2013年01月25日

なぜ津浪の被害のある海岸沿いに人は住んだのか? (海の幸があり海民として港での貿易があったから-相馬藩の場合)


なぜ津浪の被害のある海岸沿いに人は住んだのか?

(海の幸があり海民として港での貿易があったから-相馬藩の場合)

●海岸は古代中世でも人が住み着く機能があった


今日もコンビニの前で88才の地元の老人と話した。なぜ海老村でも烏崎村でも磯部村でも原釜村でもあれだけ人口が集中したのだろうか?そして今回のような津浪の被害にあったのか?それはここだけの問題ではない、今回の津浪の被害にあったところではそれが研究課題となった。三陸などは度々津浪に襲われているのだから石巻や多賀城や名取から福島県の浜通りとは違っていた。百年前にすでに大きな津浪がありそのことは知っていたのにあれだけの被害があったのである。まずこの辺では津浪について語られたこともないし伝説も聞いたことがない、ただ一行相馬藩政記に慶長津浪で700人溺死と記録されていただけだった。それは一行でありどういう状態だったのかも記録されていない。それで今になって津神社が津浪の記念として建てられたものだと言うが「本祠小祠の研究」岩崎敏夫著にも津浪に由来したものだと書いていない。鯨が打ち上げられたとか謂われを書いているが津浪だとは書いていない、津神社は海岸沿いにあった。烏崎にもあったがそれは鯨の祭りがされていたし金比羅とか鯨の碑があった。何らか鯨に関係しているものとされていたのである。ただ津浪という言葉は400年前の慶長地震の時生まれた言葉だから津神社というのが津浪に由来されるというふうに今回の津浪でされた。でもこれまでは津浪に由来していると地元の人も思っていなかったからこそ鯨の祭りをしていたのである。いかに慶長の津浪が大きな被害を与えていても忘れられていたのである。


今回の津浪で疑問だったのはなぜ人々は海岸に接してあれだけ人家が密集して住むようになったのかということである。おそらく慶長津浪の後にも人が海岸に接して住んで人口が増えたのである。普通だったらそれだけの被害があると住まなくなる。それはやはり海岸は海の幸がありそのためにやはり住みつづけて人口が増えた。三陸ではやはり海の幸が牡蠣でもノリでも貝でも豊富だから津浪の後にも人が帰ってきて同じ様に人口が増えていった。今回の津浪でも三陸ではやはり海の幸がなくなったわけではないからそこに外部の人も交じり若い人でも住む人がいるのだ。特に400年前となると人口を増やすのには海へ出ることが不可欠になっていた。農民ではなく海民が生まれたというのは確かなのだろう。それで小高の村上に貴布根神社を祭り相馬藩の城を作ろうとしたのか?今からするとその理由がわからないがやはり塚原に港があり海への交通があった。それで海に開ける城を作ったとなる。城主が瀬戸内海とかを実際に見て海に接して港の機能のあるところに城を築こうとした意図がわかる。ただそういう海に関する資料は埋もれて残らないからわからなくなる。特に港なども廃れると記録にも残らないし船の航行も残らないから海への視覚が欠落するのである。


●大内村は低地には人が住んでいなかった


南相馬市鹿島区大内村も被害が大きかった。でもあそこはもともとは山側に人家があり低地におりてきたのはあとのことである。低地の家は新しい家となる。前が湿地帯であり古代には海でありそれで曽賀船という地名が残っているのも不思議である。船がさかのぼってくる、入ってくるのがいつも見えるからそんな名前が地名化したというのも不思議である。実際に今度の津浪で古代が奈良から平安時代辺りの風景が再現されたことには驚いた。塩崎の船着とか市庭という地名がありそこまで津浪が押し寄せたのである。だから大内の前は湿地帯であり海であり人家は低地にはなかった。それで大内村と烏崎村の間に新田村として袋村があったが消えた。それはなぜなのか?これも謎なのだがおそらく烏崎村の方が海の幸を求めて人が集まり人口が増えた。もう一つは港の機能があり小高の塚原のようにそこに人口が集中した。なぜなら烏崎に浜町とあり町とは人がよそから集った場所だからである。町とは一区画の意味でありそこには商人や職人やいろいろな外部の人も集った場所だったのである。烏崎には鎌倉から来た岩松氏の伝承がありそこは町として発展した地域だったのである。海岸沿いはやはり原釜のように塩田があり海の幸があり人口が増えたのである。津浪があってもそうした海の幸はなくならないから当時は工業社会でないから幸があるところから離れられなかったのである。

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忘れられた海への視点
http://musubu2.sblo.jp/category/698208-1.html

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大内-烏崎村-浜町に人家が集中していた


●土地や田を与えて分家させた地名


福岡県には、この「〜丸」地名として、「太郎丸」「次郎丸」「三郎丸」から始まって、途中「七郎丸」「八郎丸」が他県なのを除けば、「九郎丸」「十郎丸」までそろっている。こうした地名は一般には、鎌倉時代にさかのぼる「名田」(みょうでん)の名残だとされている。
http://www.shochian.com/harubaru2.htm


