2012年10月30日

津波原発被害地域い人手不足の深刻化 (金があっても金が有効に働かない、建物を作っても肝心の人手が集らない)


津波原発被害地域-人手不足の深刻化

(金があっても金が有効に働かない、建物を作っても肝心の人手が集らない)

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●募集しても人が来ない


ヤクルトを配達する若い女性は姿勢が良くハキハキして見ていて気持ちがいい、美人というのではなく体の姿勢がまっすぐで感じがいいのである。若いから素直な感じで清潔感にあふれている。若い人にもいろいろいる。女性でも30くらいすぎると何か疲れたような感じになる人もいる。世間の汚れに染まっている人もいる。50以上になったらほとんどの人が世間の汚れにどっぷりとつかってまともな人がいなくなる。だからもうそういう人とは接したくなくなる。祖父母が孫に財産を残したいとかペットにまで遺産を残したいと遺言を書いた気持ちがつくづくわかった。親でも子供が期待するのは金だけになってしまっているのだ。ましてや他人になればこいつを世話していくらになるんだという勘定しかない、そういうことを身寄りがないから嫌というほど味わった。それか世間というものでありただ利だけしか求めていない、ひどいのは本当に強盗のような人が入ってきたことである。世間にうといから人は協力するものだと思っていた。今はただ利を求め金しか頭にない人がほとんどである。たといいくら困っていても弱っていてもその弱みにつけこんでくるのが世間だということがつくづくわかった。火事場泥棒など普通にあるのだ。まさに弱肉強食の世界である。そういう世界になったのは人が変わってということよりやはり金だけを求める社会にしてししまったということがある。そのことはまたあとで考察するにしろこの辺は金だけでは解決しない問題が生じている。それは津波の被害地域でもそうである。働き手がいなくなっていることか深刻なのである。


そのヤクルトの女性は会社関係の配達は人手がなくて断っているという。相当に人がたりないのである。人が戻ってきてもいるからさらに人がたりなくなっているのだ。だから人の足りない分も受け持つから忙しいと言っていた。募集しても人が来ないのである。これはこの辺では津波災害や原発事故で体が弱り介護状態に陥った老人が増えている。それで特別養護老人ホ-ムては400人待ちとかなっている。それで養護施設の建物を二つくらい建てるそうである。でも介護する人手が集らないのである。一部は他からも来ている。でも一時的だからまた人がたりなくなる。これは病院でも医者は外部から応援に来ている人がいる。でも看護師が流出しているから病院は機能しない、事実南相馬市立総合病院は二棟しかやっていない、看護師が流出してそうなっているのだ。南相馬市総合病院には一か月入院したから世話になり思い出の場所となった。そのことをプログにも書いた。病院と手術でも看護師がいないとできない、チ-ムで医療をするものなのだ。だから看護師がいないと病院は機能しないのである


○少子高齢化社会の極端化する地域(若手の人手不足の深刻化)
○金があっても金が有効に働かない(有効な投資先がない)
○地方の衰退が極端化するモデル(地方自治体の崩壊の危機)


これは日本全体の問題でありこの辺ではそれが極端化したものとして現実化している。


●金があっても金が有効に働かない現実


この辺の問題は津波の被害地域でもそうだが金があっても金が有効に働かない、金が銀行や信用組合にかえって貯金が増えている。でもその金の投資先がない、金があっても死に金になっているのだ。その問題は日本全国で起きている。金余りであり銀行では投資先がないのがずっとつづいている。不景気でずっとそうなっているのだ。だから金があっても回らない、今の時代は金を万能となり金を追い求めて働いてきたのが現実である。その金が万能ではない、金が老人ホ-ムの施設の建物に使われても肝心のそこで働く人が集らないのである。それは病院でも同じである。ヤクルトでも同じである。金あれば働き手がいくらでもある。時給でいくらでも働き手は確保できるとはならない、普通金さえあれば万全だということで金を追い求めて貯えてもきた。しかしその金が万能ではないのだ。

金の投資先、使い道がない、この辺では放射能被害で余計にここで会社を起こそうという人も外からも来ない、すると高齢化社会で年金暮らしのような人が多い、働かない人が働く人より過重に多くなっている。その老人が金をもっていてもでは介護施設で介護で働く人がいるかとなるといないのだ。
本当に金は万能ではない、金で人を買うことはできない、ただ金だけだと家の中に入ってくる人は本当に危険である。財産をねらいみんなもっていかれる恐怖を味わった。人は金だけが動機で働くこと自体危険だったのである。この辺では金があっても働く人を確保できないというとき、まさにもう金だけではこういう放射能被害地域では働かない、地元の人すらいたくない、働きたくないとなる。

