2012年11月01日

病気は生活習慣病が多い (認知症も生活習慣が作用している) 認知症になりやすい3つの条件-サンデ-毎日より



病気は生活習慣病が多い(認知症も生活習慣が作用している)


認知症になりやすい3つの条件-週間新潮より

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連関、連環する脳の方が脳を有効に使うにはいい


●生活習慣が病気の原因

病気の原因は遺伝的なものもあるがその人の生活習慣が病気の元を作っている。だから60代以降どうしてもその生活習慣の堆積が病気を引き起こす。病気にも原因があり突然に病気にはならない、病気になる要因が体に堆積して病気になってくる。一見突然病気になり死んだりする人がいるがそれもやはり日頃の生活の中で病気が実は進行していたけど表に現れなかっただけである。これはあらゆることに言える。人間の事件でも突然起こったりしない、よく事件を起こす人を観察していれば見えないにしろこの人を見ていればあんな事件を起こすこともありうるなと納得がいくことが多いのである。自然現象でもそうである。今回の地震でも津波でも突然にこんな巨大な津波が起こるということは良く観察していればなかったかもしれない、何か予兆があったが科学者が気づかなかったのである。
なぜなら頻繁に今回の地震が起こった場所で地震が起きていたからである。ただそれがこんな巨大な津波に結びつくと判断できないだけだったのである。


病気が生活習慣病だというとき例えば食生活が明治以降さらに戦後は欧米化して極端に肉食が多くなり変化した。欧米では肉食に向いている体になっている。肉を消化しやすい体になっている。狩猟、牧畜民族がそうなっている。日本人は胃が弱い人が多い、胃ガンも欧米人よりも十倍多いという。
欧米人とは体の作りがそもそも違っている。だから肉を消化できないから欧米人のように太らないという。消化酵素が日本人より多く出るから肉を消化できる。日本人の腸が長いのも穀物を消化するために牛が反芻するように長くなった。生物はその環境に風土に適したように長い間に作られてきたのである。日本人は縄文人からそうして体が日本の風土に適するように作られてきた。海産物主体の食生活が日本人の体に適するようになっていたのである。日本には牛、馬、羊がいないということが
魏志倭人伝に記されているように日本の特徴を外国人から見たとき記されているのだ。海産物が主体だというとき今回の原発事故でヨウソが海苔などからとっているから不足しないから甲状腺ガンになりにくいというのもそのためだった。外国ではヨウソが不足する食生活だったのである。ただ日本では眼病とか脚気とかの病気が多かったということはやはり何らか栄養が不足してそうなっていた。
それは欧米化してなくなったのである。戦後十年くらいまで卵すら食べられなかったのだから日本人は総じて栄養不足だったのである。戦後は栄養過多になり糖尿病がふえてきたのである。これも生活習慣病なのである。前立腺ガンが増えたのも欧米の食生活、肉食などが関係していると言われる。もともと欧米には前立腺ガンが多かったからである。


生活習慣病というとき喫煙や酒の飲み過ぎが体を無理させることを長年つづけていれば60代以降その結果が必ず体に現れる。体の丈夫な人は無理ができるからそんなことを考えないが60代以降にはその無理が蓄積されて体に現れるのである。だからといって体にあまりにも気遣いやりたいことをやらないというのも問題である。体力のない人は無理ができないから冒険ができないからつまらない人生ともなる。やっぱりきつい登山などができる体あることにこしたことはないのである。ただ会社員でも何でも体を無理させるとそれが蓄積して60代以降病気になりやすいことは確かである。自分を例にとれば自分は勤めていないのだから無理したことがない、疲れたらいつでも寝ていた。多少自転車旅行とか登山で無理したけどそれもぐったり疲れてあとは何日も寝ていた。そういう恵まれた生活だったのである。だから無理しないから今日まで体力がないのに今病気になったにしろここまでやれたなと我ながら思う。これが会社勤めとかなると自分は全く集団生活にも向いていないからストレスがたまるし疲れたからと休むわけにもいかないから疲労が蓄積されてもともと体が弱いから病気になりやすかったことは確かである。


●認知症も生活習慣病が原因の側面もあった


認知症にもいろいろありいちがいに言えない,若年性のアルツハイマ-と老年のアルツハイマ-は症状はにていても違ったものらしい。老年のアルツハイマ-は生活習慣病の側面があるようだ。認知症になる人が統計的に割り出されている。公務員とか先生とか裁判官などに多いというのはやはりこういう職業が型にはまっていて創造性がない職業になっているためである。先生でも歴史とか国語関係の人が多く理系の実験をする科目の人には少ないとかあるのはやはり型にはまって同じことを教えているかもしれない、美術とか科学とかは日進月歩であるけど歴史とか国語は型にはまってしまった教え方しかしないのかもしれない、ただ数学の先生が認知症になったりとその実体は多様であり複雑である。認知症というのはその人の個性がかなり反映されるから症状が人によって違っているのだ。
激情的な人は激情的になるから扱いにくいし大人しい人は大人しい認知症、ボケになるから扱いやすいのである。認知症は千差万別なのかもしれない、同じ型にはまった症状があるにしろその人の家族関係とか個性で変わってくるのである。

週間新潮の記事で指摘されたことは面白いので読んだ。なぜレ-ガン大統領、サッチャ-首相やシラク大統領など特別優秀な人が認知症にアルツハイマ-になったのか?この人たちは一番脳を使って優秀な人ではないか?なぜそういう特別優秀な人がなったのかという疑問に答えている。身内で自分もこのことを経験している。学校を一番で卒業して活発な性格であり体は太っていても運動能力があり人間的にもただ頭がいいというだけではない、性格がしっかりしていた。それで日赤の看護婦となり従軍看護婦となってシンガポ-ルに四年も過ごした。その頃は日赤に入る人は優れた人だった。看護婦になることもなかなかできなかった。この辺では看護学校もないし東京で資格をとった。一緒に60年生活して人間的にもしっかりして頭もいい人がどうして認知症になったのか不思議だった。

その原因は生活習慣にもあったことは言える。公務員だったということがあり看護婦や保健婦の時はそれなりに張りがあって働いていたがあとは事務の方に回り怠惰になり早めに退職してそのあとは30年くらい働いていない、何もしたくないと家事すらしない、家事をする人がいるから趣味のようなものをやっていたがそれは向いていなかった。何かもともと体が丈夫なのだから自分にあったことをしていれば良かったが何もしなかった。ただ怠け者になってしまっていたのである。そういう生活習慣が影響したことは確かである。なぜなら死ぬまでの二年間は家事をした。洗い物や手で選択したり掃除もした。そしたら自分は役に立っていると元気になり症状が改善したのだからこれは明かに認知症の改善に効果があったのである。一番ボケ安いのが「ばあちゃんは何もしないでいいですよ、テレビでも見ていてください、全部自分がやりますから・・・」こういうふうに嫁に言われた人だ言うのがわかる。何もしなくていいということは役割も何もない、生きがいもないということである。家事は結構頭を使うし体も使うし家族のために働くということで生きがいにもなるのだ。それを自分でやってみてわかった。自分が家を家族を支えているんだという生きがいをもつことができるからだ。


●優れた人がなるにはそれなりの訳が・・・


ただそれではレ-ガン大統領やサッチャ-首相のような仕事一筋の人がどうしなったのかという疑問がある。サンデ-毎日の解説では「仕事中毒」「達成感」とかあった。二人とも政治脳に特化して脳が偏ったためだという。人間は今はどこでも専門家して仕事してしいる。すると脳が法律脳とか数学脳とか国語脳とか英語脳とか医学でも分化して心臓のことばりとか胃腸のことばかりとかそこだけに注意を払う人が増えてくる。全体をみない、一部分だけに人間の脳が集中する特化しやすい、江戸時代ころまでは全体的視野をもつ全体に機能する能力が発達した。バランスのとれた総合人間になれる環境があった。今はみな専門家してある部分に特化して能力を駆使すると脳が偏るということありえる。

だいたい脳は生涯で二割くらいしか使われていないとか言われるように人間はいくら能力がなくても開発しない限り自ら引き出さない限り能力は発揮できないのである。芸術だって視覚的絵画から音楽から彫刻から文章からその分野が多岐にわたる。でもその一部分しか能力を発揮できない、俳句だけやっている人は俳句脳にっなしまうかもしれない、だから俳句の専門家で私は俳人だなどという人は偏った人間になってしまう。俳人などは今の時代には存在し得ないのである。

人間の脳がなぜ二割くらいしか使われないかというと人間が生きている時間が短いということもある。生きている時間が短い十分に活用できないということもある。高齢化になるとその使われない脳が使われるということもありうる。ただ人間はどうしても一芸に秀でてもあらゆることをこなすことはできない、そこが人間の弱点なのである。一部分の脳の能力が特化するより連関、連環的に作用するのが理想だがそれがむずかしいのである。社会がこれだけ複雑化すると専門分野を究めるだけで時間をとられるしそうしなければその方面で一流になることは無理だからである。

