2012年10月19日

野菊(大根の味噌汁を作る)


野菊(大根の味噌汁を作る)



朝日さし野菊の映えぬ山の墓所


橲原(じさばら)や薊に野菊柿なりぬ


夕暮れに芒なびきつ鮭上り鴎飛びつつ海へ帰りぬ


ふつふつと大根煮えて味見する秋の夕餉や我が料理する

大根はあまり好きではないが何もないので味噌汁に大根を切って煮た。なかなか煮えなかった。そして味見するとうまかった。まだ大根が新鮮だからうまいこともあった。野菜は古くなるとうまくなくなる。農家だととれたての野菜を前の畑でとって食べるからうまいとなる。自分の家で食べるのは農薬を使わないらしい、自分の食べるものだからそうなる。他人が食べるとなると別に農薬が入っても気にしないのである。農家の人だったらそんなことが当たり前でありった。燃料すら裏山の薪を使っていたとするとほとんど自給自足で生活していた。その生活はただ買って作られたものを食べているより充実した生活となる。大地とのじかのつながりも体で感じていた。それは自分の言うような理屈ではない、体で感じていたのである。だからそういう自給自足の生活は今のような消費するばかりの生活より内容は充実していた。ただ昔はただ貧乏なのだけだよ,今豊だからこそそんなののんきなことを言っている。食うや食わずでありもう働いてくたくたになるが満足に食えなかったんだよとか常に言われる。現実そういう時代に生きたものはそうなるのだろう。

ただ今でもサラリ-マン的生活と農家の生活を比べると退職した人をみるとわかるけどサラリ-マンは何かわびしい。やはり生の充実感に欠けていたのだろう。サラリ-マンの哀愁は退職したとき一番感じるのである。一方農家の人は生涯現役であり85才の人でも仕事をしていて体に力がまだ満ちていた。サラリ-マンの人は退職すると同時にあらゆるアイデインティティが喪失して元気なくなるのである。農家の人は大地とのアイデインティティをもちつづけるから年とっても体に張りがある。サラリ-マンは張りがなくなる。体を姿勢もその人生の結果としてそうなってるみたいだ。心だけではない、心も体に影響するし体も心に影響しているのだ。人生の結果としてそういう姿勢に体になるともいえる。すべてではないがサラリ-マンの姿勢とか体つきとかやはり農家の人や肉体労働者とは違っている。ただ現代は農業の跡継ぎがいないとか金にならないからやらないとかなるが人生の結果として考えると人間はやはり仕事が人間を作るということがある。サラリ-マンなどになるなと作家が言うときそのことなのだろう。人生の結果としてはサラリ-マンは例え安定しても年金をそれなりにもらえても充実した生であったかどうかわからない、そうでない場合が多いということである。

それは理屈ではない、結果として事実として体にまで現れるのが老人なのである。農家の人などは
やはり老人でもサラリ-マンとは違って態度にまで体にまで現れているのだ。

ただ60代とかなると信じられないような人間に変わっている。今回の家族の中に入って六人も殺害したという女性も64才だった。10年前からその犯罪に手を染めていたにしろそういう信じられないような極悪な人間に変質する。これが子供のときや若いときと同じ人間なのかと本当に思うだろう。

人間は悪い方に変わるものはそれだけ変わってしまう。とくに現代は金だけを求める人が大半だからそういう人間が極端化すればあのようにもなる。いくら特殊な事件で考えられないとかいうけど事件は必ず現代を反映しているのだ。金の亡者となっている人はいくらでもいる。それが極端化するとあのようなことにもなりうる。特に家族の中に入る人ほど危険なものはない、家族の弱みにつけこまれ家族が崩壊する。そういう経験をしているから人ごとでもないのである。家族が弱った時そういう人間が入りこみやすいのが現代なのである。


今年は芒が風になびいてきれいである。草ぼうぼうになり芒が生えたままで切らないからだろう。田んぼも草ぼうぼうになっている所がありそこに芒がなびいている。芒は一面になびく光景は美しい、最近身近で芒がこんなになびいている風景を見ていない、やはり現代は田んぼはあっても自然が変えられているそうなっていたのだ。鮭も上ってきた。秋らしい光景であり秋も深まってゆく、橲原は鹿島の奥座敷である。あそこの山の墓に朝日がさし野菊が映えていた。田んぼがないのは淋しいが放射能でも水自体は何ら汚れていない、透き通っていてきれいだから何かその点見ている限りは何か変わったという感じがしないのが放射能被害だった。ただヤマメとかいるけど放射能を蓄積しているから食べられないというだけである。ヤマメなどはあまり食べていなかったから別に食べなくてもいいのである。ただ柿が食べられないのは淋しいとなる。農家の人は自分の田畑でとれたものを食べていたのだから残念だろう。食欲の秋、味覚の秋もそこなわれてしまったのである。