2012年12月19日

相馬総合病院に入院、短歌まとめ (津浪、原発の被害の大きさを実感)


相馬総合病院に入院、短歌まとめ

(津浪、原発の被害の大きさを実感)

病院の外に夾竹桃の花赤しその花見つつ今日もすぎゆく
病院の窓に夾竹桃の赤き花風にゆれにきいでられじかも
津浪にて家を流さるその人と病室ともに秋となるかな
朝焼けの雲を写して病院の窓や相馬は海近しかも
丸森の人は去りにきそのあとにしばし思いぬ秋となるかな
菜花という名字の人の一時を同じ病室にはや去りにけり
草むらに月見草咲き病院の窓より見えて相馬市にあり
散り散りに町民なりぬ帰れざる人の悲しき虫の鳴くかな
病院に見守る人もなきにしにかすかに聞こゆ虫の声かな
病院に隣り合いつつ一時や相馬市にあり虫の鳴くかな
日に二度の回診ありぬ病院の心やさしも励まされるしかな
掃除する人にも感謝し退院の病院なべて患者に尽くす
病院の食事にも我感謝する独り身なれば買うこと多く
身よりなき人の悲しみ人知らじ看護師も知らじ虫のなくかな
弱きもの知るは弱きもの剛き者心知らじも虫の鳴くかな
人はみな今病院の死に場なりそのこと深く思うべきかな
請戸の人飯坂に住み雪ふりていやになりしと相馬市に来る
津浪のこと語りつくせぬ一年をはやすぎてまた秋の来る
相馬市の屋並を見つつあわれかな朝にひびける秋の蝉の声
頼るべき人とてなきに病院の朝より聞きぬ虫の声かな


二週間の入院は意外と短かった。入院すると長く感じるのだ。今回の入院は病人のようにみんな思えなかった。たいがい二週間以内でありある人は入院ではなかった。検査入院の人もいて二日くらいで去る人もいた。毎日話ししているのも笑いがあるのも病院らしくなかった。ただ病気は病気なのである。それが必ずしも軽いともいえないのである。前立腺癌の手術はそれなりに重い。現実に将棋の
米長氏が69才で死んだことは死ぬということもありうるのだ。ガンになったらやはり相当に重傷だろう。今回の病院は本当に津浪の影響を受けた人が意外と多かった。原発の被害者もいた。浪江の人はそうだった。相馬市には浪江の人がかたまって仮設に住んでいる場所がある。特別室に入っていた請戸の人は一時は飯坂にいたが雪がふるのが嫌で相馬市に来た。山元町の磯浜の人も津浪の被害にあっていたし、新地の人も家が流され仮設に住んでいるし松川浦の和田の人も津浪の被害にあった。
小高の人もいた。津浪原発の被害者が相当数入院していたのである。丸森の人がいたのも相馬市である。菜花というイワキの人は二日くらいで去った。苗字がめずらしいので覚えていた。

ともかく病院であんなに話すことはない、病人だから静かなのが普通である。ただここでは病気は一応みんな直って退院している。その期間が短いからあわただしいということがあった。

自分は身寄りがないから今回も辛かった。南相馬市病院に入院したときもそうだった。そこで酷い仕打ちにもあった。今回も一回あった。身寄りがないということはいかに怖いことか?それは病気になったときわかる。そうでないとこれも実感としてわからない、自分だって病気になっていなかったら犯罪にもあわないしそれなりにのりきれたのである。つまり病人が病人を世話するとか介護するほど過酷なことはないのである。でも実際そういうことが老々介護で起きているのだ。夫婦だって一方が病気になればどっちかが介護になる。今は子供が田舎から離れていたり遠くに嫁いだりとなかなか田舎にいるとは限らない時代である。だから田舎でもそうした老々介護のようなことが起きてくる。


病院は今や実際は社会にとって大事な場所になっている。それは今は家庭より病院でほとんど死ぬからである。そこが看取りの場所となる。でも病院は死ぬ場所としてふさわしくないのだ。何か無機質であり医者でも看護師でもやはり看取りするとしても数が多いんだしまた一人死んだくらいの感想しかもてないのである。人間がモノののように順送りに処理される場になる。死んだら早くかたづけてしまう。次が待っていますよとなる。そして死んだ人を覚えている医者も看護師もそんなにいないだろう。そこは家族とは違っている。家族は死んでも長く死んだあともかかわるのである。
自分は今や身寄りもないからもう病院には入りたくない、病院は身寄りがないとしたら恐怖の場所になる。別に病院でなくてもそうだが病院はやはり刑務所とにているのだ。家で介護されて死ぬのが理想であるがそれが確かにむずかしくなっている。理想的死に方は例え病院に入院しても長居しないで二週間くらいで死ぬことである。そういう人を身近で二人くらい知っている。そういう人は別に身寄りがなくてもそんなに苦しむ必要はない、これは別に身寄りがなかろうが長く介護されることはかなりの苦痛である。無理に生かされることが生き地獄になっているのが現代なのである。


南相馬市立病院には一か月いたし相馬市の病院にも二週間いた。どちらも秋になるころだった。南相馬市立病院は10月であり今回は9月だっ
たから違っていた。まだ本当は暑く夏だったのである。ただ
冷房しているから涼しいから病院内は秋になっていたのである。外は夏の盛りだったのである。
ただ確かに蝉は秋の蝉であり虫も鳴き始めたから秋ではあった。ただ外にいたら真夏だったのである。10月ころになればしみじと秋になっていた。するとより感傷的になっていた。今回はあまりそういうことはなかった。でも相馬市は秋の蝉がにあっている感じでもあった。相馬市は原町とはずいぶん違った感じを何度来ても感じていた。病院でも同じだった。


いろいろ医者や看護師や患者や病院を話せば尽きないものになるだろう。それぞれの体験も違っている。相馬市の病院の最大の特徴はそこが迷路のようになっていた。本当に古いし建て増しして迷路なのである。相馬市の病院は新地に新しい病院ができたら患者がへるから問題にしている。新しい立派な病院に行きたいともなる。入院だったらそうなりやすい、ただ建物があっても今や南相馬市立病院は機能していない、医者も看護師もいないのだからそれだけの人員を確保できるかどうか問題になる。建物だけ立派にしてもまたそれだけいい病院とはならないのである。


病者を非病者の社会から隔てる
高い城壁の一隅に
小さな目立たぬ城門があり
そこから細長い塹壕が伸び出て
病者のまじかくまで届いている
そして病者の友人や縁者が
時折この壕をたどって病者を見舞う
・・・・・
(細川宏 遺稿詩集)


この人は人間的にも相当優秀だった。自ら医者でもあり東大に入っている。柔道もインタ-ハイとかに出るような人だった。その人があえなく病気になり44才で死んだのである。自分にはスポ-ツができてさらにこれだけ頭いいという人を理解できない、普通は体育系の人は頭は良くない、勉強できない人が多いからだ。それなのにこれだけ体力もあり頭がいいということが理解できないのである。
なぜなら自分は常に自分を標準として他人を考えるからである。凡庸な人はだから天才や偉人を理解しにくいのである。自分は体力もだめだし頭もだめだった。高校も理数が苦手で勉強が嫌いだったから本当は卒業すらできない状態だった。それでも大学に入ったといっても三流であり優秀な所は一つもなかったのである。性格的にも甘やかされたところがありだめだった。だからそういう優秀な人がいることが理解できないのである。
こういうのは生まれつきの天才型なのだろう。そういう優秀な人でもこういうふうに病気になったらすべて台無しになってしまうのである。ただ最後は病院で呻吟して終わった。こういう運命も不思議だなと思う。体力があっても病気はそれぞれの人に備わっているのだろうか?病気もまたわかりにくいのである。


ともかく相馬総合病院はこの詩のように迷路そのものだった。あそこで迷わない人はいない、迷路の中に閉ざされてしまうのである。


 

2012年12月20日

枯草 (感受性も生来のものではなく作られるもの?)