福島県喜多方市四郎田
愛知県西尾市米津町五郎田
宮城県角田市藤田下六郎田
双葉郡葛尾村大字野川字六良田
東京都南葛飾郡八郎右衛門新田


墓地を見ると同じ苗字のもがあり分家したものだとわかる。そもそも分家するときは今なら財産として金を与えるが昔は土地だったのである。田を与えればそれで生活が成り立つから土地を分けることが分家であり人口を増やすことだった。昔は兄弟が多いから八郎まであるのが普通である。この辺でも五郎とか八郎という名前の人が普通にいる。子だくさんだからそうなった。その土地で暮らすには工場もない時代だから土地がないことには暮らしていけないからである。ただ農民だけではない、田畑を作るだけではない、海の幸を求めても人は増えた。港があり貿易があれば都市的機能が生まれ人口が増えた。それが海岸沿いに接して人家が増えた理由である。つまり確かに慶長津浪があっても海の幸があり現代とは生活も第一次産業が主体だから海から離れられなかったのである。400年に一回くらいの津浪だとまた海の幸があるからまた人が集り暮らし始めたのである。三陸とかではそうなっている。高台に移ったら暮らしにくいからまた海近くに戻り海の幸を求めて同じ様に生活がくりかえされたのである。現代の生活感覚とは相当に違っていたからだ。だから今回の名取とかの広大な田野が津浪に襲われたが伊達政宗は米を商品として江戸に船で運んでいたので津浪のあとも相馬藩からも開拓に入っていた人たちがいたのである。別に塩分化した田でも米は作れたのである。現代のようにもう高齢者しか農業をやらないから跡継ぎがいないから金にならないからやめるとはならなかったのである。結局慶長津浪ではかなりの人が死に被害があってもそこで暮らす糧があったから幸があったから前と同じ様に住み人口が増えた。そして津浪のことは全く忘れられていたのである。

posted by 老鶯 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2013年01月26日

冬の海(津浪によって変わった海岸の景色と心の変化)


冬の海

(津浪によって変わった海岸の景色と心の変化)

なじみゆく仮設の店舗冬の暮
小高の人差別されるや凍る雪
故郷や冬の日長く根を張りぬ


the long winter days
the deeply rooted place
in my homeland


一本の松の残れる津浪跡冬の海にし沖行く船見ゆ

松原の消えて残れる数本の松の淋しく冬の海見ゆ
海老村に自衛隊の人また来る冬の海見つ帰りけるかな
海老村の消えて淋しく何残る土台のみかな冬の海見ゆ
二本の庭の樹なおも寄りあいつ名残なるかな冬深まりぬ

二本の松の形見と残るかな寄りあいにつつ冬深まりぬ

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パノラマ写真-クリック拡大


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右田の松原

右田の松原はいい松だった、その前に実りがあった。
それが消えてしまった。松原があり米の実りがあり
それがにあっていたのだ。



浜通りは会津などの山国と違って海によってその生活も心も形成されてきた。だからこの相違は大きい。海からの風を受けるだけで心の感じが違ってくる。春を告げる東風(こち)の風は海から吹いてくるから広大な海を意識する。山国だと山から吹いてくるから違ったものとなる。この風の感覚はそこに長く住んでいないとわかりにくいのだ。人間の文化は本で読んでも映像で見てもわかりにくい、風を感じるにはそこに長く住んでいないとわからないのである。


右田の松原はいい松原だった。松川浦の松は何か細い感じがしたが右田の松原は太い感じがした。だから結構古い松が多かったのかもしれない、その松原が津浪で消えた。そしてあとに残ったのが数本の松である。今までは松原であり一本一本の松を意識したことがない、今は残った数本の松を一本一本として人格的に意識する。良く残ったなというときその松が人間のように思うからである。それで陸前高田では一本だけ松が奇跡のように残ったがそれも塩分で枯れるというとき残念がった。記念にまた松を植えるというのもそのためである。ここの松は塩分で枯れるのか?原町区の一葉松も塩分がしみこんだから枯れるのか?それを心配している。あの数本の松もなくなったら本当にここも淋しいものとなる。


松が人間だというとき沖に行く船を今はその残った数本の松が人間のように見ている不思議がある。津浪で消えた村の跡は土台だけであり原野に帰り寂寥としている。そういう風景はやはりなじむのに時間がかかる。人間でも原発難民が仮設にすでに二年近く住んでいる。この変化も大きかった。
最近わかった仮設の店舗が小高区のために作られたと思ったが鹿島区の方が多く小高区が四軒だったというのは明かに差別である。原発避難民は差別されている。これはどうしようもない。
そして原発避難民は最初は同情されたが今は同情されない、なぜなら一軒で家族が多いと80万だ百万も一家で補償金をもらっているとなるとこれは何なのだとなる。厳罰事故になって前より収入が格段に増えた人もいることになる。この辺ではそもそも収入レベルが低いからだ。何だ原発事故で得したのかとさえみられるようになる。もらっている人はいいにしても回りの人はそうみる。すると回りの人も外部の人も同情しない、原発事故でかえって得している。あの金は国民の税金でもあるとか言われている。同情されないことはそこに住んでもうとまれるしまた差別されることにもなる。お前らは補償金一杯もらっているんだから店などもつ必要がない、補償金で暮らしていろともなる。

