郷は何なのだろうとまで考えるようになった。この辺はそういうことはない、だから春の日を一杯に故郷の山が浴びて平和だなと思う。でもあの山の向こうは飯館村でありあそこは人が住んでいないのだ。だから平和ともいいきれない、浪江の方も住めないからそこも故郷の一部だから失われた。浪江には帰るまで十年かかるとか言われるからもう若い人は帰らないとどうなるのか?飯館村はまだ自由に誰でも出入りできるからいいのだ。だから春になったらからまた自転車で行ってみようとなる。でも浪江の高瀬川渓谷は景勝の地でも行けないのでがっかりしたのである。高瀬川渓谷はこの辺では一番景勝の地だったのである。ただ飯館村でも誰でも入れるのだ飼い犬が野犬化して異様に吠えていて恐かった。そういうのが出てきて襲われると恐いなとなる。立入禁止の軽快区域ては野良牛がいるからまた危険である。

浪江とか葛尾村(かつろう)は自転車で行くと遠いのでそんなに行っていない、つまり自分にとってはまだまだ未知の領域でありそこの自然とアイディティティ化されていなかったのである。自然とアイディティティ化することは時間がかかる。石の時間がありそれと一体化することはまた同じように石のような時間をもたなとできないのである。だから新しい場所に移るとなかなかその場と一体化できない、特に老人はもう時間がかかるからできない、そこで貯えられたものを生きるのが老人だからである。

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この石は高瀬川の近くである。この石には名前がない、まだつけられていない、ということはまだ人間化されていない、アイディンティティ化されていないのだ。これは一回しか見ていないからだ
この石はそれなり変わっていて老人の皺が深く刻まれたようにも見える。だから「皺石」とかなるか?まだ一回しか見ていないしもう見れないかもしれないとなると名づけようもないのだ。こうしてまだ人間化しなアイディンティティ化しない未発見の自然があった。

浪江と葛尾(かつろう)は遠いから一回くらいしか見ていないのがあるしまた見ていないものも結構あったのだ。それが立入禁止になったから入れないのが悔しいのである。
風光明媚な自然があるから田舎がいいのだがそこに入れない理不尽なのである。

初雲雀-初音を聞いた


初雲雀-初音を聞いた

初雲雀原町の野の広しかな
我が町は小家の多し初音かな
春の水土を潤し流るかな


初雲雀とか初音がどこで聞くか問題になる。毎年違っているからだ。初蝶を見たのは今年は庭だった。庭で初蝶を見たことがなかった。たいがい外である。初音を聞いたのは住宅地だった。こういうところでもあまり聞いていなかった。この辺では街に住んでいても鶯の声はどこからか聞こえてくるしこれからも雲雀の声も聞こえてくる。今までは白鳥の鳴く声も聞こえた。そういう自然が身近である。やはり自然の中で暮らすことは気持ちいいのである。飯館村だったらまた街に住むよりもっと自然が身近だった。それが福島市とかに住んでいる赤生木の(あこうぎ)の人からメ-ルあったがマンションとか団地とかに住むと違和感がかなりあるだろう。それで鬱的になったという人もいた。

要するに人間は何でもなれる動物だというときなれないところに住むとステレスがひどくなるのだ。特に老人はそうなる。若い人でもそうなったのだから余計にそうである。若い人は順応性が強い。
海外旅行でも語学なんか関係ないのである。感がいいのと順応性があるからできるのだ。
語学など中学生の英語で十分である。


うぐひすのあちこちとするや小家がち 蕪村


この句はこの辺にあっている。仮設が増えたからである。江戸時代は大きな家は少ない、田舎でも庄屋のような家は大きいが他は小作人とかであり掘っ建て小屋と変わりないようなものに住んでいた。江戸であれあとは長屋住まいなのである。大きな立派な家に住んでいた人は少ない、ただ戦後は養蚕をしているから家がその作りになっているから山の方でも大きい家が多い。やはり町の方が小家が多かった。ともかくビルなどないから低い小家が多かったことは確かだろう。


