2012年12月07日

津浪の高さ1メ-トルか、それにしては大騒ぎ? (人間は何を信用すればいいのか?)

 

津浪の高さ1メ-トルか、それにしては大騒ぎ?

(人間は何を信用すればいいのか?)


●1メ-トルという数字にこだわる人間の心理


今日の地震は怖かった。揺れが長いし何か不安になった。すぐに津波警報がでた。南相馬市でも津浪注意報で高台に逃げてくださいと家のそなえつけのスピ-カ-から何度もアナウンスされた。その場所まで指定された。注意報でそれほどまでするのかと思った。海岸とか川には近づかないのがいいがそこまで避難せねばならないのかとなるとやりすぎではとも思った。やりすぎでもやはり地震が大きいからしかたないという意見も多かった。北海道から関東まで広範囲の地震だった。師走に日本列島が震えた。やはり自分の場合ガスに火をつけて味噌汁を作っていたがテレビで盛んに警告していたので火をつけていたのを忘れ鍋をこがし使いなくした。台所が離れているから別に地震でなくても忘れることがある。火はこうして地震のとき消せないことが多いのだ。特にガスは危ないとなる。


1メ-トルの津浪とNHKで盛んに言ったし現実に鮎川に一メ-トルの津浪が来たというしそれ以上のものが来るとも言った。でも一メ-トルだと恐怖感がまるでないのだ。3・11の津浪は6メ-トルだった。こんな数字を見たことがない、たいがい一メ-トルくらいで一メ-トル以下のが何十センチが多かった。6メ-トルは瞬間的に高いと思ったがそれでも反応しない人が多かったのである。6メ-トルは10メ-トルでもあったし実際は20メ-トルだったのである。なぜ反応できなかったのか?一メ-トルだったらわかる、6メ-トルは瞬間的にしても恐ろしく高い数字だったのである。なぜかわからないが津浪の数字など出さない方がいい、早く逃げろと言った方がいいとかいう人がいた。人間はなぜこういうとき数字にこだわるのだろう。文明とは基本的に数字から成り立っている。何でも数字で判断するのが習慣となっている。統計的にも常に数字が文明の言葉にすらなっているのだ。これが江戸時代やまして縄文時代とかなれば数字では判断しない、数字の魔術がありそれで見えるものも見えなくなっているのかもしれないのだ。


●数字の魔術に注意


例えば病気になってから新聞の死亡蘭を毎日見るようになった。そこで必ず50才でも60代でも死んでいる。一割は死んでいる。高齢化なのにこんなに死ぬのかと不安になるのだ。統計を見ると例えは65まで生きる人はすでに15パ-セントは死んでいるのだ。65までいきられなかったのである。
これが百人の15パ-セントは15人死んでいるのことなのだ。同級生で50人クラスだと6人くらい死んでいる。それだとたいした数ではない、でも百人になると15人でありこれが千人になると150人であり
百万人になると15万人死んでいるのだ。ええ、15万人も65になるまで生きられず死んだのかと驚くのだ。ここに数字の魔術がある。数字だけで判断すると何か具体的なものとかけ離れる場合があるのだ。現代文明は数字だけを追っている傾向がある。遂に人間は数にすぎないと文明批判した人もいる。個性はなく名前もなく数にすぎないとなる。現実的に文明はそうなって人間存在が希薄している。
名前すらなく数にすぎないとされる。選挙などもそうである。一票もしょせん数であり数で決まるとなり人間は一票の数にすぎない、それだけの価値しかないとなる。だから創価などでは選挙の一票としてしか人間を見ていない、どうしたら数を集めるしか頭にない、一票に結びつけばそれだけ権力をもつことができるからだ。それはどこの団体でもそうである。数を集めたものが民主主義では権力をもつことになるからだ。政治は金と数だと田中首相が言ったがそれが現実なのだ。