認知症の謎はどうしてあれほど優秀な人がなったのかということである。その謎は実際は相当に深く簡単には解明できないだろう。そしてそういう特別優秀な人がなると本当に悲惨なものとなる。認知症は馬鹿になった,痴呆になったというのだから信じられないとなってしまう。そのことを身内でまざまざと見たとき人間に与えられた神からの罰かもしれないとも思った。そのことは前に書いた。

この世に優秀な人はいる。体力もあり頭もいい人がいる。人間的にしっかりしている人がいる。学校の同級生でも運動ができて頭もいいという人がいることはみないるだろう。自分はあらゆる点で劣っていた。勉強も体力もなにかもだめだった。だから体力があり運動能力にたけて勉強もできるという人がいる。そういう人がきること自体理解できないことがあった。でもそういう人は常に存在した。天才的な人はいる。しかしこういう人の盲点は「俺はできるんだ、特別なんだ」という奢りになり他者を馬鹿にするのである。レ-ガン大統領にもサッチャ-首相にもそういことがあったに違いない、こういうふうにできる人はまた悪人にもなる。悪人にしてもやはりそれなりの能力がなければなれないのである。そういう人は悪人になれば大きな悪人になるということである。


正力松太郎とかは原発を誘致した読売新聞社の社長になった。この人も体力的にも能力的にも優秀な人だったからこそ政界でも財界でも重きを成すものとなった。そういう社会で重きをなす人はまた何かをできる人だからそうなる。そういう優れた人はいい面に働けばいいが悪い面に働くとまたその影響は大きいのである。
科学者にしても実際は原子力を発見した人は核兵器を作ることにもなったのだかち怖いということにもなったのである。能力がなければ優れていなければそんな危険なものを人類が扱うようにならなかったからである。そういう優れた人間への罰が認知症となったのかもしれない側面はあった。ただこれも本当のところはわからない、体自体の病気であり脳の細胞の病気だからやがて直すことができるという人もいるからわからない、ただ自分が身近に介護したりして見た限りはそういう人間への罰的側面があったと感じたのである。ただこれは千差万別だとするとその原因は特定できないのである。

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2012年11月02日

相馬総合病院から見えた看護専門学校への道


相馬総合病院から見えた看護専門学校への道

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病院に看護学校へ行く道の今日も見えつつ蝉の鳴くかな
ひまわりに夏菊映えて相馬市の看護学校の道を知りにき
今日も見ゆ看護学校へ行く道にカボチャの花と露草の咲く
病院に看護学校の生徒かなその瞳にそ励まさるるなれ
我が姉の看護婦なりき病院に面影偲び看護師を見ゆ
病院に看護学校への道見えて実習に励む生徒すがしも
我が姉の従軍看護婦忘れじも死の間際まで戦争語りぬ

 

相馬看護専門学校(そうまかんごせんもんがっこう)

  校長 金田寛之(公立相馬総合病院 副院長)


相馬市・南相馬市・新地町・飯舘村の2市1町1村で構成される相馬地方広域市町村圏組合が21世紀における医療技術の高度化・高齢化社会の到来を踏まえ、地域保健医療の担い手となる看護師の養成機関として開設し、住民の保健・医療・福祉の充実を図るとともに、相馬地方の振興発展に寄与していくことを目指して平成13年4月に開校いたしました。





相馬の看護学校は病院から見えた。相馬総合病院は迷路だった。方角がわからなくなる。相馬は山の方に近い所だった。海も見えるから山が遠いと思っていたが山が近いのである。新地も山が近い、人間は意外と住んでいても近くのことが地理でもわかりにくい、相馬総合病院でも入院したりしないとどういうところなのかわかりにくい、海の方が近いように見えたがかなり遠くでもある。ただ火力発電所が見えるからさぼど遠いとも見えないが原釜が見えても遠かった。看護師学校は山際にありこんなところにあったのかと不思議だった。隠されるような場所にあった。老人養護施設もあった。相馬市というとわかったようでもまたわかりにくいのである。ここの看護学校は地元で看護師を養成して地元で役立ってもらいたいと設立して養成する。だから地元の人は授業料も安い、外からくる人は高くなる。ただその差はそんなに大きくはない、入院したとき実習中であり何回もそこの学生がきた。その中に男の看護師がいた。その人は浪江から鹿島区に空家を借りて避難している人だった。今は必ず男の看護師がいる。珍しいからいろいろ同室の人が聞いていた。もともと男の看護師から看護がはじまっているから看護が女性ばかりやるものとは限らない、男性でももともとできるし必要なものだったのである。女性は看護士のような慰めの役にはいいが男性は向いていないとしても男性には男性の仕事が看護師でもある。それなりの役割が与えられている。今や病院内仕事も多様になっているのだ。


理学療法士:リハビリの指導を行う技士さんです。歩行訓練など身体を動かす訓練をして社会復帰をたすけます。[理学療法士免許]
作業療法士:理学療法士とよく似た仕事をしているようにみえますが、日常の作業をとおして社会復帰の訓練を指導する技士さんです。[作業療法士免許]
視能訓練士:視力を回復するための訓練をする技士さんです。よほど大きな病院か眼科の専門病院でないと勤務していないと思います。[視能訓練士免許]
言語聴覚士:脳卒中の後遺症などの言語障害の機能訓練、嚥下障害のリハビリテーション、人工内耳手術を受けた患者さんなど聴覚障害者のリハビリテーション、各種の聴覚および音声検査などを助ける技士さんです。[言語聴覚士免許]


こういう人と南相馬市立総合病院に一か月入院していたときあった。脳出血でしゃべれなくなった人が訓練してしゃべれるようになってゆくのも見た。看護師の仕事も分化して専門化しているのである。これらはもともと看護師がやっていたのである。


今回のように相馬総合病院に入院して地元の看護学校の生徒の実習などを見ていると地元に密着している、土着性があるから仕事が見えてくるということがある。そういう人たちを指導するにもこの人たちは地元の病院で働き将来年取ったら助けてくれるとか具体的に見える仕事なのだ。すべての仕事が土着的であるべきだと書いたときまさにこれは明かにそういうふうに見える仕事なのである。地元に貢献するということが目に見えてわかるのである。昔は狭い範囲で生きていたから仕事が何を意味しているかわかっていた。理屈で言わなくても肌で感じていたのである。大地があり農民が収穫して食料が地元に供給されていた。そういう仕事が自分を支えているのだと見えていたのだ。実習している生徒を見ると何か頼もしいと感じた。ただ全部が地元で看護師になるわけではない、原発事故で現役の看護師も流出している現状では余計にそうなる。でも本来は地元のために貢献する看護師を養成する場所なのである。現代はグロ-バル化社会であり仕事が世界的に拡大化して仕事のかかわりがどうなっているのか見えにくいのである。中古車の島商会などはロシアと関係して原釜の港から輸出している。それだけでなくグロ-バル化は田舎でもどこでも同じである。前にも書いてきたけど人間というのはいろいろな仕事の関連が見えると一つの世界として自己を把握しやすいのである。そこに一つのアイデインティティを見いだして連帯を感じるのである。それは理屈の世界ではない、みんなで平和を追求しようとか連帯しようとかデモしたりしても現実は理屈であり格好だけでありむしろ平和がない、連帯がないから声高に集まり騒ぐ、平和や連帯は生活の中で自ずと騒ぐなくてもあった。


看護学校の道には森がありあそこには蝉がかなり鳴いていた。夏菊が映えカボチャの花が咲き露草も咲いていていかにも田舎らしいのである。ただあそこが山の方に近いとはわからなかった。近くでもわからない場所はまだまだある。死角のような場所がある。日本の地形はそれだけ複雑なのである。看護学校というとき自分の姉は看護婦であった。日赤の看護婦でありその頃かなり優秀でないとなれなかったし看護学校もこの辺になかったので東京の方で視覚をとったのである。その後、日赤で優秀だから従軍看護婦になりシンガポ-ルに4年間いて辛酸をなめた。戦争に負けてジャングルに逃げた時が一番苦しかった。あとは船で命からがら逃げてきたのである。地元でも二十代の看護婦が死んでいる。そういうこともなかなか忘れられてゆく。ただその四年間は忘れられないので死ぬ直前まで語りつづけていた。戦争のことは強烈な体験だから忘れられないのである。ちょうど青春の真っ盛りだから余計にそうなったのである。姉は特別優秀だったから相馬の女学校に行きたかったと何度も行っていた。優秀だから金さえあれば入れたからである。大倉から親戚を頼り住み込み通った人の話しも書いた。看護師でも地元であれそういう歴史も学ぶべきだろう。そういう歴史も郷土史として記録されるべきなのである。相馬市はやはり城あるところで原町より学校でも歴史が古く城下町として学ぶにふさわしい場所ともいえる。女高生でも行き交うとそれなりに情緒が生まれるのである。原町はまた雰囲気が違っていたのである。


