2012年12月26日

白鳥の池 (ノスリもふえたのは餌のノネズミが増えたからか?)


白鳥の池

(ノスリもふえたのは餌のノネズミが増えたからか?)

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北風の枯木に鳴りてノスリ二羽飛び交いにけり野生の喜び

冬日さす落葉に小鳥二羽餌探すらし愛しきろかも

寥々と松風鳴りて白鳥の姿美し眠るらしかも

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ノスリが二羽飛んでいたのは見たことがない、一羽は飛んでいても二羽は見ない、それが交互に飛んでいたときは感激した。ノスリは鳶より精悍な目つきをしている。飛び方も全然違う。写真とろうとしたが失敗した。動いているものとるのは相当にむずかしい。一瞬のシャッタ-チャンスである。
それで高速シャッタ-のカシオのデジカメを新しく買った。それでもやはり動いているものをとるのはむずかしい。おそらく別に警戒区域で人が住まなくなったところでも植物でも動物でも生きている。チェルノブエリでは狼まできて野生の楽園になったというのも不思議である。おそらく放射能でこれだかけ騒いでいるけど動物とかにそんなに影響するのだろうか?チェルノブエリでさほど影響しなかったところをみると騒ぎすぎるような気もする。警戒区域に入ればやはり野生化した動物が生きている。人間がいなくなると野生のものは植物でも動物でも繁殖しやすくなるのだ。結局それらも放射能の実験材料にモルモットなるのだろう。

白鳥は今回は川の方には水がかれていない、ここは水があるからいい、やはり野生のものはその環境にふさわしいところに映える。松風が鳴り白鳥の姿が美しい、なぜだろうか?野生のものはそのしぐさ一つ一つが無邪気であり美しい、羽を大きく広げてはばたいたときは美しかったがこれも写真がとれなかった。まだカシオのデジカメはなれていないからうまくとれない。人間はなぜ自然と違って醜いのだろうかといつも思う。ただ子供から25前くらいまでは特に女性はしぐさの一つ一つでも美しい、そこに無邪気さがある。人間はその態度とかしぐさにも心が現れるのかもしれない、40、50くらいすぎると年とって美がなくなったというより心が世間の垢にまみれてそのしぐさまで何か汚れたものを発散しているのかもしれない、いづれにしろ女性はその現れたものがすべてとなりやすいから老人になることは悲惨なのである。内面的美があるといっても見た眼がどうしても若いときとあまりにも違いすぎるのだ。白鳥が羽ばたき、そして首を羽に入れ眠るのかその姿もいい、自然のものは無邪気だから何でも美を感じる。小鳥が落葉の中で餌を探しているのだろうか?その姿も何か愛しいものを感じる。何か餌があるのだろうかとも思う。自然は見ていてあきないのである。それは無邪気さがあるからなのだ。大人になると人間は邪気を発散するような人が多くなる。都会辺りを歩くとそうした邪気に満ちた人がかなり歩いているだろう。そういうところはそうした人が集るのに向いている。
田舎でもそういう人はかなりいるが回りが自然だとそういう人に会う必要はないのである。

本当に白鳥を見ていると心が洗われる。神が作った鳥としては最高のものと感じてしまう。あれだけ大きいのに飛ぶということも不思議である。鳥が飛ぶということ自体相当なエネルギ-が必要である。でも肉食でもない穀物を食べてそんなエネルギ-がでるのだろうかという疑問が常にある。
カラスは雑食であるから放射能騒ぎで田畑がなくても増えた感じがする。雀は減ったのかもしれない、それでもいないというわけではない、冬は野鳥の観察にいい季節である。野鳥は見えやすいのである。

ノスリ
http://www.cec-web.co.jp/column/bird/bird93.html

野スリはという名は野をするように飛ぶからだというのはそれらしい。野を滑走するように飛ぶからである。獲物はネズミだから常に野を滑走するように飛ぶ。おそらくもしかしたら田畑を耕さないからこの辺でノネズミが増えたのかもしれない、餌になるものが多くなればそれを食うものもふえる。ノスリが二羽も見たのは今までにないからだ。ただこの鳥は結構日本にいるのだけど鳶と間違いやすく見落とされている。冬の鳥としてジュウビタキやツグミは見つけやすい。このノスリも今年はこの辺では何回もみかけた。こんなに普通はみかけない、餌が増えて住み着いているのかもしれない。
何らかこの辺は自然の変化がある。

相馬総合病院の入院(俳句まとめ) (看護婦は鳩をイメ-ジするんだけど・・)


相馬総合病院の入院(俳句まとめ)

(看護婦は鳩をイメ-ジするんだけど・・)

