2012年11月23日

大都会の無意味な死(詩) (還るべき山も大地もそこにはない・・・)


大都会の無意味な死(詩)

(還るべき山も大地もそこにはない・・・)


大都会のビルの谷間に
一人の人間が死ぬ
その死を誰が知るのか
誰が受けとめるのか
その死は大都会の雑踏の喧噪に埋もれ
その死は意味をもたらさない
会社は永続するものなのか
ビルは永続するものなのか
人々は人工物に囲まれて
還るべき大地も山もない
巨大なビルが文明の墓標のように
人間を圧して消し去ってしまう
そこから人間の声は聞こえない
集団示威の騒音と雑音と機械の音が
日々の残酷な事件がマスコミの視聴率となり
人の生は実りとはならない
マスコミは災いと恐怖が売り物
毎日事件は起こり消えてゆく
いちいちその事件を長く追求することはない
無数の人が死んでゆく・・・
それらの死に何が意味があるのか
それら次から次と埋めつくす
群集の雑踏の中に虚しく消えてゆく
一人の生は記録されることはないだろう
高層ビルは巨大な墓標なのである
その下に一千万人の死体が埋まっている・・・
使い捨てられた人の死体が埋まっている
結局それは意味なき蟻塚となっている・・・
意味と意義を与えるものは何なのか?
還るべき山も大地もそこにはない・・・


結局山尾三省はこうして無意味に死ぬことを拒否して死に場所を屋久島に求めたのだ。生きることはまた死ぬことに通じている。自分はここで骨を埋めるんだというとき本当にその場で人は生きる。そういう場を屋久島に求めたのである。そういう一度きりの人生を命を本当に大事にすれば人は意味と意義ある生を本気で探求するだろう。ただ金になればいい、豊かな暮らしさえできればいい、何でも金になることが現代では最大の価値である。金持ちにならなければ現代では何も得られない、金のないものに女性もついてくるか?家も建てられない、家が立派かどうかで人はその人を判断する。なにやかにやいったって外見が第一なのだ。外見で人は判断されるのだ。貧乏人は誰も相手にしない、旅館てもホテルでもその人の外見を見ているんだ、貧乏くさい人間は卑くくみられるのだ。ビロウドの帽子などかぶることはそうした外見の良さで判断するものへの皮肉だった、抵抗だった。樽で暮らしたディオゲスネかもしれない、哲学者は意味を意義を探求している、真の宗教者もそうである。ご利益ばかり求めてはいない、常に現世的なものより天上的なものを脱世間的価値を求めてきたのが宗教である。カルト宗教団体には全くそれがない、世間そのものであり大衆化した文明の価値観を先導するものである。誰も山尾三省のような極貧を求めるようなことはしない、やはり金持ちになりたい、あらゆる欲望を満たしたい、そのために日々祈っているのである。

今なぜ老人がこれほど問題にされ問われるのか?高齢化で多いせいもあるが老人の存在価値が喪失しているからだ。なぜこの老人は生きているのか?延命治療でもそうである。そこでただ人間の命をのばすだけでいいのかとなる。つまり老人が生きる価値が問われる。若者から見れば老人は重荷であり生きる価値がないとみられる。金を持っていても価値がないと見られているのだ。その金を若者のために使いと言われる。金を持っていても価値が生まれる訳でもないのだ。老人が個々にもっている金だけではない価値が問われる。


普通に考えればパンを食うことが贅沢だったとかそこまでこの飽食の時代にやる必要はないと考えるのが普通である。それは厭味にさえなっている。そういう貧乏から脱するために苦労してきて今の豊かな社会を作ってきたのである。でもそのために失ったものがあった。それが見えなくなっていたのだ。原発事故はまさにそうした富を追い求めた結果として生まれた。豊かさを求めれば電気は無制限に必要になるし経済成長をどこまでも追求すればたりない電気をどうするんだとなり原発はやめられないとなるのだ。でもお前も電気をかなり使っているだろう、電気の恩恵をどれほど受けているか自覚しないのか?それは確かにそうである。最近電気釜やらおかゆメ-カ-などを買ったし便利である。これも電気だし電動自転車も電気である。自分も電気なしでは暮らしが成り立たない、しかし電気でも制限されて使うほかないのだ。現代は無制限の欲望の追求でありそうしたら無制限のエネルギ-が必要になってくるのだ。優先的に電気を使うものを決めるということが必要なのである。その制限ができないことが問題なのである。

