2012年12月15日

政治には期待できない (新しい国造りは日本国土全体の栄が何か知るべきである)


政治には期待できない

(新しい国造りは日本国土全体の栄が何か知るべきである)

●政治は誰がやっても同じで変わらない

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政治はいわば大小の砂利のいっぱいつまった、社会の砂袋のようなものである。政党は対立する砂袋の半分である。時には四つにも分離することがありたがいにこすりあうのである。
ソロ- 「市民としての反抗」


今の状態はまさにこれだった。砂袋が8っつにもなっている。でもその政党が別にどの政党とくっついても変わりないように見える。共産党は別としてどの政党と砂袋と一緒になっても変わりない。
分離してこすりあっているだけだとなる。原発にしても今やみんな反対しているから選びにくいのだ。自民党は一番原発にたいしては推進派である。民主党の失敗は自民党の路線を否定したのだが結局、自民党の路線を引き継いだことが多かったのだ。また官僚に対しても対抗できなかった。そもそも政治が何によって動かされているのか?例えば電事連という団体や連合でも民主を支持した団体は原発推進である。原水協も電事連の人が入っているから原発推進だった。それで失敗したというがやはりそういうふうにどこにでもそうした組合に所属している人がいるのだからそういう団体によって政治も動かされているのだ。連合でも電事連でも原発推進だったら自民党も最初から原発推進だったからそれが日本国全体で強力な戦時中の大政翼賛会になっていた。大本営発表になっていたのである。もし民主党がこうした団体とかかわらず自主的に政策を決めていたら原発を見直したかもしれないのである。そういうことができない圧力が内部からあるのだからそんなことできなかったのである。

福島県のドンの民主党の渡部恒三が強力な原発推進者だった。そのGEの社員だったことでもわかった。
民主党は自民党の原発推進を積極的に受け継いで失敗したのである。その背景はその支持する団体が原発推進だから当然そうなったというにすぎない、マスコミでも東電から莫大な宣伝費が流れ電事連からも流れるとか何かの団体の支持によってマスコミは運営されているのだ。聖教新聞を福島民報では刷っているからその意向にはさかえらないのと同じである。それは創価だけではない、背後の団体によって政治は動かされるのだし政治が数によって決まるというときどうにもならない、権力の主体は政治家にはない、それを支持するものにあるのだ。政治が変えられないというとき政治家の問題でもない、そうした支持するものが変わらないのである。何にも団体などの支持がなくしがらみもない人は当選できないのだから当然である。たいがい団体は利害心は自己愛もっていても愛国心などはない、東電でわかったようにメルトダウンして死ぬか生きるかのときも海水を使うと原子炉が使えなくなり大損だと幹部が騒いでいたのである。人間の命より原子炉が大事だったのである。それか会社なのである。何であれ会社の利益が優先されるのか現代の社会なのである。


●インドのような価値観も現代では必要

人間は本来が自然なしには死滅するほかないものである。われわれが馬鈴薯よりも教養を砂糖菓子より啓蒙を欲するとき世界の大資源ははじめて強要される。(ソロ-市民としての反抗)


結局この辺の原発事故もこういう所から起こったのかもしれない、教養などより何がなんでも腹のたしになる馬鈴薯であり砂糖菓子を求める。山尾三省のような極貧の生活に意味と意義を求めるものは農民でもいなかった。パンを食べたい菓子を食べたい車が欲しい、電気製品が欲しい、・・・・その欲望はとまることがなかった。そのためには原発を積極的に誘致した。隣の町で財政がうるおっているからこっちも欲しいと競争だったのである。それが原発事故でどうなってしまったのか?
自然が死滅したら人間も生きることはできない、土も水も汚染されたら生きることすらできない、原発がもっと日本全土に大規模に起こればそうなった。第一ソロ-のような生活をめざせば奇人であり何だあいつは馬鹿なことをしている酔狂なやつだとしかならない、山尾三省も奇異な眼で見られるだけである。しかし原発事故が起きてそういう普通の一般の人も反省を強いられたのである。


思うに都会と田舎は本当は別な価値観をもって生活すべきだった。ソロ-のような極端な崇高な生活ではなくても山尾三省の極貧な生活までしなくても第一次産業を基盤とした都会とは同じではない、別なもともとあった山河、大地と共に生活してきた価値観を大事にするべきだった。それは国全体がそうでありグロ-バル化で世界全体が同じ価値観になってしまったのである。誰も車をもちたいというのは世界中で同じになったからだ。だから今や世界中でどこもたいして変わらない生活をしているのである。インドのような所は変わっていた。牛糞を干して燃料にしていると思えばまだ炭を使っているし街路を牛が歩いている、そんなところでも家で子供がゲ-ムを白黒の画面でしてしいたのである。インドすらそうしてグロ-バル化の価値観の中にくみこまれてゆく。ただ牛を聖なるものとして
街路を歩いていることは違っていたのである。まだそういう古来の価値観を壊さないのである。でも牛がのろのろ街路を歩いたら車も通れなくなるから文明化すれば牛もそんなふうにして放置されないだろう。でもインドではまだそうした古い価値観が生きていることが他とは違っていたのである。


●万葉集など日本古来の価値観の見直すべき

今や田舎に住んでも田舎の人も都会と同じである。むしろ都会の人より贅沢をしている。何でも金があれば手に入る時代なのである。食うもの着るものも住んでいる家もむしろ都会より広い庭でいい家に住んでいる。しかしそういう都会と同じ文明的生活に落とし穴があり原発事故になった。もし古来の価値観を継続して山尾三省のうよな思想で意味と意義を求めて生きていたらこんなふうに自然すら死滅して町すら消滅するなどということはなかったかもしれないのである。本当に人間の栄は東京の大都会になるのか?高層ビルがスカイツリ-がその栄の徴しなのか?そんなものに美があり意義があるのか?都会には数が多いから結局その数で都会人によって政治も決まる。限界集落には政治家の宣伝車も来なかったという。票にならないからそうなる。では限界集落はすべて能率的でないから消滅させるべきなのかということになる。そしたら国土が維持できるのかという問題もある。最近森林の木材が50年過ぎて使えるようになった。それで森林が再生して山村も雇用が増えて活気がでてくるという。つまり50年後でも自然のリズムが長いから栄えることがある。都会はそんなに長いリズムをもち得ないだろう。自然と離れているから自然によって豊になるのではないからその栄も短いともなる。

題詞]六年甲戌海犬養宿祢岡麻呂應詔歌一首

御民吾  生有驗在  天地之  榮時尓  相樂念者


御民我れ 生ける験あり 天地の 栄ゆる時に あへらく思へば 


みたみわれ いけるしるしあり あめつちの さかゆるときに あへらくおもへば


天地と共に自然と共に生きている時そこに真の栄があり生きた験(しるし)がある。
その験(しるし)とは何か?スカイツリ-でも高層ビルでもない、まさに自然の中にあるものが験(しるし)として残る。千歳の岩であり石であり樹であれ山であれ海であれそういう栄こそが真の栄だったのである。原発事故周辺ではそういう自然の栄が奪われたのである。そしたら生きる験(しるし)もなくなってしまうことになる。自然の寿命は千年とか長い、都会の人工物の寿命は短い、その栄は一時期で消滅する。だからこれからは都会だけではない、国土全体から国が栄えるように田舎も見直すべきだしまた田舎に住んでいる人も今までの日本が有した万葉集などの価値観を再考して国造りせねばならないのである。

posted by 老鶯 at 22:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連