ともかくいかに今やこの補償金が中心の話題になっているからかわかる。義援金にしてもまだ使用されていないのは公平に分配したりするのがむずかしいからである。遺産相続のようにいかに金となると問題が起きるかわかる。でもこの辺の問題は金だけでは解決しないのである。


今日は寒かった。寒いと眠くなる。半日炬燵で寝ていた。エアコンはしていないので寒さが答える。冬は長い、そして冬の間に樹の根は深くはるのだ。そもそもその土地に根をはるというとき相当な時間がかかるから50過ぎてからなと無理だろう。だから老人にとって根を張って生きてきた故郷とかを離れることは辛いものになったのである。何代もその土地で生きてきた人もいるからだ。今やただ補償金のことしか頭にないというのも不幸なことなのである。そして外から移った土地でもうとまれるようになっているのだ。それが原発事故の悲劇だった。

2013年01月28日

原発避難民は過剰な補償金で堕落する (帰れないのではない自ら帰らないのだ)


原発避難民は過剰な補償金で堕落する

(帰れないのではない自ら帰らないのだ)


...福島ナンバ-の車が東京などで傷つけられる恐怖!........


家に戻ればその時点で1人10万円/月がなくなる。仕事を再開して収入を得れば、その分賠償金が減らされる。

放射能汚染はもはや関係ない。最初から、村の中心部の汚染は避難先の郡山市などより低いということをここでも何度も書いている。
帰れないのは、帰ると補償金がもらえなくなるから。
非常にシンプル、かつ切実な理由からだ。


仕事を再開しなければ事故前の収入が全額補償されるが、仕事を再開して少しでも収入を得るとその分は差し引くということだ。

阿武隈の自然が壊される前に、コミュニティが──人間の心が壊されてしまった。
あそこでもう暮らすことはできないと覚悟を決めるしかない。
http://gabasaku.asablo.jp/blog/2012/02/19/6340245


これは川内村に住んでいる人の報告である。本まで出している。外部から入って来た人であり今は住んでいない。住みたくないとなって住んでいない。今原発避難民の矛盾は働くと補償金がもらえないから働くと損だと働かないということもあった。外部から来た人は働くのは金が欲しいから働く、しかし原発難民は働くと損するから働かない、働くのは外部の人だという矛盾であり外部の人と内部の人が喧嘩になる。それはすべてが過剰な補償金のためなのである。これアヘンだとも言っている。
こんなことをしているところは生きがいもなにもなくなる。それでこの人は出ていった。


そして今日聞いた話しては福島ナンバ-の車が福島以外で東京で傷つけられたという、それを直すのに10何万かかったという。かなり激しく傷つけられたのである。これは聞いて恐いと思った。補償金は税金でありそれで反発が外部の人にあった。確かに一か月百五十万もらっている一家があるとも聞いた。百万でも驚いたが土地とか家とか漁業で船でももっていると高額になる。これだけ補償金をもらうとなると働かない、働かないということは生きがいもないということである。そういう場所では人間の心も荒廃してゆく。だから住みたくないとなって外部の人も出ていった。補償金では補償金もらっている避難民でももめているという。その額が多い人と少ない人がいるからだ。ちょうど遺産でもめているのと同じである。人間は金のことになるとシビアになる。でも原発避難民は金をこれだけもらっても毎日パチンコだとか生きがいもない、でもそういう暮らしからぬけられなくなっている。

前々から疑問だったけど小高など郡山と二本松とか福島市より放射能汚染度合いはずっと低いのに20キロ圏内ということで避難させられたのである。そして補償金をもらえることで働くともらえないということで一旦帰ると仮設をでると補償金をもらえないから帰りたくないと言っているのだ。放射能汚染は低いのだから帰れるのである。で喪補償金もらないから自ら帰らないのだ。これはおかしな話である。多少生活保護とにている。生活保護でなくても暮らせるけど楽したいからもらうとかなっている。外部の反感があってもやめられないとなる。原発難民はニ-ト化したのだ。ニ-トは仲間が増えて喜んでいるけど実際は前より心象を悪くしている。全員がニ-トになれば全員が批判され許されないものとなるだ。ニ-トでもアウトサイダ-でも一人二人なら変わり者ですまされるが全員がなったら社会では許さないのである。


除染にしてもそもそも効果がないのにしている。これも何のためなのか、ゼネコンに金を回すだけなのかとか原発事故の問題は金がからんでただ人間を腐敗させるだけだった。この辺ではもうまともな暮らしができないのかまでなっている。毎日パチンコ通いで補償金問題しかないのである。もちろん補償金をもらえるのは地図の部分であり全部ではない、でもその回りの人もその補償金もらえる人ともらえない人がいがみあうともなる。そして福島県以外の人からは税金泥棒だとか車がひどく傷つけられるとか何か福島県の外に出るのも危険な状態になっている。こうなると福島県人であることはマイナスなことしかない、負のイメ-ジしかもたされないのである。