枯草

(感受性も生来のものではなく作られるもの?)

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冬の草老後の交わり欲もなく

枯草に光寂けく欲もなし
冬の菊ただ静かに光かな
冬の菊吸い込む光十分に
冬の菊光のみまとい輝きぬ
冬日さし微動だにせじ石一つ
故郷の狭き歩み冬の鳥
冬紅葉散りし茶室の奥の道
冬紅葉玄関に散り客一人
電車待つ駅舎に一人枯芒


感受性というのは、機械の働きと似ています。つまり、使わなければ錆び付いてしまって動かなくなるのです。反対に使い込めば使い込むほど、神業のような働きをします。

 もし、中年からが本当に人生の花を開かせる時だとするなら、その時、自分の感受性は人生の中で最も高まっているときでなければなりません。その為にも日々新たな目で物ごとを見、関心のある本を読み、芸術にふれ、そしてなにより思索していなければなりません。それが自分の過去の経験と結びついたら、間違いなく人生の中で最も豊かな時を迎えることでしょう。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/4207/roujin.htm


これは誰が書いたかわからない、一ペ-ジしかでていない、名前もでていない、インタ-ネットはペ-ジだけ読まれている。そんな読み方今までなかったから変なのである。才能も生まれつきだけで決まるものではないとか体力もやはり生まれつきはあっても節制していないと60代ころから病気になりやすいと言ってきた。なぜなら酒を飲むのが習慣の人は肝臓とか腎臓が痛みやすいことは迷信でもない、科学である。たとえばカルト宗教では宗教の信心で決まるとなるがそれは生活習慣でそうなっているのだ。科学的に考察すればそうだがそう思わないのがカルトである。カルトには科学的哲学的思考が欠けているのだ。庶民に受けるのは幼稚的なわかりやすいことなのである。だから題目唱えれば病気も治るとか金持ちになる、政治家にもなれる、地位も得られるとかいいことばかり言っていればいいわけである。真宗でも日蓮宗でも題目だけを唱えればいいというのは庶民には一番わかりやすいからカルトになっているのだ。そこに学者とか医者とかが権威づけるとまたわかりやすい。政治家でもやはり庶民にとっては一番わかりやすい現世利益を与えるものとなる。幸福の科学でも今や科学的思考はしていないだろう。そういうふうな科学的哲学的思考は庶民が一番苦手とするものなのだ。


人間は詩人などは特別の人間で感受性も天性のものだと思っている。でも自分は確かに詩人とししての素質は多少あったにしても前にも書いたけど俳句とか短歌でも稚拙な小学生なみのものしか書いていないから指導者から見たらどんな才能あるのだろうとなっていた。意外と俳句すら実際は奥深いものだから簡単なようでむずかしいものなのである。それは第一鑑賞することもむずかしい。そして
最近わかったことは最も日常的単純なものに真理があり奥深さがあり美もある。自分が最近俳句や短歌にしていることは別に遠くを旅して書いているものではない、それは別にあり毎日の平凡な風景を俳句や短歌にしている。日本では季節の移り変わりがあるからプログには向いていたのである。


枯草は普通に見える風景であり特別なものではない、冬の草はこの辺では普通は刈田だからその刈田に草が一面に生えていることはなかった。そこは変わっていたのである。また枯草になっている所も多いから違っていることは確かである。それで枯草が午後の光に映えていま風景がなんとも心にしみるものを感じた。枯草というとき死をイメ-ジもする、静寂の光の中に枯草のように死を迎える感じすらした。それは欲がないとそうはならない、若いときはむんむんとした欲があるからこういうふうに深く自然を見れないのである。自分は20代終わりでも老成していた。老人に見えていた。だから老人になることが向いていたというのも変だが老人になって本領を発揮するようになっていたのかもしれない、今の老心は枯れない、70才の女性でもストカ-がいたように性も枯れない、女性もそんなに欲望が深いと思わなかった。

こういう老人は枯草を見ても冬の光を見ても若いときと同じ様になんにも感じない、ただ依然としてギラギラした欲望があるのみなのである。回りにはそんな人ばかりだしこんなふうにして静かに過ごしている人もまれである。働くことばかりで自然をじっくり鑑賞している暇もない、それも意義あることならいいがパチンコ屋に勤めてどうなるのというのだ。そこに人が足りないとか毎日あくせく労して働いている。もちろん事情かあってそうなっていてもそんなことで時間を労していること自体無駄でしかない、しかし意外とそうした労働もこの世には多すぎるのである。とにかく何でも何かに追われているのがいいとさえなっているのだ。この世にはそういう仕事も結構多いのだ。本当に山尾三省のように意義を求めて働いている人は意外と少ないのである。
要するにこの世が金だというときそれが庶民の求めるものとして一番具体的な欲望と結びつくからそうなっているのである。


水原秋桜子さんの
「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」
という俳句についての質問です。
水原秋桜子さんの
『冬菊のまとふはおのがひかりのみ』
という俳句の『おのがひかり』という部分がよく分かりません。
どうゆう意味なのでしょうか?


冬菊が冬の弱い日差しを浴びて照り輝いており、自ら光をまとい放っているかのように見える。
「おのがひかり」は「自分の光」です。
白い菊でしょうか。まるで自分から光を放っているかのように凛と咲いている様子だと思います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1436443194


これは冬の菊に不純物がなく静かな冬の光のみがそこにさして冬の菊から光が発しているように見える。これは冬の光を感じないと作れない、冬の光は老人にさす光としてふさわしいのだ。この光を深く感じる心境になるのは老人なのである。光はフェ-ルメ-ルの絵のように日常的なものでも深いものがある。ただそれを感じないのである。フェ-ルメ-ルの絵はあまりにも平凡な日常的なものに美を発見したことにあったのだ。

いづれにしろ老後の交わりは欲がなく落ち着いたものだといいのだがそういう人もいない、60代は働き盛りだとかなっているだろう。それも意義あることならいいが実際はそうでないものも多いのだ。ただ働いていることがパチンコ屋だろうが何だろうが金になればいいとなる。それはソ-ロ-が批判したことなのである。仮設で別に働く必要がない、それがパチンコ屋が繁盛してパチンコ屋に勤めている馬鹿げたことになっている。ここに何か仕事でも無意味なものが多いということを象徴しているのだ。それなら介護でも意味がある。そういう方面は人手不足なのだから働けば意義がでてくる。

そういう人と何か家族でもそうだったがともに生活しなければならないから困るのである。
それは中学卒だからだとか常に言うけどそれも違っている。人間としての常識がないのである。
他に今は困っている人がいてもパチンコに勤めるのが忙しいとかパチンコするのにそんな暇がないということ自体異常でもそれが大勢になればそれも普通のことになってしまうのである。
行動にはそういうことが多い、深く鑑賞的な生活をする人はいない、老後に向いているのは鑑賞的生活なのである。認識力、鑑賞力を高める生活なのである。