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海の方から朝日が上る、ただ海は見えない



同室の人はや去りぬ朝の蝉

同室の人みな地元秋の蝉
同室に軽度の人や朝の蝉
相馬市の病院の隅月望む
同室はみな直る人夏の月
海よりの朝日のさして夏つばめ
看護師の勤めや秋の朝の鳩
朝焼けや海より飛び来る鳥を見ゆ
葉のそよぎ病院に木蔭鳩の飛ぶ
病院の屋上に鳩秋の空
秋の空看護師の卵白い鳩
相馬市や朝の山にかかる秋の虹
看護婦(師)と虹を見につつ快癒かな

虹の弧の伸びゆく朝や希望かな

看護師(婦)のイメ-ジは鳩なのである。男もいるから今は違っていても多数は看護婦なのである。
南相馬市立病院に入院したとき10月だから秋だった。その時も鳩がとまっていたとき看護婦をイメ-ジしたのである。鳩は平和の使いというときまさに看護婦にふさわしいのだ。ただ一人にはいじめられたということもあった。鳩ではあっても看護師は汚い仕事であり厳しいから鳩というイメ-ジとまた違った印象ももつ人が多い。看護師を恨んだ事件も起きている。それぞれの対応によってはそうなりやすいのである。いつもやさしくできるわけでもないし忙しいということもあり仕事に追われるからそういう余裕もない、あまりにも過酷で忙しければやさしくすらできない、それはどこでも同じである。


相馬総合病院の特徴は確かに海の方が見えるのだが景色は良くなかった。海も三階の方に行くと原釜とか沖に船も見えた。あそこは地理的にわかりにくいのだ。海側と山側の方角がわかりにくくなる。海に近いと思っていたが実際は山側に近かったのである。迷路のようになっているから余計方角がわかりにくくなるのだ。ただ病院は外の景色がいいと救われる。外の景色もみえないと一日寝ているとしたら嫌になるだろう。そういう点南相馬市立病院は理想的であった。だからそのことを短歌にしたりした。病院は長くなると相当に外の景色が見えないと嫌になるだろう。外の景色が見えるだけでいやされる。今度できる新地の病院は山で高いところにできるとすると海も広々と見えるから気持ちいいだろうとなる。今の相馬総合病院は迷路であり閉ざされているから迷路になる。ただ小窓から山側に虹を見たのである。山側に虹を見るのはめずらしい。たいがい海側でしか見てない、虹はめったにみられないものだから縁起いいとなる。


これも手術した後も歩いて運動しないと言われたから病院内を毎日歩いていたのである。病気らしい病気ではなかった。むしろ南相馬市立病院の方が腎不全であり体重も15キロくらいへったのだから結構重傷だったのかもしれない、三日間は40度の熱がでた。
バイ菌に感染したのである。これも怖いことだったのである。こういうとき犯罪にもあったから身寄りがないと病気になったら最悪である。一人は病気で家で寝ていて一回も連絡できなかったのである。これも急に腎不全になったから苦しかった。つまり身寄りがないというとき急に病気になったりしたら誰も助けるものなく放置される恐怖があった。相馬総合病院には十分な準備期間があり二週間で退院できたから楽だった。でも手術というのが厳しかったのである。たいした手術でなくてもやはり誰もみるものがいないのだから厳しいものとなったのである。そのまま死んだりしても誰もかまわないという恐怖があるのだ。


ともかくこの6年間どれだけ災いがつづいたか、それもやっと一応終わったという感じはしている。
そして人間がいかに非情なものか知った。弱みにつけこまれたからである。人間弱みにつけこむのが一番非情だと思うがそういうことは普通にある。戦国時代でも今でも他国になると弱みを探してつけいるのが人間である。人間を愛せというときそんな弱肉強食の世界でどこに愛があるのかともなる。現実の厳しさを経験したものはそんな甘いことでは生きていけないと残酷にもなる。食うか食われるかになったらそうである。そういう目にあっている人が多いから人間はまた犯罪があり残酷な事件もたえることなく起きてくる。ただ人間は絶対的にいつまでも強い人はいない、強い家族も団体も国もない、必ずいかなるものも弱るときがある。その力はいつまでも持続できない、どんな優秀な人も最後は認知症とかなり痴呆なって死んだという驚きがあった。どんな強い人もそうなる。ニ-チェは超人をめざしたけど最後は精神病になっり世話されるだけの弱い人間になったのである。今栄えている強いといういっても人間の場合は一時的である。今勢力がある団体もたちまち衰退してゆく、
「おごれるもの久しからず」それが人間の宿命なのである。