2012年12月22日

冬の雨(二両の電車の不思議は依然としてつづく(4))


冬の雨(二両の電車の不思議は依然としてつづく(4))


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枯芒雨にぬれつつ買い物に
夕暮れて二両の電車や冬の雨
見守りぬ二両の電車を寒烏
雨ぬれて鴨のよりあう灯のともし
停まる駅二駅のみや冬の暮
家消えて空き地の行き来年の暮
手水鉢木の葉一葉沈みけり田舎の静か雨しととふる


枯芒とはまさに自分のことだった。今や買い物に追われ介護に追われ家事に追われている。二両の電車は二駅しかとまらない、普通だったら赤字で走らせられない、災害でやむなく走らせているのだろう。この二両の電車は急ぐことはない、八両で仙台まで行くときは追われていた。何かせわしいものを感じていた。この辺はそんなに過疎という所ではなかったのである。単線ということはそれなりに鉄道ではロ-カル線である。でも八両の電車が仙台まで一時間おきにはしっていたときはこんなふうに感じない、二両の電車は自然のなかにとけこむのである。極めて人間的なになっている不思議がある。これをみても人間がいかにその交通に乗り物に機械に影響されていたかわかる。心まで全く変わらされていたのである。ただ二両の電車になったときそれをつくづく感じたことでもわかる。

いかに車時代が人間の心まで変えてしまったかこれでもわかるのだ。牛や荷馬車の時代の感覚とはあまりにも違いすぎるのである。だから人間はこうして便利なもの、乗り物でも機械でも自然から離れた存在となり自然の中で存在感を喪失していったのである。こんなことができるのは田舎だからである。都会だったらギュウギュウ詰めの満員電車にのったりと座ることすらできないから贅沢だとなる。田舎はいろいろ嫌なことがあっても都会では自分は暮らしたくない、大学4年暮らしてこりごりしたのである。もともと田舎向きだったのである。さらに老人になると田舎でないと落ち着かない、これは都会に住んでいる人もそうなるだろう。隣の保育所ができてうるさくて老人が寝込んでしまったということをテレビで問題にしていた。保育所でもそれだけの広さあるところに建てられない、人家で混み合う所に建てる他ないから都会では騒音にも悩まされるのだ。

ともかく人生は終わればあまりにも短い、最後はあっというまに終わるのである。


電車よ、もっとゆっくり走れ


人生は短し
電車よ、もっとゆっくり走れ
車窓の景色を心に写せ
電車よ、ゆっくり駅々に停まれ
いづこの駅そ、名残りを惜しめ
時の流るるはいかに早しや
電車よ、もっとゆっくり走れ
駅に織りなされし人生の
人との出会い、別れよ
その一時を惜しめ
還らざる時に涙する時もあれ
短き人生を何故に急ぐや
二度となき人生の時よ
今日も行く二両の電車もあわれ
しとしとしとと冬の雨ふる


電車の旅は長かった。あたかも電車の旅が半場人生になっていたのが自分だった。恵まれていたといえばそうである。その恵まれた時間も過ぎ去ってしまった。だからこんなに電車で旅してもあまりにも早く過ぎ去ってしまったなとつくづく思う。そのあわただしさ、スピ-ドの時代がしみじみとした情緒を殺したのである。現代の人間が情がないというとき何か情を育む余裕がない社会だからである。もちろんその時代のいい面と悪い面はあるからいちがいには言えない、でも余りにも急ぎすぎる、あわただしすぎる現代は何か人生に印象深いものを残さないのである。だからその人生もめまぐるしくこまねずみのようになっている。何かに絶えず追われている。それもこの辺ではパチンコ屋で暇をもてあまししている人がいてパチンコ屋で働き手がないとか忙しくしている。これなど相当馬鹿げたことだがそんなことでも一応働いて金に鳴くということで誰もおかしいとも思わない。そして肝心な所で困っている所で働かないのである。他でも人手不足のところがこの辺では多いから毎日募集しているからだ。そういう馬鹿げた無駄な忙しさを作り出しているのも現代なのである。


汽車横浜に着きて我等立ち上がりし時、かの君も立ち上がりて厚く礼をのべたまふ、その時、貴嬢もまたわずかに顔なる半巾をはずして口ごもりたまへふや直ちにまた身を座に投げ手巾を顔あてたまひぬ。その手のいたくふるへる様わが眼にも知れければかの君かえりみたまひて始めて怪しと思ふ色を眼の中に示したまいり(武蔵野-おとずれ-国木田独歩)


汽車の時代がありこの時の時間は今やかなり遅かった。その時間感覚はもう忘れ去れているのだ。
こういうふうに描写する時間がないのである。あっというまに人は過ぎ去ってしまうのが現代なのである。こんな流暢な動作が記憶されないのである。それだけ実は人間の時間が希薄されて濃密な時間の中での記憶が失われている。だから現代の人生はあとでふりかえるとただこまねずみのように追われた人生だけだったとなるのだ。
もちろん江戸時代の時間感覚など今では想像することすらできない、それが想像し得るのは車がなくなったときそれを感じるだろう。一日でもいいから車がなかったら江戸時代の時間感覚を想像できるのである。その時何か本当に不思議なタイムスリップして江戸時代に還ったような感覚になる。
戦後でも十年くらいはそういう感覚があったのだ。それが高度成長で喪失してしまったのである。