原町は何か広い感覚になる。相馬市はそういう感じはない、それぞれに狭い領域でも個性があった。浪江は地形的にも魅力があった。海には請戸があり高瀬川があったからだ。大きな川が二つもあったの魅力である。二万人も住んでいたのだからそれなりに広かった。だから病院であった農家の人は15町の田畑を作り平に今のいわき市に作った野菜などを売って財を成した。でも重病となり手をあげるのがやっとでありあとは何もできない、しゃべることもできない、意思疎通は妻がくると手をにぎるために手をあげるためだった。妻はその頼もしい夫にすがるだけだった。よほど頼りにしていたことがわかる。今は一体どうしたのかあの重病で介護度5でどうなったのか、介護度5で自宅で介護していたのだ。それだけ思い入れが大きかった。介護というのはそもそもそうして個人的事情が家族ごとに反映しているのだ。

田んぼだったところにきれいな水が流れて潤ししていた。でも田は作らないから淋しいとなる。

放射能不思議は水をみてもきれいで変わりないから汚れた感じないことである。樹にしても枯れるわけでもない、でも特殊な写真でセシウムがはっきりと黒く映し出されていた。やはりあれだけ放射能が見えると恐いとなる。でもずいぶん放射線量は減ったみたいだ。この調子でゆくと5年後またさらに相当にへるのか?水で流れたというのはやはり本当だった。それから3月11日は東風が吹かなかった。寒かったからだ。だから飯館村とか本当に風により不運だったとなる。雨もふったのも不運だった。海岸沿いは風で海に流されたから低かったのである。


今日はやはり記録として初雲雀とか初音を聞いたのでプログに書いた。
出かけやすくなったので今度は飯館の方に行ってみよう。

2013年03月13日

桜は遠く梅は近くに(桜の季節がまたやってきた)


桜は遠く梅は近くに(桜の季節がまたやってきた)


桜は遠く梅は近くに香るかな

虫一つあれて飛びかな春の夕

近くの梅が咲いて香る。でも今年はやはり梅が咲くのが遅かった。まだ咲いたのわずかでありまだ咲いていないのがほとんどである。今年はそれだけ寒かった。梅は身近で香りを楽しむ。一方桜は桜前線のように九州ですでに桜が咲いたように北上してくる、桜前線になる。この桜前線は稚内までつづいていて6月まで桜は咲いていたのである。自転車で稚内まで行ったから知ったのである。一か月くらい旅行したからふらふらした。今やあのような旅はできない、そうした無理する旅は意外と短い、60過ぎても過酷な登山とか旅をする人が増えてきて遭難などにあっている。やはり無理になってくる。だから青春時代とかその世代世代でやれることをやらないとあとはもうやれなくなる。退職してから自由になるからやろうとしてもやれない、今度は暇があっても体力がないとかいろいろ支障がでてくるのだ。再三言っているけど老後は庭作りなどが一番向いている。でもこれは相当な贅沢でありみんなができないのである。
桜で自分が推奨するのは大坂城の桜であった。西の栄を象徴するのが大坂城の桜だった。夕陽が落ちて桜がまさに静心なく散りやまない、万だの桜であった。姫路城とかの桜も見事だった。西の桜は歴史的に栄えたからそれと呼応している。大きな城が多いのが西である。ただではこれだけ旅してもやはり桜は一時期にしか咲かないから見れないのが多いのである。弘前城の桜も見ていないし見れない桜がいくらでもある。桜が咲くのが一二週間だから見れないのだ。その時期に旅することはいくら旅しても見切れないのである。実際に桜の名所は無数にあり近くであっても時期が限られているから見れないのである。ただ桜は遠くに行って見たいというのがある。梅は近くで香りを楽しむのがいいが桜は遠くで見たいとなる。自分は桜前線のとき南に行ってそれからまた北に還って桜をみる、南の西の桜が散っても今度はみちのくの方で咲きはじめる。その時期がずれていることとその期間が実は稚内で6月まで咲くように長いのである。

最近仙台から格安で大坂まで4千円で行ける航空券が出るという、ええ、そんなに安いのかと驚く、往復二万くらいはかかる。4千円だったら安すぎる。ただそんなにみんな利用できるものなのか?
自分はわざわざ普通列車で青春18切符とかで行った。飛行機の旅はつまらないからである。でも今になるとできないから飛行機だったら大坂まで桜を見に行きたいと思った。しかしそれすらできないのである。弘前城の桜は日帰りでできるかもしれない、新幹線だと3時間くらいだからだ、往復でもそれほどかからない、でもこうなると旅という感じがない、不思議なのは今の時代、本当に旅することはかえってできないという皮肉があるのだ。旅することはかえって不便であると旅になるけどすると時間もかかるしかえって労力もかかる。それだけの時間をもつのは会社勤めではできない、今旅することは自ら演出しなければならないから相当な労力がかかる。ただそれほど金はかからない、時間がかかるのである。

