2013年01月25日

なぜ津浪の被害のある海岸沿いに人は住んだのか? (海の幸があり海民として港での貿易があったから-相馬藩の場合)


なぜ津浪の被害のある海岸沿いに人は住んだのか?

(海の幸があり海民として港での貿易があったから-相馬藩の場合)

●海岸は古代中世でも人が住み着く機能があった


今日もコンビニの前で88才の地元の老人と話した。なぜ海老村でも烏崎村でも磯部村でも原釜村でもあれだけ人口が集中したのだろうか?そして今回のような津浪の被害にあったのか?それはここだけの問題ではない、今回の津浪の被害にあったところではそれが研究課題となった。三陸などは度々津浪に襲われているのだから石巻や多賀城や名取から福島県の浜通りとは違っていた。百年前にすでに大きな津浪がありそのことは知っていたのにあれだけの被害があったのである。まずこの辺では津浪について語られたこともないし伝説も聞いたことがない、ただ一行相馬藩政記に慶長津浪で700人溺死と記録されていただけだった。それは一行でありどういう状態だったのかも記録されていない。それで今になって津神社が津浪の記念として建てられたものだと言うが「本祠小祠の研究」岩崎敏夫著にも津浪に由来したものだと書いていない。鯨が打ち上げられたとか謂われを書いているが津浪だとは書いていない、津神社は海岸沿いにあった。烏崎にもあったがそれは鯨の祭りがされていたし金比羅とか鯨の碑があった。何らか鯨に関係しているものとされていたのである。ただ津浪という言葉は400年前の慶長地震の時生まれた言葉だから津神社というのが津浪に由来されるというふうに今回の津浪でされた。でもこれまでは津浪に由来していると地元の人も思っていなかったからこそ鯨の祭りをしていたのである。いかに慶長の津浪が大きな被害を与えていても忘れられていたのである。


今回の津浪で疑問だったのはなぜ人々は海岸に接してあれだけ人家が密集して住むようになったのかということである。おそらく慶長津浪の後にも人が海岸に接して住んで人口が増えたのである。普通だったらそれだけの被害があると住まなくなる。それはやはり海岸は海の幸がありそのためにやはり住みつづけて人口が増えた。三陸ではやはり海の幸が牡蠣でもノリでも貝でも豊富だから津浪の後にも人が帰ってきて同じ様に人口が増えていった。今回の津浪でも三陸ではやはり海の幸がなくなったわけではないからそこに外部の人も交じり若い人でも住む人がいるのだ。特に400年前となると人口を増やすのには海へ出ることが不可欠になっていた。農民ではなく海民が生まれたというのは確かなのだろう。それで小高の村上に貴布根神社を祭り相馬藩の城を作ろうとしたのか?今からするとその理由がわからないがやはり塚原に港があり海への交通があった。それで海に開ける城を作ったとなる。城主が瀬戸内海とかを実際に見て海に接して港の機能のあるところに城を築こうとした意図がわかる。ただそういう海に関する資料は埋もれて残らないからわからなくなる。特に港なども廃れると記録にも残らないし船の航行も残らないから海への視覚が欠落するのである。


●大内村は低地には人が住んでいなかった


南相馬市鹿島区大内村も被害が大きかった。でもあそこはもともとは山側に人家があり低地におりてきたのはあとのことである。低地の家は新しい家となる。前が湿地帯であり古代には海でありそれで曽賀船という地名が残っているのも不思議である。船がさかのぼってくる、入ってくるのがいつも見えるからそんな名前が地名化したというのも不思議である。実際に今度の津浪で古代が奈良から平安時代辺りの風景が再現されたことには驚いた。塩崎の船着とか市庭という地名がありそこまで津浪が押し寄せたのである。だから大内の前は湿地帯であり海であり人家は低地にはなかった。それで大内村と烏崎村の間に新田村として袋村があったが消えた。それはなぜなのか?これも謎なのだがおそらく烏崎村の方が海の幸を求めて人が集まり人口が増えた。もう一つは港の機能があり小高の塚原のようにそこに人口が集中した。なぜなら烏崎に浜町とあり町とは人がよそから集った場所だからである。町とは一区画の意味でありそこには商人や職人やいろいろな外部の人も集った場所だったのである。烏崎には鎌倉から来た岩松氏の伝承がありそこは町として発展した地域だったのである。海岸沿いはやはり原釜のように塩田があり海の幸があり人口が増えたのである。津浪があってもそうした海の幸はなくならないから当時は工業社会でないから幸があるところから離れられなかったのである。

murakamiiijyouodaka.jpg

 

忘れられた海への視点
http://musubu2.sblo.jp/category/698208-1.html

oouchi11111.JPG
大内-烏崎村-浜町に人家が集中していた


●土地や田を与えて分家させた地名


福岡県には、この「〜丸」地名として、「太郎丸」「次郎丸」「三郎丸」から始まって、途中「七郎丸」「八郎丸」が他県なのを除けば、「九郎丸」「十郎丸」までそろっている。こうした地名は一般には、鎌倉時代にさかのぼる「名田」(みょうでん)の名残だとされている。
http://www.shochian.com/harubaru2.htm


福島県喜多方市四郎田
愛知県西尾市米津町五郎田
宮城県角田市藤田下六郎田
双葉郡葛尾村大字野川字六良田
東京都南葛飾郡八郎右衛門新田


墓地を見ると同じ苗字のもがあり分家したものだとわかる。そもそも分家するときは今なら財産として金を与えるが昔は土地だったのである。田を与えればそれで生活が成り立つから土地を分けることが分家であり人口を増やすことだった。昔は兄弟が多いから八郎まであるのが普通である。この辺でも五郎とか八郎という名前の人が普通にいる。子だくさんだからそうなった。その土地で暮らすには工場もない時代だから土地がないことには暮らしていけないからである。ただ農民だけではない、田畑を作るだけではない、海の幸を求めても人は増えた。港があり貿易があれば都市的機能が生まれ人口が増えた。それが海岸沿いに接して人家が増えた理由である。つまり確かに慶長津浪があっても海の幸があり現代とは生活も第一次産業が主体だから海から離れられなかったのである。400年に一回くらいの津浪だとまた海の幸があるからまた人が集り暮らし始めたのである。三陸とかではそうなっている。高台に移ったら暮らしにくいからまた海近くに戻り海の幸を求めて同じ様に生活がくりかえされたのである。現代の生活感覚とは相当に違っていたからだ。だから今回の名取とかの広大な田野が津浪に襲われたが伊達政宗は米を商品として江戸に船で運んでいたので津浪のあとも相馬藩からも開拓に入っていた人たちがいたのである。別に塩分化した田でも米は作れたのである。現代のようにもう高齢者しか農業をやらないから跡継ぎがいないから金にならないからやめるとはならなかったのである。結局慶長津浪ではかなりの人が死に被害があってもそこで暮らす糧があったから幸があったから前と同じ様に住み人口が増えた。そして津浪のことは全く忘れられていたのである。

posted by 老鶯 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係