2012年11月21日

農業に生きる意義を求めた山尾三省 (ただ金だけを求めた農民、漁民、山民への疑問-グロ-バル化は国々の伝統的価値の破壊)

農業に生きる意義を求めた山尾三省

(ただ金だけを求めた農民、漁民、山民への疑問-グロ-バル化は国々の伝統的価値の破壊)


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山尾三省は最初から農業に意義と価値を求めていた

普通の農民、漁民はわずかしか認めていない

山尾三省は意義や意味が拡大化した

現代のアンチテ-ゼだった


●山尾三省ははじめから農業に意味を意義を求めた


山尾三省について書いたけどこれも原発事故で見直したのである。もしこの人がここの原発地域に住んで暮らしていたらただ言葉だけで言っているのでは自らの体で実践していたのだから説得力があったろう。ただこの辺で原発に反対したら住むこともできなくなっていたかもしれない、原発の安全性に疑問をもち、反対していたら住めなくなっていたかもしれない、それほどすでにこの辺は原発に負っていたのである。実際に40年も原発で働いていた人が原町にもいた。それだけ長い間働いていたとなると原発はこの辺ではすでになくてはならないものになっていたのである。40年という歳月は重みがある。例え否定されるべきものでもそうして働いていた人が他にもいる。この辺ではそういう人が結構いるから東電を余り責められないという、外部の人は何でもっと反対抗議をしないのかと言われる。それはやはり原発に経済をかなり負っていたからでてある。例えば相馬の病院の特別室に入院していた浪江の請戸の人は相馬に家を建てると言っていた。あの人は何をした人かわからない、ただ
請戸の人は漁業関係者だったら相当な金を補償金を事故の前でももらっていたし事故のあとももらえるのだ。その補償金が大きいのである。それで相馬の人は働かないで補償金で暮らしている人に不満をもつ、イワキなどでもそうである。補償金でパチンコなどで遊んで暮らしているのにこっちは働かせられていると不満がでてきたのである。金がもらえるからいいじゃないかというがそこには金だけでは解決しない問題が生じたのである。


そもそも現代は働くことが金を得ることであった。収入によって人間は計られていた。月給がどのくらいなのか、ここで働けばどれくらいもらえるのかとかすべて働くことは金を計算して決められる。こんな月給で働かせられるのかと常に不満は尽きない、働くこと自体に意義を求めて働いている人はいない、農民だってこれも常に金にならないからやっていけない、その跡も継ぐ子供いないとなっていた。金を計算したら農業は割にあわない、やっていられないと不満だけがあった。結構辛い労働の割には収入が低いとして不満ばかりだから子供も継がない、ただ農業の収入の比率は一割にも満たない、原発とか火力発電などのエネルギ-産業は三割とかになっている。そういう経済の中で農業や漁業のしめる割合は全国でも一割にも満たないから昔の農業とは全然違ったものとなっていた。
戦前でも戦後まもなくでも農業のしめる比率は大きかった。ほとんどが農民であり農民意識が以前としてあった。都会に出てきても失業すると実家に帰る、実家で農業を手伝い暮らしていけたという。農業が生活の基盤としてあった。今は失業したら田舎の実家に帰るということなどない、かえって田舎では仕事がないと都会に流出しているのだ。現金を稼ぐのには都会だとなっているからだ。
だから山尾三省があえて屋久島のような所で生活するということは変人中の変人になっていた。都会で暮らした方が楽であり田舎すら仕事がない収入がないということで都会にでていっているときうどうしてあえてそんな苦しい生活をしなければならないとその田舎ですらそういう人をいぶかしがり理解できないものとなっていた。


●第一次産業は国全体でも卑(ひと)くされていた


これが戦前ならみんな農民はみんな苦しい生活をしていたし仕事でもないのだから貧しくても農民をしているほかなかったのである。そこで農業の意義などを求めて仕事をしている人などいない、ただ食うために農業をすることを強いられてきたのである。かえってそうした貧しい農民から脱したいという人が地主が意外では多かった。それでもどうにもならず農業に従事していた。そこで農民の生きがいだとか何だとか関係ない、日々生きてゆくことが農業である。だから猪狩満直は北海道に開拓にゆき「俺の体は俺のからだではない」と呪いの言葉を残して若くして肺病で死んだのである。そういう過酷な状態ではのんびりと農業の意義を求めて働くなどということはない、ただ日々の糧を得るために必死に働く、働かせられるとう感覚しかないのである。山尾三省がそうした戦前の農民のように特別強いられたわけではない、別に農業でなくても生きられる時代だしみんなそうしていた。それをあえて農業に生きる意味を求めて屋久島で働き妻も早死にして自分も比較的若く62才で死んだ。

それは猪狩満直のように強いられたのではないあえて農業に意義を求めて屋久島で生活してそこを死に場所として終わったのである。今農民であれ漁民であれ山に生活している人であれそこに生きる意味を求めている人などいない、中に飯館村辺りで都会から田舎での生活をしたいという人がいた。その人たちは確かに田舎での生活に都会とは違う意味を求めていた。不思議なのはそこで生きる意味を意義が最初にありきだったのである。昔から代々住んでいる農民はそんな意義など探求しないのである。ただ農業とは米作りでも日本ではすでに弥生時代からつづいているから二千年とかの歴史があるのだ。これを考えたとき米作りは単に腹を満たすだけではない、日本の歴史的文化であり歴史的文化的価値あるものなのだ。それはとりもなおさず山尾三省が求めたものだったのである。


なぜそれをあらためて問うのかというと原発事故でそういうことを否応なく意識させられたからである。原発に農民も漁民も金のために自分たちの足元の生活を卑(ひく)くくみた。金にならない金にならないと農業自体の漁業自体の意味を意義は全くないがしろにされていたのである。だから東電との補償問題で漁業組合の人が「俺たちを馬鹿にするなよ」とか訴えていたのはその象徴である。全体でも現代は第一次産業のしめる割合は収入は一割にもみたないのだから卑(ひく)く見られていた。
それより東電のような電気エネルギ-やソニ-やパナソニックなどの電気製造産業や自動車産業が国を支えるものであり第一次産業より価値が断然高いものとして農業は誰もしたくないものになっていたのでてある。それは国全体の評価でもそうなっていたのである。TPPもそういう産業構造の中でもっと車を売りたいとかなって賛成する人が多い。経済界でも財界でも当然そうなる。そういう社会が本当にいいものだろうかという疑問がある。それは伝統的価値の破壊でもあったのだ。それではまた江戸時代に戻るのか、江戸時代のどこがいいのだ。食うや食わずの社会がどこでいいのだ。飢饉になったら飢死するだけの社会のどこがいいのだとかなる。ただ議論するときそういう極端論は議論にならない、お前は江戸時代にもどり山にこもり電気なしで暮らせとかいうと議論にならないのである。
すでに電気であれ車であれ否定できないものである。だからといって電気無しで暮らせるのかとかいえば議論にならないのである。


●すべてを経済的合理性で割り切る危険(TPPの危険)


人間社会は文化が破壊されること伝統的文化的価値が破壊されることがいかに甚大な影響をもたらしたか?そのことを深く反省しないとますます社会は混乱して終始がつかなくなりモラルも喪失して崩壊しかねないなのである。経済的合理性とかそういうものばかり追求していると思わぬ落とし穴がある。原発事故もその一つだったのである。外国では米を作ることが今ではできる、それも日本と同じ様にうまい米を作ることができる。日本の耕地とは比較にならない広い田で作ることができる。それととても日本の狭い領土では太刀打ちできない、でもグロ-バル化すれば何でも他国に売らねばならないとやっていけないからそうなる。ところが山尾三省が農業に意義を求めたように農業は日本の歴史的文化である。それが根こそぎ破壊されて減反からさらに荒地になる。放射能被害で荒地になったような国土になるかもしれない、競争力がついて農業もかえって活性化するというのは本当だろうか?それは農業を文化的なものとしてみていない、ただ経済的効率性からしかみていないからそうなる。経済的効率性だったら外国の方がとてつもない広い土地があるのだから米も外国で作った方がいい、日本は工業国として車だけを作っていろとかなる。そうなったら国土は荒廃して放射能汚染地域となり田畑は放置され荒れ放題になってしまう恐怖がある。