結局人生は最後何に時間を費やしたかがその人の人生だったとなる。それが遊びでも雑学でも何でもそうである。あなたの人生は何でしたか?何に時間を費やしましたか?それを聞けばその人の人生がわかる。時間ほど貴重なものはない、だから無益なことに貴重な時間をとられることほど馬鹿げたことはない、虚しいことはない、時間はわずがの金で売るべきではない、会社とかにも時間を売るべきではないのだ。そして時間は絶対にとりもどせないのだ。あの時こうしていたらなと思っても絶対にもうその時間は帰ってこないのである。そういうショックが最後にやってくるのである。青春時代をとりもどそうとしても絶対にできない、それはすでに過ぎ去った遠い過去となり女性だったらどんなに若作りしても若さは絶対にとりもどせない、男性も同じである。
だから若い男女をみるとなんと輝いていることだろうとつくづく思う。それはみなん若いときもっていたものだが今は喪失してしまったものだったのである。花の命はあまりにも短いということである。

老いてなお遠くの桜見に行かむその華やかなる一時に酔わむ

桜前線の短歌
http://www.musubu.jp/sakuranewpage2.htm

ここもリニュ-アルする必要があった。御前桜のことなどはまた書いた。常に更新してゆけるのがインタ-ネットの強みであるからだ。

2013年03月14日

初燕を見た!


初燕を見た!


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旅路来て赤絵の町や初つばめ


風そよぎ竹のゆれにつ初燕

タンポポやコンビニの外にコ-ヒ-飲む

田舎住みしつこく残る冬芒

竹林が風にそよぎゆれて初燕を見た。これは一瞬であった。初雲雀-初音-初燕・・・ともう完全に春だ。初燕は見たのが早い気がする。ただこうして最初にみる燕はととまらず遠くへ去ってゆく。
ここにとどまる燕はまたあとである。やはり最初の燕は一番感動する。これは春を告げる鳥であり遠くから飛んでくるからだ。


初燕というときこれもどこで出会うかが問題である。旅して九州の有田焼の赤絵町で初燕を見た。
九州というと遠いから旅して出会った感激は大きかった。これもよほど旅していないと出会いない、現代は皮肉なことに便利になりすぎて感動的な旅を体験できないのである。
旅はやはり感動的なものであるが何か現代は車の騒音や雑音やらに打ち消されてしまう。
「静けさや岩にしみいる蝉の声」などという静けさは現代にないからこんな句ができえようがないのだ。旅は道連れとかもない、そういう道行が行程がないのである。それにはゆったりとした時間が必要なのである。それが江戸時代などにはあった。江戸時代は牛のような時間だったのだろう。
時間はゆっくりと進んでいる。急がせるものもなかったのである。ただ歩くから早立ちにはなる。
それなりに急いでいたということもある。いづれにしろ時間の感覚は全然違ったものだった。


九州は二回くらいしか行ってないからまだまだ未知の領域だった。ここから九州は北海道より遠いのである。北海道は意外と近く感じられるのだ。だから梅雨の時期には仙台からフェリ-で苫小牧から北海道に十回くらい行った。どうしても梅雨の時期から逃れたいからそうなった。
今は外国に行っている人が実に多い。ヒマラヤのトレッキングでは一人で十回登ったという人がいた。その人はガイドもなしに登っていた。相当になれている。ヒマラヤは見物である。三千メ-トルまで上ると天に達するような高さを感じる8000メ-トル級の山を望むことになる。それも夢のように思えた。ただ春だったので山が隠れて見えなかったのが残念だった。ヒマラヤは10月ころだと見える。春になると雨になったり曇って見えなくなるのだ。この辺では高い山がないので山に憧れる。

日本にないものが外国にある。パリに八回行ったとかそんな人は今はざらにいる。それほど金がかからなくなったからである。だから贅沢とも言えないのである。一般の庶民が行っている時代なのである。日本より外国に詳しい人が普通にいるのが現代なのである。
スイスでも山を一番身近に感じた。アルプスとは違い山が大きく感じられた。ここも一回くらい行ってもなかなか自然はとらえがたい、外国旅行は歴史的なものの感動と自然の感動がある。ただこれも相当に時間をかけないと深く感動はできないのだ。
自分は手術して行動が自由になったからまだ旅もできる、無理すれば登山もできるみたいだ。ただ介護でできないのである。