 

2012年12月21日

冬芽-冬紅葉(デジカメは新しい芸術を開いた)


冬芽-冬紅葉(デジカメは新しい芸術を開いた)


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やさしくも我が手にふれぬ冬芽かな
観音の手にしふれなむ冬芽かな
故郷やこの道いつも冬芽かな
この道や松一本に冬芽かな
欲絶えて菊にまとうは光のみ

ただ静か光に欲す冬の菊

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カメラにそんなに入れ込むことはなかった。現像したりするのがめんどうだったからである。これだけ簡単に写真がとれると写真をとることに興味をもった。冬紅葉にしてもまたデジカメでとったら別な風に見えた。散った冬紅葉の色合いがみんな違っている。これを肉眼で見たときはそういうふうに見てない、写真が一場面を切り取って視覚した結果、その色合いをしみじみ見るようになったのである。こういうことは前にも書いたがあったことである。写真の眼と人間の眼は違っているがが機械から見たものが違っている。細部は写真の方がよく写る。人間は細部を見ていない、全体を見るが細部を全部見ることができないのである。どんなつまらない風景でも細部を見ていない、細部をみるとこんな風景があったのかこんなふうに見えるのかと改めて気づくのである。今回もそうだった。

冬紅葉をまた抽象画風に加工したらまたこれも一つの新しいア-トの創造だった。これもデジカメとパソコンが合体してできた新芸術だった。

これは何の芽だったのか?いかにも冬芽らしい。この時は私は極自然にその芽にふれる。何か自分は女性的なところがある。男性的なところにもともと欠けていた。ただ自然に接するにはやはりやさしさ、愛が必要なのである。花などを愛すにはやはり相当なやさしさでふれないと花をけがしてしまうだろう。まず人間はその心をけがしたら自然の美にはふれられなくなる。これが意外と怖いことなのだが若いときなどそんなことに気をつかわないのである。自分もそんなに気をつかわなかった。

だから人間は自然をも常にふみにじっている。人間は前にも書いたけど善をすることではない、悪を成さないことが本当に善に通じている。善をする必要はない、悪を成さないことが自然と善なるものに向かっているのだ。そして人生をふりかえれば人生とは悪を成さない人がいない、罪を犯さない人がいない、身,口、意で必ず悪を成している。そういうことつつしむいましめることが善に通じていたのだ。だから若いときどうしても野放図になり欲望のままに生きることは相当に後悔することになる。その報いを受けることになる。善なるもの美なるものが見えなくなるのだ。自分も罪も犯したがそれが軽いものだったからけがされずにすんだのかもしれない、だから美を見る眼、善を志向する心があった。

本当の芸術は才能だけではない、やはり善の志向がないといいものはできない、本物はできない。
才能があってもそれで失敗する人はいる。才能がなくても悪を成さない人はすでに必ず良きものが
別に芸術だけでなくても実ってゆくのである。人間は生まれつきできまるわけではない、善なるものに対して無頓着なのである。そんなものより現実の欲望,利益に眼が奪われてしまうのである。

そして善なるもの美が見えなくなってしまうのである。カルト宗教団体でも結局はあれだけ数が多いのは欲望、利益に眼を奪われた人たちの集まりである。それが巨大な集団となって権力を目指すことになる。この世は金だ、権力だと思い込んでしまうのである。現実世界では確かに金の力が大きいし権力の魅了されるのはわかる。高い地位につけば濡れ手で粟で金が入ってくるとかなる。そういう人たちだけがこの世では優遇されるとなる。でもそういう人たちもやはり何か傲慢なものとなり人格形成で歪んでしまうかもしれない、すべてではないにしろ医者が人格がおかしいのが多いというときあまりにも崇められるからである。科学技術も権力なのである。東電があんなに奢りをもったのもそのためである。人間の奢りは滅びに通じていることは歴史が証明している。戦争だって日本は神国だなどとおごったためである。世界を知らなかったのである。そういう奢りは国家レベルでもそうだし個人レベルでも危険なのである。

人間は最後はどんな優秀な人も強い人も無惨に打ち砕かれ弱いものにされる。病気になり認知症にもなり痴呆になるなど今でも信じられない、それは大統領になったレ-ガンでもサッチャ-でもなったのである。人間の奢りは必ず打ち砕かれる。文明も一つの人間の奢りでありそれも今回の津浪の様に打ち砕かれる。


今日はパナソニックの自転車も注文した。原町にしかないのでそこで注文した。自転車だけは通販では買えない、ナンバ-の問題とかあとで壊れたら困るとかいろいろある。ただ新しいのが13アンペアとか出ているのはパナソニックだけでありヤマハで来年は新しいのでるといってもわからない、
電動自転車の問題は電池のバッテリ-の問題がネックとなっていた。走っていてどうしてもきれやすいのである。これは電気自動車にも通じている。それからデジカメでも今日新しいのを買った。

カシオの最新式がシャッタ-スピ-ドも早く機能的にいい、やはり新しく技術革新したものは売れる。景気でも何か目新しい技術革新したものが出れば不景気でも売れることはまちがいない、パソコンなどは今はみんな同じだし代わり映えしなえのである。自分は自転車は前から趣味で乗っていたしパソコンもやっていたしデジカメも俳句と一体化して興味をもった。自転車でも好きなものは百万円のものでも買っている。仙台でそういう人がいた。やはり仙台は金持ちがいると思った。これが東京辺りだとまたそういう金持ちが多いから金持ち向きの商売が成り立つのである。
まあ、確かに老人は年金暮らしでも金もっている人が田舎でもそれなりにいるのだ。公務員を退職した様な人はみんなもっている。


ともかく自転車にのるなとまだ言われていた。自転車に乗れなくなったら自分の人生も半分以上終わるように思った。筋肉が衰えているから長距離は苦しいが自転車に乗っている時が幸せを感じるのである。今年中に最新式の自転車が買えるので助かった。バッテリ-が4万とか高いので新しいものを買った方が得なのである。電動自転車で技術的に他と違うのはスピ-ドを出さない様に制御されることである。アシスト率とかありスピ-ドが制限されている。車だとそういうことはできない、60キロ以上スピ-ドが出せないとか設計されていないみたいだ。だからスピ-ドを出しすぎて事故になる。
そうした技術的に何か制御する制限するという技術がないのである。前にも制御する制限する思想が人間にないというときまさにそのことから地球環境の破壊がとめられず人類も滅亡してしまうということを言った。本当にリニアカ-など日本のような狭い国で必要なのかという疑問がある。
技術というのがすべて肯定されるものか疑問があるのだ。その最たるものが原子力発電だったのである。

2012年12月22日

冬の雨(二両の電車の不思議は依然としてつづく(4))


冬の雨(二両の電車の不思議は依然としてつづく(4))


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枯芒雨にぬれつつ買い物に
夕暮れて二両の電車や冬の雨
見守りぬ二両の電車を寒烏
雨ぬれて鴨のよりあう灯のともし
停まる駅二駅のみや冬の暮
家消えて空き地の行き来年の暮
手水鉢木の葉一葉沈みけり田舎の静か雨しととふる