びろう葉帽子の下で
山に還る
その山がたとえチェルノブエリの灰で汚染されているとしても
わたしはほかに還る所がないのだから
山に還る
びろう葉帽子の下で
死期を迎えた動物のように
山に還る


山に還るというときこれは山が昔から万葉時代から日本では人を葬った場所だったから山が死に場所としてあった。山には神が住むというときそこが人が葬られた場所で神聖視されたからである。そして山は田んぼに水を供給する場所だからまた神聖化された。死んだ祖先が神となり春には山からおりてくるというのはそのためである。そういう歴史的伝統的文化的価値観がただ経済的合理性だけを追求して失うことは危険なのである。最近米作りしたオ-ストラリアでもアメリカでもそれは文化ではない、日本は明かに文化として米作りもあった。ただ腹を満たす米を作るというだけではなかったのである。人間は死んだら大地に還るとか山に還るとかいうのはどこの国でも本能的なものとして生き物だからあった。しかし日本では弥生時代からそういう文化が作られてきたのである。結局グロ-バル化の問題はすべて経済的合理性で価値判断することにあった。それは歴史的伝統的なそれぞれの国の価値観を破壊するのである。それはその国のよってたつものの根本的破壊だから国自体も破壊される。現実にグロ-バル化とは金だけが唯一の価値として君臨する、拝金主義となる。現実に日本でもあらゆることが金だけの追求となり山尾三省のようにあえて極貧となり農業に意義を求めた人はいない、それは現代へのアンチテ-ゼであり警鐘だったのである。

例え株で金融でもうけることが国を富ませることなのか?そんな人が人間として尊敬できるのか、金だけを追求することが人間としてのあり
方でいいのか、そこに人間として生きる価値があるのかとなる。グロ-バル化は国々の文化を破壊する。TPPもまたそういうグロ-バル化社会から必然的に生まれてきたものである。アメリカの広大な土地の社会と日本の狭い土地の社会は根本的に文化で違っている。そういうものを経済的合理性だけで容認したら日本の国が根底で破壊される。すでに金だけが唯一の価値となっているのにさらにそれに拍車をかける。だから今山尾三省の生き方が現代の社会を問うことになったのである。彼は農業にその土地に生きることに意義を意味を求め死んだのである。最初からあえて意義を意味を求めて極貧の農業に従事したのである。


山尾三省の詩を読む (原発事故で見直されたその生活)

 http://musubu2.sblo.jp/article/55776731.html

アンチテ-ゼ

弁証法のもっとも単純な説明は、テーゼ(命題、定立)、アンチテーゼ(反対命題、反定立)、ジンテーゼ(統合命題)である。たとえば、「地獄」は「天国」のアンチテーゼ、「無秩序」は「秩序」のアンチテーゼである。通常釣り合いの取れた、対照的概念の並列である。


 

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2012年11月23日

大都会の無意味な死(詩) (還るべき山も大地もそこにはない・・・)


大都会の無意味な死(詩)

(還るべき山も大地もそこにはない・・・)


大都会のビルの谷間に
一人の人間が死ぬ
その死を誰が知るのか
誰が受けとめるのか
その死は大都会の雑踏の喧噪に埋もれ
その死は意味をもたらさない
会社は永続するものなのか
ビルは永続するものなのか
人々は人工物に囲まれて
還るべき大地も山もない
巨大なビルが文明の墓標のように
人間を圧して消し去ってしまう
そこから人間の声は聞こえない
集団示威の騒音と雑音と機械の音が
日々の残酷な事件がマスコミの視聴率となり
人の生は実りとはならない
マスコミは災いと恐怖が売り物
毎日事件は起こり消えてゆく
いちいちその事件を長く追求することはない
無数の人が死んでゆく・・・
それらの死に何が意味があるのか
それら次から次と埋めつくす
群集の雑踏の中に虚しく消えてゆく
一人の生は記録されることはないだろう
高層ビルは巨大な墓標なのである
その下に一千万人の死体が埋まっている・・・
使い捨てられた人の死体が埋まっている
結局それは意味なき蟻塚となっている・・・
意味と意義を与えるものは何なのか?
還るべき山も大地もそこにはない・・・


結局山尾三省はこうして無意味に死ぬことを拒否して死に場所を屋久島に求めたのだ。生きることはまた死ぬことに通じている。自分はここで骨を埋めるんだというとき本当にその場で人は生きる。そういう場を屋久島に求めたのである。そういう一度きりの人生を命を本当に大事にすれば人は意味と意義ある生を本気で探求するだろう。ただ金になればいい、豊かな暮らしさえできればいい、何でも金になることが現代では最大の価値である。金持ちにならなければ現代では何も得られない、金のないものに女性もついてくるか?家も建てられない、家が立派かどうかで人はその人を判断する。なにやかにやいったって外見が第一なのだ。外見で人は判断されるのだ。貧乏人は誰も相手にしない、旅館てもホテルでもその人の外見を見ているんだ、貧乏くさい人間は卑くくみられるのだ。ビロウドの帽子などかぶることはそうした外見の良さで判断するものへの皮肉だった、抵抗だった。樽で暮らしたディオゲスネかもしれない、哲学者は意味を意義を探求している、真の宗教者もそうである。ご利益ばかり求めてはいない、常に現世的なものより天上的なものを脱世間的価値を求めてきたのが宗教である。カルト宗教団体には全くそれがない、世間そのものであり大衆化した文明の価値観を先導するものである。誰も山尾三省のような極貧を求めるようなことはしない、やはり金持ちになりたい、あらゆる欲望を満たしたい、そのために日々祈っているのである。

今なぜ老人がこれほど問題にされ問われるのか?高齢化で多いせいもあるが老人の存在価値が喪失しているからだ。なぜこの老人は生きているのか?延命治療でもそうである。そこでただ人間の命をのばすだけでいいのかとなる。つまり老人が生きる価値が問われる。若者から見れば老人は重荷であり生きる価値がないとみられる。金を持っていても価値がないと見られているのだ。その金を若者のために使いと言われる。金を持っていても価値が生まれる訳でもないのだ。老人が個々にもっている金だけではない価値が問われる。


普通に考えればパンを食うことが贅沢だったとかそこまでこの飽食の時代にやる必要はないと考えるのが普通である。それは厭味にさえなっている。そういう貧乏から脱するために苦労してきて今の豊かな社会を作ってきたのである。でもそのために失ったものがあった。それが見えなくなっていたのだ。原発事故はまさにそうした富を追い求めた結果として生まれた。豊かさを求めれば電気は無制限に必要になるし経済成長をどこまでも追求すればたりない電気をどうするんだとなり原発はやめられないとなるのだ。でもお前も電気をかなり使っているだろう、電気の恩恵をどれほど受けているか自覚しないのか?それは確かにそうである。最近電気釜やらおかゆメ-カ-などを買ったし便利である。これも電気だし電動自転車も電気である。自分も電気なしでは暮らしが成り立たない、しかし電気でも制限されて使うほかないのだ。現代は無制限の欲望の追求でありそうしたら無制限のエネルギ-が必要になってくるのだ。優先的に電気を使うものを決めるということが必要なのである。その制限ができないことが問題なのである。

いづれにしろ人間にとって宗教と哲学がかかせないのは物だけで欲望だけで満たされないからである。人間の欲望はきりがないのだ。「神の国と神の義と求めよ」というとき最初に人間は生きる意味と意義を求めよということである。そのために糧は神から与えられる。この仕事に何の意味があり意義あるのか?