いづれにしろ人間にとって宗教と哲学がかかせないのは物だけで欲望だけで満たされないからである。人間の欲望はきりがないのだ。「神の国と神の義と求めよ」というとき最初に人間は生きる意味と意義を求めよということである。そのために糧は神から与えられる。この仕事に何の意味があり意義あるのか?

そんなことよりそんなむずかしいことより金になるかどうかが先決だよ、金にならなければ何の価値もない、第一食べてゆくことも生きることすらできないのではないかとなる。それほど金の力は大きくなっている。金を得れば百億円もあれば何か地球でも買えるような気分になっているのが現代である。でも生きる意味とか意義とか宗教が探求したものは得られない、それはそうした富を捨ててこそ得られるということがあったのだ。だからこそシャカは王宮を去って無一物となり物乞いする身となった。もし人間が生きる意味や意義や価値を追求するならそんなことする必要ないのである。

ただ宗教でもヨ-ロッパでも東洋でも何か錯覚しているのだ。豪華な大聖堂や大伽藍があり宗教はこういう豪華なものであり富をもたらすものだと錯覚している。大衆はだからそういう大伽藍に目を奪われ宗教の本来の姿を見失っているのである。どうしても大仏でも巨大なものに目を奪われ偶像崇拝になる。仏像でもそれはそれぞれがもっている教える諭すものがありそこに価値がある。巨大だけだったら価値がない、惑星でも木星であれ土星であれ巨大なだけでは何も価値が生まれないのだ。

日本の価値は狭い国でも価値があり価値を作ってきた。それが日本文化とり文明となったのである。その根本の価値観は農業にあったことは確かである。もちろん海に囲まれているのだから漁業にもあり山林が多いのだから林業にもあった。

これから地方を活性化するとき林業でも植林してから50年くらいで杉が使えるようになって活気がでてきているというとき林業が外材で廃れたのかと思ったらそういうことがあるのか、林業は時間がそれだけかかるものなのである。今や電気製造関係の会社が倒産して地方の工場が閉鎖して疲弊しているというとき農業の役割が大きくなるというのもまた新たな農業の復活の兆しなのかもしれない、そこで雇用が戦前のように確保できるという。そういうことを考えるとまず放射能汚染地帯となったこの辺の未来は本当に暗い、再生エネルギ-基地として希望があるだけになってしまう。30年くらい放射能が減らないとするとまともに耕作できないからだ。林業だって放射能汚染されているから使われないとしたらどうして今林業が杉が成長して使えるとなっても使えないのである。原発事故でそうした生活の基盤になるものを台無しにしたのである。文化を創造するにもそういう生活の基盤がないとしたらありえない、荒地ばかりの世界でそれを絵に描くこともできないだろう。ミレ-の絵に羊がいないようなものである。羊でも放射能汚染された草を食べられないからいなくなるのである。

イノシシや猿が繁殖して増えまるで猿の惑星のようになっているのだ。実際にイノシシが増えて檻で捕獲している人が人間がこの檻に入るようだと言っていたときそれは猿の惑星だったのである。
猿の惑星では人間が核戦争でニュヨ-クも吹っ飛び消えてそこには猿が支配していたのである。
だからあの映画がこの辺で現実化していることに驚くのである。核戦争ではなかったけどやはり人が住めなくなり街が放置されてゴ-ストタウンになっているのは本当に猿の惑星だったのである。

 
 
posted by 老鶯 at 21:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連