枯芒とはまさに自分のことだった。今や買い物に追われ介護に追われ家事に追われている。二両の電車は二駅しかとまらない、普通だったら赤字で走らせられない、災害でやむなく走らせているのだろう。この二両の電車は急ぐことはない、八両で仙台まで行くときは追われていた。何かせわしいものを感じていた。この辺はそんなに過疎という所ではなかったのである。単線ということはそれなりに鉄道ではロ-カル線である。でも八両の電車が仙台まで一時間おきにはしっていたときはこんなふうに感じない、二両の電車は自然のなかにとけこむのである。極めて人間的なになっている不思議がある。これをみても人間がいかにその交通に乗り物に機械に影響されていたかわかる。心まで全く変わらされていたのである。ただ二両の電車になったときそれをつくづく感じたことでもわかる。

いかに車時代が人間の心まで変えてしまったかこれでもわかるのだ。牛や荷馬車の時代の感覚とはあまりにも違いすぎるのである。だから人間はこうして便利なもの、乗り物でも機械でも自然から離れた存在となり自然の中で存在感を喪失していったのである。こんなことができるのは田舎だからである。都会だったらギュウギュウ詰めの満員電車にのったりと座ることすらできないから贅沢だとなる。田舎はいろいろ嫌なことがあっても都会では自分は暮らしたくない、大学4年暮らしてこりごりしたのである。もともと田舎向きだったのである。さらに老人になると田舎でないと落ち着かない、これは都会に住んでいる人もそうなるだろう。隣の保育所ができてうるさくて老人が寝込んでしまったということをテレビで問題にしていた。保育所でもそれだけの広さあるところに建てられない、人家で混み合う所に建てる他ないから都会では騒音にも悩まされるのだ。

ともかく人生は終わればあまりにも短い、最後はあっというまに終わるのである。


電車よ、もっとゆっくり走れ


人生は短し
電車よ、もっとゆっくり走れ
車窓の景色を心に写せ
電車よ、ゆっくり駅々に停まれ
いづこの駅そ、名残りを惜しめ
時の流るるはいかに早しや
電車よ、もっとゆっくり走れ
駅に織りなされし人生の
人との出会い、別れよ
その一時を惜しめ
還らざる時に涙する時もあれ
短き人生を何故に急ぐや
二度となき人生の時よ
今日も行く二両の電車もあわれ
しとしとしとと冬の雨ふる


電車の旅は長かった。あたかも電車の旅が半場人生になっていたのが自分だった。恵まれていたといえばそうである。その恵まれた時間も過ぎ去ってしまった。だからこんなに電車で旅してもあまりにも早く過ぎ去ってしまったなとつくづく思う。そのあわただしさ、スピ-ドの時代がしみじみとした情緒を殺したのである。現代の人間が情がないというとき何か情を育む余裕がない社会だからである。もちろんその時代のいい面と悪い面はあるからいちがいには言えない、でも余りにも急ぎすぎる、あわただしすぎる現代は何か人生に印象深いものを残さないのである。だからその人生もめまぐるしくこまねずみのようになっている。何かに絶えず追われている。それもこの辺ではパチンコ屋で暇をもてあまししている人がいてパチンコ屋で働き手がないとか忙しくしている。これなど相当馬鹿げたことだがそんなことでも一応働いて金に鳴くということで誰もおかしいとも思わない。そして肝心な所で困っている所で働かないのである。他でも人手不足のところがこの辺では多いから毎日募集しているからだ。そういう馬鹿げた無駄な忙しさを作り出しているのも現代なのである。


汽車横浜に着きて我等立ち上がりし時、かの君も立ち上がりて厚く礼をのべたまふ、その時、貴嬢もまたわずかに顔なる半巾をはずして口ごもりたまへふや直ちにまた身を座に投げ手巾を顔あてたまひぬ。その手のいたくふるへる様わが眼にも知れければかの君かえりみたまひて始めて怪しと思ふ色を眼の中に示したまいり(武蔵野-おとずれ-国木田独歩)


汽車の時代がありこの時の時間は今やかなり遅かった。その時間感覚はもう忘れ去れているのだ。
こういうふうに描写する時間がないのである。あっというまに人は過ぎ去ってしまうのが現代なのである。こんな流暢な動作が記憶されないのである。それだけ実は人間の時間が希薄されて濃密な時間の中での記憶が失われている。だから現代の人生はあとでふりかえるとただこまねずみのように追われた人生だけだったとなるのだ。
もちろん江戸時代の時間感覚など今では想像することすらできない、それが想像し得るのは車がなくなったときそれを感じるだろう。一日でもいいから車がなかったら江戸時代の時間感覚を想像できるのである。その時何か本当に不思議なタイムスリップして江戸時代に還ったような感覚になる。
戦後でも十年くらいはそういう感覚があったのだ。それが高度成長で喪失してしまったのである。

 
 
 
 

2012年12月23日

明確な色のコントラスト(clear coloured contrast)ー抽象画


明確な色のコントラスト(clear coloured contrast)ー抽象画

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エロス

オリジナルはインターネットにあった 抽象画はやはり色の多様性が作り出す美である
具象画としてみれば海であり森であり土地であり街とかになるが人によってはまた別な見方がある具象画のように一定しないのが抽象画なのである。

最後のエロスはどうしてオリジナルから変化したかわからない
地球の生物でもオリジナルがわからなくなったのにている
抽象画の特徴はオリジナルから無数に変化していることなのである
バリエーションが延々と続くーそれはコピーではないー創造的変化なのである

落葉(津浪や交通が遮断されて変わる風景と心の変化)

 

落葉

(津浪や交通が遮断されて変わる風景と心の変化)


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カシオの新しいカメラでとった。
これも特殊な効果がある。二両の電車が見える。


道の駅遠くに通わず落葉かな

病院に老人出会い落葉かな
冬日さし前に家なし柚子映えぬ
一本の松に日のさし落葉かな
冬ざれや津浪の跡に昼の月


六号線でも道が途中で閉ざされているということは江戸時代のように遠くとの交通がなくなる。江戸時代あたりだったら自給自足が原則であり遠くに頼ることがほとんどない。だから遠い地域に影響されない、一方で交通がないから飢饉のようなとき遠くから助けられることもない、そういういい面と悪い面が人間にはつきまとっているのだ。だから昨日も二両の電車のことで書いたけど意外にこの交通の変化が人間の心にかなり影響している。別に車も通っているし変わらないじゃないかと思うけどやはり六号線が東京の方へ通じない、途中が遮断されている、それが心まで影響した。
落葉というときまさに村の自給自足だったら社とかお地蔵様と薬師堂とかが中心にありそこに落葉が溜まり人間もたまるという感覚になるのだ。俳句や短歌にするにしてもそういう交通の影響を受けて作られることがわかった。もし遠くに交通がなれば明かに江戸時代の自給自足的生活にもどらざるをえない、すると心まで変わってしまう。物質的には不足しても心が変わるから何か前の村のような共同性が生まれかもしれない、何でも外との交通が拡大化すれば内部の分断が起きてくる。

それが現代でありどんな田舎でも内部は分断して田舎でも人と人のつながりは希薄になっている。
心もやはり環境で作られる面が大きかったのである。もちろん貧しいということでその心も歪むこともあった。戦前でも農民が日記に書いているけど地主をうらやみ金だ金だと叫んでいたから同じだった。小作の恨みは深かったのである。つまり貧富の差が大きいからそうなった。