ただこの数字で何でも判断すると津浪さえ何かその魔術にひっかかり誤ることがあるのだ。1メ-トルというとき人間は不思議に1メ-トルにこだわる。やけに数字にこだわる。数字で判断するのだ。もし数字が出なければまた判断は違ってくるのだ。だからかえって数字を出すなという意見もあった。
6メ-トルでなくて最初に10メ-トルだとかなりのインパクトがあった。6メ-トルと出したことでそれでも避難しない人が多く死につながったのである。数字が生死を分けたことに驚いたのである。
津浪とか地震とかは数字で計れないものかもしれない、体感が大事だということもある。
機械に頼り機械の数字で地震の強度を判定して放送して失敗したという報告もあった。
体感的には3・11の地震は数字で計れずあとでマグニチャ-ド9にしたのである。
つまり体感ではなく機械を頼り数字を頼ることは一面危機に対して判断を誤ることがある。
かえって直観的な感にたよることが助かる場合があるのだ。その感が今や機械化で衰退した。
だから機械に頼り数字に頼り放送に頼りとそういうものに頼り自分の感に頼ることをしないことが危険になる。海外旅行では若者は有利である。言葉を知らなくても平気でどこでも行けるのは若者は環境にすぐに同化して外国人でも友達になりやすいとか一番有利なのはその場その場で感が働くのである。自分は50才で海外旅行だから全く感が働かないからひどいめにあった。だからもう海外旅行には行きたくないとなる。


いづれにしろ今回の地震は体感的には大きく感じたから怖かったのだ。実際に広範囲でありだからこそあれだけ警戒したのもNHKを責めることはできないとなった。揺れが震度5でもマグニチュ-ドや体感からすると大きな怖いものを感じたのである。だからこのくらいだと津浪が襲ってくると普通に判断できるし逃げるのが無難だともなったのである。ただ一メ-トルにこだわるのは危険だともなる。
今回はそうでも次はそうでもないからだ。ただ震源地が遠いから津浪もたいしたことがなかった。
3・11は近くて大きかったのである。


●高さ一メ-トルで百パ-セント死ぬの疑問


理論上では、高さ1メートルの津波にのまれると死亡率は100%。台風や大雨と違い、横から押し寄せるエネルギーで身動きが取れなくなるためだ。

中日新聞
http://www.chunichi.co.jp/article/earthquake/sonae/20120917/CK2012091702000033.html


これって本当なの?波の圧力が一方向じゃないのが津浪なのか?一メ-トルでも圧力が違っているのか?津浪はわかりにくい、引き波で一メ-トルでもひきずりこまれるということも怖いのだ。
でも1メ-トルでそんなに怖いの?これも疑問なんだよな、1メ-トルでは逃げないだろう。
でも一メ-トルの意味は体一メ-トルにひたることだと思う。身長が1メ-トル70センチでも一メ-トルだったら半分以上水にひたるから怖い、でも体に一メ-トル水がひたるとは書いていないのだ。
つまり津浪の高さが1メ-トルとはどこから一メ-トルなのか書かれていないのだ。
体が一メ-トルひたれば怖いが普通はそうならない、どこの水面から1メ-トルなのかが問題である。
だからこういう記事も良く自分で想像してみないと誤り安いのだ。


テレビでもそうだが新聞の記事でも瞬間的に見出しからすべてを判断してしまうのである。
だからテレビの報道は常に瞬間的に判断を強いられるから危険である。
犯罪でも一旦報道されただけでその報道されたことですでに犯罪人扱いされるし悪い印象をもち消せなくなるのだ。人間はやはり想像力が大事なんだけどテレビとか個々人の想像力が入る隙間がないのである。一方的に瞬間的に決められてしまうから判断を誤るのである。テレビ局によって判断されるのであり個々の人間の判断力は全く無視されるのである。

中日新聞でも津浪の高さが1メ-トルで百パ-セント死ぬというとき一瞬驚くけど中日新聞社だから一応新聞社だから信用することがある。それは科学的に確かでもその意味は違っているのだ。でもこれも瞬間的にすりこまれて恐怖になるのだ。そういうことが報道には非常に多いのである。

今や人間の信用するのがマスメデアとかにあった。NHKは一番信用されているからその影響が大きくなりすぎたのである。そこに落とし穴もあった。原発事故などでも全くみんなマスコミを信用していたからそうなった。誰も原発が危険だなどと放送しない、東電やら電事連やら多額の宣伝費が入っていたからである。それでも今はマスメデアをみんな信じているから影響が大きいのである。
批判した本がでていてもそれはSF的な冗談のような扱いにされていたしそういうふうにしむけられていたのである。