そんなことよりそんなむずかしいことより金になるかどうかが先決だよ、金にならなければ何の価値もない、第一食べてゆくことも生きることすらできないのではないかとなる。それほど金の力は大きくなっている。金を得れば百億円もあれば何か地球でも買えるような気分になっているのが現代である。でも生きる意味とか意義とか宗教が探求したものは得られない、それはそうした富を捨ててこそ得られるということがあったのだ。だからこそシャカは王宮を去って無一物となり物乞いする身となった。もし人間が生きる意味や意義や価値を追求するならそんなことする必要ないのである。

ただ宗教でもヨ-ロッパでも東洋でも何か錯覚しているのだ。豪華な大聖堂や大伽藍があり宗教はこういう豪華なものであり富をもたらすものだと錯覚している。大衆はだからそういう大伽藍に目を奪われ宗教の本来の姿を見失っているのである。どうしても大仏でも巨大なものに目を奪われ偶像崇拝になる。仏像でもそれはそれぞれがもっている教える諭すものがありそこに価値がある。巨大だけだったら価値がない、惑星でも木星であれ土星であれ巨大なだけでは何も価値が生まれないのだ。

日本の価値は狭い国でも価値があり価値を作ってきた。それが日本文化とり文明となったのである。その根本の価値観は農業にあったことは確かである。もちろん海に囲まれているのだから漁業にもあり山林が多いのだから林業にもあった。

これから地方を活性化するとき林業でも植林してから50年くらいで杉が使えるようになって活気がでてきているというとき林業が外材で廃れたのかと思ったらそういうことがあるのか、林業は時間がそれだけかかるものなのである。今や電気製造関係の会社が倒産して地方の工場が閉鎖して疲弊しているというとき農業の役割が大きくなるというのもまた新たな農業の復活の兆しなのかもしれない、そこで雇用が戦前のように確保できるという。そういうことを考えるとまず放射能汚染地帯となったこの辺の未来は本当に暗い、再生エネルギ-基地として希望があるだけになってしまう。30年くらい放射能が減らないとするとまともに耕作できないからだ。林業だって放射能汚染されているから使われないとしたらどうして今林業が杉が成長して使えるとなっても使えないのである。原発事故でそうした生活の基盤になるものを台無しにしたのである。文化を創造するにもそういう生活の基盤がないとしたらありえない、荒地ばかりの世界でそれを絵に描くこともできないだろう。ミレ-の絵に羊がいないようなものである。羊でも放射能汚染された草を食べられないからいなくなるのである。

イノシシや猿が繁殖して増えまるで猿の惑星のようになっているのだ。実際にイノシシが増えて檻で捕獲している人が人間がこの檻に入るようだと言っていたときそれは猿の惑星だったのである。
猿の惑星では人間が核戦争でニュヨ-クも吹っ飛び消えてそこには猿が支配していたのである。
だからあの映画がこの辺で現実化していることに驚くのである。核戦争ではなかったけどやはり人が住めなくなり街が放置されてゴ-ストタウンになっているのは本当に猿の惑星だったのである。

 
 
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2012年11月24日

枯芒-山茶花 (昔の風景が理想郷のように見える不思議)


枯芒-山茶花

(昔の風景が理想郷に見える不思議)


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晩菊に午後の日当たり豆叩く

晩菊や路地裏に午後の日のさしぬ
路地裏を猫の歩むや冬日さす
山茶花に竹の垣根や路次の道
山茶花や古木とともに庭に咲く
何語る鴎と鴨の交じるかな
遠くより除染作業員冬鴎
鶏鳴ける声のひびきぬ冬の朝
枯芒二両の電車の行き来かな


この辺は以前として変化のなかにある。二両の電車のことを書いたけどこれも何でもないようで結構不思議なものだと思った。つまり枯芒というときそれが二両の電車だから寂寥としたものとしてあうことになる。より自然の風景にマッチする不思議なのである。寂れたからこそ自然が映えている不思議である。八両のときはこういうふうには感じなかった。いかに電車でも交通が人間に影響したか?これは心にどれほど影響したかわからない、それがわかるのはもし車も通らなくなったらどうなるのか?それは心もまるで変わってものとなる。車はやはり以前として国道をひっきりなしに通っているから変わらないからわからないのである。車がない世界になると自然がより密着したものとなる。
それはまた信じがたい光景になるし心の影響が大きいのである。現代人の心を変えてしまったのはこうした交通とか車社会の影響が大きいのである。義理人情がまるでない社会になったというとき交通とか車社会の影響が大きいのである。

豆を叩いている人が路地裏にいた。豆たたくとは秋の季語だった。豆たたくということが何かまだ機械を使っていないからそれがなんともいえずのどかな気分になる。晩菊にも午後の日があたりそこに昔の時間が戻ったような気がする。


豆たたく人にたずねて塔寺へ


旅の一こまがよみがえる。最近この竹の垣根を作った家である。竹と山茶花はあっている。この路地裏はそれなりに情緒がある。菊も咲いていて染物屋なのである。暮らしがある路次である。こういうところに猫がひっそりと歩いている。身近なところでも情緒があり別に遠くに旅しなければ情緒やもののあわれを感じないということはないのだ。何か老人になってくると近くのものが親しくなり大事になる。行動範囲が限られて狭くなってしまうからである。特にこの辺は遠くに行くことが容易ではない、バスになり一時間以上仙台に行くのに長くかかる。実際は二時間以上長くなったような気がする。そうすると遠くに行くのがめんどうになったのである。


鶏の声が朝早くひびく、最近朝早く起きて自転車に乗っている。朝運動すると体にはいい、ひさしぶりで鶏の声を聞いた。あれはまさに庭の鳥である。栃窪辺りでは冬籠もりのためにまだ薪を利用しいる所がある。だから薪を積んで貯えてある。そして鶏が歩み畑が前にある。山から清流が流れ洗い物をする所が作られていた。それは昔ながらの生活であり心なごむのである。現代は本当はそうした昔の生活に帰れなくても見直すときが来ていたのだ。猛烈に昔の生活を変えすぎたのである。そのために原発事故が起きたとも言えるのだ。原発だって本当はそんなに早く作らないでもっと安全を計り時間をかければよかったのである。なぜならマ-ク1というのはアメリカで作った人が危険だと言っていた古いものだったのである。余りにも急速に変化させたつけが回ってきたのである。その景観でもすさまじく変わってしまったのである。そんなもの懐古趣味だとかなるがそうでもない、何か余りにも急速に変化させた弊害が確実にあったのだ。その変化が心に影響したものは甚大だった。

義理人情の欠片もなくなった殺伐とした風景はやはり異常である。金というのもが絶大な力を持ちすぎたのもそうである。人は今や血眼(ちまなこ)になって金を追い求めている。人見ても人と見ない、人はもう人格など関係ない、こいつはいくら金になるんだしかない、それは親子ですらそうである。金をもたない親は価値がないとまでなっている。そういう殺伐とした風景を作り出したのも過剰な車社会とかの影響があるのだ。だから何か昔の自給自足的生活が牧歌的でアルカディアであり理想郷に見えるのも不思議である。そんなもの回想するから過去を美化するからそうなるとうのも確かである。ともかく原発事故はこの辺ではあまりにも影響が大きかったのである。

 


庭を貫く流れは門の前を通ずる路を横ぎりて直ちに林に入り、林を出いずれば土地にわかにくぼみて一軒の茅屋その屋根のみを現わし水車めぐれり、この辺あたりには水車場多し、されどこはいと小さき者の一つなり、水車場を離れて孫屋立ち、一抱えばかりの樫七株八株一列に並びて冬は北の風を防ぎ夏は涼しき陰もてこの屋をおおい、水車場とこの屋との間を家鶏の一群れゆききし、もし五月雨
降りつづくころなど、荷物曳ける駄馬、水車場の軒先に立てば黒き水は蹄のわきを白き藁浮かべて流れ、半ば眠れる馬の鬣(たてがみ)よりは雨滴重く滴したたり、その背よりは湯気立ちのぼり、家鶏は荷車の陰に隠れて羽翼振るうさまの鬱陶しげなる、かの青年は孫屋の縁先に腰かけて静かにこれらをながめそのわきに一人の老翁腕こまねきて煙管(きせる)をくわえ折り折りかたみに何事をか語りあいては微笑む、すなわちこの老翁は青年が親しく物言う者の一人なり。