不思議なのは江戸時代でも侍は貧乏なのだから農民が侍の暮らしをうらやむということはあまりないみたいだった。たしいて変わらない生活だったのかもしれない、それがヨ-ロッパの貴族と違っていたところである。自然真営道江戸(えど)時代中期の思想(しそう)家安藤昌益がいて耕さないものは働かないものは搾取していると侍を批判した人はいた。それは表に出ない思想であり隠されたということは一面侍に対してヨ-ロッパと同じ不満をもった不公平を感じた人はいた。でもそれが江戸時代のすべてではない、江戸時代また謎が多すぎるのである。ここで僧侶も耕さない働かないから批判されているのは納得がいく。侍と僧侶は公務員であり今公務員が優遇されていいると批判するのと同じである。


柚子は秋の季語だった、でも冬にも映えている。一軒の農家が樹々に囲まれてある。そういう家は何か落ち着く、まさに自然な家なのである。街のこみあった家にはそういうものは感じない、前に冬菜畑がある。許可されていないが農家では前畑に作っているみたいだ。別に老人が食べるには問題がないだろう。


津浪の跡に昼の月がでていた。津浪の跡はまさに冬ざれの景色だった。冬ざれというとき刈田ではぴったりしなかった。


「ざれる」は少し崩れる場合「どえる」は大きく崩れる場合と使い分け(池田町)
「ざれる」「くんぜる」「おちくんぜる」と使う。(徳島市)←落ちるの意味に近いよ


これも良くわからない言葉である。ざらざらということからきているかもしれない、

冬ざれ・・・ざれはまさにこうした崩れたとかの風景だとすると津浪の跡にもマッチしている。山が崩れてそうなったとしてもやはり自然災害の跡をさしてできた言葉だとなる。
日本にはそういう自然災害が多いからそういう意味合いのものが結構あるのかもしれない
冬ざれはまさにそういう風景だとすると津浪の跡はまさにふさわしいとなる。
ただ日本は山が多いからそして崩れことも多いから山崩れをさしてできた言葉というのがもっともらしい。


いづれにしろ津浪の跡はやはりなんとも不思議であり言いようのない荒寥としたものがある。
あれだけ人が住んでいたの荒地化するということがその変化が大きすぎるから不思議になる。
そうして人が住まなくなった荒地に昼の月がぽっかりでていたのである。それは北海道の荒野の風景と同じである。この辺も江戸時代の前はこんな風景だったのだろう。烏崎でも人は住んでいなかったのである。だから人が住んでいない状態にもどったことが不思議なのである。

 

2012年12月24日

老人の欲は消えない-権力+欲望が悪を産む (女性への欲望も消えることはない)


老人の欲は消えない-権力+欲望が悪を産む

(女性への欲望も消えることはない)

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●老人の長生きの問題はすでに古くからあった問題


人を食った話

 14世紀に編纂された書物である「神道集」にはこのような話が収められています。第二代・綏靖天皇は毎日朝夕に人間を七人ずつ食らったため、臣下は自らが生き残れるか恐れおののくと共に天皇が長生きする事によって多くの人民が滅んでしまうのではないかと心配しました。何しろ、天皇の祖父・鵜茅葺不合命は八十三万六千四十二年、神武天皇は百二十年にわたり国を統治したとされていますからこの天皇もどれだけ生きるのか、と考えると苦悩に余りあったでしょう。そこで、ある臣下が天皇を饗応し、その席で「近いうちに火の雨が降る」と奏上しました。諸国にも同様の触れを出して人々を岩屋に避難させた上で、頑丈な柱で出られないようにした岩屋に天皇を入れて幽閉。天皇の姿が見えないのを確認したうえで代理の人物が国を統治しようやく国は平和になったということです。
http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/cannibal.html


高齢化社会というとき人類はじまってこれだけ大勢の人間が高齢化することは歴史上なかった。ただ今起きていることでも歴史上にはそれとにたことが必ずあったのである。これは天皇が権力者があまりにも長生きしてその配下のものが国を治められなくなった。これは今の時代にもあてはまる。
若い人が高齢者をまた寝たきりの金だけかかる老人を批判しつづけているのとにている。
実際に一つの家でも今は90才くらいまで生きるとするとまだその家の実験を財産をもっている場合が多い。財産が次の世代に譲られない、60代でやっと親が死に財産が自由になり自分のしたいことをできるようになったという人も多くなっている。そのことはすでに60代では遅いのである。
親が長生きしすぎた結果、家を継ぎ次の世代の時代を作ることができないのである。


これは自分も経験している。自分の親に当たる人が死んだのは86才でありそれまで財産をゆずりうけていなかった。だから自分で庭作りで2百万くらい使ったのははじめてだった。自分は百万という金を自由に使ったことがない、金が自由にできないことは跡を継いでも何も自分でできないということなのである。ともかく何も文句も言われないで自分のしたいことをできるには財産を譲り受けねばならない、それが親の長生きでできずにやりたいこともできなくなっていたのである。
もちろん自分の場合はやりたいことをやらせてもらった。ただ家のことでやらせてもらっていない、
親が長生きすることはやはり古い時代がいつまでもつづき新し世代の時代を作れないことなのだ。
これは一つの家の問題だけではない、社会全体の問題になっているのが高齢化社会なのである。
それは会社であれ政治の世界であれ学問の世界であれ芸術の世界であれどこにでもあてはまるだろう。高齢化とは新人が出にくい社会である。特に政治や企業などでは権力を譲渡されないと何もできない、ただ肩書だけ与えられても実権を与えられなかったら何もできないのである。実験は以前としてその高齢者がもっている場合がある。橋下氏か石原氏と組んで失敗したのはまさにこの例のように
高齢者が下のものの足かせとなり真の革新出来なかった事にあった。こういうことは高齢化社会全体の問題としていたるところで起きているのだ。


●女性の欲望は死ぬまで尽きない


テレビの時代劇のテ-マは決まっている。権力をもっている役人や商人でも若い美人の女性をものにしようとして権力に金にものいわせて従わせようとしている。それは露骨なものとして権力と欲望が結びつき悪が誰にでもわかるように演じられる。これはしかし昔から人間である限り起きていたことである。若くても女性にしても金持ちの家に嫁ぎたいとかなると女性の方も権力を望む。自ら権力に従う権力を利用するのも女性である。ただこういうパタ-ンは人間の悪として見慣れたものである。
これは欲望としてわかりやすいから悪が見えやすいから庶民的なドラマとして受ける。ところが現代になると権力+欲望が見えなくなっている。人間の欲望は女性とか性だけではない、様々なものがあり全部の欲望を否定はできない、ただ一番わかりやすいのが性の欲望だから昔からそうした事件はあった。


悪魔のメフィストーフェレス(以下メフィストと省略します)が、ファウストを堕落させて地獄に落とすことができるという自負心から、ファウストと契約を結び、ファウストを若返らせて、官能の享楽に溺れさせようとするが、純真な娘グレートヘン(グレーチヒェン;マルガレーテと訳し方は様々)に一目惚れをし、愛し合うが、以後、グレートヘンは悲劇の一途を辿り、ファウストはメフィストの力で助けようとするが、彼女は神の審判に身をゆだねる。
その後、美を追求することにより生の意義を把握しようとするファウストは、ギリシアのヘーレナ(ヘレナとも)を地下の冥界まで追い求め結婚するが、

