2013年02月14日

原発難民は復興の気力も補償金で喪失している (三陸では補償金がもらえないので真剣に復興の努力をしている)


原発難民は復興の気力も補償金で喪失している

(三陸では補償金がもらえないので真剣に復興の努力をしている)


やっぱり原発難民は変なんだろう。近くの人が新聞配達をはじめたのはやはり南相馬市内でも小高区の人で仮設に入っている人は補償金をもらっているから働かなくてもいい。でももらえない人は働かざるをえないことがある。その極端な例がパチンコ屋で遊ぶ原発避難民がいてパチンコ屋で働く回りの人がいるという異常な状態なのである。どこも人手不足になっているとき毎日パチンコ屋で遊んでいるというのは回りで働いている人から見るとあの人たちは何なのだともう最初のように原発難民に同情はなくなっている。特権階級化してしまったとなる。避難民というより原発特権者となっている。小高区は放射線量が低いのだから帰れるが自ら帰らないのだ。会社すら補償金がでるからもうやる気がしないという。それで飲み屋とかで札びらきって遊んでいるとなると避難民などどいう名で言うようなものではない、原発特権者である。金があるんだから金を使うんだからいいじゃないかともなるが金だけでは解決しない問題である。銀行とか地元の信用金庫の預金が増えた。東邦銀行では200億も増えたという。


ただその金が活かされるかというと活かされない、投資先がないからだ。何か有効な投資先がありそこから何か生産できるものがあればいい、確かにソ-ラ-発電とかは試しにはじめたがまだどれくらいの収益があるのかわからない、ともかく金があっても有効に働かないのである。金より人手がどこでも欲しい、その人手が集らない、若い人は流出してゆく、老人が金をもっていてもその金は有効に働かない、それは日本全国で起きてきたことだがここではそれは極端化して現れたのである。金で万事解決することはできない、自分も何ら金が役にたたなかった。家事は結局今一人でやるほかないしつづけるほかない、誰か雇ってくれとかそういう人はいない、いても危険だから簡単に雇えないとか金では解決しなかった。金があってもこれが欲しいとか言っても簡単にそのニ-ズにあったものが金では買えない、特に人は買えないのである。原発難民がもし補償金がもらえなかったら何とか働かせてくれ金をなんとか得ようとして必死になるがそういうこともない、原発特権者としてそんなことはしない、むしろ俺たち特権者のために働けよとなっているのだ。だから避難民などというものではない特権者なのである。生活保護とにていて回りからは疎んじられる。でも特権者だから何も回りでは言えないということがある。これも現代社会の特有の問題がここに顕著に現れたのである。


金が万能のような時代でも万能ではない、かえって金で補償されることによって働く気力も復興する気力もなくなる。生きる真剣味もなくなる。宮城県の三陸では外部の若い人も水産関係で働き土地に根付こうとしている。その時何度も俺たちと一緒にやる気なんだな、本当にやる気なんだな、なら一生お前たちのめんどうみるとか言っていた。そこでもう生き残ることは必死なのである。だから真剣に単なる一時的なボランティアの気持ちではないことを問い正したのである。そういう人たちをみているとあそこは補償金もない、街は壊滅的である。流出している人も多い、市町村の存亡の危機になっている。そういうところではもう生きることが必死であり真剣になる。そういう姿を見ていると外部の人でもひきしまってくる。何とかがんばってやってくれとか何もできなくても心の中で応援するようになる。その後どうしたのかずっと見守りたいという気持ちになる。そういう気持ちにさせるということである。


この辺ではそういうことがない、漁業業者は破格の補償金がもらえる。漁業を復興するより補償金で生活できるからいいやとなる。だから復興する気分もなくなる。外部の人もあいつら多額の補償金で遊んで暮らしているとか同情心もなくなり税金泥棒だとかなる。もともと漁業業者は原発補償金を事故の前にも他より高額なものをもらっていた。事故のあともまたもらえるのである。人間はあまりにも補償されると堕落するというのは本当であった。生きる真剣味がまるでなくなる。そういう場では生きる感動的なものも生まれない、三陸ではそこに残るための必死の戦いがあり真剣さがありそのドキュメントには感動するものがある。原発難民にはそういうことがないのである。毎日パチンコ屋通いで飲み屋で札びらを切っているのとは大違いだとなる。ただ人間はどうしても楽なものを求める。特に老人はそうである。無理をできないのである。人間はなかなかあえて苦しいことを選ばない、だからもう補償金もらったら働かないということになる。三陸では補償金がもらえないから強いられて苦しくてもそこに居残るために必死なのである。


原発難民は補償金がもらえるから復興への真剣な取り組みをしない、つまり真剣にならなければ道は開けないということもある。真剣になるからみんなで何とかしようと協力しようとする。体育館という不自由な避難所では助け合ったが仮設では補償金をもらってぬくぬくと暮らせばいいとなる。もちろん仮設も不自由だけど食うには困らないしがまんするかともなる。要するに復興への気力とか真剣味とかが多額の補償金で失われたということである。高齢者も多いからますます何か全体的に自立して復興するという気力も失われてゆく、結果として市全体が何か無気力状態になってゆくかもしれない、補償金で暮らせばいいんだ、あとはパチンコ通いでもいいしとか楽を与えられれば人間は楽な方を選ぶのである。多額の補償金がいつまでもつづくとはならないしいつか断ち切られ正念場を迎えるようになる。しかしまだそういう覚悟はないしのんべんだらりとこうした補償金づけの生活がつづくのだろう。人間の問題はすべて金では解決しない、金が有効に働かないことはいくらでもある。

原発事故地帯はそういう地帯にもなっている。今は外部から土木事業などがあり人も入ってきている。やがてそれも終わり補償金も減らされたたれたりしたらどうなるのか?その時この辺は夕張市のような存亡の危機になることが恐怖である。いづれはそうなることが見えている人には見えているだろう。そういう事態になったとき本当に市町村が夕張のように崩壊する危機になるのかもしれない、実際はそれが迫っているのがこの辺なのかもしれない、ただ今は補償金でもっているだけなのかもしれない、そんなことがいつまでもつづくとはならないからである。

posted by 老鶯 at 21:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連