何を信用するかとなると誰も個人的なプログとか2ちゃんねるとか信じる度合いは極端に低いのである。プログなどは別に宣伝費などもらっていないのだからかえって信用すべきものがあるかもしれないが信用されない、匿名だということも信用されない、とすると信用されるのにはどうするのかということも大事になる。インタ-ネットが信用できないのはやはり匿名だということがあるのだ。例え信用したくてもそれで信用できないということがある。名なしの人や誰かわからなん人は信用されなくても当然だからである。そこにインタ-ネットの問題があったのである。


そんな中、「地震で家が崩れ外に出られない、救助を呼んでくれ」という 
「デマツイート」が急激に拡散され、朝日新聞社会部のアカウントも釣られる事態となった。 

このユーザーあてに「大丈夫?」「寒いですし、大変ですが耐えてください いつか救助が必ずきます」など 心配のコメントが寄せられた。また、朝日新聞社会部のアカウントからも「朝日新聞社会部です。
場所はどちらですか?DMなどでもいいのでお知らせいただけますか?」との返信があった。

http://www.j-cast.com/2012/12/07157349.html

これも匿名だし身元が特定できないからこういう問題が起きる。
こうした緊急の場合とかはインタ-ネットは役に立たない、信用できない面がある。
ただ速報性に優れているから緊急の場合役立つのだ。
テレビ以上に速報性はあるのだ。
今何が起きているから知らせることができるのだ。
問題は信用できないことなのである。
緊急の場合は疑っていて遅れたら死んでしまうから困るのだ。
この場合もそう思った人がいたのである。

朝日新聞もだまされたんだな、今やそれだけインタ-ネットは広がっている
社会化しているんだから責任もでてきているんだよ
便利なもんだから庶民にも役に立つけど信用できないんだよな
マスメデアも無視できなくなっているんだよ

posted by 老鶯 at 23:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

津浪の後の冬景色(原町まで自転車で行く)


津浪の後の冬景色(原町まで自転車で行く)


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津浪でこのようになった
この景色がどれだけ美しいものだったのか
八沢浦も一時海になった
古代の風景がこうだったら
やはり真野の草原は面影にして見えるほど美しいともなる
朝日が上り陽の光がさしてきらいらかがやいたらどれだけ美しいか?
死んだ人がいるんだからそんなこと言うなと言われるが
やはり美しいものは美しいのであり感嘆するのである


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寒烏十羽一団風唸る

風受けて自転車に行く冬の草
六号線の途切れ道の駅時雨かな
みちのくの枯野の果てや沖に船
凍雲の動かず介護つづくかな
鍋こがし師走の地震また騒ぐ


津浪跡冬の夕日に残る松あわれなるかな沖に船見ゆ

塩崎津浪来たりぬ船着の名のある古代冬の陽没りぬ
静かなる冬の林にかすかにも小鳥の鳴きつ飛びわたるかも

静かなる枯木林に凍雲のたなびき動かず日の暮れにけり

烏は川にあんなにいるのは鮭が上っているせいである。鮭の死骸も食べている。なんか雀は減っている感じがする。冬もあまりみかけない、問題は動物は何を餌にしているかである。

雀の餌
よくスズメの成鳥は、お米や野菜なんかを食べに来ますが、本には、「野生のスズメのヒナは、親スズメからクモや幼虫など、動物質のエサをもらっているので、家庭で育てるときも最初は動物質のエサを与える」と書いてあります。クモや幼虫やハエや蚊、等だそうです。少しならしたら、すりエサ(水に浸したムキアワ、ボレー粉、水、水菜をドロドロにさせた物)をあげるそうです


烏の餌


・肉類と脂類が好物で、時には生きている獲物を襲うこともある。
・天敵がいないために産んだ卵が全て孵りますます増える結果となっています。
・小動物 植物 果実や農作物 樹木などの種など、農耕地に多く生息する。
・ハシボソカラスが農作物を比較的多く食べ、
ハシブトガラスが本来であれば樹木の種や森の小動物 昆虫を多く食べます。