魂まで売り若さを求める、地下の冥界まで追い求め結婚する・・・まさに女性に対する欲望ははてしない、老人になると枯れるというのは昔もなかったのだろう。老人になると若さの価値が宝石のように高いものとなる。なぜなら若さはもはやどんなに金を積んでも手に入れられないものとなっていたのである。女性など20代とその後30代40代さらに60代になるととても同一人物のように見えないほど変わってしまう。20代の輝きはあまりにも眩しかったことにその時気づくだろう。もうその若さは絶対に手に入れられないものとなっていたのだ。だからそれを手にいれようと躍起になるのも自然なのである。そのことで人間は最後の妄念が激しさをます。これは女性でも灰まで女性は女だということで人間の男女の欲望は消えないのである。70才の女性のストカ-がいたというのも驚きだがこれも高齢化社会の事件である。そういう事件はこれからますます増えてくる。老人の暴走はますます増えてくる。10倍にも犯罪はすでに増えている。老人になると性の欲望が消えないしかえって最後にその欲望が妄執のようになる。枯れるというのはほんの少数のものである。老人になるとかえって若さの価値がどれだけ高いものかしるのである。若いときはそんなもの当たり前だと思っていた。しかし老人になるとその若さの価値は黄金にも何よりもまさるから魂まで売って手に入れたいともなるのだ。

久米仙人も女性の脚を見て落下したとかダビデも晩年、女性に魅惑されて罪を犯した。若い女性と一緒にねて若返りを計ったとかやはりそういことはいくら優れた人でも起きてくる。つまり女性の魅力がいかに大きいものか、特に若さの魅力は本当に老人から見るとあまりにも眩しい輝きなのである。そこから権力をもっているとその権力で若い女性をものにしようとするのである。それは悪の典型的なパタ-ンなのだ。


●権力+欲望が悪を産む


権力+欲望というときそれは女性への欲望だけではない、権力そのものが人間の欲望である。権力をもつものがこの世で得して威張ることができる。権力なきものは虫けらのように扱われるのがこの世である。警察でも権力あるものには手加減するし権力をもっていないとまともに扱ってくれない、検察も警察も権力機構であってもさらに政治や政党などの権力がありその権力に屈する。だからこの世の権力集団は権力でもって権力を操作するように躍起になる。創価でも絶えず権力を操作するために検察や警察や政治でも圧力をかける。すでに集団化している団体は権力集団であり権力+欲望の集団である。中国の共産党でもそうなように革命は銃口から生まれるというときまさに権力は力で倒さない限り得られないということを露骨に言ったのである。戦国時代なら露骨に殺し合い戦争で権力の奪いあいをしていた。民主主義社会になると権力というのは別に武力だけではない、様々なものがありそれらがわかりにくくなったのである。なかなか目に見えないものとなってしまった。法律だって権力であり法律を知るのは容易でないから権力が東大出の官僚の派閥で支配されるようになったというのもそのためである。法律もすべて善用されるわけではなつ悪用もされるのである。それは人間の欲望がからむからそうなるのだ。

今度の原発事故でもわかったように権力+欲望が事故を起こすことに通じていた。すべての人が欲望をもっているのだから当然そうなる。東電ではもうけたい利益をあげたいから安全神話を作り安全のコストはカットする。コストカッタ-と言われた清水社長がのしあがる。さらに政治家検察官僚もマスコミも天下り先や金でその欲望をみたしてやる。地元の人も金でその欲望を満たしてやる。
人間は権力と欲望が一体になると危険なのである。欲望があってもその欲望を満たすことができないならば欲望も前面にでてこない、おさえられるのである。でも権力をもったらその欲望が前面にでてきて露骨に悪代官や悪徳商人などが若い女性を権力でものにするということがある。人間はみんな欲望をもっているゆえ、権力をもつと悪が増大するのだ。共産党も革命の後、権力を手に入れたときもともと権力を望んでいた。革命といっても自らが犠牲になることではない、権力でおさえられていた欲望がありそれを満たしたいという本心があるから権力を得るとその権力で欲望を満たすようになる。またその権力を簡単には手放したりしないのである。老人が権力をもっているというとき老人の力はもはや若さにはない、ただ権力のみが老人の力になる。家でも金がないと相手にされないとか今は老人を敬ったりしない、数も多いし敬いきれないいうこともある。老人に希少価値など全然ないのである。すると若者に対抗するには権力しかない、金しかないということにもなるのだ。だから金をもっていても手放さない、次代のものにゆずらない、長生きするから余計にゆずられなくなっているのだ。


ただ若さがすべていいかとなると若さは未熟であり知恵も備わらない、若いときはいろいろなものを理解できないのである。いくら本を読んでも自分は平凡な人間だから理解できなかったのである。
芸術でも深く鑑賞できないのである。老人になると若さを失うが深く理解力、鑑賞力が深まるということがある。だから若さがすべてではないにしろやはり若さというのは老人から消えたものだからもう手に入れられないものだからそれが特別なものに見えるのだ。恋というのは実は一生に一度しか経験されないというときそういうものなのだろう。それも20代前半でしか経験さないというとき人間はあらゆることを経験できない、経験できることは限られているのだ。ともかく人間のあくなき欲望、権力欲が尽きることがない。まず宗教が権力化していることこそ全く宗教から離れていることはない、そうではないか、シャカでもキリストでも乞食で住む場所もない生活をしていたのに宗教を説く人が今は誰一人としてそんな生活をしていない、巨大な権力集団化政治化して圧力団体となり逆らうと罰が当たるとか脅したりしているのは異常である。それは暴力団とたいして変わらないのである。


それがこの世にまかり通っていること自体何なのだろうと思う。つまり権力+宗教というのが人間として最悪なのである。それがカルト宗教団体である。ヨ-ロッパではカトリックでそういう歴史を経験しているから政教分離の法律ができた。宗教が権力で強制されることが最悪なのである。宗教は良心に訴えている。それを巨大な政治団体として個々人に圧力をかける。宗教心もないのに権力でもって強制する。むしろ人間は権力をもった時すでに清い心をもつことができなくなる。欲望が権力で達成されるとなるとおさえられないからである。宗教は集団的なものでありえないのだ。経済を良くしろとか景気を良くしろとかそういう経済的欲望はあってもいい、ただ宗教は別なものである。
カルト宗教団体はほとんど権力+欲望の集団であるからそこに宗教心の欠片もないだろう。
ただ集団でもって圧力をかけるためにある。確かにうまいものを食いたいというのを否定はできない、でもそれが宗教と結びつくはずがない、でも実際はうまいものを食べたいために祈っている。
うまいものを食べられなくても満足しようといかのが宗教心である。山尾三省のうような生活が宗教心だったのである。

 

ブリ大根(二三分で料理の忙しい時代)


ブリ大根(二三分で料理の忙しい時代)


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冬紅葉残りの散りぬ玄関に

冬紅葉散りて残れるわずかかな
冬紅葉今日も散りにきあわれかな
冬の月60過ぎて澄む心
冬の灯やここも介護や家一軒
料理するブリ大根や二三分

故郷の狭きをめぐり師走かな


介護になってから6年間追われつづけてきた。


私は双子の育児中です。
介護とは違いますが一日中だれかの世話に追われている点では同じかなと思いレスさせて頂きます。自分の食事は食べられるときに食べます。
双子が生まれてから食卓に座って食事をしたのは数えるほどです。
だいたい台所で立って食べています。