この原発事故で普通は大熊町民だ双葉町民だ浪江町民だとか意識せずに暮らしていたと思う。それが南相馬市内でも小高区の人は補償金をたんまりもらっているから南相馬市内の仮設に住んでも反発が大きい。相馬市は全然補償金をもらっていないからさらに反発が大きいのである。その例が相馬の病院に入院して特等室に入っていた請戸の人である。相馬市に家を建てると言っていたがこれも回りの人からは相当な反発があるだろう。福島県は原発事故で放射能汚染で被害がありさらに補償金で負のイメ-ジが加担された。宮城県はそういうことがなかったからこの相違は大きいのである。
つまり南相馬市内だったらそれほどでもないが他の市長村に移った人たちはさらに反発がある。
福島県内でも反発を受けているのだ。

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posted by 老鶯 at 15:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

南相馬市鹿島区の袋村が消えた謎


南相馬市鹿島区の袋村が消えた謎

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元禄中に記録に新田邑となす、地勢袋のごとし、是れをもって袋邑と名づく、
元禄中民十三あり、漸次大内村松迫に移るという。(鹿島町誌)


袋村があったがなぜ消えたのか?先に大内村は地から低地に新田を開拓して移ったと書いた。
袋村も大内村の人が開拓した村なのか?大内村の枝村なのか?確かに民戸十三戸があったのだから
人が住んでいたのである。
その後なぜまた大内村に移ったのか?もともとはあそこは湿地帯であり牛島というのも湿地帯であった。あそこに港があったがあれは新しいものだろう。
もともとは浜町の方に人家が集中したように浜町が烏崎の中心地でありそこは町であり人が集った。市を成した場所だった。海岸沿いは市が生まれ安いのだ。最初の商人が魚を売っていたというのもうなづける。実際に烏崎から石鰈をとったとき売りにきていた人がいたからだ。海岸沿いは昔は塩もとっていたし地引き網あったし港の機能もあった。船が出入りしていたのである。


鳴瀬町に浜市とあるのもにたものだろう。浜市から離れて牛綱村というのがある。牛綱村は昔は吾妻街道であったが漁師は漁をするために海辺まで綱を牛によって運んだので牛綱村となったという。
綱で牛をひいて浜市まで来た、浜市には牛で運べるものが魚でもとれたので売っていたので運んだということなのか?牛綱村と浜市には人の行き来があった。もともとは牛綱村に人が住むのが先であったが浜市が市場になり人がそこに移動した。そういう関係が烏崎村にもあった。ここの津浪の被害も大きかった。


なぜ袋村の人が大内村に移動したのか?津浪が原因ではないだろう。なぜなら慶長津浪は元禄の前ではないからである。新田村となったのは元禄だとすると慶長津浪の時は湿地帯だったろう。
ただ袋村として記録にあるからには十三戸があったということは村になる規模が一応あったのである。大内村に移ったとしてもそこは新田になっていた。ただ真野川に沿ってあったからもしかしたら洪水があって水浸しになったのか?あそこは洪水になりやすいからだ。真野川は度々氾濫して洪水になっている。自分の家も下町なので二回も洪水で大きな被害を受けている。場所としては余り良くないところだろう。小島田というのもやはり湿地帯のなかに島になったような地形だったのだろう。あの辺が今回の津浪でみな被害を受けた。


ともかく烏崎村も浜市村も市場ができて人が住み着いたことは確かである。烏崎村の前進が浜町になっていたことは浜市村と同じだからである。最初袋村の人たちが烏崎村に移動したのかと思った。
なぜなら烏崎村は人家が多いからだ。特に浜町に集中していたのである。新田を開拓したにしろ漁業や港の機能があれば市場ができてそっちの方が収入が多くなる。米をとるだけより漁業の収入は大きいのである。だからこそ烏崎村に人家が集中した。新田開拓では人口は増えない、大内村は一番古く次に烏崎村があり袋村があった。袋村は大内村の出村のようなものだったのか?烏崎村の記録は明暦からはじまっているが漁業の記録はない、田の石高や馬の記録だけである。漁業は税の対象ではなかったから記録されていないのだろう。烏崎村が津浪で壊滅したけど水葵や沢潟(おもがた)が一部湿地帯化した池に咲いていた。水葵も沢潟(おもがた)ももともと田に咲いていたのでありそれが復活したのには驚いた。種が地中深くにあったのが出てきたのである。袋村の田は烏崎村になったのか?

そうでなければ米はそんなにとれないから烏崎村が村ともなりえなかった。田にするには土地が狭い、ただ記録では大内村に所属していたとなる。烏崎村は田だけではない漁業で人口が増えたのである。田を中心にした村は人口が密集しない、散村というか点々と広い農地に人家ができる。宿場町とか漁業の町は港の機能があり市を成して海辺に人家が集中するのである。