ただ外から応援にくる人は助けたいという動機がありきている。それは金だけではない、困っているから助けたいという動機できている。そういう動機がないものはこういうところでは働かない、そもそもおかしいと思うのは外部からくる人に助けてもらうのに地元の人が助け合わない、働かないということである。この辺で失望したのは原発被害でもただ仮設に入り補償金もらっているから働かない人が膨大に増えたことである。その人たちはパチンコだとか飲み屋に入り浸りだとか批判された。
仙台辺りでも津波の被害者にそういうことが言われた。避難してきた人たちを世話する人にとってみるとなんだあの人たち遊んでいるのにこっちは補償金ももらえず働かせられているという不満が生まれたのである。この不満も当然だったのである。


●優先順位を決めて働き手を確保するほかないのでは?


それでは人手不足をどうすればいいのか?それは何が生活にとって不可欠なものなのか?優先順位は何なのかとなる。どうしても優先順位を考えると命にかかわる医療や福祉は第一になる。老人なんか邪魔者でありやっかいなだけだ、金かかるだけだからこの際駆逐した方がいい、死んでもらおうという若者の意見もある。少子高齢化社会ではもう増える一方の老人を世話しきれない、限界になるというのも現実である。そういう現代社会の問題が津波原発被害地域で極端化して現れたのである。

ただこの辺でおかしいのは働かないでパチンコ屋通いの人が増えてパチンコ屋で人手がたりない、募集しても人が来ないという、そんなところで困っているから人手確保せねばならないというのは変なのである。異常自体、一時的なものだからしょうがないということせあるがやはり困っている人がいるのにそうしてパチンコ屋に通いパチンコ屋で人手がたないとか騒いでいるのはおかしいのである。外部から来て助けようとして働いている人がいるのに内部の人は遊んでいるだけじゃないかとなったとき外部の人も働くのが馬鹿らしくなる。ただ現代は介護でも資格がないと働けないとかなかなか簡単に働けないということがある。そういうこともあって働くことに融通性がない社会の問題で働く人が不足するのである。介護施設でもケガさせたら賠償問題が生じるとかへたに人を助け働けないのが現代の事情である。子供でもへたにかかわると何かあったら責任問題になりかかわらないのが得策だとなってしまった。

つまり働くことが端(はた)を楽にするということが起こっている、狭い共同体内での社会とはあまりにも違いすぎたのである。この辺の状態は端(ハタ)が困っている人がいるのだから介護などはそれほどむずかしいものではないから隣近所で助け合いばいいじゃないかとなるがそういうことは全くない社会になっている。困ったら福祉の方で助けてもらいとなる社会である。ところがその福祉施設でも働き手がないないから建物を作っても肝心のそこで働く人がいなかったら看護師がいなくて半分空になっている病院と同じなのである。ともかく病人とか老人の介護はやはり命にかかわるし優先順位はバチンコ屋で働くより高いはずである。これは一身上でもそうだったしこの辺で失望したことである。優先順位が何なのか決めるのは今の時代むずかしい。なぜなら平等社会でありこれが価値あることだから優先順位が高いからここで働けとは強制できない社会だからである。例えばヤクルトにしてもこれを飲まなくても命にかかわることはない、別にス-パ-でも品質は劣っても買えるじゃないかともなる。でも医者がいないなら命にかかわる、介護でも自分のように身寄りのないものは誰かに助けてもらわないと放置されれば死にいたるからいくら老人は無駄だと言っても家族からするとほうってもおけないのである。だから優先順位は高くなるのだ。ただヤクルトが優先順位が低いとはいちがいには言えない、ヤクルトは品物を売るより人間を売りにしたことが成功だった。一軒一軒回ることは手間でありだから一人暮らし老人の見回り役にもなった。福祉の役割を果たしている例もあるからだ。
posted by 老鶯 at 15:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2012年10月31日

釣瓶落とし(凄まじい無常の一年半が過ぎた)


釣瓶落とし(凄まじい無常の一年半が過ぎた)