ともかく旅ばかりしていた自分が土着的なものを志向するのも変だがやはり現代はアイデインティティを見いだすのが容易ではない、それでカルト宗教団体とか様々な団体組織にアイデインティティを見いだそうとしている時代でもある。それはそもそも根源となるアイデインティティを喪失しているから誤った異常なものでもそこに何かに所属したいという願望がそういう異常なものを作り上げているのだ。本来のアイデインティティはそこになく土着的なものに人間の本来のアイデインティティがある。それを郷土に求めることがあった。万葉集などはまさに日本人の土着的アイデインティティの根源の集成であった。人間は今はそうした存在の根を求めているのだ。これだけ巨大な文明のなかで自分を見失うなかで狭い郷土の中で価値や意味づけする。やはり人間は東京のようなものになるともはや巨大な迷路に入り込んで自分が誰かも何が価値があるのか何がどう連関しあっているのかもわからないのである。だからこの辺では原発事故で故郷を喪失することは深刻なのである。アイディンティティの根が失われるからである。

南相馬市総合病院ではながめが抜群だったが相馬総合病院は迷路であり眺めは良くなく何か牢獄に閉ざされたような感覚になっていた。でも二週間の入院はやはり大きな体験となった。病院は何か地元の連帯の要のうよになっていた。今は田舎でも何かそうして連帯を感じる所が少ない、祭りとか参加していないと連帯を感じないのである。それだけ仕事がグロ-バル化で分化しているからである。
病院は人と人が直接接するところだから人間が見える場所だったし話し安い場所だからそうなっていたのである。


土着なくして職業も学問も芸術も報道もない
(故郷とは有機的に結合されたミクロコスモス)

http://musubu2.sblo.jp/article/55759722.html

posted by 老鶯 at 16:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 福祉医療-老人問題

2012年11月03日

秋深まる-原町へ行く-短歌十首(老人は変化に弱くなる)


秋深まる-原町へ行くー短歌十首(老人は変化に弱くなる)


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秋の薔薇ここに散りしを我が知りぬ二両の電車今日も行くかな
秋の薔薇今年もここに咲きにけるいつもの道を夕べ帰りぬ
今日も見ゆ群れにし鴨に夕日さし新田川の橋渡り帰りぬ
一むれの野路菊咲いて夕日さし松一本や夕べ帰りぬ
家一つまた壊されて誰が家や何を残すや秋の日暮れぬ
福寿園に深野の女や月日すぎいかにありしや冬となるらむ
自転車にイオンは遠き行かざりき秋の日入りぬ我も老いゆく
帰る道かすかに虫の鳴きにけるその声聞きつ夕暮れにけり
二両の電車の汽笛時折に鳴りて聞こえぬ遠くに行けじも
病院に働く人のいかなれや一年半すぎ冬となるらむ
秋深む誰に会わむや故郷に松一本の変わらざるかも
一輪の岩桐草の我が庭の石にうなだれ咲きて暮れにき


今日は自転車で原町に行った。原町の六号線の道の駅までは遠く感じない、何かイオンまでは遠く感じる。自転車はニキロくらいでも往復になると4キロになるから遠く感じるのだ。何か年とると遠くに行くのが億劫になる。本当にこの辺は電車が通じていないので本当に仙台でも行きずらくなった。何か二回も乗り換えと不便なのである。手術後2か月は乗り物に乗るなと言われたので行けないこともある。それでも何か遠くに行くのが億劫になる。今の時代のように車で常に遠くに行った時代はない、交通の便が悪かったからそんなに遠くには行かない、身近なところでまにあわせていたのである。買い物というものも何か今の時代増えたのである。毎日買いものして何でこんなに買い物があるのかと思う。それだけ贅沢な時代である。最近変に思うことは車がないから通販を利用する。アマゾンでは便利だから相当買っている。本も送料無料だから利用しやすい、この辺で配達してもらうとアマゾンで注文するより配達料が高くとられるのが変なのである。千円くらいのものでも送料が無料だとすると車がない人は近くで買うより便利だとなるのも変な社会だと思う。その配達されるコストが相当かかっているから変だなとなる。でも買った布団はこの辺では買えないいいものだった。4千円くらいで安いものでもいいものだったのである。布団を買うとなると配達料だけで千円かかると言っていたからだ。家にいながらにして買い物に困らない時代になっているのだ。


思うにいろいろなものを機械でも買うのは人手の代わりに買うということがある。機械化してインスタント化しているから料理とか男一人でもできることがわかった。一人介護してもやっていけるのは料理などがインスタント化して便利になっているからである。惣菜でも買えば手間はかからない。
もし機械がなかったら米をたくにしても薪だとか炭だとかで手間がかかりすぎた。実際に子供のときは竈(かまど)であり炭であったのだ。そんな時代からすると変わりすぎたのである。家事が機械化して買うことでまにあわせる。これが昔だったらその手間だけで大変なものだから人手を確保するのに大変だった。その人手を必要としないからまたその代わり金が必要となった。


ただこうしして何でも機械化しして買う時代になると人と人は交わらない、親密な関係が隣近所でもなくなる。だから一旦人手を必要として介護になったりすると困るのである。人手は物や機械のように簡単に買えないことがわかった。家の中で働いてもらうことほど危険なことはない、それなりに親密になっている人ならいいが近くでも全然知らない人を雇うことほど危険なものはない、人そのものを使うことは今はなじまなくなっているのだ。だからすべて機械や物を買うことで代替しているのだ。人そのものを雇うことは生身の人間だからやっかいなのである。生身の人間は生々しい欲望をもっている人だということである。機械や物を買うなら別にそういう生々しい人間自体に接することがないから問題も起きないのである。ただ機械の操作などがめんどうだというだけである。それでコンピュタ-とかで生身の人間に接しないでコミニケ-ションを計る。それは楽だからである。生身の人間と接することはどんな場合でも怖いことなのである。だからインタ-ネットから知り合って接して生身の人間に接したとき殺人になる事件があった。男女関係でも実際は怖いものがある。それは生身の欲望がある人間だからである。


ともかく年取ると人間はあまり動きたくなくなる。年よりは変化に弱くなるのだ。見慣れた所で慣れた人と過ごすことが心も安定する。秋の薔薇というときいつもの所に今年も咲いている、ああ、ここに今年も咲いてやがて散ってゆく、そういう時間の経過を見ているのが動かない視点をもつことであり心も安定するということである。ただこの変は余りにも変わりすぎた。今日も一軒の家が完全に壊されて更地になった。すでに十軒くらい家が壊されているのを見た。今家を壊すのが無料だから壊されている。


福寿園に何回か行って深野の90才の女性とちょっと話した。あの女性は今どうしているのだろうか?
南相馬市総合病院に一か月入院していたから看護師などはどうしているのだすうかとか思う。もうすでに秋は終わろうとしていた。文化の日であり立冬も近い。今年は晩秋という感じがない、晩秋がぬけて冬になってしまうのかもしれない、9月まで残暑が厳しく夏だった。そして秋は早く終わり冬になる。日本全体が暑くなり季節感まで変わってしまったのである。野路菊は晩秋の時咲くのを見かける。帰りの道にはいつも一本の松がある。その松は変わりがない、あまりにも変わりすぎるのは老人には苦手になる。常に見慣れたものがあると安心する。認知症の人も人でも環境でも江戸時代のように見慣れたなかで過ごしていると安定する。これは認知症だけではない老人特有の心理である。
だからこんなに変わりすぎたこと、故郷さえ離れて見知らぬ所で暮らす老人は辛いと思う。帰りたくて毎日泣いているというのをテレビで見たけどそうかもしれない、そういう気持ちはなかなか老人にならないとわかりにくいだろう。80くらいになったら余計にそうである。それが今回の原発事故などで故郷に住めなくなった人たちの過酷さだったのである。確かに死んだりしていないし食料にも困らないが精神的にきつかったのである。


年取ると意外と家が大事になる。若い内はアパ-トなどでも気にならない、でも年取ると家は広くて住みやすいのがいい、なぜなら家の中で暮らす時間が長くなるから快適でないとまずいのである。
こういう点仮設暮らしは田舎で大きな家に住んでいた人が多いから辛いとなる。庭が狭くてもあればなごむ。田舎では広い庭や前に畑をもっていた農家の人も多い、それがないと都会の団地生活などしたら鬱病になったというのもわかる。もの書くとなる広い家で書斎があり悠々としていないと書けないとういこともある。その点自分は恵まれていた。ただ本当にこの家の主人になったのは最近のことである。身内が死んでからである。死んではじめてこの家を自由にしたとき広い部屋がありこれだけ活用すれば十分だと思ったのである。寝室は八畳だと悠々する。前は6畳くらいだから狭かったのである。寝る場所は広いのがいいのだ。八畳だと本当に広く感じる。6畳でも何か圧迫される。八畳でも天井が高いとさらに広く悠々とした気分になり眠れるのである。今はたりないのは召使だけどその代わりが機械や買うことによって補っているのである。