ともかく旅で感動するには深く記憶するような旅でないとあとあと思い出すこともできない、外国は特にそうだった。変わっているから忘れやすいのである。
ここ6年間は苦しみの連続だった。今年の春は楽な感じがする。自分の場合は津浪原発事故の影響はそれぼどなかった。仮設に住むようなこともなかった。津浪で家族が死んだわけでもない、ただ介護とか自分の病気で苦しんだのである。助けるものがいないから大変なことになった。その弱さにただつけこまれて苦しめられた。人間の非情を思い知らされたのである。田舎だからは昔の人情的なものを未だに思っている人がいるがそういうのはもうない、都会と同じなのである。都会と同じだというとき地域社会がすでに崩壊して田舎でも会社人間になっている。だからなぜ復興しないかというと地域自体がすでに崩壊していて東電とかの会社に田舎自体がとりこまれていた。だからその会社の一員になっているような状態では地域の復興はない、結局以前として原発事故の近い地域は東電に頼っているのである。そういう構造になってしまっていたのである。
今はただ近くを買い物などで行ったり来たりしているだけである。買い物は結構毎日あるものだと思う。結構金も使っている。やっぱり金はかかる。金があればやはり今の時代はこんな状態になっても暮らしていけるのである。


枯れた芒が消えずに残っている、これも何か高齢化社会を象徴している。枯れた芒は延々消えない、田舎だと何かそういうしつこさがある。

またパッグ忘れた。コンビニの外で新聞読んでいた忘れた。でも誰かがコンビニにもってきてくれた。
すでに十回くらい忘れているけど帰ってこないことはなかった。ただ一回だけ警察に届けられて5千円謝礼払った。
田舎はどこに忘れたかわかる。仙台でも忘れたとき警察に届いていた。
日本ではそういうことでは他の国と違っている。

ただ犯罪は別なところはやってくる。大きな犯罪は意外な所からやってくる。直接人と接することからやってくる。
これは都会でも田舎でも同じである。こんな人いたのかとびっくりしたし恐怖したからだ。 

津浪がもたらした良いもの (海がきれいになった?人間界の悪を暴いた)


津浪がもたらした良いもの

(海がきれいになった?人間界の悪を暴いた)


津波のおかげ、と言ったらいいのでしょうか。
湾内の海底がきれいになりました。

津波は、人間が生産し、排出したヘドロを、陸上へと返して寄越したんですね。
まるで、天罰のよう。


その後、重茂地区を襲った津波の写真を再び見ました。
外洋の津波の色は、青いのです。
だから、黒い津波は、人間の色。
人間は、たぶん腹黒い。


そして、今、岸壁に付着している海藻類やシュウリ貝を成長を目にし、たくさんの稚魚を見ると、海がきれいになったような気がする。

津波は、海を再生させたんだ、きっと。


津波の記憶 11
http://platinum-room.seesaa.net/category/11960509-1.html


津浪はあまりにも陰惨な悲惨な光景しか写しださなかった。それで自分が津浪で美しい八沢浦がもどったという記事を書いたとき「お前はここで死んだ人のことを考えないのか」と意見があった。実際に死んだ人はいた。一家で三人くらい死んだ人もいる。でも一方で本当に八沢浦開拓する前の元の入江にもどった。そのことに自分は正直驚嘆した。八沢浦は村が壊滅するようなことはなかった。家も入江になった中には一二軒しかなかった。海岸に接してあったが数軒だった。自分はいつもあそこが入江だったらどんなに美しいだろうとイメ-ジしていた。それが一時現実にそうなったからそっちの方に関心が向いてしまった。奥まで水が入り込んでキラキラと朝日に光り浦波が岸辺によせてきたときは本当に奇跡のように感じた。これは偽らない感情である。あとで確かに泥の中を自衛隊が死体を探していた。その残酷さ無惨さも事実であり一時津浪によって美が現れたことも事実なのである。


