2012年10月14日

抽象画(海の紋章-続編)


抽象画(海の紋章-続編)

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海の都市


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海のミステリ-

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漂う生物?

これは脳の中心の維持とかにもなる。


抽象画は名前はどうでもつけられる。抽象画から抽象画が作られるのも抽象画だとなる。
それが具象画との相違である。だから著作権違反にもなりやすい。加工しないでくださいと
注意するのもそのためである。でも二次加工が証明できるのかどうかもわからない。
今回の明かに二次加工だから著作権としては危ないかもしれない
ただ抽象画から二次加工すると別な抽象画になりやすいのである。
海をテ-マにしたものと花をテ-マにした抽象画を作ったのでついでに出した。

労働の価値は労働してみないとその価値がわからない (料理することも運ぶことも労働だ)


労働の価値は労働してみないとその価値がわからない

(料理することも運ぶことも労働だ)

佐用共立病院(兵庫県佐用町)で女性入院患者=当時(85)=が肋骨(ろっこつ)を折られた事件で、傷害容疑で逮捕された同病院の看護師羽室沙百理(はむろ さおり)容疑者(26)が、動機について「患者が感謝の気持ちを示してくれなかった」などという趣旨の供述をしていることが12日、捜査関係者への取材で分かった。看護師として自信がなかった、とも漏らしているといい、仕事への不満と不安の矛先が、一方的に寝たきり患者に向けられた可能性がある。


この事件が何か突拍子もない、異常な事件のように見えたがそれなりに理屈があり通り魔事件のように全く理不尽なものとも言えないことが自分の経験からもわかった。
ずっとこの五年間家で介護しているから食事の用意をすることでそのことを感じた。
料理することと別室に料理を運ぶことが結構手間なのである。実際に食事がゆっくり余裕をもってできなくなった。お茶わかすにしても別室にもってゆくから手間になり自分の食事をゆっくりできないのである。別室で寝ていることはそれだけ運ぶ手間が必要になってくるのだ。

つまり料理をすること、運ぶことで二重の手間になっているのだ。だから自分の食事をゆっくりできない、食事の途中で立ったりすることが多いのである。食事もゆっくりできないことが何とも悲しいとなる。今までは三食用意されていたからだ。ただこれもつくづく自業自得だと思った。母も店をしているときゆっくり食事できなかった。店に客が来ると食事の途中でもしょっちゅう立っていたのである。母は自分の家では奴隷のように働かされてきたのである。それが今度は自分にふりかかってきたからしょうがないきとあきらめている。人間はつくづく他人が苦しんでいることが自分の身にふりかかってくる。この人は病気でかわいそうだなと思って自分は関係ないとその時は思っていてもみんなやはり病気になっているのだ。人間はもし誰かを虐待したり苦しめたら必ず自分も同じ目にいつかあう。それは生きている内にあう、死んでからではないのだ。


ともかく料理して運ぶから食べ残したりすると気分悪くなる。なぜせっかく料理して運んだのに食べ残しているのだ、贅沢だと思う。ただ病人だから違っているにしろそんなこと思ったこと今まで一度もない、相手のために労力を使ってるから食べ残したり感謝しないと不満になるのだ。それは金を払ったからといって解決する問題でもない、金持ちの施設で「オレは大金払っているんだよ、もっと親切にして働けよ、お前たち奴隷なんだよ」などと横柄に対処されたらいくら金をもらっても嫌になるし金持ち相手が嫌になったというのもわかる。料理して運び世話するということは相手のために尽くしていることでありそれがすべて金を払えばいいじゃないかでは人間の関係は成り立たない、働く方にするとそこに不満が生まれるのだ。これは看護師が患者に対して不満をもつのもわかる。苦労して嫌なことをしているのに感謝もないとか相手が横柄だとなると仕事する気にもならなくなる。
ただ一方で手術したばかりなのに手荒くあつかわれるのは患者からするとひどいな残酷だなと自分は思った。