 水車場を過ぎて間もなく橋あり、長さよりも幅のかた広く、欄の高さは腰かくるにも足らず、これを渡りてまた林の間を行けばたちまち町の中ほどに出いず、こは都にて開かるる洋画展覧会などの出品の中にてよく見受くる田舎町の一つなれば、茅屋(くさや)と瓦屋と打ち雑まじりたる、理髪所の隣に万屋あり、万屋の隣に農家あり、農家の前には莚敷きて童(わらべ)と猫と仲よく遊べる、茅屋
の軒先には羽虫の群れ輪をなして飛ぶが夕日に映りたる、鍛冶の鉄砧(かなしき)の音高く響きて夕闇に閃(ひらめ)く火花の見事なる、雨降る日は二十ばかりの女何事をかかしましく叫びつ笑いて町の片側より片側へとゆくに傘ささず襟頸を縮め駒下駄つまだてて飛ぶごとに後ろ
振り向くさまのおかしき

(国木田独歩-武蔵野-わかれ)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/42210_48330.html



こういう風景が何か牧歌的なアルカディア的理想的風景に見えてしまう不思議がある。ここに人と自然は融和して平和が満ちている。水車というのは今の工場の機械とはまるで違っている。農家は自然と相和している。馬もそこでまだ人間と共に生活して生きている。庭鳥ものどかに歩いている。
老人と青年が親しく語り合っているのはまさに今のように老人は税金の無駄使いだから早く死ねとわめいている若者とは違う。その頃老人と青年はこのように共に風景の中に溶け込んでいたのである。煙管を吸うというのも実は何か時間の長さがありのんびりしたものを感じるのである。今の人はタバコでも落ち着かなくスパスパと追われるように吸っている。そこに落ち着きがない、時間のゆとりがないのだ。今は何でも時間のゆとりがないみんな毎日追われているのだ。、鍛冶の鉄砧(かなしき)の音高く響きて・・・これは手仕事が残っている。人間のあたたかみがあり人間が仕事しているという感じになる。今は大工場で機械が仕事しているから仕事している人も見えないのである。
こういう風景は何か絵画的であり牧歌的でありつくづく心なごむなと思う。もちろんこうした風景がすべて消えたわけではない、田舎には以前としてある。でも車社会になったときその八割くらいは消えたのである。農作業でも機械であり馬や牛に変わった時、これも人間が動物とともに暮らさなくなり動物の影響を受けなくなる。つまり義理人情的なものを失うのである。牛とか馬と日常的に接することは情緒を育むのである。今は本当に機械の操作に追われているのだ。人間が今を嘆くとき実は過去にあったものを失ったものでありそれは過去にあったのである。

 

2012年11月25日

冬紅葉、黄葉、山の月 (橲原かち栃窪を回る)


冬紅葉、黄葉、山の月

(橲原かち栃窪を回る)


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誰が墓や挿しにし菊の枯れにけり

黄葉に橲原(じさばら)暮れて立目石
手を合わせしかと祈るや蔦紅葉
山の端に月や橲原冬の暮
人入らじ橲原渓谷冬紅葉
山の上に夕日のさして冬紅葉
水の音苔むす岩や冬紅葉
晩菊や洗い場残る山の家
黄葉や夕雲滲む山の月
山迫り際立ち赤し冬夕焼

赤々と冬夕焼けの鮮烈に

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今日は橲原から栃窪を回った。紅葉は終わり冬紅葉になっていた。黄葉というのは冬だと思ったが秋の季語だった。黄葉と冬紅葉になっていた。橲原村は鹿島区の奥座敷にふさわしい。あそこは茶室を作ると何かあっている。村では同じ様でもそれぞれ個性があるのだ。橲原と栃窪村は違っている。
橲原村は小さい。あんなところに九州から応援にきている人がいる。この辺は外部の人が相当に入ってきている。橲原村で目立つのは何もないが入り口にある立目石だけである。公会堂の脇に千手観音堂があり石碑があって祈る像があった。時代がわからないのが残念である。江戸時代のものと思うがわからない。江戸時代だと価値があるが明治以降だと石碑には価値がなくなる。橲原渓谷は落石などで交通止めでありまだ開通していない、あそこは別に車が通らなくても迂回する道ができたから車だったら不便はないだろう。かえって人の入らない道にしたらいいかもしれない、人の入らないサンクチャ-リ-というのも必要なのである。今日は山の端にまだ夕暮れでもないので大きな月がでていた。満月なのだろうか?やはり山の端に出る月は趣がある。この辺の自然は海と山が楽しめるからいいのである。海から昇る太陽や月が見られるし山の村もある。ただたりないのが会津などにある高い山がないことである。高い山がないと風景に締まりがでてこないのである。


橲原から栃窪に行った。山から流れる水で洗い物などする場が残っている。昔はこうして山からの水で洗いものをししていた。町内でもこの裏側に用水路があり水をひいていたのでそこで洗濯していたのである。自然に則した生活だったのである。洗濯というときパリのセ-ヌ川で大勢の女性が洗濯する絵があった。洗濯だけで一仕事だったのである。インドでは洗濯だけを職業とするカ-ストがあるのもわかる。栃窪にもいい月が出ていた。冬の月という感じがしなかった。それほど寒くないからだろう。栃窪で山の方の道がありそこを回った。ちょうど夕日が沈み山が迫り冬夕焼けの色が鮮烈だった。上を見ると紫かかった雲に月が光りにじんでいた。月が特別きれいだった。黄葉と月があっていた。ただ残念なのは放射能汚染で田畑が荒れていることである。やはり暮らしがなければ山村は山村ではない、本当の山村の美しさは国木田独歩の武蔵野で書かれたような所にあったのだ。ただあそこでは作家が客観的に鑑賞して書いたものでありそこで暮らした人の実感は書いていない、画家がただ外から見て描いたようなものである。そこで暮らしている農民はやはり苦しいものがあったのだ。
人間の生活は貧しくても自然は美しかったのである。人間の生活が都会のように豊になりすぎるとかえって自然は消失して汚いものになってしまったのである。

昔の村は自給自足だから今の村とは違っていた。車がないから村の内で自給自足するほかないのである。歩いたり荷馬車でも町までは相当に遠いから簡単に行き来できないからである。車がいかに社会を変えてしまったかを知るべしである。ともかく今日は月もきれいで気持ちいい日だった。

自分は一時旅行も何もできなくなるのかと真剣に思った。でも旅行も登山も海外旅行すらできるみたいだ。そういうことができなくなる病気ではなかった。重篤な病気ではなかった。
まだまだ肉体的にも行動できるのである。もう何もできなくなると思ったからこれはまた新しい未来が開けたと思った。65才で一万人いたら一五〇〇人は死んでいるのだ。一割五分は死んでいるのだ。何か数の魔術なのか多い感じがするのだ。新聞の死亡蘭でも必ず一割くらいは六〇代なのである。
五〇代で死んでいる人もいる。だから何か死が身近かなのである。まず六〇代以降はいくら金があっても病気になったら終わりだと思った。いかに健康が大事になってくるかである。この健康も日頃の生活習慣が影響してくる。もちろんそれがすべてでないにしろ酒の飲み過ぎなどは明かに肝臓とか腎臓とかに負担になり弱らせるのである。多臓器が悪くなり七〇代前で死んでいる人などがそうかもしれない、いづれにしろ自分は病気になってもまだかなり健康な部類に入る。なぜなら旅行でも登山でもできる。ただ介護のためにできないだけなのである。


 

2012年11月26日

鴨(田舎で共有する時間の復活)


(田舎で共有する時間の復活)