この辺の植物とか動物の生態は変わってしまった。田んぼがないことが生態を変えたのである。田んぼには水生昆虫とか蛙とかがいたから鷺がそれらを餌にしていた。ところが夏にそれらがいなくなったから鷺がいなくなった。でも川に餌があるから鷺がいた。最近になって鷺が増えたのは鮭が多く上ってきてそこに集まっていた。今日は小さな川なのだけど鷺が集まっていた。ただあんな小さな川に鮭が上ってきているのか不思議であるが原町でも上ってきていたからなんか小さな川からも鮭が上ってきている。雀がへったのは米や野菜がないからかもしれない、でも昆虫類も食べるとすればまだ昆虫は森とかにいる。冬の森であかげらが盛んに木をたたく音がひびいていた。アカゲラは大量の虫を木をつついてほりだして食べていたのである。森閑とした森でもアカゲラにとっては忙しかったのである。そこは岩手県の小岩井牧場であり一面の雪におおわれていた。この辺ではアカゲラが一回くらいみてもなかなか見れない、


近くに森がありそこを原町まで自転車で行く、電動自転車だから坂をのぼりやすい、自転車にのっているとやはり自然を感じるからいいのだ。今日はそれほど寒くないみたいだった。風もそれほどでなかった。この辺は北風がこれから吹く、相馬の空っ風とかなる。冬の草というとき刈田になっていないから草が生えているのだ。刈田だったら草が生えないのである。
電動自転車は風にも強いから頼みになる。結局風流を感じるにはまさに風の流れを感じるのだから車ではもう風流もない、今日は時雨もあった。時雨は太陽が出ているとき日がさしているときぱらぱらとふるのが時雨である。一面に曇った時の雨は時雨ではない、それから森には凍雲が動かずたなびいていた。この凍雲はほとんど寝たきりの母とにている。介護も今は実際は相当長くつづくのだ。

人間は今は簡単に死なない、なぜならエアコンをしたり栄養あるものをそれなりに食べさせたり介護が手厚ければ簡単に死なないのだ。それで介護が長くなり余計に金もかかる。電気代もかかる。

これが病院に入院した人もそうである。南相馬市立病院は事務で金の請求があって払いにいったら半分に縮小していた。なんか病院でも淋しいとなる。自分がかかった医者はやめたのかもしれない、名前がなく福島医大の先生となっていたからだ。医者はどこでもひっぱりだこでありこうなると楽じゃないから勤めたくないということがある。勤務医は移動しやすい、両親などいなければ移動しやすいのである。開業医はその土地で暮らすから土着的になると書いた。看護師でも土着的でないと一時的に来ても仕事とならないから困る。ただその土地に何か特別愛着がないと定着しないだろう。

70才くらいの産婦人科の開業医が最後のミッションだとこの土地でがんばっていたのはそれだけ長く医者をしていたからである。つまり仕事でもその土地に長くいることで土着的になったときその土地に愛着をもつのである。一般的にその土地に長くいると愛着を覚えてくる。長くいると人間はやはり生物なのだから石や樹のようになると何度も書いてきたけどそれが自然なのである。別に特別愛着がないにしろ自然とそうなってしまうのである。だから老人が長年親しんだ土地を離れるのは一番辛いことだったかもしれないのだ。


今日は大きな地震で怖かった。1メ-トルだというとき何だとみんな思っただろう。1メ-トルでは避難する気にもなれないだろう。いくら津浪を経験してもそうである。あの時は最初、6メ-トルというときやはり驚いた。1メ-トルでも実際は3メ-トルにもなるかもしれないと警告していた。6メ-トルでも10メ-トルくらいを予想しなければならなかった。10メ-トルとなったらこれは瞬間的にも驚く、6メ-トルと10メ-トルの差が大きかったのである。これで味噌汁を作るために火をかけていたのが忘れて鍋を焦がしてしまい使えなくなった。台所が食事するところと離れているから困るのである。

食事の用意をするとなると台所が近くないとやりずらいのだ。それで運んだり手間がかかっている。料理は結構手間なのである。勤めている独身の男性でも帰って料理するのがめんどうだというのがわかる。疲れているのにまた帰って料理するのでは休めないのである。ともかくここ五年間は何か自分は何かに絶えず追われているのだ。介護であり最悪の自然災害であり原発事故とかおさまらないのである。ただ病気のことが一応手術で一段落したので余裕ができたのである。自分が病気だったらこんな状態だったら火の車になってしまう。現実そういう日々がつづいていたのである。