人間は絶対にサ-ビスを受けているばかりだったら労働の価値がわからない、消費しているばかりだったら労働の意味もわからない、食料でも金があるからス-パ-に行けばいくらでも買える、金さえあればなんでも手に入るとなるが実際は食料でも誰かが手間をかけて作り出している、それが見えないことが問題なのである。ただ医療関係、福祉関係はあからさまに見えるから自分はこんなに苦労して尽くしているのになぜ感謝しないでこの人は横柄なのだとかなってしまう。それは介護でも同じである。なぜそれなりに苦労して料理を作り運んでいるのに食べ残したりしているのかとかなる。これは病人だからしかたがないが病人でなかったら家族でもそう思うだろう。


結局労働とは何でもそれなりに苦労するからその苦労することで労働の価値が生まれる。苦労もせずに何もかもできるなら何にも感謝しないし感謝しろとかならない、だから人間は自ら労働しない限り労働の価値も物の価値もわからないとなる。それは知的労働でもそうである。プログ書くにしてもそれなりに努力している。苦労して買いているところがある、でも実際は何の報酬もないのが現実である。つまり情報を与える方にならなければその苦労はわかってもらえない、ただ記者でも取材で死んだ人が結構いるからその時報道でも命懸けで知らせているのだと自覚させられる。その情報は命に変えて与えたものだとなりその価値を認めるようになる。


オレはこの料理を苦労して作ったんだぞ
そしてこうして運んできた
なぜ食べ残したりするのだ
なぜうまいと食べないのだ
買うにも金がかかっている
買い物でもそれなりの労力なんだよ
それだけじゃない、
この食料を作っている人の労力も大変なものだよ
だからこそ食料は無駄にしてはならないんだよ


相手が病人でなければこうなる。それでも日本などではゴミが出すぎるのだ。ゴミ出しに毎日追われているのだ。その中に無駄になった食料がありその量は日本全国になるとものすごい量になる。
人間は作り出すものの苦労がわからないとその価値もわからない、電気にしてもボタンを押すと使えるが実際は石油を運ぶのにどれくらい労力がかかり危険を犯しているかとか考えるとやはり料理して運ぶ労働とにているのである。そういうことが現代ではリアルに感じられないのである。

大工さんとか看護師とか医者には労働が目の当たりに見えるので感じるが他はなかなか感じにくいのが現代なのである。人間はただ与えられ消費するだけだったら人の労働の価値は何もわからないとなる。「働かざるもの食うべからず・・」というのは基本的にはあたっている。
食料を生産しなくても料理してそれを運ぶということ自体手間である。それは労働してはじめてわかることなのである。ただすべての労働が価値あるとは限らない、ブラックな仕事も相当この世にはありそれらが価値あるとはならない、そういう労働でも無価値な労働もまた多いのである。ただ蟻塚を築くために営々と働くということもあるのだ。無益な労働も膨大なものとなっているのだ。

posted by 老鶯 at 22:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2012年10月16日

秋の色(抽象画)

 


秋の色(抽象画)

 
 

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日本人の色の感覚は外国とは違っている、原色ではない、陰影あるものを好む
、白黒をはっきりさせないもの、あいまいなものを好むのだ、イエスかノーではない、それが日本の文化になっている。南部鉄器がヨーロッパで人気になっているというが原色の色ずけして欲しいと注文があったという、それでピンクとか緑色にした、でも南部鉄器は茶色の鉄の光沢がいいのである、地味な色がいいのである、でも外国では原色を好むのはやはり文化の相違なのである。

抽象画の見方はいろいろある、これは都会のビルのようにも見える、人によっても違う、それが抽象画の特徴である、見る人に想像させるのである。

南相馬市鹿島の墓地の謎は深い 南相馬市鹿島区の御子神社の脇の墓地で話しする


南相馬市鹿島の墓地の謎は深い

南相馬市鹿島区の御子神社の脇の墓地で話しする

 

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南相馬市鹿島区町内の墓所の宝永の碑

http://musubu2.sblo.jp/article/36445497.html


木下の墓はこの裏ににあった

光明真言を唱えつつ大師堂に向かいます。
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどまじんばら  はらばりたや うん」
(移動のとき光明真言を唱えるのは有縁無縁の霊魂を供養するため)