つつがなく満月写り鴨眠る

鴨群れて雨にめるるや橋の下

この道や雨にぬれつつ冬紅葉

昨日の満月は何か違っていた。月でも特別美しく見える時がある。おそらくこの辺はこれだけの災禍を経験したのだからしばらくは自然災害はないように思う。自分の災いも5年間で過ぎたのかもしれない、災いもそんなに長くつづいたらもう生きることすらできない、そんな土地には誰も住みたくなくなる。現実にこの辺は放射能汚染で人が流出している。人が一カ所に定住することはそこにその人の人生が刻印されることでもある。最後はこの道や・・・となるときそこが最後までなじんだ道となるのかもしれない、他に道はもうない、もはや若いときのようにいろいろな道を模索して行くことはできない、道は定まりそこを行くほかないのである。だから故郷から避難した老人は辛いのである。

鴨が群れているのは仲間に見える。それが今日は冷たい雨にぬれている。でも何かそこには仲間で耐えている共有している時間がある。一カ所に定住することはそこで人生の時間を共有することである。それが故郷なのだろう。例え話ししなくても交わらなくてもその土地で共有するものがある。
だから文化とはcultureはcultivate(耕す)なのである。土地があって耕すから文化が生まれるのだ。それは農耕のように実際にその土地を耕すのと文化を作り出すことに通じているのだ。江戸時代あたりだと土地土地に個性があり時間まで暦まで違っていた。それだけ一つの土地で濃密な時間を共有していたのである。そういう土地と一体化した時間の共有が田舎でも薄れた。金がこれだけ力をもつとき金というのは外延的に働く力なのである。グロ-バル化社会が金が支配するのはまさに外に外にと広がればそこで金の力が大きなものとなる。それは外国旅行でわかる。10倍もの物価の差で金の力がこれほど大きなものかと実感する。自分も資本家になれる、ここなら実業家になれると思ったほどである。例えばカンボジアでバイクタクシ-があるがそのバイクの会社をもっているのは中国人なのである。別に安いからそれくらいのバイクを買えるからバイクタクシ-の社長になれと全然ビジネスを知らないものでもそう思ったのである。金の力を知るには後進国に行かないとわからないのである。


そういう世界は何かやはり異常に思える。その土地土地に金でもって暴力的に侵入することになる。それは5ドルでカンボジアの女性が売春しているしそこに外国人がたむろしているのは異常である。
金でももって人間は蹂躙される。テレビが欲しくて娘を売春宿に売った家族もいた。つまり何かグロ-バル化というのはその土地で培われたものを暴力的に蹂躙してしまうのである。その土地で共有していた文化を根こそぎ破壊してしまうのである。そういうことが日本でも急激な経済発展であった。原発事故も結局そうした経済優先の延長から起きた。金になるなら娘も売春宿に売る、この辺だって金になるなら原発は大歓迎だったのである。危険など全く度外視ししていた。この辺で原発に反対していたら住めなくなっていた。それで浪江の請戸の人が相馬病院の特別室に入って相馬に家を建てると言っていたことでもわかる。巨額の補償金が事故のあとももらえるのである。東電というのがあんなに巨大な会社だと知らなかった。福島県すら買える資金力をもっていた。

でも何でもかんでも金では買えない、文化は本当は買えない、グロ-バル化やTPPはその国の文化を無視して破壊するから危険なのである。車が売らなければ日本の経済は成り立たないジリビンだよとか盛んに言うけど車のためにそこまでしなければならないのか疑問なのである。原発事故がなぜ起きたのか?その深刻な反省が必要なのである。テレビのために娘まで売るというのは極端にしろ原発事故で家族がばらばらになり故郷にも住めなくなったことはそれとにているのだ。大事な子供まで車のために売ってしまうとにていないこともないのだ。車を売らなければ日本は終わりだ車なしでは死ぬほかないとまでなっているのだ。


ともかく田舎ではやはりその土地を通じて共有する時間がありそれを大事にせねばならなぬ。しんみりと共有する時間を味わうのである。これからはやはり遊牧民的移動の生活から農耕民的定住の生活に移行する。めまぐるしく住む人が変わったりするとまず信頼関係が築けない、この人との関係は今日限りではない、長い関係がつづく、だからこそおろそかにしたり嘘ついたりできないとなる。昔の田舎だったらそうだった。三代住まないと農家では信頼しない、仲間として認められないというのもそのためたったのであある。そういう息の長い関係は江戸時代に戻ることなのである。最近50年とか過ぎて日本の杉が成長して山村は活気がでてくるだろうというのもそれだけ自然と共に生きることは長い時間をかけることなのである。そういう時間感覚の変化がこれから起きてくる。急激な工業的時間感覚は人間を疲弊させたし人間関係も破壊したのである。

2012年11月27日

巨大な権力に操作されるこの世 (権力の主は表には出ない-戦争も原発事故も同じ?)


巨大な権力に操作されるこの世

(権力の主は表には出ない-戦争も原発事故も同じ?)


この世とは巨大な権力によって操作される。そして常に権力は闇のなかにある。その権力によって有為の純粋な若者は犠牲にされる。一生を台無しにされるのである。人間は本当に若いときから間違った道を行く人が多い。それは取りかえしがつかなくなる。この世では本当にそうして間違った道に誘う歪められるのが多いのである。権力をもっているものはたいがい青年を歪める、青年は大きな権力に利用されるということである。その最悪の例が戦争だったのかもしれない、あれだけの人間が死んだけどそれが意味ないものとされる。だからどうしても意味がなくてはその英霊は浮かばれないとなり問題になる。不思議なのは今になるとその死の意味や意義だけが問われている。俺たちを意味あるもの意義あるものにしてくれと死者は叫んでいるのである。
でもその死者自体が若いときその戦争を自ら意義あるものとして選んだかどうかわからない、もちろんだからこそ命をかけるのだから若いなり煩悶したのである。でも大きな権力にのみこまれたのである。そうして道を間違い一生を終わる人が数限りない、今でもそうである。
山尾三省などは最初から農業に意味と意義を求めてその意味と意義の内に死んだから全うしたからその意味とか意義を今更問う必要もないのである。でも当時の青年は戦争に行くにしても明確な思想をもっていたわけでとはない、巨大な権力によって強制されたのである。


カルト教団は大きな権力でありそれを支持するものが権力故に支持される。若者はそういうことがわからないからその社会的に支持されたも
のが善だと思っているのだ。そして一生を台無しにするが誰もその責任はとらないのである。原発事故も大きな権力に操作されたことでは同じだったのである。マスコミなどもほとんど信用できないものである。東電から巨額の金をもらっているし地方の新聞は聖教新聞をすっているからカルトの創価などでも批判できない、悪でもなんでも権力によって左右されるのがこの世である。世の中はいつでもそういうものだったのだろう。この世の巨大な権力に操られのみこまれてしまうのである。権力とは一つの大きな闇なのである。権力は隠されている、明るみに出ない性格があるのだ。権力自体を形成するのが人間の闇なのである。個々人の心の闇もまた権力を作ってゆく。根本的なものは個々人の闇である。個々人の闇からサタンが支配するようになる。この世は金だというとき金に異常に執着する。この辺でも原発の危険性を問う人などいなかった。ただ金になればいいというのが本音だった。そう思わせるのもサタンの思う壺だとなる。現実に今の社会は金だというときまさにそうなっているのだ。そして権力による大きな悪は表に出ない、それがユダヤだとかロックフェロ-だとかいうのもそのためでありそれは不明にしてもどうしても権力が闇の中にあるからその背後のものは何だろうとなり常にとりざたされる。

 


大企業でも尖閣諸島問題で


潜水艦製造詐欺を!
中国などまったく関係ないんだよ。
2010年9月7日、それまでの「棚上げ」を一方的に破り、何故、突然、沖縄海保はカワハギ漁の中国貧乏漁船に襲い掛かったのか、
?    ↓?
1年1隻と決まっていた自衛隊の潜水艦製造が、?一気に6隻=3600億円が国民の血税から奪われた。
尖閣事件「突発」で三菱重工と川崎造船は「競争入札」を回避出来た。
尖閣事件「突発」で、双方で戦後初前代未聞の大量6隻も受注出来た。尖閣事件「突発」で三菱重工と川崎造船は、緊縮財政が叫ばれる中で潜水艦などという原価不明の詐欺兵器600億円×6隻を国民の血税からまんまと引き出すことが出来た。
多くの国民が怒っている石原一家の蓄財疑惑はなぜ追求されない?