介護のことで書いていたけど育児もこんなふうに忙しくなる。人の世話をすることは大変な労力になる。お茶一杯わかして出すのが手間なのである。ゆっくり食事ができないのだ。食事を出す方になるとそうなってしまう。

ブリ大根を料理して食べたけどうまかった。これはタレができていてただそれをあたためて大根とブリを切っていれるだけでできたから簡単だった。でもタレがうまいからうまいのである。普通自分で料理しても鍋物でもいろいろ調味料などがめんどうになるからしていない、今の時代は料理でもインスタンが多い、それだけの時間がない、おそらく親からその家独自の料理を習うときは時間があったのだろう。家ごとに自家生産していたときは家ごとに味噌を作り味が違っていたとかその家独自の漬け物の味があったというときそれだけの時間があったのである。昔はそもそも家事の手間が大変でありその労働の半分は家事にとられていたことは確かである。

だから女性の仕事として女中が多かった。たいがい戦前では女中を経験しているのだ。女中がやたらいた時代なのである。それかお手伝いさんになったけど今はよほどの金持ちでないとお手伝いさんは雇わない,だからお手伝いさんを雇った経験のない人は極力雇わない方がいい、そういう時代ではないし危険な人が入ってくるからである。
家の中に入って仕事することの意味を知らない人が多いのである。家の中で働くことは家族の一員にもなりうる仕事なのだ。そういう人はよほど信頼ないとできないのである。そういうことを知らない人が自分をふくめて多くなっているかもしれない、昔だったらそういう人が多いのだからそれなりの注意があり雇っていたのだろう。例えば外国ではそういう人が多かったから信用はある家で信用されたものは他に移っても信用されて雇われたとかなっていた。その人について良く知らないと雇えないものだったのである。現代は家の中に入るのはまた変わって多くなってもいる。介護関係で家の中にヘルパ-として入ってくる人がふえたのである。だからここで問題が生じやすいのである。


ともかく現代は忙しい時代だから要するに料理も時間をかけて教えたり作ったりできないからできあがったものでまにあわす、オデンでもそうである。それがうまくなっているのだ。2,3分でできないと教えられないと時間がないから用をたせないとなる。情報にしても膨大だから情報に追われているのだ。情報というとき今日はあのアメリカ人にあおうとして行った団地で冬休みで遊んでいた子供に出会い話しした。中学生で結構英語ができた。まず中学英語だけでも相当な英語力でありそれ基礎にして英語力はありうる。海外旅行など中学英語で十分である。その他でも中学の学力を深めれば相当な知識人になっている。高校はすでに高度になりついていけないのである。自分も高校になりむずかしくて能力がないから落第するほかないくらいだった。今では高校までの学力はこれを基礎にすれば相当な知識人になれるのだ。ただ結局そこから学問を深化できないのである。


子供でもやはりテレビの情報に汚染されている。テレビの芸能人が誰だとかそういうものが話題になるとき今や知らないとなる。テレビの情報にまだ子供も影響されているのだ。情報過多の時代は自分から情報を選択する能力を身につけないと大量の情報に汚染されてしまう。実際にこの辺の昔のことを話ししたがそういう話しも大事である。ただそういうことを聞く機会がない、炉端でのんびりおじいちゃんおばあちゃんから話しを聞く時代ではないからだ。だから情報もじっくりと消化できない、料理のように二三分で情報もあっちこっちから聞いて見て終わってしまうとなる。何事人間は時間をかけないと自然でも人間のことでも理解できないのである。つまり人間は六〇年間生きても本番を生きていない、生きられないということもある。それで人生は終わってしまうともなるが人間はそれだけ成長するのに時間がかかりすぎるのである。


高齢化というのはその点では人間を成熟させるともなる。また堕落した人も長生きするともなる。介護とか仕事をもつと狭い故郷でも駆け回り時間が過ぎるのが早いのである。これが三食用意されていたときは常に時間をもてあましていた。そんなときはすでに過ぎ去ってしまった。一方で暇な人もいるがいかに今は介護している家が多いか。明かに何軒かおきに介護している家があるように思う。それだけ介護の時代にもなっているのだ。

介護の労力が膨大なものになっているのだ。手厚く介護すれはするほど寿命はさらに伸びるのだ。
だから一日中エアコンしていれば電気をくうからかえって施設で過ごしてもらった方が安上がりだとなる。ただ施設でも人件費やらなにやら金はかかる。いづれにしろ人を世話することは手間であり金もかかるのである。


60過ぎて心が澄んできたということはある。習熟してきたとか熟成したとかになる。ただ暴走老人のように心がどうにもならなく汚れてしまった、罪深くなってしまったという人が多い。だから一部をのぞいて老人とはつきあいたくない、そういんう汚れた人とつきあうと汚されるのである。だから子供とか汚れていない若者と女性で若い方がいいとなる。団塊の世代など六〇代などは本当に人間的にまともなのがまれであり欲望がまだむんむんしていて枯れた人などほとんどいない、欲望をむきだしにする世代になっているのだ。そういう人たちは非常に危険な匂いがあり近づくと自分も火傷するし深手を負う。結局未来はまだ汚れていない子供や若者にあるということになっている。だから孫に財産を残したいという気持ちがわかったのである。

2012年12月26日

相馬総合病院の入院(俳句まとめ) (看護婦は鳩をイメ-ジするんだけど・・)


相馬総合病院の入院(俳句まとめ)

(看護婦は鳩をイメ-ジするんだけど・・)

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海の方から朝日が上る、ただ海は見えない



同室の人はや去りぬ朝の蝉

同室の人みな地元秋の蝉
同室に軽度の人や朝の蝉
相馬市の病院の隅月望む
同室はみな直る人夏の月
海よりの朝日のさして夏つばめ
看護師の勤めや秋の朝の鳩
朝焼けや海より飛び来る鳥を見ゆ
葉のそよぎ病院に木蔭鳩の飛ぶ
病院の屋上に鳩秋の空
秋の空看護師の卵白い鳩
相馬市や朝の山にかかる秋の虹
看護婦(師)と虹を見につつ快癒かな

虹の弧の伸びゆく朝や希望かな

看護師(婦)のイメ-ジは鳩なのである。男もいるから今は違っていても多数は看護婦なのである。
南相馬市立病院に入院したとき10月だから秋だった。その時も鳩がとまっていたとき看護婦をイメ-ジしたのである。鳩は平和の使いというときまさに看護婦にふさわしいのだ。ただ一人にはいじめられたということもあった。鳩ではあっても看護師は汚い仕事であり厳しいから鳩というイメ-ジとまた違った印象ももつ人が多い。看護師を恨んだ事件も起きている。それぞれの対応によってはそうなりやすいのである。いつもやさしくできるわけでもないし忙しいということもあり仕事に追われるからそういう余裕もない、あまりにも過酷で忙しければやさしくすらできない、それはどこでも同じである。