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ワレモコウの紋章


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男一人台所仕事や秋あざみ

ワレモコウ野菊にあざみ仲間かな
秋の蝶交わり淡く消えにけり
介護して釣瓶落としや世は変わる
一年半仮設にも散る木の葉かな


雨にぬれ鴎の川に上りきて我もぬれつつ買い物にゆく

なんか時間の余裕がない、介護などしていると結構手間である。買い物と料理するだけで半分時間がとられている。前は暇で暇でしょうがなかった。その暇を有効に活用していなかった。今では抹茶を飲む時間がないことでもわかる。絶えず追われているのである。ゆっくり茶を飲む時間がないのだ。今の時代はニュ-スだってみていると時間がとられる。だから新聞でも詳しくみていられないしテレビでも見ていられない、本もじっくり読んでいられない、今三時でも4時になると食事の用意をしなければならないから落ち着かなくなる。簡単なようでも時間が食うのである。俳句短歌などは短いから忙しくても書けるが長い文だと書きにくいのである。


自分は雑で繊細さに欠けるから料理にも向いていない、料理も結構大変なのである。だから女性でも料理のうまい人とへたな人がいるのがわかる。料理は結構創造的仕事なのである。そしていい料理を作ろうとしたら時間が相当にかかる。現代は何かと時間に追われる時代だからあれもこれもとやることができない、自分は十分な時間が与えられた。しかしそれでもその時間は暗というまにすぎた。
とすると結婚して所帯もち子供を育て仕事をしてなるとこれは時間がすぎるのが早いし学問とか芸術とかの創造に費やす時間がなくなってしまう。もちろん旅などに時間を費やすことなどありえない、旅人になるには少なくても一か月くらいしていないと旅人になれない、今は旅館やホテルで保養するのであり旅ではない、旅するには相当な時間の余裕が必要なのである。その旅の時間もあっというまにすぎてしまうのである。人間は何をするにも時間との勝負だということが最後にわかる。なにもかもできることはない、何するにしても時間切れで終わっているのである。


この辺は最近本当にめまぐるしく変わった。これほど変わるものかと信じられない変わりようだった。釣瓶落としの日だけどすでに津波と原発事故から一年半以上すぎた。その間の変化はすさまじかった。今でも自分は震災以来のかたづけができていない、本は散らかったままだしかたづけられない。その間に手術とかあり大変だった。本は整理しにくついのである。なぜなら本は物ではないのだ。中に書かれている文章が整理できないのである。これはあとで利用できるとか思うから整理できない、捨てることもできないのである。でも半分くらい本は捨てた。それで多少身軽になったかもしれない、それでも本が多すぎるのである。でも最近は効果的に引用するから全部捨てるわけにいかないのである。こんなこと書いてあったのかと改めて再発見するものが次々にでてきているのだ。本はそれだけ買っても読んでいないし忘れてしまっているのである。人間が忘れるというとき自分の書いたものすら忘れている。ホ-ムペ-ジとかプログですでに十年書いていても自分の書いたものを読み直してこんなことを書いていたのかと思い出しているのである。自分の書いたものすら他人が書いたものじゃないかとすら思うことがある。ええ、こんなことを書いていたのかと不思議に思うのである。


人間の交わりは淡い方がいいのかもしれない、人間は男女でも蛇のように交わる。しつこく延々と交わる。でも結局人間はいかに肉体が交わるでもそれも忘れてゆく、最後は何でも空の空蜷てしまうのである。だから淡い交わりの方がいいとなる。60すぎても枯れるということが今はない、どろどろとした欲望が蛇のように渦巻いているからそういう人と交わるのも嫌である。いづれにしろ人間は今や老いればどんな交わりもはかない、60年も一緒にいても死ねばその交わりも日々薄れてゆく、去る者は日々に疎しとなる。人間は誰しも無常の世を生きているのである。それは今回の津波とか原発事故でこの辺は現実問題としてみんな別に特別の人でなくても感じたのである。家族を何人も一挙になくした人は本当に言うまでもなくこんなことがあるのかと未だに思って納得がいかなくても現実そうなのだからどうにもならない無常に直面しているのである。


ともかく釣瓶落としの陽のようにこの一年半以上はまたたくまにすぎてしまったのである。


津波災禍
一年半過
釣瓶落陽
無常迅速

まさに無常迅速というのが本当に誰しも感じたことだった。