袋村はつまり次男三男八男でも分家させるために大内村から開拓に入ってできた村だったのだろう。ただ一時は村を形成したが消失したということである。その原因は良くわからない、あそこに津神社があるのも謎である。津浪の記念の神社とされるがそれは慶長時代であるから新田開拓に入った元禄のあとである。また推測としては袋村の人が大内村に移り烏崎村の方に移動したとも想像できる。
なぜなら分家したのだから元の村にもどるということは考えにくいからである。烏崎村には漁業があるから人を吸収できたとも考えられるのである。つまり大内村と烏崎村は密接な関係がある。大内村の人が移動したとすると大内村の姓の人が住んでいることになる。橲原村から移動した人が大葦とかに開拓に入り移動して住み着いた。大恊ゥは橲原村にもあるからだ。大内村はあの辺では中世の館があり館下という地名もあるからあそこが中心として袋村や海の方へ烏崎村へと開けたことは確かだろう。


原発の近くの双葉町でも水葵が繁茂した
http://blogs.yahoo.co.jp/yunitake2000/46677202.html

posted by 老鶯 at 23:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2013年01月29日

補償金で働かない原発避難民が今は国民から批判されている (政府や東電の責任が問われなくなっていることの危険)


補償金で働かない原発避難民が今は国民から批判されている

(政府や東電の責任が問われなくなっていることの危険)


いわき市施設に「被災者帰れ」 3カ所に中傷落書き
http://tinyurl.com/a94b5y3


どこでも避難者に対する風当たりは強くなっいる、小高は南相馬市内だから救われている

誰かしる男の介護冬の暮


裏方に働く人のその思い介護してしる冬のくれかな


●仕事が見えない現代のシステム(人間より機械や金に世話になっているという錯覚)


ここ6年は自分は介護して家事をしている。家事は裏方の仕事であり目立たない、裏方の仕事はそもそも表に出ないからわかりにくい、食事を出すものでも食事を作るものはなかなか目に見えない、
かえって掃除しているような人が目に見えたりする。厨房はなかなか目に見えないところにあるからわからないのだ。病院でも食事を出している仕事場は見えないから誰が作っているのかもわからない、一方掃除している人は見えるからこの人は病院で仕事しているのだと思う。掃除している人も病院では患者のために働いているのだ。病院でも一番目立つのは医者だけど看護師も目立つけどやはりどこにも裏方はいるのである。ただこの裏方の仕事もなくてはならないものなのだ。ただ裏方の仕事は評価されにくい、病院というと医者が黄金のように存在する。あとは目立たないが看護師はそれなりに目立っている。医者を支えているのは看護師たともいうのもわかる。この辺では看護師が流出して病院や医者の仕事ができなくなったのである。現代の仕事はあまりに多様だからなかなか見えないのだ。どういう関連があるのかもわかりにくい。

現代の仕事は本来は人に尽くすとか人と人との関係に仕事もあった。直接人のために仕事をしていたのが見えていた。それが今は人が苦労して何でも働き与えているという感覚がなくなっている。

人に世話になるとか人が働いてくれて助かっているとかの感覚が消えている。むしろ金に世話になっているのだ、人より金だという感覚が大きくなっているのだ。そして機械やってくれているのだともなる。人間の仕事は例えば家事でも機械化する。大根オロシとか作るのが面倒だから機械でボタン一つでやるのがいいとなる。人間の仕事はどうしても機械化するように運命づけられていたのである。だから介護ロボットやがて人間を世話するとまで思いこむようにもなっている。人間を感じられなくなっている。人間は人間が働くのではない、機械が働いている、その機械を動かすのが金であり人間は介在しなくなる。自動販売機などはそうなっている。そこには店もなければ人間もいないからである。ところがすべて機械でやっているのかと思うがそうではない、自動販売機で仕事している人を見ていたら種類が多いから自動販売機にジュ-スなどを入れる作業がめんどうなのである。やはり人間が仕事しているのである。ただ機械が表にでて人間が裏方になっていたのである。


原発避難民の問題も多額の補償金をもらっているから働かなくてもいいとなっている。でもこれが本当に外国のように苦しい難民になったらどうなるのか?補償金がありそれも一家で土地から家からと補償が加担されて150万一か月もらっているから働くなくていい、むしろこの金ではたらいてもらおうとなっているのも異常なことである。もし金がもらえないとなれば暴動にもなる、そしてその移動した人がその土地の人に世話なるとしたら絶対に働かないではいられないのである。助けられるのだからなんとか助けるものとして働かざるを得ないのである。それがないのは今は人に世話になるというより金に世話になっているという感覚が強いしそういうシステムになっているからなのだ。ただ
そういうふうに金があるということで働かないことで回りから反発が大きいのである。仮設の回りは補償金をもらっていないからである。だから鹿島区でも店を出したのは地元の人であり原発避難民は差別されのも仕方がないのかとなる。実際百万とかもらうというのは異常である。何でそんな金もらえるんだ、回りでも日本全国でそんなに金払ってどうするんだ、その金は国民が汗水流して働いた税金だとなり福島ナンバ-の車が東京などで傷つけられた。そこに回りの相当な反発があることを知らねばならない。


