2012年11月26日

鴨(田舎で共有する時間の復活)


(田舎で共有する時間の復活)


つつがなく満月写り鴨眠る

鴨群れて雨にめるるや橋の下

この道や雨にぬれつつ冬紅葉

昨日の満月は何か違っていた。月でも特別美しく見える時がある。おそらくこの辺はこれだけの災禍を経験したのだからしばらくは自然災害はないように思う。自分の災いも5年間で過ぎたのかもしれない、災いもそんなに長くつづいたらもう生きることすらできない、そんな土地には誰も住みたくなくなる。現実にこの辺は放射能汚染で人が流出している。人が一カ所に定住することはそこにその人の人生が刻印されることでもある。最後はこの道や・・・となるときそこが最後までなじんだ道となるのかもしれない、他に道はもうない、もはや若いときのようにいろいろな道を模索して行くことはできない、道は定まりそこを行くほかないのである。だから故郷から避難した老人は辛いのである。

鴨が群れているのは仲間に見える。それが今日は冷たい雨にぬれている。でも何かそこには仲間で耐えている共有している時間がある。一カ所に定住することはそこで人生の時間を共有することである。それが故郷なのだろう。例え話ししなくても交わらなくてもその土地で共有するものがある。
だから文化とはcultureはcultivate(耕す)なのである。土地があって耕すから文化が生まれるのだ。それは農耕のように実際にその土地を耕すのと文化を作り出すことに通じているのだ。江戸時代あたりだと土地土地に個性があり時間まで暦まで違っていた。それだけ一つの土地で濃密な時間を共有していたのである。そういう土地と一体化した時間の共有が田舎でも薄れた。金がこれだけ力をもつとき金というのは外延的に働く力なのである。グロ-バル化社会が金が支配するのはまさに外に外にと広がればそこで金の力が大きなものとなる。それは外国旅行でわかる。10倍もの物価の差で金の力がこれほど大きなものかと実感する。自分も資本家になれる、ここなら実業家になれると思ったほどである。例えばカンボジアでバイクタクシ-があるがそのバイクの会社をもっているのは中国人なのである。別に安いからそれくらいのバイクを買えるからバイクタクシ-の社長になれと全然ビジネスを知らないものでもそう思ったのである。金の力を知るには後進国に行かないとわからないのである。


そういう世界は何かやはり異常に思える。その土地土地に金でもって暴力的に侵入することになる。それは5ドルでカンボジアの女性が売春しているしそこに外国人がたむろしているのは異常である。
金でももって人間は蹂躙される。テレビが欲しくて娘を売春宿に売った家族もいた。つまり何かグロ-バル化というのはその土地で培われたものを暴力的に蹂躙してしまうのである。その土地で共有していた文化を根こそぎ破壊してしまうのである。そういうことが日本でも急激な経済発展であった。原発事故も結局そうした経済優先の延長から起きた。金になるなら娘も売春宿に売る、この辺だって金になるなら原発は大歓迎だったのである。危険など全く度外視ししていた。この辺で原発に反対していたら住めなくなっていた。それで浪江の請戸の人が相馬病院の特別室に入って相馬に家を建てると言っていたことでもわかる。巨額の補償金が事故のあとももらえるのである。東電というのがあんなに巨大な会社だと知らなかった。福島県すら買える資金力をもっていた。

でも何でもかんでも金では買えない、文化は本当は買えない、グロ-バル化やTPPはその国の文化を無視して破壊するから危険なのである。車が売らなければ日本の経済は成り立たないジリビンだよとか盛んに言うけど車のためにそこまでしなければならないのか疑問なのである。原発事故がなぜ起きたのか?その深刻な反省が必要なのである。テレビのために娘まで売るというのは極端にしろ原発事故で家族がばらばらになり故郷にも住めなくなったことはそれとにているのだ。大事な子供まで車のために売ってしまうとにていないこともないのだ。車を売らなければ日本は終わりだ車なしでは死ぬほかないとまでなっているのだ。


ともかく田舎ではやはりその土地を通じて共有する時間がありそれを大事にせねばならなぬ。しんみりと共有する時間を味わうのである。これからはやはり遊牧民的移動の生活から農耕民的定住の生活に移行する。めまぐるしく住む人が変わったりするとまず信頼関係が築けない、この人との関係は今日限りではない、長い関係がつづく、だからこそおろそかにしたり嘘ついたりできないとなる。昔の田舎だったらそうだった。三代住まないと農家では信頼しない、仲間として認められないというのもそのためたったのであある。そういう息の長い関係は江戸時代に戻ることなのである。最近50年とか過ぎて日本の杉が成長して山村は活気がでてくるだろうというのもそれだけ自然と共に生きることは長い時間をかけることなのである。そういう時間感覚の変化がこれから起きてくる。急激な工業的時間感覚は人間を疲弊させたし人間関係も破壊したのである。