2012年11月05日

みちのくの万葉集の歌の意味するもの (福島県の古代-みちのくの大地を深まる秋に想う))


みちのくの万葉集の歌の意味するもの

(福島県の古代-みちのくの大地を深まる秋に想う)


会津嶺の 国をさ遠み 逢はなはば 偲びにせもと 紐結ばさね (万葉集 14−3426)


会津大塚山古墳は後円部の中心から南北2基の割竹形木棺の痕跡が検出され、さらに南棺からは日本製の三角縁神獣鏡をはじめ多くの遺物が検出された。環頭大刀、靭(ゆき)、鉄製農耕具なども出土した。


『古事記』によれば、北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した建沼河別命が合流した場所が会津であるとされている。(会津の地名由来説話)。このときの両者の行軍経路を阿賀野川(大彦命)と鬼怒川(武渟川別)と推察する見解が哲学者の中路正恒から出されている。
吉備津彦は、孝霊天皇の皇子で、母は倭国香媛(やまとのくにかひめ)。別名は五十狭芹彦(いさせりひこ)。吉備国を平定したために吉備津彦を名乗ったと考えられているが、古事記には吉備津彦の名は出てこない。


安達太良の 嶺に伏す鹿猪の 在りつつも 吾は到らむ 寝処な去りそね
陸奥の 安達太良真弓 弦著けて 引かばか人の 吾を言ひなさむ
陸奥の 安達太良真弓 はじきおきて 反らしめ置なば 弦著かめやも


この歌で注目すべきは鹿、猪に例えている妻問い婚の原初的世界があり狩猟時代の世界があった。真弓という弓がでてくるのは万葉集時代の蝦夷の武器は主に弓でありこれは狩猟のとき使っていたから武器として使いやすいから弓が常にでてくる。弓は日常的に使うものだった。


 安積香(あさか)山、影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を、わが思はなくに


葛城王陸奥国に遣はされける時に、国司の祗承(しじょう)、緩怠なること異に甚だし。ここに、王の意悦びずして、怒りの色面に顕れぬ。飯饌(いんぜん)を設けたれど、肯へて宴楽せず。ここに前の采女(うねめ)あり、風流(みや)びの娘子なり。左手に觴(さかづき)を捧げ、右手に水を持ち、王の膝を撃ちて、この歌を詠む。すなはち王の意解け悦びて、楽飲すること終日なり、といふ。
(「万葉集」巻十六)


滋賀県甲賀市の紫香楽宮(しがらきのみや)跡とされる宮町遺跡(8世紀中ごろ)から、
万葉集と古今和歌集に収められている2つの和歌が記された木簡が見つかり、

阿佐可夜麻加氣佐閇美由流夜真乃井能安佐伎己々呂乎和可於母波奈久尓
   あさかやま  かげさへみゆる  やまのゐの あさきこころを  わがおもはなくに

反対側の面には『古今和歌集]』仮名序の

   難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花
   なにはつに さくやこのはな ふゆごもり いまははるべと さくやこのはな

の歌が書かれていました。
万葉仮名に復元すると、

   奈迩波ツ尓佐久夜己能波奈布由己母理伊麻波々流倍等佐久夜己乃波奈
   なにはつに  さくやこのはな  ふゆごもり  いまははるべと さくやこのはな

となり、赤字部分が今回出土した部分です。

紀貫之は『古今和歌集』仮名序(延喜5年(905))で、
「・・・この二歌(ふたうた)は、歌の父母(ちちはは)のやうにてぞ手習ふ人の初めにもしける。」と、
初心者が最初に習う一対の歌として紹介している。


天皇(すめろき)の 御代栄えむと 東(あずま)なる 陸奥(みちのく)山に 黄金(くがね)花咲く(大伴家持・巻18−4097)



福島県は実に広い。ハマ、ナカ、アイヅと分かれていてナカは浜通りからすると阿武隈高原に遮られ遠いし会津はさらに遠い。福島県で一番古く知られたのは会津だったということは古代の中央の勢力がまず日本海から阿賀野川から侵入して会津にたどりついた。

会津大塚山古墳は後円部の中心から南北2基の割竹形木棺の痕跡が検出され、さらに南棺からは日本製の三角縁神獣鏡をはじめ多くの遺物が検出された。

三角縁神獣鏡がみちのくではここにしか発見されていない貴重なものである。これは吉備国と同はんのものであり古事記の吉備津彦が来たとすると吉備国が当時まだ大和が統一されていない時代大きな国だった。そういう時代に会津に来て三角縁神獣鏡を授けた。この時すでに吉備など近畿の有力氏族とかかわっていたのである。それは日本海側から船の交通があったからとなる。「郡山史考」で福島県は弥生人で弥生時代のとき、人口も多く常陸より今の茨城県より栄えていたとある。常陸はあとから大和政権の勢力などが進出してから開墾されて開けた地域である。その進出はやがて浜通りそいに拡大化したことは史実からも明確である。しかしもともとは阿武隈高原を越えた山側からの方が古く人の交流があった。南相馬市鹿島区の古代真野郷として大和政権に組み入れられる前に「浮田国造」があった。それは毛野王国の系統であり今の栃木県との交流を物語っているからだ。弥生時代に福島県が栄えたというときその前に縄文時代があり山側の方が人口が多く栄えた。山村は今思うより自給自足する生活には向いていた。山の幸や木材資源に恵まれ薪としての燃料や特に水に恵まれていた。弥生時代に稲作が行われたとしても水が豊富で水の質が良くないと稲作はできない、稲作は最初の内はだから県(あがた-上田)で行われた。それは良質な水に恵まれていたからだ。平地は湿地帯であり
まだ開拓されていなかった。だから奈良でも広い平地があっても最初は広い湖であり沼地であり湿地帯であり人は住んでいない、山際に大きな古墳が並び山を神体として住んでいた。大和は山戸であり山の入り口のことだった。三輪山がそうであった。

吉備国に加夜氏(賀陽氏、賀夜氏、香屋氏)、笠臣氏などがいた。笠というの韓国に加佐という地名がかなりありここから来ているから渡来系統であり賀陽氏、賀夜氏、香屋氏は伽耶国を示している。「みちのくの真野のみちのくの真野の草原遠けれど面影にして見ゆというものを 笠女郎」の笠女郎はやはり笠氏の系統であり沙弥満誓-笠朝臣麻呂の子だという説も否定できない、


日本書紀によると534年、安閑天皇より笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が武蔵国国造を任命され、埼玉郡笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持ったとされる。何の基盤もない当地に突如として、畿内に匹敵する中型前方後円墳が現れたこと、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘に見えるヲワケの父の名のカサヒヨがカサハラと読めることなどから考えれば、笠原を本拠とした武蔵国国造の墓ではないかという


この説は笠原というのも笠氏の系統になる。真野という地名ももともと味真野で吉備国にあじま神社がありアジマは葦間であり葦間から葦真野になり味真野になり真野になった。地名の由来が吉備国から出ていたのではないか?そうすると会津の吉備がかかわった大恷R古墳のことも納得がいく。つまり吉備国由来でありそれがみちのくの真野の草原に通じていたのである。真野という地名がもともと葦間野だとすると更に萱の原があったということは疑問になる。草原は伽耶氏に由来して伽耶国をイメ-ジするようになる。



あしひき--の足は葦だった
(みちのくの真野の草原と葦原の謎の解明)
http://musubu.sblo.jp/article/57107299.html


岡山市北部のごく限られたエリアでありながら、重要な文化財が集中する足守地区。
足守の地名は、古くは日本書紀応神天皇二十二年(推定五世紀初頭)の期に「葉田葦守宮(はだあしもりぐう)」の記述に見られます。「葦守」が「足守」に転じており、「葉田」は「秦」を示します
古代足守郷に勢力をふるった賀陽氏の名が刻まれていますが、宮を創建した吉備仲彦は香屋臣(かやおみ)の祖。その血統が賀陽氏に引き継がれているといいます。

http://www.city.okayama.jp/kitaku/asimori/asimori_00001.html


会津の吉備からもたされた三角神獣鏡があり真野という地名が葦間であり葦間から葦の間に見える野ということで真野となった。そういう地名もここからもたされた。こう重ね合わすとやはり吉備が深くかかわり真野の草原の地名が生まれということも類推される。



