2012年12月20日

枯草 (感受性も生来のものではなく作られるもの?)


枯草

(感受性も生来のものではなく作られるもの?)

karekusa2222.jpg


冬の草老後の交わり欲もなく

枯草に光寂けく欲もなし
冬の菊ただ静かに光かな
冬の菊吸い込む光十分に
冬の菊光のみまとい輝きぬ
冬日さし微動だにせじ石一つ
故郷の狭き歩み冬の鳥
冬紅葉散りし茶室の奥の道
冬紅葉玄関に散り客一人
電車待つ駅舎に一人枯芒


感受性というのは、機械の働きと似ています。つまり、使わなければ錆び付いてしまって動かなくなるのです。反対に使い込めば使い込むほど、神業のような働きをします。

 もし、中年からが本当に人生の花を開かせる時だとするなら、その時、自分の感受性は人生の中で最も高まっているときでなければなりません。その為にも日々新たな目で物ごとを見、関心のある本を読み、芸術にふれ、そしてなにより思索していなければなりません。それが自分の過去の経験と結びついたら、間違いなく人生の中で最も豊かな時を迎えることでしょう。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/4207/roujin.htm


これは誰が書いたかわからない、一ペ-ジしかでていない、名前もでていない、インタ-ネットはペ-ジだけ読まれている。そんな読み方今までなかったから変なのである。才能も生まれつきだけで決まるものではないとか体力もやはり生まれつきはあっても節制していないと60代ころから病気になりやすいと言ってきた。なぜなら酒を飲むのが習慣の人は肝臓とか腎臓が痛みやすいことは迷信でもない、科学である。たとえばカルト宗教では宗教の信心で決まるとなるがそれは生活習慣でそうなっているのだ。科学的に考察すればそうだがそう思わないのがカルトである。カルトには科学的哲学的思考が欠けているのだ。庶民に受けるのは幼稚的なわかりやすいことなのである。だから題目唱えれば病気も治るとか金持ちになる、政治家にもなれる、地位も得られるとかいいことばかり言っていればいいわけである。真宗でも日蓮宗でも題目だけを唱えればいいというのは庶民には一番わかりやすいからカルトになっているのだ。そこに学者とか医者とかが権威づけるとまたわかりやすい。政治家でもやはり庶民にとっては一番わかりやすい現世利益を与えるものとなる。幸福の科学でも今や科学的思考はしていないだろう。そういうふうな科学的哲学的思考は庶民が一番苦手とするものなのだ。


人間は詩人などは特別の人間で感受性も天性のものだと思っている。でも自分は確かに詩人とししての素質は多少あったにしても前にも書いたけど俳句とか短歌でも稚拙な小学生なみのものしか書いていないから指導者から見たらどんな才能あるのだろうとなっていた。意外と俳句すら実際は奥深いものだから簡単なようでむずかしいものなのである。それは第一鑑賞することもむずかしい。そして
最近わかったことは最も日常的単純なものに真理があり奥深さがあり美もある。自分が最近俳句や短歌にしていることは別に遠くを旅して書いているものではない、それは別にあり毎日の平凡な風景を俳句や短歌にしている。日本では季節の移り変わりがあるからプログには向いていたのである。


枯草は普通に見える風景であり特別なものではない、冬の草はこの辺では普通は刈田だからその刈田に草が一面に生えていることはなかった。そこは変わっていたのである。また枯草になっている所も多いから違っていることは確かである。それで枯草が午後の光に映えていま風景がなんとも心にしみるものを感じた。枯草というとき死をイメ-ジもする、静寂の光の中に枯草のように死を迎える感じすらした。それは欲がないとそうはならない、若いときはむんむんとした欲があるからこういうふうに深く自然を見れないのである。自分は20代終わりでも老成していた。老人に見えていた。だから老人になることが向いていたというのも変だが老人になって本領を発揮するようになっていたのかもしれない、今の老心は枯れない、70才の女性でもストカ-がいたように性も枯れない、女性もそんなに欲望が深いと思わなかった。

こういう老人は枯草を見ても冬の光を見ても若いときと同じ様になんにも感じない、ただ依然としてギラギラした欲望があるのみなのである。回りにはそんな人ばかりだしこんなふうにして静かに過ごしている人もまれである。働くことばかりで自然をじっくり鑑賞している暇もない、それも意義あることならいいがパチンコ屋に勤めてどうなるのというのだ。そこに人が足りないとか毎日あくせく労して働いている。もちろん事情かあってそうなっていてもそんなことで時間を労していること自体無駄でしかない、しかし意外とそうした労働もこの世には多すぎるのである。とにかく何でも何かに追われているのがいいとさえなっているのだ。この世にはそういう仕事も結構多いのだ。本当に山尾三省のように意義を求めて働いている人は意外と少ないのである。
要するにこの世が金だというときそれが庶民の求めるものとして一番具体的な欲望と結びつくからそうなっているのである。


水原秋桜子さんの
「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」
という俳句についての質問です。
水原秋桜子さんの
『冬菊のまとふはおのがひかりのみ』
という俳句の『おのがひかり』という部分がよく分かりません。
どうゆう意味なのでしょうか?


冬菊が冬の弱い日差しを浴びて照り輝いており、自ら光をまとい放っているかのように見える。
「おのがひかり」は「自分の光」です。
白い菊でしょうか。まるで自分から光を放っているかのように凛と咲いている様子だと思います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1436443194


これは冬の菊に不純物がなく静かな冬の光のみがそこにさして冬の菊から光が発しているように見える。これは冬の光を感じないと作れない、冬の光は老人にさす光としてふさわしいのだ。この光を深く感じる心境になるのは老人なのである。光はフェ-ルメ-ルの絵のように日常的なものでも深いものがある。ただそれを感じないのである。フェ-ルメ-ルの絵はあまりにも平凡な日常的なものに美を発見したことにあったのだ。

いづれにしろ老後の交わりは欲がなく落ち着いたものだといいのだがそういう人もいない、60代は働き盛りだとかなっているだろう。それも意義あることならいいが実際はそうでないものも多いのだ。ただ働いていることがパチンコ屋だろうが何だろうが金になればいいとなる。それはソ-ロ-が批判したことなのである。仮設で別に働く必要がない、それがパチンコ屋が繁盛してパチンコ屋に勤めている馬鹿げたことになっている。ここに何か仕事でも無意味なものが多いということを象徴しているのだ。それなら介護でも意味がある。そういう方面は人手不足なのだから働けば意義がでてくる。

そういう人と何か家族でもそうだったがともに生活しなければならないから困るのである。
それは中学卒だからだとか常に言うけどそれも違っている。人間としての常識がないのである。
他に今は困っている人がいてもパチンコに勤めるのが忙しいとかパチンコするのにそんな暇がないということ自体異常でもそれが大勢になればそれも普通のことになってしまうのである。
行動にはそういうことが多い、深く鑑賞的な生活をする人はいない、老後に向いているのは鑑賞的生活なのである。認識力、鑑賞力を高める生活なのである。