2012年12月30日

手水鉢に冬の雨 (石工は渡り歩いた-石工の仕事は石だから長く残る)


手水鉢に冬の雨

(石工は渡り歩いた-石工の仕事は石だから長く残る)

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手水鉢我が家に古りぬ冬の雨
粛々と石を濡らしぬ冬の雨
苔むして石工の名前冬の雨

京の日や石に残す名冬の雨

名工前川俵治。この前川さんが地元の石工とは限らない。当時名工として評判高い樽井村の石工は各地を転々としていたという事からすれば、金刀比羅神社と大覚寺そして樽井村がある泉州あたりに共通する小野周文さんと渡辺鼎さんがこの3年ほど興浜に連れて来ていたのかもしれない。
http://blog.goo.ne.jp/okinohama/e/c7ad0d31b4e6c22ded48fb42f48fecc9


石工は各地を渡り歩いていた。石工は技術者であり腕のいいものは遠くからでも呼ばれて仕事になる。地元だけでは技術は発展しないしまかなえないのである。だから科学技術社会になると外部から入るものがその土地のものを占有してしまうということがある。現実に浪江で3割から4割が東電で働いていたとかなると浪江辺りまでは東電の会社の配下になっていたのかもしれない、つまり社会は社(ヤシロ)に会すだったが会社はその逆であり会社が社会になっていたのである。双葉郡は結局東電会社双葉郡になっていたのだ。事故起きたあとでも経済的に東電に頼らざるをえなくなっていたのである。南相馬市でも小高になると近いからやはり東電で働いていた人はいたしまた原町でも40年とか働いていた人がいた。原発が建てばもうそれに依存する村や市になってしまうのである。


山木屋へ通じる塩の道のおせん地蔵も長野県から信州から来た石工の伝説だった。

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これは若い旅の渡り職人の石工が近くの寺に頼まれ地蔵を彫った。それを近くの茶屋の娘、このおせん茶屋という茶屋跡の娘だったろうか、この若い男を見て恋におちいった。この地蔵が完成したら石工はここを去らねばならないとおそれその肩を自ら切りおとしたという。これはどこまで本当かどうかわからない、地蔵を作っているのに失敗したのかもしれない、それを回りのものが想像で作りだしたものかもしれない、


おせん地蔵
http://www.musubu.jp/trymiharu2.htm


石工というと昔は石を手で金槌でたたいて掘っていた。その石屋が近くにあった。石を掘るということは手作業であり辛いことだった。近くに漆屋もあり塗るのもこれも手間がかかる。昔は機械より手仕事だから働いている人を見る機会が多かった。近くで仕事している人を見ていたのである。例えば竹屋でもそうである。竹をスパスバ切っていたのを見ていた。近くで仕事を見れるということは仕事を身近に感じるしどういうふうに社会が成り立っているか理屈ではなく具体的に子供でも知るのである。それは身近な地域でそういう仕事を見ていて育っていたのである。高度成長から余りにも変わりすぎた。ほとんど仕事といかのが見えなくなったのである。工場とかなるともうそこには人間的手仕事とはかけ離れているからだ。でも小さな工場だと中小企業だとまだ人間的なものがあり仕事が見える。最近のスマホとか作っている工場にはクリ-ンル-ムでロボットがいて人がいないという、人は塵などを運ぶから入れられないという、無人工場でスマホなどを大量に作っていたのである。これだけ仕事の場が変わってしまったのである。


ともかく京都の石工は今でも手作業で掘って作っていた。手の感触が大事だとか言っていた。そして石は長く残るからやりがいがある。石は歳月の中で重みがでてくるから他の仕事とは違っている。
確かに石は俳句にしたように冬の雨にぬれて何か我が家にも落ち着き貫祿を帯びてくる。重みがでてくる。でもこの手水鉢を老いたのは三年前くらいである。それでも何か三年たって重みがでてきたなとなる。庭を造るのは人間でも歳月がまた自然が庭を作ってゆくということが違っているのだ。
だから庭は年月を経て完成してゆくのである。そこが庭が他のものと違っている。
文化的なものはなかなかちょっと見ただけではわからない、時間をかけてみないとわからないのである。京都は旅しては見えないものがかなりある。工芸品や美術品やその他歴史的なものでも旅でちょっと寄ったくらいでは理解できない、これは別に京都だけではない、どこでも同じである。