いづれにしろ安積山の歌はしがらき宮の木簡の発見でもともと手習いとして暗誦していた民謡のようなものだった。郡山は江戸時代にも開けていない、須賀川や二本松が福島県では中心で栄えていた。だから明治維新のとき一時は二本松県になっていたのである。だから二本松の城はその天守も高く四方を見回すとあそこが福島県の中心だと地理的直感として感じるし古代もそうだった。
安達太良の歌は郡山の安積山の采女が歌った浮いた宮廷人の歌とは違う土着的なものとして歌われているから異色なのである。なぜなら安積山の歌もそうだけどみちのくの真野の草原もやはり都から見た思われたものとして歌われているが安達太良の歌は地元から土着的なものとして歌われているのである。土着的なものとして歌われているのがみちのくにはこれくらいしか万葉集にはないのである。
福島県がすでに弥生時代人口が常陸より多かったということは山際に豊富なきれいな水を利用して稲作がすでにはじまっていてそこに大規模な灌漑、池を作る技術をもった渡来人などを主流とした人々が開拓に入ってきた。福島県の場合、多賀城以北のように蝦夷との戦闘はそれほなかったらしい。

というのはここの海岸沿いの鳥打沢の大製鉄所跡でも発見されたのは武器かと思ったら仏教関係のものが多かった。唐神(韓神-カラカミ)などの地名が真野郷にあることでもわかる。各地に国分寺が建てられたのは平和的に大和政権に組み入れるためだったのである。常陸の広大な平地は渡来人などにより大規模な工事が行われて稲作地帯になった。大仏に鍍金するためにみちのくに黄金が発見されたことを都では喜んだ。福島県は奈良と近畿とすでに深い関係があった。意外と会津が奈良からすると遠く今も僻地のように思うが古代は近畿地方とも日本海を通じて川を通じて深く結ばれていたのである。

みちのくと言って芭蕉の時代でも盛岡まで行っていないのである。平泉までがみちのくのようになっていた。でも岩手県だけを加えても実に広い領域なのである。岩手県だけでも相当に広い。この広い地域はさらに道の領域だった。歴史をふりかえるのは重層的なものとして形成された、大地と一体化して形成された歴史をしることである。みちのくの大地というときまずもともとあった原自然があり次に歴史的に形成されたものがある。みちのくは鎌倉文化がゲルマンににているというとき、みちのくもゲルマンの深く広い森の領域でもあった。そこに重厚な文化が形成されるバックグランドがあった。この大自然のバックグランドなしに何ものも成らない、文化もこの大地に根付くのである。

みちのくも蝦夷が何かわからないにしろゲルマンのようになっていたらそこにゴシック建築やら荘厳な重厚な文化が形成されたた。鎌倉文化がある程度そうなったようにみちのく独自の文化が形成された。そういう自然の基盤を持っていたのである。今でもやはりそれは変わりない、なぜならどうしても会津は広く深い山国でありここをなかなか直感的なものとしてとらえられないのである。浜通りに欠けているのはまさに安達太良もそうだが高い重厚な山なのである。阿武隈山脈は山ではない高原地帯でありここに高い山はないのである。だからどうしても重厚なものを感じないのである。


みちのくというときやはりその大地から離れて何も成らない、その大地にバロック音楽などの重厚なものがひびきわたる。音楽すらそうした大地の森の背景なくしてひびかないのである。人間もそうした自然のバックグランドがなければ偉大になりようがないのだ。その自然のバックグランドに映えるから人間も巨大化するのである。東京のような大都会だったら巨大な高層ビルが主人であり人間はただ蟻のように徘徊しているだけである。秋深まるなかやはりみちのくは何かというときその深い広い大地を思うべきである。だからこそ原発事故はそのみちのくの原自然を壊したから許せないのでありここに住む人も深く反省しないと東北の未来はないのである。文化がここに栄えることはないのである。


みちのくの大地はいしずえ根ざしつつ都を想ふ秋深まりぬ


原自然の大地なくして本当の文化は生まれないし育たない、深まる秋にみちのくの大地を想うべきである。


●参考

私の郡山史考
http://blogs.yahoo.co.jp/asakayama1000/folder/399057.html
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2012年11月06日

秋深まる奈良の短歌十首(平城宮をみちのくより偲ぶ歌) (小国が分立した時、文化が生まれ天才が生まれた)

秋深まる奈良の短歌十首(平城宮をみちのくより偲ぶ歌)

(小国が分立した時、文化が生まれ天才が生まれた)

飛鳥には百済の仏微笑みて大和の国の実り豊けし
飛鳥にてガラスの工房その跡や瑠璃の杯見つ西域思ふ
大仏の掌厚く慈悲の眼や日本(やまと)の国を見守りはるかな
みちのくの黄金に塗られし大仏の金箔はげて秋深まりぬ
秋日さし大仏殿の甍にそ黄金の鴟尾光り大和の成りぬ
大仏の力みなぎり大和国治まりけるかな秋深まりぬ
大仏は大日如来大きなる眼の見開きて国を見守る
あおによし奈良の都や唐国へ遣わさる人思う秋かな
仲麻呂の帰らざるかな天の原月を仰ぎて唐国に死す
女郎(つらつめ)の家持思ふ奈良にありみちのく真野や帰らざるかな
三輪山は神そのものと祈りける尊きものや秋深まりぬ
薬師寺の塔の古りにき土壁の塀に秋の日さして暮れにき
法隆寺芒なびきて塔古りぬ大和の道を踏みしめ歩みぬ
会津なる大古墳かな吉備国の謂われをたずね秋深まりぬ
安達太良の名は奈良にしも知られてそみちのくの暮れて秋深まりぬ


(天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも-阿部仲麻呂)


福島県までは思ったより近畿と奈良との関係はまだ大和政権にならない時代から結びつきがあった。会津の大恷R古墳に吉備国と同はんの同じ型の三角神獣鏡が埋蔵されたことでもわかる。東北でここしかない貴重なものだった。大和として統一国家ができる前から吉備国などと通じていたのである。そもそもそんな遠い地域にどうして吉備国がかかわったということも謎である。吉備国は奈良の大和ができる前には大きな国だった。その力は韓国と深いかかわりがあり実際に吉備韓子という人すらいた。そして笠氏は吉備笠と古くは呼ばれていたし吉備と一体だったのである。棚倉の八槻神社の謂われにあるように神依媛と神石萱という二人の巫女がいた。これはこの地にいた原住民の巫女である。神石萱というときこの萱は伽耶に通じている。萱は当て字なのである。カヤというのは日本に韓国から渡ってきたとしても相当に古いのでありそれで在地の勢力となったともとれる。ただこの萱がまた単なる萱なのか繁っている萱なのかわかりにくい、石巻の萱原もそうである。ただそこに真野公という木簡が発見されたからその真野公から真野川の地名が起こり萱原の地名が残ったのかもしれない、萱原という地名はまれであり萱が繁っているだけのものとは思えないのである。福島県はこのように古代には吉備であれ奈良であれ近江であれ意外と関係深い地だったのである。
奈良の大仏は華厳宗でありこれは極めて国家的色彩の強いものであり鎌倉の大仏とはまたその歴史的意味が違ってくる。大日如来でありまさにその威容が余すことなく示されている。これは蝦夷を殺したための供養のためにもあった霊を鎮めるためにあったというのも本当だろう。坂上田村麻呂を祭ってある清水神社もそうらしい。蝦夷というものは相当に奈良の大和政権で恐れられていたのである。ただその実体は歴史の中で勝者により消されてしまって不明なのである。


ともかく奈良だったらもう読み書きできるのは貴族と僧侶階級だけであり庶民はほとんど読み書きできないから経文も書き読みできないからただ経文を暗誦するほかない、その暗誦すらないから奈良の大仏を見たとき仏の力をもまざまざと見たのである。現実にやはり古代にあれだけ大きい仏殿を建て大仏を作ったら庶民も平伏するのは今でもそうである。それは国家鎮護の大仏でありその現すものは内面化した鎌倉仏教とは余りにも違っていたのである。その頃の仏教は貴族と僧侶階級だけのものであり庶民は関係なかったのである。ただあれだけ巨大な大仏を見れば国家の威厳を力を何も言わずに示すことができたということである。ただでは大きいだけなのか?大きいだけだったら歴史的遺産とはならない、そこに内実があり外観と一致して歴史的意味があったのである。明治以降に作られた相馬市日立木の百尺観音や最近観光のために作られた巨大な仏像とか観音様などはただ見せ物にすぎないのである。何らそこに価値や意味を見いだせないのである。日本の最初の国家がなり日本の国家の栄あれという祈りがこめられているのだ。そんなものは宗教の強権的な支配だという批判も必ずある。でも現代の政治を見たまい、全くそこにはこうして千年後にも残るようなものが作られているのか?ただ毎日胃袋のことであり物質的なものだけが追求されているのである。もちろん国家の百年の計などはない、ただ物質的経済の追求でありそのために政治も科学も宗教もある。宗教も全くカルトてあり異様な集団化した現代文明の病的現象なのである。国家の威厳とか重さとかは消失しているのだ。そして個々の欲望の追求が資本主義となりただすべての価値が金の追求になってしまったのである。


