2013年02月04日

故郷や家が意味するもの (故郷を喪失することは記憶が喪失すること)


故郷や家が意味するもの

(故郷を喪失することは記憶が喪失すること)


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原発事故では様々な信じられないことが起こった。故郷に住めなくなる、故郷がなくなる、喪失するということも信じられないし想像すらできなかった。そして今もみんな自問自答している。この辺は故郷は住み続けられのとか住むべきなのかとか問われている。それはやはり前のように前向きに故郷に住むという条件が失われたからである。だから現実にに若い人は新し生活の場を求めて流出した。

でも老人は簡単に離れられない、それはなぜなのか?土地をもち家があり墓があり長い間住んで場所だからそこには記憶が刻印された場所だからである。家でもやはりすでに40年間くらい住むとそこが濃密な記憶の場所となり例え家族が死んでも家には霊となり住んで離れないということを実感した。それぞれの家は違ったものであるが家には死んだ人も離れず住んでいる。これは理屈ではない、実感なのである。自分は二つの家に住んだ。一つは昔の古い家でありもう一つは築40年になる新しい家である。前の古い家はただ記憶としてしかないがその家がなくなってもその家があったときから住んでいた家族がいたから記憶がその家族を通じて継続している。自分の記憶は60年間一緒に住んだ姉と結びついている。普通の家族ではないにしろ結果的にそうなったのである。それが悪いとかいいとかを言うのではなく結果的にそういう家だったということである。


この家はやはりつくづく男勝りの父親代わりの姉の家だった。結果的にそうなっていたのである。だから姉が主の家だった。姉は二階の八畳間に寝起きしていた。そこに自分が寝るようになったときそこに確かに姉がいた。姉がいたというとき姉は子供のときから一緒の家でありそこから継続して一緒に暮らし今は死んでいない、墓に納まったが姉はやはり家にいる。父は子供のとき死んだから古い家にいたのでいる気がしない、姉は父が死んでからもさらに50年近く一緒にいたのである。そのことは他人には理解しがたいにしろそういう時間の長さがもはや消えない記憶として定着していたということである。これは別に老夫婦でも40年くらい一緒に同じ家に住んだら片方が死んでもその人は同じ家に住んでいる感覚になるだろう。家は記憶を保持する形なのである。


家は時間のかたちである


家そのものは記憶である。


家には家霊が住む


特に家は女性なのである。嫁というとき女+家であり女性は家と一体化する。家は女性の子宮のようなものであり男性はその子宮から生まれ育てられ家と一体化してゆく。ただ男はこの家と化した女性から脱出するのも宿命としてある。この家にとらわれると創造的生き方はできないというのも真実だろう。家は女性であり母性であり女性により安らぎを与える場なのである。そして記憶が保持される場所なのである。そこには愛があり愛につつまれているのだ。だから女性は特に家から離れたくない、男もそうだが家で死にたいというときそれは人間の本能的な感情であり理屈ではない、家はまた時間を継続する場所でもある。だから家族が死んでも家族はなお家と共に生きているのだ。だから家がなくなるときこの辺では家が壊されて更地になったところが結構ある。その家は喪失して記憶も失われとなる。もし住んでいれば記憶の継続があるが家がなくなりそこに住む人もどこに行ったかわからない、その家の記憶は失われたのである。ただ街中の墓地に墓が残っていた。それで墓にはその家が故郷にあったことを知った。でもそれは無縁仏のように隠されたようにあった。その家があったことを記憶している人はまれだろう。たまたま近くにあったので自分は記憶していたのである。


人間のアイディンティティは空間軸と時間軸で形成される。旅だと空間軸の記憶であり時間軸で記憶されたものを知ることがむずかしい。同じ道でも何度もそこを通り時間の中で空間も記憶されてゆく、一回くらい通っても記憶されないのである。そういう濃密な時間軸と合体して記憶された場所が故郷でありその中心に家があるのだ。だから故郷から離れ家から離れ仮設住宅に住んだりするとそうした記憶がただ頭の中だけになる。場所と結びつかなくなるのだ。記憶は場所と結びついて強固なものとなるのだ。そして記憶を失うことは人間の存在基盤であるアイディンティティを失うことなのだ。だから認知症のようにその人は生きながら死んだとさえなる。認知症になると空間認識ができなくなり迷うのとにている。そこがどこで何なのかすらわからない、自分の生まれ育った場所すらからなくなる。その地名すら言えなくなる。そして「ここはどこですか」「あなたはだれですか」となる。それは故郷でもそうであり息子娘の名前すらわからなくなる。顔を見てもわからなくなる。そうなればすでにその人は死んだと同じではないか?記憶を失うことは死と同じである。生きるアイディンティティをすべて失ったということである。


空間軸で考えると故郷も相馬藩の一村から相馬藩全体としての時間軸があり空間軸がある。歴史的空間と時間軸がありアイディンティティは形成されている。大和というとき奈良を中心に場所に密接結びついて形成されたものである。万葉集は必ず場所と地名と結びついて歌われたのが多いのはそのためである。ヤマトというのは一地域の名であり狭い範囲だったのである。それは日本を現すものとなった。人間が生きるというとき空間軸と時間軸で人生を形成する。それは記憶として継続保存される。だから一人の人間が死んでもその記憶は継続されることに人間が歴史を形成する唯一の動物だとなる。つまり記憶を失うとき人間は人間でなくなる。動物的生であり継続されるものは何もない、動物には過去がないからだ。だから人間はそうして長い時間で継続してきたアイディンティティの場所を簡単に離れて住めるものなのだろうかという疑問がある。もちろん別に新たな場所でアイディンティティを見いだすことがある。でもそのためには時間が必要であり老人にはもはやその時間ないから長く住んだ所から移り住むということはむずかしいのである。

posted by 老鶯 at 21:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連