2012年11月03日

秋深まる-原町へ行く-短歌十首(老人は変化に弱くなる)


秋深まる-原町へ行くー短歌十首(老人は変化に弱くなる)


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秋の薔薇ここに散りしを我が知りぬ二両の電車今日も行くかな
秋の薔薇今年もここに咲きにけるいつもの道を夕べ帰りぬ
今日も見ゆ群れにし鴨に夕日さし新田川の橋渡り帰りぬ
一むれの野路菊咲いて夕日さし松一本や夕べ帰りぬ
家一つまた壊されて誰が家や何を残すや秋の日暮れぬ
福寿園に深野の女や月日すぎいかにありしや冬となるらむ
自転車にイオンは遠き行かざりき秋の日入りぬ我も老いゆく
帰る道かすかに虫の鳴きにけるその声聞きつ夕暮れにけり
二両の電車の汽笛時折に鳴りて聞こえぬ遠くに行けじも
病院に働く人のいかなれや一年半すぎ冬となるらむ
秋深む誰に会わむや故郷に松一本の変わらざるかも
一輪の岩桐草の我が庭の石にうなだれ咲きて暮れにき


今日は自転車で原町に行った。原町の六号線の道の駅までは遠く感じない、何かイオンまでは遠く感じる。自転車はニキロくらいでも往復になると4キロになるから遠く感じるのだ。何か年とると遠くに行くのが億劫になる。本当にこの辺は電車が通じていないので本当に仙台でも行きずらくなった。何か二回も乗り換えと不便なのである。手術後2か月は乗り物に乗るなと言われたので行けないこともある。それでも何か遠くに行くのが億劫になる。今の時代のように車で常に遠くに行った時代はない、交通の便が悪かったからそんなに遠くには行かない、身近なところでまにあわせていたのである。買い物というものも何か今の時代増えたのである。毎日買いものして何でこんなに買い物があるのかと思う。それだけ贅沢な時代である。最近変に思うことは車がないから通販を利用する。アマゾンでは便利だから相当買っている。本も送料無料だから利用しやすい、この辺で配達してもらうとアマゾンで注文するより配達料が高くとられるのが変なのである。千円くらいのものでも送料が無料だとすると車がない人は近くで買うより便利だとなるのも変な社会だと思う。その配達されるコストが相当かかっているから変だなとなる。でも買った布団はこの辺では買えないいいものだった。4千円くらいで安いものでもいいものだったのである。布団を買うとなると配達料だけで千円かかると言っていたからだ。家にいながらにして買い物に困らない時代になっているのだ。


思うにいろいろなものを機械でも買うのは人手の代わりに買うということがある。機械化してインスタント化しているから料理とか男一人でもできることがわかった。一人介護してもやっていけるのは料理などがインスタント化して便利になっているからである。惣菜でも買えば手間はかからない。
もし機械がなかったら米をたくにしても薪だとか炭だとかで手間がかかりすぎた。実際に子供のときは竈(かまど)であり炭であったのだ。そんな時代からすると変わりすぎたのである。家事が機械化して買うことでまにあわせる。これが昔だったらその手間だけで大変なものだから人手を確保するのに大変だった。その人手を必要としないからまたその代わり金が必要となった。


ただこうしして何でも機械化しして買う時代になると人と人は交わらない、親密な関係が隣近所でもなくなる。だから一旦人手を必要として介護になったりすると困るのである。人手は物や機械のように簡単に買えないことがわかった。家の中で働いてもらうことほど危険なことはない、それなりに親密になっている人ならいいが近くでも全然知らない人を雇うことほど危険なものはない、人そのものを使うことは今はなじまなくなっているのだ。だからすべて機械や物を買うことで代替しているのだ。人そのものを雇うことは生身の人間だからやっかいなのである。生身の人間は生々しい欲望をもっている人だということである。機械や物を買うなら別にそういう生々しい人間自体に接することがないから問題も起きないのである。ただ機械の操作などがめんどうだというだけである。それでコンピュタ-とかで生身の人間に接しないでコミニケ-ションを計る。それは楽だからである。生身の人間と接することはどんな場合でも怖いことなのである。だからインタ-ネットから知り合って接して生身の人間に接したとき殺人になる事件があった。男女関係でも実際は怖いものがある。それは生身の欲望がある人間だからである。


ともかく年取ると人間はあまり動きたくなくなる。年よりは変化に弱くなるのだ。見慣れた所で慣れた人と過ごすことが心も安定する。秋の薔薇というときいつもの所に今年も咲いている、ああ、ここに今年も咲いてやがて散ってゆく、そういう時間の経過を見ているのが動かない視点をもつことであり心も安定するということである。ただこの変は余りにも変わりすぎた。今日も一軒の家が完全に壊されて更地になった。すでに十軒くらい家が壊されているのを見た。今家を壊すのが無料だから壊されている。


福寿園に何回か行って深野の90才の女性とちょっと話した。あの女性は今どうしているのだろうか?
南相馬市総合病院に一か月入院していたから看護師などはどうしているのだすうかとか思う。もうすでに秋は終わろうとしていた。文化の日であり立冬も近い。今年は晩秋という感じがない、晩秋がぬけて冬になってしまうのかもしれない、9月まで残暑が厳しく夏だった。そして秋は早く終わり冬になる。日本全体が暑くなり季節感まで変わってしまったのである。野路菊は晩秋の時咲くのを見かける。帰りの道にはいつも一本の松がある。その松は変わりがない、あまりにも変わりすぎるのは老人には苦手になる。常に見慣れたものがあると安心する。認知症の人も人でも環境でも江戸時代のように見慣れたなかで過ごしていると安定する。これは認知症だけではない老人特有の心理である。
だからこんなに変わりすぎたこと、故郷さえ離れて見知らぬ所で暮らす老人は辛いと思う。帰りたくて毎日泣いているというのをテレビで見たけどそうかもしれない、そういう気持ちはなかなか老人にならないとわかりにくいだろう。80くらいになったら余計にそうである。それが今回の原発事故などで故郷に住めなくなった人たちの過酷さだったのである。確かに死んだりしていないし食料にも困らないが精神的にきつかったのである。


年取ると意外と家が大事になる。若い内はアパ-トなどでも気にならない、でも年取ると家は広くて住みやすいのがいい、なぜなら家の中で暮らす時間が長くなるから快適でないとまずいのである。
こういう点仮設暮らしは田舎で大きな家に住んでいた人が多いから辛いとなる。庭が狭くてもあればなごむ。田舎では広い庭や前に畑をもっていた農家の人も多い、それがないと都会の団地生活などしたら鬱病になったというのもわかる。もの書くとなる広い家で書斎があり悠々としていないと書けないとういこともある。その点自分は恵まれていた。ただ本当にこの家の主人になったのは最近のことである。身内が死んでからである。死んではじめてこの家を自由にしたとき広い部屋がありこれだけ活用すれば十分だと思ったのである。寝室は八畳だと悠々する。前は6畳くらいだから狭かったのである。寝る場所は広いのがいいのだ。八畳だと本当に広く感じる。6畳でも何か圧迫される。八畳でも天井が高いとさらに広く悠々とした気分になり眠れるのである。今はたりないのは召使だけどその代わりが機械や買うことによって補っているのである。