相馬総合病院の特徴は確かに海の方が見えるのだが景色は良くなかった。海も三階の方に行くと原釜とか沖に船も見えた。あそこは地理的にわかりにくいのだ。海側と山側の方角がわかりにくくなる。海に近いと思っていたが実際は山側に近かったのである。迷路のようになっているから余計方角がわかりにくくなるのだ。ただ病院は外の景色がいいと救われる。外の景色もみえないと一日寝ているとしたら嫌になるだろう。そういう点南相馬市立病院は理想的であった。だからそのことを短歌にしたりした。病院は長くなると相当に外の景色が見えないと嫌になるだろう。外の景色が見えるだけでいやされる。今度できる新地の病院は山で高いところにできるとすると海も広々と見えるから気持ちいいだろうとなる。今の相馬総合病院は迷路であり閉ざされているから迷路になる。ただ小窓から山側に虹を見たのである。山側に虹を見るのはめずらしい。たいがい海側でしか見てない、虹はめったにみられないものだから縁起いいとなる。


これも手術した後も歩いて運動しないと言われたから病院内を毎日歩いていたのである。病気らしい病気ではなかった。むしろ南相馬市立病院の方が腎不全であり体重も15キロくらいへったのだから結構重傷だったのかもしれない、三日間は40度の熱がでた。
バイ菌に感染したのである。これも怖いことだったのである。こういうとき犯罪にもあったから身寄りがないと病気になったら最悪である。一人は病気で家で寝ていて一回も連絡できなかったのである。これも急に腎不全になったから苦しかった。つまり身寄りがないというとき急に病気になったりしたら誰も助けるものなく放置される恐怖があった。相馬総合病院には十分な準備期間があり二週間で退院できたから楽だった。でも手術というのが厳しかったのである。たいした手術でなくてもやはり誰もみるものがいないのだから厳しいものとなったのである。そのまま死んだりしても誰もかまわないという恐怖があるのだ。


ともかくこの6年間どれだけ災いがつづいたか、それもやっと一応終わったという感じはしている。
そして人間がいかに非情なものか知った。弱みにつけこまれたからである。人間弱みにつけこむのが一番非情だと思うがそういうことは普通にある。戦国時代でも今でも他国になると弱みを探してつけいるのが人間である。人間を愛せというときそんな弱肉強食の世界でどこに愛があるのかともなる。現実の厳しさを経験したものはそんな甘いことでは生きていけないと残酷にもなる。食うか食われるかになったらそうである。そういう目にあっている人が多いから人間はまた犯罪があり残酷な事件もたえることなく起きてくる。ただ人間は絶対的にいつまでも強い人はいない、強い家族も団体も国もない、必ずいかなるものも弱るときがある。その力はいつまでも持続できない、どんな優秀な人も最後は認知症とかなり痴呆なって死んだという驚きがあった。どんな強い人もそうなる。ニ-チェは超人をめざしたけど最後は精神病になっり世話されるだけの弱い人間になったのである。今栄えている強いといういっても人間の場合は一時的である。今勢力がある団体もたちまち衰退してゆく、
「おごれるもの久しからず」それが人間の宿命なのである。

白鳥の池 (ノスリもふえたのは餌のノネズミが増えたからか?)


白鳥の池

(ノスリもふえたのは餌のノネズミが増えたからか?)

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北風の枯木に鳴りてノスリ二羽飛び交いにけり野生の喜び

冬日さす落葉に小鳥二羽餌探すらし愛しきろかも

寥々と松風鳴りて白鳥の姿美し眠るらしかも

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ノスリが二羽飛んでいたのは見たことがない、一羽は飛んでいても二羽は見ない、それが交互に飛んでいたときは感激した。ノスリは鳶より精悍な目つきをしている。飛び方も全然違う。写真とろうとしたが失敗した。動いているものとるのは相当にむずかしい。一瞬のシャッタ-チャンスである。
それで高速シャッタ-のカシオのデジカメを新しく買った。それでもやはり動いているものをとるのはむずかしい。おそらく別に警戒区域で人が住まなくなったところでも植物でも動物でも生きている。チェルノブエリでは狼まできて野生の楽園になったというのも不思議である。おそらく放射能でこれだかけ騒いでいるけど動物とかにそんなに影響するのだろうか?チェルノブエリでさほど影響しなかったところをみると騒ぎすぎるような気もする。警戒区域に入ればやはり野生化した動物が生きている。人間がいなくなると野生のものは植物でも動物でも繁殖しやすくなるのだ。結局それらも放射能の実験材料にモルモットなるのだろう。

白鳥は今回は川の方には水がかれていない、ここは水があるからいい、やはり野生のものはその環境にふさわしいところに映える。松風が鳴り白鳥の姿が美しい、なぜだろうか?野生のものはそのしぐさ一つ一つが無邪気であり美しい、羽を大きく広げてはばたいたときは美しかったがこれも写真がとれなかった。まだカシオのデジカメはなれていないからうまくとれない。人間はなぜ自然と違って醜いのだろうかといつも思う。ただ子供から25前くらいまでは特に女性はしぐさの一つ一つでも美しい、そこに無邪気さがある。人間はその態度とかしぐさにも心が現れるのかもしれない、40、50くらいすぎると年とって美がなくなったというより心が世間の垢にまみれてそのしぐさまで何か汚れたものを発散しているのかもしれない、いづれにしろ女性はその現れたものがすべてとなりやすいから老人になることは悲惨なのである。内面的美があるといっても見た眼がどうしても若いときとあまりにも違いすぎるのだ。白鳥が羽ばたき、そして首を羽に入れ眠るのかその姿もいい、自然のものは無邪気だから何でも美を感じる。小鳥が落葉の中で餌を探しているのだろうか?その姿も何か愛しいものを感じる。何か餌があるのだろうかとも思う。自然は見ていてあきないのである。それは無邪気さがあるからなのだ。大人になると人間は邪気を発散するような人が多くなる。都会辺りを歩くとそうした邪気に満ちた人がかなり歩いているだろう。そういうところはそうした人が集るのに向いている。
田舎でもそういう人はかなりいるが回りが自然だとそういう人に会う必要はないのである。

本当に白鳥を見ていると心が洗われる。神が作った鳥としては最高のものと感じてしまう。あれだけ大きいのに飛ぶということも不思議である。鳥が飛ぶということ自体相当なエネルギ-が必要である。でも肉食でもない穀物を食べてそんなエネルギ-がでるのだろうかという疑問が常にある。
カラスは雑食であるから放射能騒ぎで田畑がなくても増えた感じがする。雀は減ったのかもしれない、それでもいないというわけではない、冬は野鳥の観察にいい季節である。野鳥は見えやすいのである。

ノスリ
http://www.cec-web.co.jp/column/bird/bird93.html

野スリはという名は野をするように飛ぶからだというのはそれらしい。野を滑走するように飛ぶからである。獲物はネズミだから常に野を滑走するように飛ぶ。おそらくもしかしたら田畑を耕さないからこの辺でノネズミが増えたのかもしれない、餌になるものが多くなればそれを食うものもふえる。ノスリが二羽も見たのは今までにないからだ。ただこの鳥は結構日本にいるのだけど鳶と間違いやすく見落とされている。冬の鳥としてジュウビタキやツグミは見つけやすい。このノスリも今年はこの辺では何回もみかけた。こんなに普通はみかけない、餌が増えて住み着いているのかもしれない。
何らかこの辺は自然の変化がある。