今歴史をふりかえれば奈良時代、万葉時代は日本の大地と一体化した理想的なものとして見えてくる不思議がある。日本人のアイデインティティが築かれたのは万葉時代だった。もちろんその後も日本の歴史が積み重ねられてきた。江戸時代もそうだし過去は今からすると極端な貧乏しかないから誰もそんな時代に帰りたくないというがそれと歴史をふりかえるのは歴史の価値を見いだすのは別なことである。その時代時代に築かれた全体として歴史を見るのである。日本ではやはり近い所では明治時代は和魂洋才で文化的には充実していた。今は洋才和魂であり日本的な文化が魂が衰退している。
奈良も唐と一体となって文化が華開いた時代であったので明治時代とにていたのである。ただ唐の文化のように日本化、国風化できていない、奈良の後に国風文化が起きたように今は欧米化から国風文化の時代である。それは政治的にもアメリカや中国からと日本はまた独自の道を模索する時代にもなっている。


日本はまた国風化するというときその大地に還る必要がある。ところが今やその大地は消失してしまった。大阪でも東京でも文化復活の基である故国の大地や森が消失したのである。それは世界的にもそうである。グロ-バル化というのは経済の追求であり文化を作らない、文化はその国の土地に根ざした時生まれる。その土地を耕す時、culture-cultivate-になる。みちのくにはまだなんとかのその耕すべき大地がある。原発事故で大きな痛手負ったので福島県は苦しいがみちのくは岩手県とかさらに広い地域がまだ残されているのだ。福島県でも会津は本当に広く古代から一国である。そこは放射能汚染からなんとかまねがれたのである。つくづく自分が相馬という地域にありアイデインティティを追求してきた。なぜなら現代はこのアイデインティティをもつことが至難なのである。このアイデインティティはやはりそれなりに狭い地域でないともてないから郷土にこだわるということがあった。一つの関連する有機的に結合した場所として追求したのである。ちょうど相馬藩くらいが適した広さだったのである。それで面白い一文を本から発見した。


ルネサンス時代、イタリアは小いさな独立した地域に分かれていた。その土壌からダビンチやハケランジェロなどが天才が綺羅星のごとく輩出した。近代ではゲ-テ、シラ-モ-ツアルト、ベ-トベンなどが神聖ヤ-マ帝国から離れ小国が乱立したとときに輩出した。ビスマルクがカイザ-のとき統一したときドイツは矮小化した。(40歳過ぎてからの賢い脳の作り方-高田明和)


「世界国家かできこれが大きくなると文明の創造性は消失する」トインビ-
これは現代のグロ-バル化は経済だけの追求でありそこからは文化は生まれない、文化は小国でもその国の大地に根ざすとき耕すとき生まれる。ヨ-ロッパはもともとロ-マ帝国から中世になり小国に分立したからこそ様々な多様な文化が創造された。ヨ-ロッパでなせあれほど天才が多いのかというのもこれで納得がいく。それぞれの国が個性を育んだのである。例えばベルギ-などもベルギ-人としてこだわる、自分たちの国は小国でも別なのだとこだわるのがヨ-ロッパなのだ。日本だったらそれぞれの藩にこだわるのとにている。そういう態度が独自の文化を生むのでありグロ-バル化でどこでもコカコ-ラを飲んでいるとかでは料理すら独自のものが生まれないのである。小国の利点は有機的に結合したなかで生活できるから一つの世界観を作り安いのである。人間はあまりにも大きくなるとアイデインティティが見いだすことがむずかしく作りにくいのだ。中国とかアメリカはあまりにも大きいからなかなか自分たちのアイデインティティをいだしにくいのである。例えば福島県でも実際は広すぎる。だから会津についてはあれだけの山があっても浜通りに住んでいるとその山国のことが未だにわかりにくいのである。毎日山を見ていれば一体化してゆくだろうがたまに行くだけでは一体化できないのである。だから会津は会津としての国意識がありそこで独自の文化がもともとあって育まれるのである。会津には独自の山の文化が生まれる素地がある。一方浜通りは海に通じた文化が創造される。海から昇る太陽と山から昇る太陽はまるで違ったものなのである。風も海から吹いてくる風と山から吹いてくる風はまるでちがったものなのである。山風と海風はまるでちがったものでありそこに文化の相違が生まれるのである。

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2012年11月07日

鴨(高齢者は老後は落ち着いた場所を求める-人のあたたかいサ-ビスを求める)




(高齢者は老後は落ち着いた場所を求める-人のあたたかいサ-ビスを求める)

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晩年や午後の光に鴨群れぬ
山暮れて海へ帰るや秋鴎
色違う鴨渡り来る里の川
歯医者も今は暇なり秋薔薇
今日もまた家壊される秋の暮
この道に松一本や秋の暮
何成さむみちのくの大地秋深む
真野川に鮭の上りて夕暮れや鴎むれつつ鳴きとびまわる

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上る鮭を追う鴎


晩年の考え方は相当に普通は変わる。晩年は身近な所が大事になる。若いときは遠くへ遠くへと憧れるが晩年は身近な所で落ち着くところがいいとなる。その差は相当に大きい。若いときだったら別に仮設とかに移ってもそれほど気にもならないし都会に移っても気にならない、人にもよるがかえって賑やかな方がいいとかなる人もいる。ところが晩年は老後はたいがいは変化を好まなくなる。余り新奇なものを求めることもしない、人物でも知識でももう今まで積み上げたもの慣れ親しんだものは吸収できるがいろんな人に注意を向けることができない、住んでいる場所も狭い限られた所でいいとなる。それだけ刺激に弱くなるのだ。めまぐるしく今のように変わる時代は老人には向いていない、江戸時代が向いていたのである。都会の長屋だってほとんど変わらずに同じ場所にすんで慣れ親しんだ人と一生をともにしていたのだ。その象徴が鴨なのである。


今日はちょうど立冬だったのか、鴨は冬の季語だったのである。秋は雁だが鴨は冬だった。買い物に行ったらやはり川に鴨がいつものように浮かんでいる。それがなんとも落ち着いていいのである。午後の光が川面に反射している。岸に芒がなびいている。鴨とはまさに慣れ親しんだ仲間なのである。今の季節、鴨でも渡り鳥の鴨がいて色の違っている白と黒のコントラストが鮮やかな鴨などが交じっていた。ここでは渡り鳥の鴨は見かけない、同じ鴨がいつものように浮いている。水面を優雅に互いに傷つけることなく泳いでいる。
それがなんとも平和なのである。今まで鴨をこんなふうに見たことはいな、いかに鴨が水にマッチして浮いて泳いでいるその姿がなごむのである。画家でも最後は奇抜なものを題材にしないで身近なありふれたものを題材にしたことがわかる。最も見慣れた身近なものにいいもいわれぬ造化の妙があるのだ。


老人になるともう奇抜なものは求めない、ありふれた当たり前のことがいとおしくなるのだ。いつも一本の松の木がある。その木もいつも同じ場所にあり何かなごむのである。なぜならこの辺は変わりすぎたのである。今日も家を壊している。近くでありその家の人は65才とかでありこれも老人になっているのだ。歯医者も一軒なくなった。歯医者は今は暇である。だからゆっくり待たずみてもらえる。秋薔薇というのも老後に向いている花である。まあ、退職して旅していなかったから冒険しなかったから冒険するのもわかる。若い内自由な旅をしていないものは無理してでも旅に憧れ旅をする。退職して暑い盛りに鹿児島県から青森まで歩くという人に出会ったのには驚いた。あの人も退職して自由になったからあのような旅に出たのである。会社勤めだと自由がないからそうなるのだ。
今回の万里長城で遭難した人たちも老人だったし山も退職した60以上の人で一杯なのである。


おかしいのはラブホテルまで老人用にしているとかパチンコや白髪の人が多いとかまさにいたるところに高齢化社会が現実化している。だから社会は高齢者向きになる。それは今までの騒がしいものではない、落ち着いたものを志向するから社会自体、静かな落ち着いたものになるかもしれない、高齢者向きの社会も悪いとは言えないのである。高齢者が欲しいものはもはや物ではな、人のサ-ビスでありゆったりと落ち着く場所なのである。かなりスロ-なテンポの世界だから高齢者に合わせるとかえって落ち着いて住みやすくなる。余りにも現代は忙しく早すぎるからだ。