●政府や東電より補償金がもらえる原発避難民が批判の対象になっている危険


そして今何が起きているのか?本当の原発事故の責任者が東電とか政府や官僚の検察のことなどが忘れられ具体的に補償金をもらい補償金を要求する原発避難民が税金泥棒のように見られかえって本当は原発避難民こそが一番悪者だったとされる。あいつらはもともと原発で得した者でまた事故でも得しているとされる。そして俺たちの税金で多額の補償金をもらっている。肝心の責任者の政府とか東電は責めなくなっているのだ。一応東電を訴えたにしてもそれは形式的なことであり裁くことはできないとされている。政府でも教科書まで利用して安全神話を作ったのだから戦争のときのように相当な責任があった。しかし今やその責任は補償金問題に移りその補償金をもらう原発避難民に非難が向けられているのだ。そういう自覚がなくただ補償金だけをあてにして暮らそうとするのは問題がある。もちろんそうなるのもしかたない面があるにしろ原発避難民もそうした回りの変化に気づくべきである。最初は政府とか東電を国民は批判していたのだ。今はそういうことがあまりなく国民の関心は多額の補償金をもらう避難民の方に注意が向いている。それは具体的に金がかかわっているからそうなる。これは多額の補償金で政府や東電が仕組んだ策略なのかとさえ思う。実際に最近政府や東電の責任をマスコミでも国民でもとりあげない、東電の会長でも社長でも責任を課せられない、罰せられないことはおかしなことである。いくら補償金もらってもやはり原発事故の被害者は相当に苦しんでいるからだ。放射能の被害で死ななくてもその関係で避難したときに病人などが多数死んだりその他自殺したりと被害者がいるし今もいるからだ。


でも小高区などはインフラが整備されれば帰れるのだから帰るべきだろう。補償金をもらっているからもらえなくなるから帰らないというのは納得できないのである。補償金をもらい町を捨てて別な町に住むにしても働かないでは受け入れられないだろう。働くことは人間の尊厳を保つ基本的な行為でありそれは金があるから働かないではそうした尊厳すら喪失する。実際にパチンコ屋に毎日出勤するのに妻が食事の用意をするということで生きがいもなにもなくなるだろう。家庭全体が生きがいをなくしてしまうだろう。裏方で働く人だって何らか人のためにしている、社会のためになっているという意識があって働いているのだ。学校や病院で食事を出している人だって単に金をもらうからではなくやはり家事をしているのと同じく将来をになう子供育てているという意識があるだろう。
現実に近くにパチンコが仕事の人がいる。でもその人の顔は何か憔悴した人生を浪費したという顔している。パチンコ屋に通いそのパチンコ屋で人手がたりないとか疲れたとか働いている人の姿は異常である。そういうことに矛盾を感じないのかと思う。ただ金になればいいとしか考えないのだろうか?そのくらいの思慮が学問がなくてもあってもいいはずなのだ。ただそれがわからないものは仮設の店でも差別されたり福島ナンバ-が傷つけられたりとか外部からの嫌がらせで意識させられる。


生む−生かす−生きるはすべての仕事に通じる


生む→生かす→生きる これは社会全般、人生全般に通じることである。子供を生む→生かすは育てるに通じる。最後に生きるは主体的に私が生きるとなる。社会の仕事で一番多いのが生かすことである。医療でも生かすことであり教育も人の個性などを生かすことである。医者でも患者を殺すことがあるし介護でも介護されるものを殺すことは虐待など日常的に起こっている。家庭でも起こっている。介護に耐えきれず殺人になったの近くの浪江の請戸がそうだった。介護の深刻さはあまりにも身近な問題になっているのだ。生かすことができず殺すことになるのも厳しい現実なのだ。生む→生かす→生きるは人間の普遍的テ−マである。だから意味もわからない題目や念仏を唱えているより生む、生かす、生きると唱えていた方がいい。なぜなら日々生きることが生む、生かす、生きるだからである。日々なんとか生かそうと努力しているのが人間の仕事なのだ。


生む−生かす−生きるという行為は営々とつづく、新しい生命は生まれ生かす(育てる)ことはつづくし生きることも終わることはない、そして生きられざるものが過去にありつまり生きたいと思っても生きられなかった人たちが膨大な数いる。私が知っている母方の墓には結核で若くして死んだ青年が埋まっているし結核で若くして無念で死んだ人は膨大であり戦争で無念で死んだ人も膨大である。この死者たちの生きたくても生きられない生があり一方で新しい生は途切れることなくこの世に生まれてくる。生む−生かす−生きるは延々とつづく、生きえざるものも生かされざるものも生む−生かす−生きるという連続性のなかにつながっている。

ともかく生む−生かす−生きるは人間の普遍的テ−マであることは間違いない、どんな仕事でも農業でも生む−生かす−生きるという作業がある。何かを生み−生かす−生きるのである。生命の営みは生み−生かす−生きるなのだ。一方で生命を殺すというのも常に反面としてある。団体組織は必ず個性を殺す、生かすべきものを生かさないことは教育でも福祉でもいろんな分野である。何が生かすのか生きるのかそれぞれにの価値観の相違で対立することもある。ただ基本的に生む−生かす−生きるが人間の普遍的テ−マであることは間違いないのだ。


時事問題の深層に書いてきたものだが6年間介護をしてきたのでこういう思想が自然と生まれた。
思想も働くことによって生まれてくる。実践から生まれてくる。学問しても生まれないのである。
まだ実践から生まれた思想は本物であり力強いのである。農民から生まれた思想もそうであった。
ただ農民だけではない、介護もやはり無駄だといってもパチンコするよりは無駄とはならない、それなりの意義があり価値があるからそうした良き思想が仕事のなかから生まれるのである。