心に青雲
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/302740448.html

 


こんなところに余り注目する人はいないしマスコミでも報道しない、これは東電とかが原発事故を起こしたこととにているのだ。東電という大企業は国家並の権力をもっていた。国家もこうした大企業の利益のために存在するとなる。必要もない兵器が尖閣諸島騒ぎで国民の血税で作られる。得するのは大企業だけだとなる。庶民は常に権力によって操作される存在なのである。中国の反日デモにしても共産党の幹部が不満分子をあおってやらせたのである。共産党指導部の不満をそらすためにしむけたのである。デモに参加した人には金まで払ったというから嘘ではない、権力によって常に操られるのが民衆なのである。創価なども巨大な権力をもっていてそれでマスコミも検察さえ内部に入っていて操作しているのである。だから常に司法でもどこでも権力掌握を目的として行動している団体である。オ-ムが宗教が隠れ蓑だったようにカルト宗教団体はみなそうである。


この辺で例えは大成建設が請け負い放射能除染をしている。その時モニタリングポストの下の土をとっていたというのもやはり権力によって真実が隠されることを示している。最近南相馬市の鹿島区の大内村にできたプレハブの建物が何だろうと思っていたら除染作業員の宿舎だった。でも写真にはとるなとかそこにいた人がとめた。別に悪いことをしていないならいいと思うが除染というのも放射能が関係しているから何か隠蔽することがあるのだ。作業員もどこからか集めてくるのかわからないがまともに金を企業で払わないとか問題になった。下請けを通すと大企業の悪は隠されるのである。それは名古屋の方の下請けみたいだ。他にも愛媛県とか九州とか全国から除染に入っている。この仕事も巨額であるから何か隠蔽されるものがある。そして実際の効果はどうなのかとなると本当の所はわからないのである。そしてヤクザを使ったりもしていたのが建設業界では当たり前のことだった。原発は常に危険を隠すために権力によって操作されていたのである。その内部に何が起きているかなど知らせないし地元の人でも調べようがない、前の佐藤栄佐久知事がプルサ-マルに反対したとき失脚されたことでもわかる。その背後にアメリカなど巨大な権力が働いたのである。ただそれ闇であり不明である。権力の主は表にでてこない、それはだから悪魔的なのである。この世の主がサタンだというときまさに権力をもっているのはこの世ではサタンである。だからいかにこの権力は絶大なものかわかる。この世を変えようとしても絶対にできない、この世を滅びないかぎりできないと聖書に書いてあるからだ。


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これは仮設住宅かと思ったら除染作業員の宿舎だった。ただこれは何かの事情で秘密にされている。何か秘密にされていることはうさんくさいとなる。原発そのものが常に秘密にされ権力によって隠蔽されていたのである。マスコミとかはそういう隠蔽された悪を調べて知らせるものだがそういうことはない、東電からみんな巨額の宣伝費をもらっていたからである。マスコミにはそもそも悪を正すとか秘密にされた悪を表にだすような機能はない、巨大な権力を補完するものなのである。
なぜ尖閣諸島の原子力潜水艦のことなどが報道されないのか?そこに大企業がかかわっていて宣伝費がもらえるからだとなる。だからマスコミも権力にだきこまれるだけなのである。

posted by 老鶯 at 15:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年11月28日

二両の電車の不思議(続編) (久々に仙台まで電車で行った)


二両の電車の不思議(続編)

(久々に仙台まで電車で行った)


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枯草や二両の電車あわわかな
冬薔薇蕾五六輪開かざり
黄葉や電車のとまる悠里館
黄葉や郷土を語る品々や
朝散歩冬菜畑や野の広し
前畑に朝映えにける冬の菊
晩菊やみちのくの線路つづくかな
仙台や欅の黄葉夜に映ゆ
雲に月にじみ光りて時雨かな
淋しさや母は寝て待つ時雨かな


冠雪の朝の蔵王を我が望みその厳しさや胸に迫りぬ


今日は半年ぶりくらいで仙台から岩切から多賀城に行った。手術して自転車に乗るな、乗り物に乗るなと言われたときはショックだった。一瞬自転車にも乗れない、乗り物にも乗れないとしたら自分がしてきたことが何もできなくなると思った。手足がもがれるように一瞬思った。確かに脳卒中とかで倒れたらショックである。動けなくなるし脳もやられるからその衝撃は恐ろしい。特に介護する人もないとしたら悲惨極まりなくなる。介護する人がいない身寄りがないということはこういうとき最も悲惨な状態になる。なぜなら介護する人がいたとしてもその病気になったら自分自身も介護する人もその負担が大きすぎるからだ。元気で生きて10日くらい寝込んで死ぬのが一番いいというのは本当だろう。そういうふうに死んだ人を近くで二人くらい知っている。その人は10日前まで仕事していたのだがぽっくりとあとは逝ったのだから理想的死に方だったのである。


二両の電車の不思議は電車があわれと感じるとき機械でも人間化しているのだ。八両のときは全くそういうことを感じなかった。現代はそれだけ機械に圧倒されて機械と人間は全く分離したものとなっていたのである。二両の電車は人間的だし自然の風景にとけこむのである。八両でもたいして変わりないように見えてもそうではなかった。だからこの経験も不思議なものだったのである。


亘理の悠里館というのには入ったことがない、なかなか亘理ではみている暇がない、今日は夜に快速で帰れてから早かった。介護していると留守番がいないから困るのだ。なんとか仙台近辺は日帰りで行ける。岩切は仙台駅-東仙台-岩切になるから近かった。そして岩切は中世からの歴史がある場所だったのである。ここを見逃していたのだ。意外と近くを人間は見逃している。灯台下暮らしなのが人間だった。そこから多賀城にも行ってみて新しい発見があった。あそこの道は街道であり歩いてみるとみちのくの旅が芭蕉の旅でも実感できる。旅は歩かないと旅にならないのである。だから冬菜畑の道を散歩している人がいたがその歩いていることが絵になっているのだ。車だったらもう絵にはならない、車は二両の電車より何か人間的なものを感じないのである。車があわれだなどと感じたことがない、車に乗っている人はまた別に感じているのかもしれないが自分は車には何か情を感じない、もともと電車が好きで旅ばかりしていたから電車には思い入れがある。それで岩切駅の前の喫茶店から新幹線と普通車と貨物列車が行くのをながめていてああ、ここは平和だなとつくづく感じた。


常磐線は津波で寸断されて何かまだ津波や原発事故は宮城県でも影響している。宮城県は津波の被害は一番大きかったのである。だから多賀城の博物館の前にも仮設住宅が建っていたのである。長町にも建っていたがあんなところにも建っていた。結構あの辺は被害が大きかった。多賀城の近くに末の松山があるから貞観の津波は奈良や京都まで知られたのである。末の松山はそれで歌枕になった。そのことが再現したことに驚いたのである。


蔵王はすでに雪だった。ひさしぶりに見てその姿が胸に迫った。短くても結構な旅だった。仙台から岩切から多賀城は歴史の道だったのである。そのことは次に書く・・・


冬の岩切駅


新幹線普通列車も行き
長々と貨物列車もごとごとと
交わり通り過ぎ行く
岩切の駅前の喫茶店
冬の日さしてしばし休みぬ
駅前に菊の映えて
ここは平和なるかな
その営みの変わらずに・・・