川もまさにシルバ-でありシルバ-時代になる。この辺は今日も近くで家が壊されているように騒がしいしまだ落ち着かない、だから高齢者で会津とか仮設に住んでいる人たちは悲惨である。どうしてもなじむのに時間がかかるしなかなか適合できなくなっているからだ。

山が暮れて鴎がなかなか帰らないのは鮭が上ってきて餌となっているからである。あれだけの鮭が上ってくれば鷺でも食い足りるだろう。ここでは今は港もなく船もでていない、ただ海が近いから鴎が上ってくるのである。
 


 

2012年11月08日

鮭上り命果てる (最後まで欲望、本能は消えない)


鮭上り命果てる

(最後まで欲望、本能は消えない)

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ふりしぼり最後の命鮭上る
柿の実の夕日に赤く里暮れぬ
晩菊に松一本(まつひともと)や今日暮れぬ
故郷や松一本に残る虫
残る虫なきあいかそか吾も老いぬ


この辺で鮭が大量に上ってきているのは河口の方でせきとめてとっていたのが放射能関係でとらないからである。これは鮭が上ることで有名な浪江の川でもそうである。かなり上流まで上っているはずである。ただ警戒区域で見にゆくことはできない。鮭が堰を上る、全身をばたつかせてのぼる、その姿はやはり心を打つものがある。本能がいかに強いものか?あれをみればまざまざとわかる。
本能というとき女は灰になるまで女だとか良くいわれるけど本当である。男もまたそうなのかもしれない、ただ男は仕事があり最後まで仕事に情熱を燃やす、芸術家だったら最後の作品を完成させようとして最期の命をふりしぼる。


一方で鮭のように人間の欲望は還暦すぎたからとか枯れるということはない、欲望はますます本能はますます強くなるのだ。だから若い時誤解しているのは老人になったら欲望が消えてゆくと思っていることである。人間の欲望は別に性欲だけではない、様々なものがありそうしたものは消えない、
個人差があるにしろ60代でも女性でも欲望が深い人はいる。そして最後の残り火を欲望を燃え上がらせようとしている。それは男でも同じである。欲望、本能はそれだけ強いものなのである。
だからドラマであるにしろ画家が命がわずかだと宣告されて最後の命懸けの恋をする。そうなると相手は命懸けなのだからそれに選ばれた女性はそれに答えるとなると大変なことになる。ドラマだかその女性は道連れにして殺された。人間は最後の欲望の本能の執念はすさまじいものとなる。

最後に死ぬ時、「寿司持ってこい」と叫んで死んだ人もいた。食欲が餓鬼となっていたのである。
最後まで女性を追い求めるのも本能の欲望である。別に性欲と関係なくやはり女性に男性はひかれているのだ。

最後に人間の業があからさまに噴出するのかもしれない、認知症なんかは何かわからないにしろやはり死ぬときに老人性のアルツハイマ-はなる。それは本当に人間の最後がむきだしになった姿だったのかもしれない、その病状はモノにこだわることや金にこだわることや忘れるからとはゆえ、最後に人間の欲望がむきだしになってこだわっている姿があった。確かに忘れるためにそうなったのだけど極端に最後に欲望にこだわる、別に金がなくなっても金にこだわっていなければ狂気のように騒ぐ必要もないからだ。一人は金にこだわった人でも金のことがわかんなくなったとこだわらない不思議がある。大人しくボケる人もいるからだ。人間の最後は本当にそれぞれ人間というものが何なのかむきだしにする。なかなか平穏に死ねる人はいないのだ。平穏に成仏する人はまれだろう。これはどの宗教だから成仏するしないではない、どんな宗教に入っていても個人差が大きいのである。あの人は何宗教だから人格的に優れているとかにはならない、だから宗教をみてその人を今は判断できないのである。カルト宗教団体に入っている人はほんとんど人格的に歪んでいる。とするとまともな人格の人は宗教団体にはいないとなる。


「年たけてまた越ゆべしとおもひきや命なりけりさやの中山」。この歌は、西行69歳の作


旅に生きたらこのように最後の旅にでて死ぬのが本望だろう。69才というがその当時年齢にしたら今の80才くらいになっているから凄いと思う。80才で自転車旅行でトンネルで死んだ人がいた。そういう死に方も悪くないなと思った。自分も手術したので別に旅でも登山でも海外旅行すらまだできる。ただ介護で行けないだけであり別に歩けなくなったのではないし激しい運動をしていけないということでもない、だからまだ旅できるなと思った。一時はできないのかと思った。だから自転車に乗るなと言われたときショックだった。自転車は本当は前立腺には悪かったのかもしれない、やっぱり旅は電車の旅でも記憶に残らない。自転車だと体で覚えていることがありそれを思い出して俳句や短歌や詩に今しているのだ。西行の歌も全身の力がここにこもっている。鮭が最後の力をふりしぼり上ってゆくのとにている。それは歩いて旅したということからきていたのである。歩くとはまさに大地を全身の力で歩むからこういう歌ができたのである。車では何もできない、記憶に残らないのである。

柿が夕日がさして赤い、それが何でもないんだけどその赤さが特別赤いように見えた。
熟れて赤いのである。柿はやはり里にふさわしい。一見当たり前の今までみた風景が特別なように見える。ただこの辺ではその柿も放射能で食べられないから何か違っている。
柿は外国でもKAKIで通じる、日本的なものだったのである。

2012年11月09日

冬日没る(仮設の盆栽)


冬日没る(仮設の盆栽)


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堰を越え勢いよく鮭上る

星影の川面に写り鮭上る
盆栽を仮設に並べ冬日没る


相当の数の鮭が毎日上っている。今日も百羽くらい鴎がいたかもしれない、あれだけのごちそうはそうはないだろう。熊は冬眠する前に鮭を食べる。それがエネルギ-となることがわかる。鮭を食べて脂肪をエネルギ-源とする。ともかく鮭の数は本当に多い。普通は河口でとっているからここまでは上らない、自然の状態だと産卵する数が限られるから多くは帰ってこないから人間の手で産卵させてやる。でも今年は浪江でも放射能汚染地域は産卵させないとすると上ってくる鮭はどうなるのだろう。そもそも魚に放射能がどう影響するかわからない、鮎なんか一年の寿命しかないのだからそんなに影響するものなのか?人間は長く生きるから放射能が蓄積されるから20年後にガンになるとかなる。
でも動物とかはどうなるのか、みんな20年なんか生きない、魚なんか寿命が4年でも長い方だろう。
放射能汚染は何か素人にはわかりにくいのだ。別に水はきれいだから意識されないのである。
夜も鮭は上っている。あの堰を越えたらさらに勢い良く上ってゆく・・・


仮設は一年半立ったらなんかなじんできた。人間の生活はどんなであれ長くなるとそれが普通になってくる場合がある。異常なことでも長くなるとそれが普通になる。仮設はやっぱり昔の長屋なのだろう。仮設で面白かったのは80才くらいの老人が仮設はいい、仮設で死にたいとまで言っていた。
なんでだろうと思ったら仮設だと昔の長屋みたくなるから一人暮らしでも声をかけてくれる、心配してくれるからである。長屋にはプライバシ-はないが家族みたくなってしまうようなところがあった。今はまず一人暮らしだと誰も相手にしない、だから家族のいない人は本当に孤独になって孤独死になってしまう。そもそも歩く時代は遠くに行くことがないから近くでまにあわせるほかない、近くの店で豆腐屋であれ魚屋であれ野菜であれ買ってまにあわせていたのである。隣近所であり歩くと近いように見えても遠くに行けなくなるからそうなる。だから日常の生活は近間でまにあわせていた。そういう生活は互いに気づかう生活になっていたのである。

今はみんな車だから近くは疎遠になるのだ。近くに頼る必要がないからである。通販だってアマゾンで500円でも送料無料だから変だなと思った。車がなければ通販の方がいいとなる。そんな生活は何か異常なのかもしれない、何かあったら配達されなくなり近くの店がなくなったらモノの買いなくなるような時がくるかもしれない、そういう不安があるのだ。TPPなんかもそんな延長上にあるのだ。自国で食料をまかなわないで外国に頼っていたら何か今回のような大事故とか災害があったらどうなるのだろうという不安である。そんなに遠くを頼っていて大丈夫なのと思ってしまう。これはやはり人間としてまともな感覚だろう。
仮設には盆栽があっているというとき日本人的なものが長屋から生まれたものが多いかもしれない、義理人情なんかも長屋から生まれたのかもしれないし、落語もそうだけどそういう社会は忘れられてしまった。義理、人情などといってもそれはやはり時代環境が作ったものだったのである。今のような社会はまず人情などはぐくめないのである。