プログなどで報道を素人がするようになったとき、報道とは何だろうと思った。それは事実を報道することなのだ。いろいろ解説する前に事実を報道することなのである。ところが事実が報道されないのだ。テレビでも新聞でも事実が報道されない、必ず隠蔽されるものがある隠されるものがある。
津浪のプラスの面は報道されていない、津浪によって暴かれた悪が確かにあったのだ。それは前にも書いた。それは戦争中と同じ悪だった。すべてが原発の利権に群がり原発を推進してきたのである。そこでは原発で不祥事が小さな事故があっても報道されなかった。報道管制がしかれていたのである。報道はいろいろと解釈するのではなくまず事実の報道がベ-スになるべきなのである。その事実が報道されないのである。だからまずニュ-スにテレビ局やマスコミで色をつけないで事実そのものを報道すればいいといわれる。その事実が報道されないことが大きな過ちにつながる。ある意味で事実を報道することは命懸けになるのである。


この世の中は複雑であり悪と善が入り交じり何が悪か善かも見えない世界である。まさに津浪のように醜悪なものと美が混在していたのも事実なのである。圧倒的に醜悪な陰惨なものであったがその中に津浪のプラスの面もあったのである。これも事実だったのである。だから津浪には海を浄化する作用があったということである。それは原発事故の悪を暴いたと同じではないか?おそらく津浪がなかったらこんな巨大な悪は暴かれることはなかったのである。検察までかかわり巧妙に絶対的権力で隠蔽されていたからである。だから朝日新聞さえ東電からかなりの宣伝費をもらっていたのである。これは戦争中と同じだったのである。日本が原発で大政翼賛会になっていたのである。創価などのカルト宗教団体もそうだしあらゆるものがそうだったのである。金が入れば利権になればと原発を推進してきたのである。それは地元の人でもそうである。国民も戦争に熱狂的だったとか言われるのと同じである。こうなると事実であっても隠蔽されるから本当のことはもう闇の中になり突然今回のような事故で明るみに出される。それは人間の力ではない、自然の力というか神の力さえ感じた。

津浪は海上では青かった。ところが陸地に入ってくると黒くなっていたのである。まさに人間の住む陸地に向かったときどす黒くなった。これも意外だった。津浪は海上から黒いと思っていたからだ。まさに腹黒いという表現がひったりである。人間界は腹黒いやつで一杯なのである。


外洋の津波の色は、青いのです。
だから、黒い津波は、人間の色。
人間は、たぶん腹黒い。


津浪とはだから自然の浄化作用という側面もあった。今回の津浪が想定外というときこれも人間の奢りを打ち砕いたのである。このプログの記事は漁師だから海を津浪を良く冷静に観察していたのである。一般には津浪を冷静に観察できない、津浪に対する憤りに満ちていたからだ。
津浪は大きな人間の想定を越えた自然の作用であった。そして神からの警告でもあった。原発のようなものを日本のような地震国には作るなという警告であった。でもまたこの警告は忘れられようとしている。

posted by 老鶯 at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2013年03月15日

春寒し(相馬市への街道-忘れられた養蚕農家の家)


春寒し(相馬市への街道-忘れられた養蚕農家の家)


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二階が養蚕の部屋だった
二階を広くするために平な屋根になった
でもこれは中がどうなっているのかわかりにくい
町中にも農家が結構あったから養蚕していたことは
間違いないだろう

春寒し街道沿いの馬頭の碑
春の星満ちしも閉ざす遠き道
街道の細道あわれ春寒し養蚕の家二軒残りぬ
春の星きらめきふえぬ仰ぎつつまた新しき未来を望みぬ


日立木からイオンの相馬市へ出る細い道の家を見たら養蚕をした家だった。二階がそうなっていた。これと同じ作りの家が二軒あった。それが今まで気づかなかったのである。普通の家だと思っていたのである。数限りなく通っていても気づかなかったという不思議である。かえって阿武隈山地ではこういう作りの家が目立つから印象に残っていた。ここはいつも通っているのに気づかなかったのである。人間はつくづくこういうことがある。灯台下暗しなのである。馬頭観世音の碑がどこにでもあるから気づきやすい、意外と碑には注目していたから見ていた。街中だと普通の家だと思っていたのである。そしてあそこの道は本当に狭いのである。まさに奥の細道なのである。あういう道が江戸時代の道だったのである。曲がりくねって細いのである。六号線ばかり行っていると昔はほとんどわからない。馬頭観世音と言えば馬が運送の主役だった。そういう昔は街道が残っていればそこを何度も通っていると偲ばれる。その道は確かに江戸時代から変わらないものだからである。