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なんか自分は電車の旅が長いから相当に電車に愛着をもっている。電車を見ているだけで心がなごむし気持ちいいのである。車を見ていてそういう気分になったことはないのである。新幹線だってやはり乗ってもみていても気持ちいいものがあるのだ。だからやはり鉄道の写真をとるということが鉄道ファンの第一歩なのかもしれない、デジカメだと写真をとりやすい、ただ動いているものはとりにくいからとっていない、そこまでのめりこんではいなかった。電車を待って写真とるようなことはしていなかった。電車の旅でもバスでも自転車でも車でも歩きでもそれぞれ違った旅になる。ただ車では旅したことはないからわからない、車だと何か自然を感じないから好きになれない、雨風を感じて自然と一体化する、今日も帰りに夜に雲ににじみ月が光って満月だった。そしてぱらぱらは雨がふった。これは時雨だったのか?そうかもしれない、これも車だったら時雨も感じないのである。だから車だと風流を感じないから旅にもならないのである。

2012年11月29日

冬に訪ねる-見逃していた岩切(俳句連作) (岩切の歴史は古い-古代から鎌倉時代の要所)


冬に訪ねる-見逃していた岩切(俳句連作)

(岩切の歴史は古い-古代から鎌倉時代の要所)

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干し柿や昔をたずね岩切に
あまたの碑ここに集めて落葉かな
岩切の石の仏や木の葉散る
瞑目す石の仏に冬日かな
なお残る冬の薄日に仏かな
結跏趺坐二体の仏冬日射す
東光寺石仏古りぬ冬紅葉
みちのくの塩釜街道冬の暮
今市橋海よりの風冬鴎
今市橋朝に渡るや冬鴎
今市橋朝に渡るや雪の嶺
岩切に中世語る枯芒
岩切の川沿い歩み葱畑
街道に三所と残る冬の暮


忘れらるや愛馬をまつる碑の一つここに残りて落葉たまりぬ

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元禄2年(1689年)5月8日(新暦6月24日)、芭蕉は仙台を立ち、十符の菅・壺碑を見ている。  かの画図にまかせてたどり行ば、おくの細道の山際に、十符の菅有。今も年々十符の菅菰を調て国守に献ずと云り。
元禄9年(1696年)、天野桃隣は「十符の菅」のことを書いている。


 仙台より今市村へかゝり、冠川土橋を渡り、東光寺の脇を三丁行テ、岩切新田と云村、百姓の裏に、十符の菅アリ。又同所道端の田の脇にもあり。両所ながら垣結廻らし、菅は彼百姓が守となん。

[無都遅登理 五]


 元文3年(1738年)4月、山崎北華は『奥の細道』の足跡をたどり、奥の細道、十符の井を訪ねている。

是より奥の細道。十符の井を尋ねて。沖の井に行く。三間四方程の岩なり。周は池なり。里人は沖の石といふ。千曳(ちびき)の石も此あたりと雖も。里人は知らず。末の松山は此所より遙に海原に見ゆ。


『蝶之遊』
http://members.jcom.home.ne.jp/michiko328/iwakiri.html

 


岩切は仙台から近くても歴史があるところであり見逃していた。それはなぜかというと鎌倉時代から江戸時代になって急速に変化した。仙台市は伊達政宗が戦国時代を経て青葉城を築城して仙台市が繁華な街として発展した。鎌倉時代は原野だったのである。これは鎌倉市もそうである。江戸城は鎌倉に幕府があったとき原野であった。そのあと徳川家康が幕府の城を作り百万都市になった。その前は原野だったことがわからなくなっている。大阪だってそうである。あそこも湿地帯であり埋め立てて秀吉によって作られた都市である。秀吉の城は本拠地は京都の伏見城だった。そこに最上氏や伊達氏が屋敷を隣り合って構えていたのである。愛姫(めごひめ)もそこに長く住んでいた。つまり大阪であれ江戸であれ仙台であれあれだけ人口が増えると過去というのがその人口の多さによってかき消されてしまうのである。現代から過去をさかのぼり歴史をみるというとき常にこうした錯覚が生まれる。もう鎌倉時代の様相は時代がたって全くその環境が変わってしまったからそこから過去を偲ぶことは容易ではないのだ。岩切という所もそういう鎌倉時代の要所でありそれが仙台や塩釜が発展して過去が忘れ去られたのである。


鎌倉時代は今の七北田川と湊浜が結びついていて船で物資を運び河原市場や冠屋市場が栄えた。七北田川は前は冠川(かむり)であった。川を遡ると泉の方に冠橋というのがあるから地名が残っていることでもわかる。岩切が要所となったのは一つは川を通じて海と結びついていたことである。そこで物資が集まり安かったのである。鎌倉時代になると海の交通も開け始めていたからである。そこで川も重要な交通路になった。もう一つは奥大道とか秀衡街道とかがあり平泉まで通じていた。


社殿。この場所は秀衡街道(ひでひらかいどう)が通っていた場所で、街道に塚を築くために測量に用いた縄を納めて祀った、と言い伝えられています
http://sendai-jinjya.jugem.jp/?page=1&month=201008


こういう社があるのもやはりここは今と同じく道が交差する幹線道路だった。だからいくつもの道ができて交差していた。もともとここに多賀城の国府があったとか言われているから古代からもみちのくの道があった。十符の菅菰を調て国守に献じたというのもそのためである。地理的にも平泉や塩釜や松島やさらに湊浜にも通じている要所であることが地理的に納得がいくのだ。ここは福島県だと郡山ににている。郡山は福島県の入り口でありイワキにも会津にも福島市にも通じている要所だからこそ発展したのである。地理的要因がいかにその地の性格を決めるかわかる。


みし人も十府の浦風音せぬにつれなく澄る秋の夜の月


ここで浦風というとき海を意識しているのだ。ただ今は住宅が密集しているから意識できない、でも冬鴎が飛んできて自分は海から吹いてくる風を感じた。浦風だったのである。風から海が近いことを意識したのだ。冬になれば北風だがあの風は海から吹いてきたから東風(こち)だったかもしれない、この風は春になると吹き始める風である。でも七北田川の海の方角から吹いてきた。今回の津波で海が奥深くまで入り込んでいたことが証明された。多賀城駅の砂押川を津波がさかのぼり潮水があふれて被害にあったことには驚いた。古代から鎌倉時代は冠川と砂押川が一つであり結びついて湊浜に流れでていた。砂押川でも高砂でも砂を押すだから海の波によって砂が押されるという地名である。そこに津波が押し寄せたというのもつながっている。高砂というのも砂が高く積もっている地域だからこの辺は海岸地帯の砂原だったのである。津波が来た地点に貝場という地名があるがこれも縄文人が貝をとっていた所かもしれない、丁度津波が来た境目だったからである。八幡地区には「塩入り」「塩窪」「塩留」笠神地区には船塚がある。これは南相馬市の鹿島区の真野の草原とにている。なぜなら津波で塩崎まで津波がおしよせてそこには船着とか市庭という地名が残っていたからである。ここもそれとにているのだ。船塚は船着と同じであり船がそこまで入ってきていたのである。そしてこの川は多賀城とも結ばれていたのである。だから末ノ松山が多賀城に近いしそこで津波にも流されず残ったから都にもみちのくの歌枕の地として知られたのである。あそこの前がかつては海だったし沖の石が残っているのもそのためである。


ともかく歴史というのは常に変わりやすい無常の世界を示している。かつて繁栄したところは早々と忘れられてしまい何なのか不明になる。一つは交通が変わるということである。宮城県は交通に恵まれていた。特に松島や塩釜など入江や島が多く海からの交通が早くから開けた。石巻が繁栄したのもそのためである。それは鎌倉時代から始まっていたのだ。古代の多賀城にはすでに大道が作られていたというのもそのためである。岩切には古い道から新しい道も作られて幾重にも道が重なっていた。紙屋道とあるのは紙も生産していて重要な産物となっていた。金売吉次の屋敷跡もありここを本拠地として活躍していたらしい。当時のいろいろな産物が岩切に集ったのである。そこで一遍などもここにより浄土なる松島を目指した。信仰者、巡礼者の一団が松島に向かいそこで命を終えることを願ったのである。だから松島は中世の修行場であり死に場所でもあった。


