2012年12月27日

冬の空 (新しいパナソニックの電動自転車をとりに原町へ)


冬の空

(新しいパナソニックの電動自転車をとりに原町へ)

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停まるままス-パヒタチ年の暮
冬の空青の深さや長き雲
枯松の生きてあれしや冬の草
枯芒水面に写り波紋かな
枯芒夕日のさして風もなき
冬日さし庭の手入れや寡婦一人
冬の空澄みて梢に高く鳥鳴きつ飛びわたるかな朝の清しき

凍雲の長々と伸び原町の空や電車の通じるざるかな

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今日は原町に電車でまず自転車屋に行きパナソニックの最新式の電動自転車をとりにいった。
13.2Aであり電池の要領が大きい。2013モデルのビビEXCITYだった。乗ってみたらヤマハのより軽い軽いすいすいと走った。ヤマハはマウテンバイク作りで重いから平地ではスイスイ進まなかった。それで長距離には向いていなかった。また前かがみになるので手とか肩や胸の筋肉が疲れていた。
だからあまり遠出には向いていなかった。これは軽くスイスイ走るから体に負担をかけない、
この自転車をしきりにいいと言っていたのは原町の自転車屋である。鹿島ではパナソニックは売っていない。その人は実際に買い付けのために乗りに行っているという。パナソニックは自転車も電気系統も全部自社で作っているからいい、パッテリ-など外国に輸出しているとか確かにパナソニックとういうとテレビとかの部門でありそれも韓国に押されて会社が衰退し大量リストラだとか騒いでいるが自転車部門では健闘している。電動自転車部門では一番技術的に進んでいる。結局こうした技術部門では他者との競争に負けたら売れない、それがあまりにも明確に数字に現れる。パナソニックがいいとなると他は売れない、ただ自分は電動自転車でも今は種類が多いから何がいいかわからなかった。その自転車屋の人がしきりにこれはいいとすすめるので買った。17Aのもあったがそれがいいのかと思ったがしきりにそれをすすめるので買った。今は種類が多いし何を買っていいかわからない、高いから買い換えも簡単にできない、店主のすすめの買ってを良かった。自分で選んだら失敗だった。まず試乗などできないからへたに自分で選んだら失敗する。これだと行動範囲が倍に広がる。
ヤマハの電動自転車は限界だった。どうも疲れがたまる筋肉が疲れると苦しくなっていた。年のせいかとも思っていたがやはり自転車の影響が大きかったのだ。マウテンバイクとして悪路ならヤマハがいいが長距離はパナソニックか技術的に一段上をいっている。

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原町駅にはス-パ-ヒタチが津浪と原発事故以来とまったままである。あの時から時が停まったようにとまっている。いつ東京の方に通じるかわからない、仙台の方はあと4年とか言っているが東京の方へ通じるのはもっとあとになる。年になると何するにも時間がない、実際自転車が好きで何台も買ったが乗れずに終わっている。そううい時間がなくなっていたのだ。手術して自転車に乗るなと言われたときはショックだった。まだ乗るなと言われている。でもおしつけないようにして乗っている。

原町の駅の小高へ行く踏み切りを越えて山の方へ行くと公園があった。そこで四十雀が鳴きつつ飛んでいた。四十雀は餌不足するのか冬には平地におりてくるみたいだ。これもカシオの最新式のカメラでとろうとしたが動くものをとるのはむずかしい。そこからずっと回りイオンの方に行った。
そして長々と雲が一つなびいている。その写真をとったのだかそれをパソコンでみて空の色がきれいだなと思った。空が冬は澄んでいるのだ。ただこんなふうに空を見ていなかった。人間の脳は景色でも例えば雲をみていたら深い空を見ていないのだ。こんなにコバルトブル-の深い青だったのかと改めて写真を見て知ったのである。ここにデジカメの効用があった。


冬の空が澄んでいる主な理由は

・昼夜の気温さが少なく空気の揺るぎが少ない
・空気が乾燥していて水蒸気による妨害を受けない
・地上からの粉塵の舞い上がりが少ない

ここから五本松の方に行ったがまだ一本の松が倒れていない、幽鬼のように残っているのも不思議である。これは今や97才とか生きている母とかににている。そういう人は今はかなりいる。人間は今やなかなか死なないのである。これは死んでいるのか生きているのかやはり倒れないから生きているのか?枯松という地名も残っているようにこういう松は各地にあった。なんかここに自分が死んでも跡を残すような執念すら感じてしまうだろう。人間は思うにそれだけ生の執念は強いものである。
一旦生を受けたら本能的に簡単に消えたくない、いや消えるということに耐えられないのである。
動物には死を気にしないというが嘘だった。隣の犬は死ぬ時三日前くらいから悲しそうに吠えつづけていた。それは死にたくない死にたくないと吠えつづけていたのである。

真野川には枯芒の影が写っていた。今日はそよりともしない、わずかに波紋が水面にたっている。
「冬日さし庭の手入れや寡婦一人」というとき近くの人は子育ても終わり子供も就職して家にいない、その家は大きな家だけど一人でいる。そんな近くの人に注目していなかった。でも良く見るとそういう人がいて生活している。ただ60代くらいにしてもこれは高齢化では老人とも言えない世代であり中途半端になっている。そういう人はすでに孫がいるのだがそれでもおじいちゃんとかおばあちゃんとかという昔の感じではない、結構色気がある人が多く、枯れていないのだ。だからある意味でこういう人は枯れたなと思って近づくと全然違ったいる。自分は枯れていると思っても相手は枯れていないのだ。そういうところから男女の欲望が消えず問題が起きる。ともかく同居しないで別々に暮らす高齢者が今では実に多いのである。そういう人は孤独になっている。そういう人がいたるところに見られる時代なのである。人間は年とると関心をもてる範囲が極めて狭くなる。


それは人でも同じなのである。東京で歌舞伎俳優が死んだからと関心を全くもてない、芸能人にも関心がもてない、例え有名でも死んでも関心がもてない、年とれば死ぬ人が次々にでてくる。すると有名人だろうが関心をもてない、新しいドラマにも関心がもてない、人間一人でも関心をもって知ろうとすることはかなりのエネルギ-が必要である。一人の人間を知ることは容易ではないのだ。だからめんどうだとなってしまう。ただ近くだとじかに見ているから関心をもつのである。それすらわずかの人しか関心がもていなのである。すでに関心をもつこと知りたいというとき愛するということにも通じているのだ。
関心を何ももたないということは愛もないのである。憎むということすら関心を持つことであり愛にも通じているのだ。人間は本当に認知症のように本当に家族すらわからなくなる。「あなたは誰ですか?」息子や娘にすら言う時、人間は別に認知症でなくてもそれだけ自分の子供にすら関心が薄れて忘れてしまうものなのである。人間は死に近づくとすべてのものに関心が薄れ関心がなくなるのだ。それが死ということなのかもしれない、死はすべてのものへの関心が消えてしまうことでもあるのだ。