生む−生かす−生きる・・・これがなくなるとき人は頽廃して絶望する、どなん戦争も破壊であり人を殺すことには生む-生かす-生きる・・・という行為がないから肯定されないのである。それはおそらくテロですらそうである。いくら不満があっても他者を殺してそれが自分たちの生む-生かす-生きることに通じるということはありえないのである。石油プラント精製所もやはり苦労して外国人でもアルジェリア人でも作ったものでありそれを壊して生産的になれるはずがないのである。


生む−生かす−生きるは人間の普遍的テ−マ
http://www.musubu.jp/jijimondai35.html#umu

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posted by 老鶯 at 21:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2013年01月30日

原発被災地域には現代の問題が極端化して起きた (高齢化、金万能社会の歪みなど)


原発被災地域には現代の問題が極端化して起きた

(高齢化、金万能社会の歪みなど)


●被災地域は高齢者が多かった

津浪や原発事故ではいろんな問題が生じた。それは現代の社会の問題が露骨に象徴的に現れた。今回の津浪や原発事故の被害にあったところは農業漁業関係でも特に高齢化がすすんでいた。津浪で死んだのも高齢者だった。原発事故で避難指示があったときもう年で出れないと墓に入りますといって自殺した100才近くの人がいたり他にも老人で自殺した人がいた。そしてこの高齢化の問題はその後つづいている。原発被害地域では若い人が流出して老人だけが取り残されるという問題が生じた。
これも高齢化の問題が極端な形で現れたのである。老人は金かかるだけだから死ねとか若い人がただ負担にだけ思っている時代である。とすると極端になると老人なんか世話していられないよとなり

その住んでいる場所から若い人がでてゆくことになる。それが現実化したのがこの辺だったのである。特に放射能は子供に影響があるから子供をもっている若い人が流出した。老人は別に放射能の影響はそんなにないから残っていいとなっても若い人がいなくなると生活できなくなる。姥捨山になってしまう。つまり超高齢化社会で現実に姥捨山となる状態がこの辺に生じたのである。飯館村などでは老人は住んで帰りたいとかあってもそこは姥捨山だから住めないと言っていた。病院もス-パ-もなにもない所で生きることはできない、もともと病院はなかったけど診療所はあった。そういう不便なところでも環境がいいから外部の人も都会から入ってきていたのである。

高齢化社会だから話題は老人になることが多い。何しろ数が多いからそうなる。団塊の世代が若いときはやはり数が多いことで話題になることが多かった。数が多いというこは社会にそれだけ影響があるからそうなる。だから団塊の世代は老人になっても話題になり影響が大きいのである。

今仮設住宅でも津浪の被害地でも原発事故の被災者でも高齢化の問題がある。仮設に入っている人も高齢者が多いのである。田舎に来ればわかるけど本当に老人が多い。子供はわずかで老人の数が多く繁盛しているのは病院だとなっていた。その問題が津浪原発事故でもひきづっている。つまり若い人かいないから町の復興しようにもできない、小高区でも80才くらいの人が集まり相談していたけどこれでは未来はにないないのである。そして老人は小高なら帰れるのに帰りたくないというときすでに町を復興させる気力もなくなっているからである。すでに相馬市の長屋風住宅のように定住する老人ホ-ムみたいなものを作ってそこに住みたいとなる。原発の補償金で補償されて住みたいともなる。
とても60以上になると新しいことや一から始めることはできなくなる。実際に農業の担い手も60代とか多く跡継ぎもいないところが多かったのである。すると補償金で補償された方がいいとなるのもわかるのである。


●補償金でもめるのも金でもめるのも現代を象徴していた


現代は金の社会であり金、金、金で金が頭から離れない時代である。その金の社会ということも仮設に住む人が外から国民の税金にたかるやつらだと非難されるようになたった。体育館などで苦しい生活をしているときは外部からも同情があったが今は補償金をふんだくるだけの人たちだと非難されている。だからあんなところに行きたくないともなっている。ということはもう同情もしないし応援もしたくないということも心情的になっている。でも国の責任もあるから補償金はでる。そこで補償金だけが今は話題になり肝心の国の責任者や東電の責任者が罰せられない、注目もされないようになった。国民の関心は巨額な賠償金をとる避難者に向けられているのだ。そのことで外部から嫌がらせとかが起きている。いわきでも起きたし東京でも福島ナンバ-の車が傷つけられたりとかなりの反感が生まれているのだ。


避難した市町村でも仮設に住んでいる避難した人たちは過分な補償金をもらい毎日パチンコやその他遊んで暮らしている。病院はこんだり避難した市町村で負担が増えているのに避難した人たちが金があるから遊んでいるだけだと非難される。最初はそれでも仮設に入っても同情されていたのである。だんだん補償金のことがわかって非難するようになったのである。ただ避難した人たちにも言い分はある。故郷を失い辛いものがある。ただ現実問題として外部からあいつら補償金でただ遊んでいられる、こっちはあいつらのために働かせられているというふうに見られているのだ。そういうことだけが今になると目立ってきたのである。それで嫌がらせや差別が生まれた。
実際に一か月150万だ百万だ80万をもらっているとなるとこれは何なのだとなる。避難者を引き受けた地域ではその金に驚く。そんな金あるなら避難した地域にも分けるべきだともなる。もらった補償金を住んでいる地域にも分配しろともなる。