ただすでに江戸時代になると中世の市場は河原などに埋もれてしまって不明になった。古市とか古町になった。今市とは新しいようで江戸時代にできたのだから新しいのである。今の市場だから新しい。そういうことでも錯覚する。今市が古いと思っているけどそうではない、すでに中世の繁栄はここにはなく移動している。古町というのは全国でどこにでもある。古町と新しい町は距離が離れていない、隣り合っていることもある。狭い場所で繁栄の場所が移っているのだ。古町温泉とかあったけど山の方にもそういうふうに常に古くなってしまう町があった。小さな町でも村でも古町になりやすいのだ。今でもシャッタ-通りができたようにス-パ-や巨大ス-パ-に買い物が移って町自体が古町になるのと同じである。交通が変わるとまた都市はたちまち衰退するのである。江戸時代船運で栄えた湊はみんな廃れている。そこで遊女が増えて船乗りを引き留めようとしていたとかのいろいろな伝説が残っている。人間の社会は交通によって栄枯盛衰があるのだ。それは世界的にも同じである。シルクロ-ドは海の交通が開かれると衰退して砂に埋もれてしまったのとにている。世界的に見ても交通が変わると急速に衰退してしまうのである。原発事故の被害にあった相馬地方なども常磐線から六号線から交通が断たれたから物資の流通が断たれたからそれが回復しない限り衰退してしまうというのとにている。古代からでも現代でも交通は重要であり都市の栄枯盛衰をになっていたのである。

 

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塩釜街道

三所は細所であり細工場であった。中世の地名だった。川沿いに葱畠があり今市橋から泉岳とか雪の嶺が望まれた。ここが住宅が密集していて昔を偲べないと思った。多賀城の方には密集している。ところどころ畑があり今の季節は葱があっている。葱は冬の季語だった。葱は魚の臭みを消すとかいろいろ使い方があった。塩釜街道沿いには何か昔のものが残っているのか?神社などがあれば偲べる。
ここを仙台の方に歩けば昔が偲べる、多賀城跡の方がまだみちのくの道が偲べる。

俳句作るにしてもこうして歴史を知らないと作れない、「十符の菅菰」というものも何か良くわからないけどこれも相当に古い由来があることは察せられる。枯芒が冠川になびいていてこの辺はまだ昔の面影が残っていたのである。多賀城の方に行くと砂押川があっても住宅が密集してとても昔の風景は市街に埋没した。でも津波で砂押川があふれたからここが海が近いとあらためてわかったのである。末ノ松山もそれで再び脚光をあびたのである。他にも東光寺にはあかぎれ地蔵とか愛馬の碑が忘れられるようにあった。あかぎれはしもやけのことかなぜあかぎれとしたのか何かあかぎれと碑がにていたからだろう。かぎれとかしもやけは良く母が洗い物してなっていた。昔の洗い物は冷たくあかぎれとかしもやけになりやすかった。今は温水でありならないから死語になった。まずあかぎれと名づけられたのはあかぎれに悩まされたから連想したことはまちがいない、他にも地蔵には青麻・・というのは眼病にきくとかで祈られたり下の病気は地蔵に小便すると直るとか何か必ず病気と関係しているのだ。東光寺と相馬は古くから関係していた。東光とういう刻まれた碑が台田中になった。中世から関係していたのかもしれない、その伝説も残っている。明かに僧侶が来ていたのである。青麻という碑も相馬にあり伊達と相馬は関係が深いのである。


岩切の古城
http://www.stks.city.sendai.jp/sgks/WebPages/miyaginoku/09/09-12-01.htm


冠川は昔はいづこ石仏の冬日さし眠り枯芒かな


いづれにしろ岩切は中世からの霊場でもあり市場でもあり歴史が交差する場所だった。明治以降では愛馬の碑というのもめずらしい。太平洋戦争では馬が必需品でありそれで当然馬も死んだのだから碑があっても不思議ではない、でも愛馬の碑とか戦争にまつわる話はあっても碑はここではじめて見た。そもそも馬頭観音碑が全国に無数にあるとき戦争で死んだ愛馬の碑がまれだというのもかわいそうだとなる。戦争というのは馬まで意味なく死んだともなる。実際に馬頭観音碑は平和なときに人間と共に働いたから助けてくれたから碑がある。戦争というのは動物にとっても無惨だったとなるのだ。人間は本当に忘れやすいのである。中世ともなると本当に遠い過去だが確かにそこに生きていた人々がいたのである。それを偲ぶことが容易でなくなる。現代だってたちまち人はわすれさられてゆく、一見そう見えないにしろ同世代の人がすでに一割五分死んでいることでもわかる。次々に死んで忘れられてゆくのである。そして何が残るのか?わずかなものしか残らないのである。
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2012年11月30日

冬に訪ねる多賀城跡(俳句、短歌) (1)


冬に訪ねる多賀城跡(俳句、短歌) (1)

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我が踏みぬ南門跡や冬の暮
たずぬべし廃寺の跡や冬の暮
街道に二本の松や冬の暮
街道に二本の松や雪の嶺
いしぶみや街道の松に冬紅葉
古き碑のここに並びて刈田かな
冬の暮多賀城にも仮設かな

(旧今野家住宅)

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薪積みて母屋の古りぬ落葉かな


中門や馬の名を呼び親しかな薪積む家の冬のくれかな



岩切と陸前山王多賀城と歴史の道や冬のくれかな
多賀城の跡をたづねて冬のくれ末の松山都に知られぬ

冬の山遠く望みてはるけきや都を離れ多賀城に来ぬ



多賀城を訪ねたのもひさしぶりだった。多賀城の正殿跡に立ったのは何十年ぶりかであった。近くでもこうして一回限りで寄っていなかった。近くが意外と見逃されているのだ。曇っていて写真でははっきりしないけど遠くに山が望まれて雪も見えた。蔵王や泉が岳などが見えたようだ。
多賀城跡から平城宮(ならのみやこ)や京都を望んだらずいぶん遠い感覚になる。ひさしぶりで行ったからみちのくは奈良からはどれだけ遠かったか?その感覚は古代では今の十倍くらいの距離感があった。世界の果てに来たような感覚にもなっていた。その遠さがみちのくだったのである。
人間はやはり年よっても感じ方が相当に違っている。若いときは何かこうした歴史的な場所でもあまり感動しないし良くみていないのだ。人間はどんなに美しい場所でも歴史的な場所でも感じないものは感じない、外国旅行でも同じである。感じることはやはりその人のもっている力量である。
芭蕉はあれだけみちのくの旅で感じたのはやはりそれだけのものをもっていたからである。
旅しても感じないものは感じないからである。


今回印象に残ったのは街道の二本の松であった。二本松という地名があるがなるほどなとこの松を見て思った。ここの道は細いから奥の細道がまだ偲ばれる。実際はかなたの山に雪が見えたのである。写真ではやはりとりきれないものがある。遠くのものが見えない感じられないのである。山が遠くに連なり見えた。それがみちのくの遠さを感じたのである。今は冬紅葉の季節であり壺の碑がにあっていた。これの解釈もいろいろあり謎である。

今回は移築した今野家が興味深いものがあった。蕪木門があり中門があり母屋がある、中門は馬小屋になっていた。その馬小屋には今にも馬が出てきそうな感じだった。名前を呼べば馬が顔を出す、いかに馬と人とが一体化していたかこの家から感じた。本当に馬は家族の一員だったのである。
薪が積んであって冬支度でありいかにも今の季節にふさわしい、冬紅葉も映えていた。
母屋がどっしりとあり中に土間をあがるとおかみの部屋になりそこで家族が集まり食事をする。
旅館のおかみはここからきていたのである。母屋の中心がまさに母でありおかみだったのである。
日本では女性の力が結構大きかったのである。おかみにはさからえないとなっていたのだ。

多賀城についてはこれまで自分が地元で調べたものなどを合わせて次に書いてみよう