2013年02月18日

病院で聞いた新地町の歴史の話 (琵琶転がしという地名があった)


病院で聞いた新地町の歴史の話

(琵琶転がしという地名があった)

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新地町はもともと谷地小屋村と呼ばれていた。谷地小屋となるとなんかわびしい谷地の中にある一軒家のように思えるが実際は違っていた。


ここに一つの山城がありそれがもし本城だとすればその周辺に副城、支城、外城、添城、砦というふうにいくらでもあったのだと思います

小屋沢とか何々小屋は秀吉でも名古屋城を築いたとき「小屋の者とも」という手紙の文句がありますこれは本城のことです
小さい砦も小屋、監視していた所も小屋なのです(地名の話し-谷川建一(一志樹)


谷地は湿地帯であり海に面した所は今回津波で元の湿地帯のようになった。ただ小屋というとき小屋ではなく城だったのである。新地町の特徴は新地は駒ヶ峰辺りまで一時伊達領でありそれで伊達の城があった。それで伊達の子孫の武家がいて相馬市との合併に反対していた。その家は駅の近くにあり今回の津波で流された。相馬総合病院という名は新地も出資した病院となっている。その病院でちょっとだけ話を聞いたのだが興味深いものがあった。その人の土地に城の跡がありそれで城について調べたという。虎口とかいろいろ知っていた。郷土史は相馬藩全体ではなく村単位で結構その土地に詳しい人がいる。別に専門家の学者でもなくてもいる。その土地に根ざしているから詳しいのである。だからそういう人に直接その土地を踏んで話を聞くと郷土史は面白いし興味深い者となる。
柳田国男はそうして庶民の口碑を重んじて民俗学の祖となった。つまりその土地に根ざして生きる庶民の話しを直接聞くことによって啓発されるものが多いのである。学者のように本ばかり読んでもわからないのである。


その人はまた黒木氏というのにこだわっていた。黒木氏は丸森に近く伊達についたり相馬についたりしていた。伊達と相馬の境を領地としていたからそうなった。黒木氏にこだわるのはやはりそういう土地に住んでいたかちそうなった。黒木というのはもともと黒木という地名がありそこに土着した武士が黒木氏と名乗った。それからその人はしきりに五社壇のことを言っていた。それは何を祀ったものかわからないという。ただその人は夢枕に私たちを忘れてはいけない、手厚く葬れと告げられたその墓らしきものを祀る幼稚手たという。これは五つつの神様を合祀したものだろう。墓も無縁化したり古い碑でも謂われがわからなくなるのが結構ある。津神社の謂われがわからなくなっていたように重要なことでも時間がたつと不明になる。神社には結構そういうものがなぜか多いのだ。津波と言えば強烈な記憶があるはずだがわからなくなっていた。神社でも由来がわからなくななれば意味もなくなってしまうかもしれない、何を記念して何を供養するのかもわからないからだ。だから烏崎の津神社は鯨を供養するものとなっていた。鯨の碑があり鯨の祭りをしていたのである。そしたら全く津神社の由来と違ったものとして祭りがあったとなる。


もう一つ面白い話しとして琵琶転がしという地名があるという。これは地図にものっていない、そんな地名があるのかと不思議に思った。転(ころ)がしには牛転がが一番多い、長野県の信州の塩の道は深い山中にあり急峻な坂がありそれも細い道だから牛が下るにしてもこれは危険だと思った。江戸時代ころの道はみんな細いのである。奥の細道なのだ。だだ琵琶転がしというとこれがいつの時代のものになるのか?鎌倉時代にすると古いからだ。この辺にそんな古い時代のものがあったのかと思う。

(転がしの地名)
http://blogs.yahoo.co.jp/kmr_tds/61430826.html


 宮城県遠田郡  涌谷町涌谷   琵琶転(びわころがし)


宮城県にもあるからその辺までも東北では琵琶法師が旅したのか?ただ江戸時代には琵琶法師はいなくなっていた。だからその地名がついたのは江戸時代より古いのである。


平家物語は、平家を打倒するということで、源氏が天下を支配することの正当性を説明付ける物語という一面をもっています。そのため、鎌倉幕府や、その後継者をもって任ずる室町幕府では、幕府の儀礼に欠かせない式楽として保護されましたが、その反面、民衆の嗜好からは縁遠いものとなっていきました
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1351014088


琵琶法師が奨励されたのはその時代の権力者の意向があったということもあったのか?平家物語が作られたのも勝利した源氏の正当性を伝えるものとして作られた歴史書ということもあった。ただ義経の物語は民衆の判官贔屓から生まれたから時の権力に庶民がみんな従うとはかぎらない、反発した物語も伝えられている。

琵琶転がしでまた注目するのが琵琶法師は眼が見えないのだから当然そんな山中の細い険しい道を行くなら転げ落ちても当然だとなる。第一眼が見えなくてそんな山中の道を良く歩くことができたとことが不思議である。ただ当時は眼が見えない人は非常に多かったのだ。明治に来た外国人が日本には盲人が多いと報告している。栄養がたりなくて盲人になっていた。盲人でも食べていかなければならないからそれにふさわしい職業として琵琶法師とか瞽女とかが生まれた。中世では土地をもって定着できないものは流浪者になった。


賤民を広くイメ-ジすれば細工師や大工、壁塗り、絵師、漁師や猟師、座頭、山伏、鉦叩き、説教師、猿回し、街娼・・(中世の貧民-塩見鮮一郎)


これらは賤民だったのか?ただ昔から移動する人々はかなりいた。相馬の方へ萱葺きに来た会津の職人がいたし大工もいて相馬に定着した。その記録が残っている。絵師では相馬の駒焼を跳ねる駒を教えたのは土地のものではない流れてきた絵師だった。木地師などもそうであり農耕手定着していた以外の人々はいつもかなりいたのである。それは現代でも同じである。渡り職人などは最近まであった。腕を磨くために遠くの師を求めるし仕事も遠くにあれば行くのである。大工でも仕事があれば遠く行くし土木関係でもそうである。絶えず移動して仕事を求めている人は多いのである。現代はグロ-バルに人は移動している時代である。人間の仕事は定着してできるというのがいつの時代でも多くあったとはならない、木地師だって資源を求めて移動していたし資源を求めて移動していた人はかなりいたのである。

奇妙だけど最近ノスリをこの辺でみかける。ここに定着しているのかと思った。
ノスリの餌はノネズミなどでありそれが放射能汚染で耕作されない田んぼに増えたのか?何らかかえって餌がふえたせいでノスリが定着したのか?鳥は別に渡り鳥があり餌があるところへ自由に移動できるのだ。餌があれば定着するがなくなれば移動するのである。人間もまた同じものとしてあった。仕事があれば定着するがなくなればまた移動する他ないのである。


ともかく郷土史というのはその土地の人に別に学問などなくても聞かない限り具体的にわからない、これも南相馬市立病院で大原の人と知り合ったとき大原について詳しく話しを聞いたからわかった。病院という場は暇だからそういう話しをするのに聞くにのに向いていたのである。なかなかそういう話しを聞く場がない、老人ホ-ムなどに勤めればそういう話しをじかに聞けることは確かである。

posted by 老鶯 at 14:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)