昨日も書いたけど現代は人間に世話になるより金や機械に世話になる感覚が強い時代である。だから金さえあれば何でもできる,金が万能のようになっている社会である。それで自動販売機を例にとったけど機械があり金があればまにあう社会の象徴だった。自動販売機は一種の魔法である。
金を入れれば何でも願いがかなう魔法の機械なのである。機械とはそうした便利な魔法的なものをもっていたし人間はそれを望んだのである。


お金をいれてください


この機械は何でも願いをかないます


でも実際はそうはなっていなかったしできるはずがなかったのである。逆に金をもっていることで回りの人から急に金持ちになった人のようにその金が羨望の的ととなる。体育館のようなところにいるときはかわいそうだと国民みんなが同情していたが今は補償金をふんだくるだけの人たちだと見られ同情もされなくなったのである。つまり多額の補償金をもらえることでかえって同情を失い羨望やねたみの対象となってしまったのである。一見金が入っていいように思うがそういうふうに簡単にはいかなかった。金が万能ではあり得ないのである。人間の価値は金だけでは決められないのである。


●金の力が大きくなった社会は互いに人は協力しない


現代の人間は人情がないとか金だけを追い求める冷たい人間になったというときそれは人間にもいろいろあり個々の性質とかの問題なのだろう。これは別にその人の性格や性質や人の良さなど生来もっているものがある。でも現代は一般的に金の力が万能化したような時代でありそれから逃れることはできない、だから金を求めることが悪いとか金がすべて悪いとか否定できない、そういう社会にしたのは便利でもありグロ-バル化など広い範囲で便利に豊に生きるということでも金の力が増したのである。だからそれをいちがいに否定はできない、でも金というのもが万能ではないから問題が起きる。自分の一身上に起きたことも金にからむことでありここ6年間で経験したことは今でも信じられないのだ。


最初にお前の母親は金もっているのだから金でめんどうみてもらいと青筋たてて狂気のようにわめいて去っていた親戚の人がいた。親戚といっても交流がなかったのだからしょがないにしても冷静にふりかえると「金でめんどうみろ」というのは今の世の中を象徴していたのだ。すべてが「金でめんどうみろ、金でかたづけろ、金で解決しろ、・・・」と金が何でも解決してくれるとなっているのが現代である。何か困ったことがあったら金で解決しろ、金でめんどうみろとなりその本人は何もしないのである。結局老人になると家族でも施設にあずけるのも金だとなり金で他人にめんどうみてもらいとなる。それから若い人は金のない老人は死ねとかもわめいている。それも金ですべてが決められる社会だからそうなっている。個々人の問題ではない社会全体がそうなっているのだ。確かに昔から金が力をもっていたことは確かだが現代ほど金が万能化した時代はないのである。


もう一人の手伝いとかヘルパ-とか家に入ってきた人はさらに極端化していた。最初から「金をくれ」と入ってきた。それは冗談だと思い聞き流していた。それは冗談ではなかった。本気だったのである。その人はその通りに強盗のような人でありそれを実行した。こんな人がいるなど想像もできなかった。田舎だからそんなことを思わなかったのである。でも現代はこれほど金しか念頭にない社会になっていたのである。これらは極端にしてもこれは一般的な傾向なのであ。自分の場合は特に極端化して事件が起きたのである。金の力がこのように万能化した社会はここまで来ているのだ。


人情とか甘い同情を期待することはできない冷酷な社会である。だから金のないものも悲惨なことになる。一方で金があっても金は万能でないからかえって金の故に金がもっている故に原発避難者は同情されないし非難されるのである。だから金を持っていることも恐いことなのである。資産家が殺されるのも今は普通のことである。原発避難者が補償金で非難されるのも金のためであり金はもっていてももたなくても災いともなるのだ。もともと金ゆえに協力しない社会でありその延長として補償金問題で金が話題の中心になり原発避難者は同情も協力もされないという状態になった。やはり金でめんどうみろとなった。でもすべて金で問題が解決しない、金をもっているのだから何に使おうと勝手だとかならないし助けてもくれない、協力もしてくれないのである。それは自分の一身上のことと同じだったのである。


原発事故の避難者の補償問題が長びいているとかうまくいかないとか放送していたけど故郷自体喪失するという経験は今までにもそんなに
ない、こんな大規模に起きたことがない,この補償はもはや金だけでできるものではない、金で補償できないものを失ったのである。その土地の思い出とか歴史も失うことになることはそこに住んでいる人たちだけではない相馬地域だけでもない、福島県だけでもない、日本にとっての損失だったのである。それは金で代えられないものだった。金で何でも代えられないということであったのだ。失った青春時代を金で買えないと同じである。それは何百億積んでも買えない、それほど失われた時間は貴重なものだったのである。

 
 
posted by 老鶯 at 22:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連