なんか老後はやはりそうして遠くに行くの億劫になる。何か自分も自転車で行くのが疲れるのだ。どうしても家で過ごすことや近くで過ごすことが多くなる。だから近くが大事になる。医者だって近くだと助かるけどここではそうはいかない、二軒しかないので困る。高齢化社会はマイナス面ばかり指摘されるけどいい面も必ずあるのだ。それは今までのこうした遠くを頼る生活がいいのかということである。遠くばかりに眼を向けて近くがないがしろにされていいのかということである。なんかそういう生活など高度成長時代から延長の生活を見直す必要がある。高齢化社会は社会として今までとは違うモデルを立案する必要がある。ただ急激になるからそういう準備すらできていないというのが実情である。だから相馬市の長屋風の住宅がいいなとなる。それから室内で楽しむものも必要となる。やはり音楽にこるとかがいいのかもしれない、音響室を作るとか内面化してゆくのが向いている。

インタ-ネットの世界の音楽が無料で聞けるのはいい、毎日変わったものが無料で聞ける。音を良くすれば毎日楽しめるのである。

今日は冬の日だった。冬日没るである。秋は今年は短く冬になったのである。

柿の連句とエッセイ(2)


柿の連句とエッセイ(2)

柿なりて踏みしめ歩む大和の道
代々に田舎に住むや柿と石
我が母に魚と柿や介護かな
柿食えぬ放射能に人乱る
柿の実の夕日に赤く里暮れぬ
柿なりて村を培う歴史かな
渋柿の我が家にありぬ昔かな
トタン屋根雨うつ音や柿のなる
干し柿を好みし母を介護かな
父も死に姉も死ににきトタン屋根貧しき家もなつかしきかな


柿はやはり極めて日本的なものだった。柿は果物でもずいぶん違ったものである。ミカンとかバナナとかスイカとかメロンとか葡萄とかいいろあるけど南国的なものが多い。リンゴと柿は何か違っている。柿の原産地は良くわかっていない、揚子江だというがやはり南の果物なのか?
「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」(正岡子規)
この俳句が有名なのはやはり奈良と柿があっている、柿が何か日本的なものだからかもしれない、柿本人麻呂などという人もいるのも何か日本らしい。


『桃栗三年柿八年』(ももくりさんねんかきはちねん)
このことわざの意味は、皆さんご存知の通り「桃と栗は芽生えてから三年、柿は八年で実を結ぶ」ということから転じて
何事も、成就(じょうじゅ)するまでに相応の年月が掛かること。 類:☆大器晩成
じっと待っていれば、やがて良い思いができることの喩え。
しかし実際は柿も3年で実がなる!
ことわざでは柿8年と言われていますが、実際は上手に育てると3年目ぐらいから実をつけ始めるそうですよ。


柿は何か渋い感じがする。大方の果物のように何か甘くないと感じるの実が堅いせいもある。リンゴもそうである。北国的なものを感じてしまう。柿は日本的景色と合っている。それが日本という風土で長い年月をかけて作られた景色だったのだ。それは海岸線に防潮林として作られた白砂青松の風景と同じである。人間によって長い年月をかけて作られたものである。それがまるで自然の景観のようになっていたのである。その景観が津波で根こそぎ破壊されたことには驚いた。柿は奈良の景観に実にあっている。薬師寺辺りでもあっている。柿が外国でもまるで日本原産のようにKAKIで通じているのもやはり日本的な景色を長い年月で作られてきたからである。縄文時代には栗があっても柿はなかったのである。みかんは意外と北国で食べられないものだったけど柿は干し柿などとして食べていたのだろう。


自分の前のトタン屋根の家には渋柿がなっていた。それを思い出すが一緒にいた父も姉も死んでしまった。思い出を話す人は今寝ていて全く耳が遠くて話できない、だから自分一人だけが思い出しているのだ。自分の家のことは何か自分しか知らないというふうになってしまった。今いる家だって新しく建てて40年もすぎたのである。人間は一番思い出のある場所がどうしても家になるのだ。家とともに家族の思い出があるからいつまでも思い出とともに家にいたいという気持ちがわかる。家がなくなるとそうした思い出も消えてしまうのである。家にはそうした思い出がしみついているのだ。

家族もいづれはなくなる、そういうことを家族がある内に現実のものとしてリアルに思っている人はいないかもしれない、家族すらただ仮のものであり家すら一夜の宿みたくなってしまう。これも人間の無常である。いつまでも家族はいないし家もない、近くの家も壊された。あそこの家も相当に古い家だった。二軒の家が壊された。家が壊されるとそれと同時にその家のあったこともその家の家族のことやいすいろ忘れられてしまう。最後に残るのは墓だけになってしまう。原町の実家の墓がそうである。この辺でも木下家の墓は材木屋として知られていたがいなくなってからずいぶん日にちがたっている。息子が二人も死んでいた。そんなことを覚えている人もいないだろう。近くで家を建てるのに請け負ってもらった人だから覚えていた。それにしてもそれもずいぶん昔になったのである。昔になるのも実に早いものである。今は昔というけど今はたちまち昔になってしまうのである。
津波の被害で村がなくなったことなども本当に無常であり今は昔ここに村があったとなってしまったのである。


人間は最後は何でもただなつかしくなる。貧しい生活だろうが家だろうが結局、ただ最後は思い出すだけになるのだ。家族も死んでゆきただ思い出だけになってしまう。そういうふうにふりかえったとき人生などつまらむことにこだわっていたなとかいろいろわかることがある。別に貧しくてもみんな仲良くしていたときが楽しかったなとかなる。豊になっても必ずしも幸福になるとは限らない、この辺は原発事故で家族がばらばらになったことでもわかる。原発は豊かさをもたらしても結果的には不幸をもたらした。家族はばらばらになり思い出の故郷も土地も家も奪われてしまったのである。
村でも長い年月で培われたものが一瞬にしてなくしたのである。柿は村には欠かせないものだったのである。夕日がさして赤く熟れている柿の実はまさに日本的風景だったのである。


柿の話
http://www.musubu.jp/hyoronkaki1.htm


このつづきでもあった。前に書いたもののつづきが必ずある。そういうものがインタ-ネットでは書きやすい、書き換えたりするきもやりやいのである。

2012年11月10日

初時雨(類似俳句)


初時雨(類似俳句)


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遠山に日のさしあわれ初時雨

残る虫一つ鳴きひびく朝の野に

三色の晩菊ここに落ち着きぬ

遠山に日の当たりたる枯野かな 高浜虚子


これが類似俳句になる。芸術は音楽でもそうだけど類似なものがある。詩でもやはり外国でも日本でも変わりなく自分の作ったものと同じ様なものが結構あったからやはり追求していることは芸術では同じなのである。ただ俳句となると外国からは風土に根ざしたものだから理解しにくいのである。

今日は本当に初時雨だった。時雨というと何かこれが時雨なのかどうかわかりにくい場合がある。
今日が初時雨だというとき季節的にあっている。ぱらぱらとふってすぐやんだからこれは時雨だった。秋が短く冬は冬になった。秋が長びくというものでもなかった。暑かったから秋が短くなったのである。だからまだ晩秋という感じにもなるが明かに太陽も冬の日になっていたし時雨になったことは冬なのである。日本人の共通の話題が天気になることがわかる。天気が四季で明確に変わってゆくからである。それであいさつも天気のこととなり俳句が生まれたのである。天気のあいさつのようなものが洗練されて俳句という芸術になったのである。


日々変わるからプログには向いている。特に季節の変わり目、夏から秋とか秋から冬とかに変化を感じるから書くことも多くなるのである。時雨はまた老いにふさわしいものでもあった。時雨の風景は何か墨絵ににていたのである。時雨を感じるのは都会の騒々しい所では感じにくい、そういう余裕もないだろう。最近日本人の感性が衰えたというのは本当だろう。これだけ都会化して騒々しくなると自然の感性も衰えてくる。車だったらまず自然を感じない、風も雨も時雨も感じないのである。
歩いていれば自然を感じる度合いは全然違っていたのである。そういう所からも日本人的感性は衰えてしまった。ただ日本の自然は変わりなくあるからなお俳句や短歌は追求されているのだ。


残る虫が一匹朝の野に鳴いている。この辺では刈田がない枯れた草原になってしまった。まさに野なのかもしれない、別に虫がいなくなったりしない、でもなんか少ないような気はする。でも誰もいない野に虫の音だけが朝ひびいている。これが都会だったら車の騒音やらなにやらで打ち消されてしまうだろう。今都会では自然への感性を磨くことはむずかしい。晩菊が畑に咲いている。老いれば人間は落ちつく場を求める。仮設だとやはり落ち着かないだろう。でもなんか一年半過ぎて仮設でもなじんできたというか落ち着いてきたというかそんなふうになった。人間は何か落ち着くにはなじむにはなんでも時間がかかるのだ。