2012年11月14日

晩菊-冬の星(50年もたちまち過ぎてしまった)


晩菊-冬の星(50年もたちまち過ぎてしまった)

idobanngiku111.jpg

idobanngiku111222.jpg
クリック拡大!





晩菊やにここに井戸ある昔かな

夕暮れに二両の電車時雨かな
玄関に一羽消えゆく冬の蝶
冬の蝶消えゆく余韻残るかな
冬の灯や津波の跡に残る家
石二つ黙しつ遠く冬の星


  the stone to stone
  a winter star
  in the distance


冬銀河一つ一つの明かに

近くの井戸は子供の頃、水をもらった井戸だった。バケツで水を運んで外の木の風呂に入れた。それも思いば50年前以上になっていた。半世紀も過ぎたのかと驚く。近くの旅館だった家も壊された。そこには伊勢湾台風の時、逃げたことを覚えている。それにしてもこいなに時間が過ぎてしまったことが信じられない、50年というと本当は相当な時間だけど実際はそんなふうには思わない、つい昨日のようにさえ思うこともある。人間はたちまち昔になってしまうものである。原発事故でももし50年過ぎたらどうなっているだろうか?元のように回復していのだろうか?50年という歳月は長いようでまた短いのである。ここに咲いていた晩菊は本当に晩菊らしいものだった。今は誰も住んでいない、人間はまた忘れ去られるのも早いのだ。木下材木店のことを覚えている人もまれだろう。墓だけが隠れたように残っていたのである。ただここには住んでいない、墓だけ残っているのだ。これまた無常なのである。


玄関に一羽飛んできて蝶が消えた。これも冬の蝶らしい、急に冬になった。季節的には秋が長びくということはなかった。冬は冬だった。秋が短かったのである。冬は普通に来ている。
夜外に出たら津波の跡に住んでいる家の灯がともっていた。あそこまで津波が来たがそこはまだ人が住める状態だったのである。だから修復して住んでいる。今日の夜は星がきれいだった。冬銀河であり一つ一つが冬らしく強い輝きを放っている。また冬が巡ってきたのだと思って空を見上げていた。

英語で石にaがつくのとtheがつくのでは違っている。aは抽象化した石であり実際に自分でみた石とは違う。theとなると自分で実際に見た知っている石のことなのである。その差は大きい。それを
「万葉集の枕詞などがなぜわからなくなったのか」などで書いた。万葉集は一般的な抽象化したものを歌ったのではなく実際に見ている、theの世界だった。だからaとtheの相違は意外と大きいのである。現代はthe の世界ではなくaの世界、抽象的な世界に生きている人が多いのである。だから血が通わないとういことがある。