2012年10月31日

釣瓶落とし(凄まじい無常の一年半が過ぎた)


釣瓶落とし(凄まじい無常の一年半が過ぎた)

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ワレモコウの紋章


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男一人台所仕事や秋あざみ

ワレモコウ野菊にあざみ仲間かな
秋の蝶交わり淡く消えにけり
介護して釣瓶落としや世は変わる
一年半仮設にも散る木の葉かな


雨にぬれ鴎の川に上りきて我もぬれつつ買い物にゆく

なんか時間の余裕がない、介護などしていると結構手間である。買い物と料理するだけで半分時間がとられている。前は暇で暇でしょうがなかった。その暇を有効に活用していなかった。今では抹茶を飲む時間がないことでもわかる。絶えず追われているのである。ゆっくり茶を飲む時間がないのだ。今の時代はニュ-スだってみていると時間がとられる。だから新聞でも詳しくみていられないしテレビでも見ていられない、本もじっくり読んでいられない、今三時でも4時になると食事の用意をしなければならないから落ち着かなくなる。簡単なようでも時間が食うのである。俳句短歌などは短いから忙しくても書けるが長い文だと書きにくいのである。


自分は雑で繊細さに欠けるから料理にも向いていない、料理も結構大変なのである。だから女性でも料理のうまい人とへたな人がいるのがわかる。料理は結構創造的仕事なのである。そしていい料理を作ろうとしたら時間が相当にかかる。現代は何かと時間に追われる時代だからあれもこれもとやることができない、自分は十分な時間が与えられた。しかしそれでもその時間は暗というまにすぎた。
とすると結婚して所帯もち子供を育て仕事をしてなるとこれは時間がすぎるのが早いし学問とか芸術とかの創造に費やす時間がなくなってしまう。もちろん旅などに時間を費やすことなどありえない、旅人になるには少なくても一か月くらいしていないと旅人になれない、今は旅館やホテルで保養するのであり旅ではない、旅するには相当な時間の余裕が必要なのである。その旅の時間もあっというまにすぎてしまうのである。人間は何をするにも時間との勝負だということが最後にわかる。なにもかもできることはない、何するにしても時間切れで終わっているのである。


この辺は最近本当にめまぐるしく変わった。これほど変わるものかと信じられない変わりようだった。釣瓶落としの日だけどすでに津波と原発事故から一年半以上すぎた。その間の変化はすさまじかった。今でも自分は震災以来のかたづけができていない、本は散らかったままだしかたづけられない。その間に手術とかあり大変だった。本は整理しにくついのである。なぜなら本は物ではないのだ。中に書かれている文章が整理できないのである。これはあとで利用できるとか思うから整理できない、捨てることもできないのである。でも半分くらい本は捨てた。それで多少身軽になったかもしれない、それでも本が多すぎるのである。でも最近は効果的に引用するから全部捨てるわけにいかないのである。こんなこと書いてあったのかと改めて再発見するものが次々にでてきているのだ。本はそれだけ買っても読んでいないし忘れてしまっているのである。人間が忘れるというとき自分の書いたものすら忘れている。ホ-ムペ-ジとかプログですでに十年書いていても自分の書いたものを読み直してこんなことを書いていたのかと思い出しているのである。自分の書いたものすら他人が書いたものじゃないかとすら思うことがある。ええ、こんなことを書いていたのかと不思議に思うのである。


人間の交わりは淡い方がいいのかもしれない、人間は男女でも蛇のように交わる。しつこく延々と交わる。でも結局人間はいかに肉体が交わるでもそれも忘れてゆく、最後は何でも空の空蜷てしまうのである。だから淡い交わりの方がいいとなる。60すぎても枯れるということが今はない、どろどろとした欲望が蛇のように渦巻いているからそういう人と交わるのも嫌である。いづれにしろ人間は今や老いればどんな交わりもはかない、60年も一緒にいても死ねばその交わりも日々薄れてゆく、去る者は日々に疎しとなる。人間は誰しも無常の世を生きているのである。それは今回の津波とか原発事故でこの辺は現実問題としてみんな別に特別の人でなくても感じたのである。家族を何人も一挙になくした人は本当に言うまでもなくこんなことがあるのかと未だに思って納得がいかなくても現実そうなのだからどうにもならない無常に直面しているのである。


ともかく釣瓶落としの陽のようにこの一年半以上はまたたくまにすぎてしまったのである。


津波災禍
一年半過
釣瓶落陽
無常迅速

まさに無常迅速というのが本当に誰しも感じたことだった。