養蚕は日本の主力産業でありアメリカへの輸出産業だったから今の車と同じだった。ただ養蚕はやはり農業であり桑の葉が大量に必要だった。だからどこでも田舎では桑の葉があった。桑の葉もあったし麦畑も必ずあり子供のときは麦御飯だった。養蚕は江戸時代からつづいていたのである。養蚕自体忘れられてしまったけど今の80代の人は養蚕関係にたずさわっている。工場も紡績工場であり原紡などは有名だった。これは日本全国で女性の働きの場であり現金収入の場だったのである。機織りはそれまで個々人の家でもしていた。でも大規模な工場化したのは大正時代辺りからである。機械が導入されてそうなった。結局この機織り工場で絹織物をアメリカに輸出して外貨をかせぎそれで富国強兵となり軍備に力を蓄え戦争になったという批判もある。ともかく街道の細道を通り養蚕の家を二軒見ると確かに昔が偲ばれるのである。そうでないと昔にそういう生活が暗たということ自体偲ばれなくなる。すると現代だけの社会となり


夜は春の星が満ちていた。ただイワキの方への道は閉ざされている。それは閉塞感を生むのである。ともかく介護で一日も自由にならないのも又運命だったのか?その分これまで自由だった分の復讐を受けているのかもしれない、実際に人間はそういうことがある。あまりに楽した人間は必ず苦難を受ける。苦は楽の元であり楽は苦の元にもなる。人間一生楽なことなどありえなかったのである。

今日は多少寒いから春寒しだったのだろう。気候の変動が激しいのが今年だった。
 


 

2013年03月16日

名所観光がつまらないのはなぜ(3) (福島県の奥の細道はどこに)


名所観光がつまらないのはなぜ(3)

(福島県の奥の細道はどこに)



名所観光がつまらないのはなぜ(1)
http://musubu2.sblo.jp/article/46974438.html


名所観光がつまらないのはなぜ(2)
http://musubu2.sblo.jp/article/46982436.html

名所観光がなぜつまらないのか、今はあまりにも簡単に名所に行けるということもある。新幹線で二時間で平泉についたよ、これが金色堂かやっぱりこんなものか、ここはこれくらいしか見るものはないな、次は何を見るんだ、もう終わりか、また新幹線で遠くへ行こうとなる。
これでは芭蕉の感じた「奥の細道」は全く感じられなくなったのだ。自分も前に書いたけど平泉で印象に残ったのが金色堂ではなくその裏方の普通の農家だった。それがいかにも農家らしい農家であり古い碑があり納屋がありとかで深々と雪に埋もれていたのである。そこにもののあわれ北国の情緒を感じた。観光地化した平泉には感じなかった皮肉があるのだ。


深々と雪に埋もれし農家かな金色堂の華やかさもなし


金色堂の華やかさもなくてもその土地に根を降ろした農家は平泉が栄えた時代からあったのだ。それは今も変わらずあったのである。必ず農家には風情がある。それも本当に農家らしい農家だったそうなる。そこに日常の暮らしがあり冬は雪に埋もれてひっそりとしている。今の農家は一面農家らしい農家が少なくなっている。農業だけで暮らしている農家が少ないと風情もなくなる。その風情は観光者のために作られたのではない、自然とまさに自然の暮らしのなかで自ずと生まれてきたものである。そこは観光地用に作られたのではない、そこが現代はあまりにもあらゆるものが観光地化してもののあわれを失ったのである。そして観光というときみんな急いでいる。だからともかくいいとこどりして早く見て早く帰ってゆく、それで旅が印象に残らないものとなった。旅には時間が必要であり現代はただ車で突っ走り通り過ぎてゆくだけなのである。歩いて通りすぎるなら体で記憶に刻まれることがあるが車だとそこで風も感じないし記憶に残らないのである。ただ遠くへ遠くへ通りすぎてゆく旅になってしまう。

