2012年12月21日

冬芽-冬紅葉(デジカメは新しい芸術を開いた)


冬芽-冬紅葉(デジカメは新しい芸術を開いた)


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やさしくも我が手にふれぬ冬芽かな
観音の手にしふれなむ冬芽かな
故郷やこの道いつも冬芽かな
この道や松一本に冬芽かな
欲絶えて菊にまとうは光のみ

ただ静か光に欲す冬の菊

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カメラにそんなに入れ込むことはなかった。現像したりするのがめんどうだったからである。これだけ簡単に写真がとれると写真をとることに興味をもった。冬紅葉にしてもまたデジカメでとったら別な風に見えた。散った冬紅葉の色合いがみんな違っている。これを肉眼で見たときはそういうふうに見てない、写真が一場面を切り取って視覚した結果、その色合いをしみじみ見るようになったのである。こういうことは前にも書いたがあったことである。写真の眼と人間の眼は違っているがが機械から見たものが違っている。細部は写真の方がよく写る。人間は細部を見ていない、全体を見るが細部を全部見ることができないのである。どんなつまらない風景でも細部を見ていない、細部をみるとこんな風景があったのかこんなふうに見えるのかと改めて気づくのである。今回もそうだった。

冬紅葉をまた抽象画風に加工したらまたこれも一つの新しいア-トの創造だった。これもデジカメとパソコンが合体してできた新芸術だった。

これは何の芽だったのか?いかにも冬芽らしい。この時は私は極自然にその芽にふれる。何か自分は女性的なところがある。男性的なところにもともと欠けていた。ただ自然に接するにはやはりやさしさ、愛が必要なのである。花などを愛すにはやはり相当なやさしさでふれないと花をけがしてしまうだろう。まず人間はその心をけがしたら自然の美にはふれられなくなる。これが意外と怖いことなのだが若いときなどそんなことに気をつかわないのである。自分もそんなに気をつかわなかった。

だから人間は自然をも常にふみにじっている。人間は前にも書いたけど善をすることではない、悪を成さないことが本当に善に通じている。善をする必要はない、悪を成さないことが自然と善なるものに向かっているのだ。そして人生をふりかえれば人生とは悪を成さない人がいない、罪を犯さない人がいない、身,口、意で必ず悪を成している。そういうことつつしむいましめることが善に通じていたのだ。だから若いときどうしても野放図になり欲望のままに生きることは相当に後悔することになる。その報いを受けることになる。善なるもの美なるものが見えなくなるのだ。自分も罪も犯したがそれが軽いものだったからけがされずにすんだのかもしれない、だから美を見る眼、善を志向する心があった。

本当の芸術は才能だけではない、やはり善の志向がないといいものはできない、本物はできない。
才能があってもそれで失敗する人はいる。才能がなくても悪を成さない人はすでに必ず良きものが
別に芸術だけでなくても実ってゆくのである。人間は生まれつきできまるわけではない、善なるものに対して無頓着なのである。そんなものより現実の欲望,利益に眼が奪われてしまうのである。

そして善なるもの美が見えなくなってしまうのである。カルト宗教団体でも結局はあれだけ数が多いのは欲望、利益に眼を奪われた人たちの集まりである。それが巨大な集団となって権力を目指すことになる。この世は金だ、権力だと思い込んでしまうのである。現実世界では確かに金の力が大きいし権力の魅了されるのはわかる。高い地位につけば濡れ手で粟で金が入ってくるとかなる。そういう人たちだけがこの世では優遇されるとなる。でもそういう人たちもやはり何か傲慢なものとなり人格形成で歪んでしまうかもしれない、すべてではないにしろ医者が人格がおかしいのが多いというときあまりにも崇められるからである。科学技術も権力なのである。東電があんなに奢りをもったのもそのためである。人間の奢りは滅びに通じていることは歴史が証明している。戦争だって日本は神国だなどとおごったためである。世界を知らなかったのである。そういう奢りは国家レベルでもそうだし個人レベルでも危険なのである。

人間は最後はどんな優秀な人も強い人も無惨に打ち砕かれ弱いものにされる。病気になり認知症にもなり痴呆になるなど今でも信じられない、それは大統領になったレ-ガンでもサッチャ-でもなったのである。人間の奢りは必ず打ち砕かれる。文明も一つの人間の奢りでありそれも今回の津浪の様に打ち砕かれる。


今日はパナソニックの自転車も注文した。原町にしかないのでそこで注文した。自転車だけは通販では買えない、ナンバ-の問題とかあとで壊れたら困るとかいろいろある。ただ新しいのが13アンペアとか出ているのはパナソニックだけでありヤマハで来年は新しいのでるといってもわからない、
電動自転車の問題は電池のバッテリ-の問題がネックとなっていた。走っていてどうしてもきれやすいのである。これは電気自動車にも通じている。それからデジカメでも今日新しいのを買った。

カシオの最新式がシャッタ-スピ-ドも早く機能的にいい、やはり新しく技術革新したものは売れる。景気でも何か目新しい技術革新したものが出れば不景気でも売れることはまちがいない、パソコンなどは今はみんな同じだし代わり映えしなえのである。自分は自転車は前から趣味で乗っていたしパソコンもやっていたしデジカメも俳句と一体化して興味をもった。自転車でも好きなものは百万円のものでも買っている。仙台でそういう人がいた。やはり仙台は金持ちがいると思った。これが東京辺りだとまたそういう金持ちが多いから金持ち向きの商売が成り立つのである。
まあ、確かに老人は年金暮らしでも金もっている人が田舎でもそれなりにいるのだ。公務員を退職した様な人はみんなもっている。


ともかく自転車にのるなとまだ言われていた。自転車に乗れなくなったら自分の人生も半分以上終わるように思った。筋肉が衰えているから長距離は苦しいが自転車に乗っている時が幸せを感じるのである。今年中に最新式の自転車が買えるので助かった。バッテリ-が4万とか高いので新しいものを買った方が得なのである。電動自転車で技術的に他と違うのはスピ-ドを出さない様に制御されることである。アシスト率とかありスピ-ドが制限されている。車だとそういうことはできない、60キロ以上スピ-ドが出せないとか設計されていないみたいだ。だからスピ-ドを出しすぎて事故になる。
そうした技術的に何か制御する制限するという技術がないのである。前にも制御する制限する思想が人間にないというときまさにそのことから地球環境の破壊がとめられず人類も滅亡してしまうということを言った。本当にリニアカ-など日本のような狭い国で必要なのかという疑問がある。
技術というのがすべて肯定されるものか疑問があるのだ。その最たるものが原子力発電だったのである。