福島県も相当に見どころある場所である。ところがこれも会津の白虎隊とか名所とかばかりに気をとられているのだ。別に名所でなくても見る所がいくらでもある。奥の細道というとき相馬藩などは注目されていないけどプログで何度も書いたように六号線ではなく日立木から入り松並木を通り城跡のある相馬市に入る道が歴史の道であり情緒ある道だった。そこは細く曲がりくねっていていかにも奥の細道の感じがでているのだ。あのような細い曲がりくねった道でありそこは歩いて旅する道だった。白河の関に出る道が森があり木暗い道であり境の明神がありいかに奥の細道に入る道としてふさわしいがあとは頻繁に車の通る道になるからその面影は全く感じられなくなるのだ。時々東京辺りから六号線を歩いてくる旅人がいた。でもその人も昔の街道を歩いていない、六号線はわかりやすいから歩くにしてもそうする。ただ歴史に興味ある人が街道の昔の跡を訪ねて歩いてインタ-ネットに出していた。その人は地元の人より詳しく見ていたのである。

昨日見たその日立木からの細いくねり曲がった道の脇に養蚕をした農家が二軒あった。それも気づいていなかった。六号線ができたのはすでに40年前とかなるにしてもその前は六号線がなかったからこの街道の細い道が唯一の道だったのである。相馬市まで鹿島から梨をリヤカ-で運んだという女性がいたがそれは六号線ではない、旧街道である。今になるとすべてが六号線で運ばれたような錯覚に陥るのだ。車がこんなに普及してわからなくなったのである。車時代になると車があるのが当たり前になるからわからなくなる。それまでの運搬は馬だったから馬頭観世音の碑が多いのである。


桑畑、麦畑、養蚕農家の景観は後進国では今でもそうである。ネパ-ル辺りでは麦畑と水田が半々にある。昔の景観が残っていることが後進国では面白いのである。過去にタイムスリップした感じになるからだ。養蚕農家を見るとそこに重厚な暮らしがあったと思う。三階建ての白川郷の合掌作りも養蚕するためにあのような作りになった。今は何か農家の重みがない、会津辺りにある曲がり屋でも生活の重みが感じられた。そこに生活がなくなるときやはりもののあわれは感じない、水田とか畑があるということが風景としても必要なのである。外国からTPPで輸入して米すら作れなくなったらどうなるのか、この辺の原発事故の放射能で荒廃化した大地のようになってしまうだろう。何だかわからないけどTPPはアメリカの策略であり地震は人工地震でありTPPを日本におしつけるためだったと言うひともいる。確かにもう放射能で農業も漁業も林業もできなくなったというとき何で食べてゆくのだとなる。自動車工場とか何か日本の農業は壊滅してしまうかもしれない、農業は日本の大地の景観を維持するためにも必要だった。それがなくなることは日本の精神自体にモラルにも影響してくる。
そういう観点から論じられない、ただ経済的効率のかみしか論じられないのである。そこに原発事故が起きたように大きな落とし穴があるのだ。


福島県の観光でどこがいいのかとなると推奨するのは松林があり静かな船津浜辺りがいいのではないか?真正面に秀麗な磐梯山が見える。松林があるのもいい、あまり観光地化されていない、志田浜は観光地化しているからいいとはいえない。そこから福良にゆく白河街道はやはり忘れられた奥の細道であった。そこを自転車で旅したから記憶に残っている。福良はその時まだ茅葺きの家が通りに何軒かあった。今はないだろう。何か寂れていたのだ。そこの蔵の宿にたまたま泊まった。それも情緒があった。その裏の路地に紫菖蒲が咲いていた。そこで思い出して一句作った。

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蔵の宿紫菖蒲に福良かな


福良から会津に出る道が情緒がある。でもあそこはあまり行かない、六月でしとしとと雨がふって田植えしていた情景も情緒があった。あそこはあまり車も通らない、今はこうして名所観光地を目指して一直線に行き一直線に帰る。そして名所はつまらなかったとあとでみんな言う。会津は白虎隊だけではないのだ。また八重の大河ドラマのように作られたものが今では観光になる。ドラマと歴史的事実は違っている。何かドラマが歴史的事実のように錯覚しているのだ。名所が架空のドラマによって作られているのだ。映画の舞台が名所になっていることでもわかる。そういうところに旅の感動はないのである。

白河街道の詳しい写真
http://www42.tok2.com/home/kaidoweb/sira/05.htm


こういうふうに詳しく見れないのだ。これを見れば白河街道の情緒が再現される。自分が旅してもやはり通り過ぎてみていない、自転車も通り過ぎるのが多いのだ。写真から一枚失敬した。

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夏草に埋もれむ道や雨しとと