空海の密教の祈りの塔だった。これは随分立派な塔だと思った。これが自分の墓のある場所にあったことを知らなかった。。神宮寺跡ととあるから寺があったところであり墓地ではない、その寺がなくなりそのあとが明治以降墓地になったのかもしれない、宝永四年は1707年だからこれは古い、それから今日の発見は天保の小さな碑があったことである。これには気づかなかった。余りにも小さいから気づかなかった。でも天保とあるから確かである。ただ刻まれている文字が不可解なのである。


これが何を意味しているかわからない、その碑を発見したのはまたいつもの八九才の自転車に乗っている老人が墓にいたためである。なぜ墓にいるのかと思ったら墓を調べていたのである。あの人はそれなりにかなり鹿島区の昔を調べていたのである。自分も墓を調べていたから二人で墓を調べることになったのである。墓は江戸時代は粗末な石で作られていて砂岩だから崩れているというのは確かである。いい石では作られていない、今の墓石はほとんど中国から来ている。御影石とかだからいい石である。そういうことをその人は指摘したしあの大きな宝永の碑も崩れやすいものだが崩れていない、それにしても一枚岩でありどうしてその当時これだけのものを見つけて運んだのか、どこから運んだのかとか話しになった。あれだけのものを運ぶことは当時は容易でない、相当に人数を集めた大がかりなものになったことは確かである。

この墓地でわかったことは宝永(1707)の碑-天保(1830)の碑が発見されたのだからその間にここは何だったのか?墓地だったのか?そうでもないかもしれない、天保の碑は墓だとは限らない、何かのおまじないとか何か人が死んだから建てたものとも違う感じなのである。すべての碑が墓とは限らない、墓は墓としてそれなりの形がある。古いの五輪塔である。墓地にあるから墓とは限らない、宝永の碑は密教の祈りの碑であり墓とは関係ないのだ。ここが墓になったのはいつなのかというのは定かではない、江戸時代なのか明治以降なのかわかりにくいのだ。墓がこれだけ増えたのは明治以降なことは確かである。多くの墓は明治以降一家の墓となって増えたからである。


その89才の老人はしきりに平民と士族、侍は言葉が違っていたとかサルスベリの木のことか侍でないものは庭に植えてはいけないとか植えなかったとか言っていた。つまり明治以降大正まで士族と平民は江戸時代から身分がつづいていたのである。だから「おんなれ」という言葉を使う侍の子孫がいて士族の家ではまだその言葉を使っていたのである。ただこの「おんなれ」が何を意味しているのか?
御なれ・・であり御成りのなまったものかもしれない、侍では客をを来ることをそういうっていたかのかもしれない、何か平安時代の古文にあるような古い言葉がかえって辺境に残っているのも不思議である。沖縄と青森に残っている。

「てぎ」→「面倒」の意→「大儀」(漢語の転)
「ほいど」→「強欲、けち」等の意→「陪堂(ほいと:現在の共通語ではあまり使われない仏教用語。物乞いのこと)」(漢語の転)


今から1000年以上前に詠まれた和歌に、東風(コチ)という言葉がある。
これは今でも、沖縄では東風平(こちんだ)という名前や地名に残っている。

南風を「はえ」と読むのも、日本の古〜い読み方。


トンボのことは「あきじゅー」とか「あーけーじゅー」と言うが、日本古語で
トンボは「あきつ」と呼ばれていたそうだ。

妻のことは「トゥジ」と言うけど、これも古代語の名残りらしい。
http://aimori.ti-da.net/e2581335.html


沖縄は本土に比べると地理的、文化的にも特殊な環境にあり、隔絶されていた面がありました。ですから一度伝わった言語が本土と同じよう
には変化せず、そのまま残っている
http://www.mugisha.net/hougenhusigi.html


東風(こち)吹かば・・・のコチである。こちらとかあちらとかの言葉がありこちらに吹いてくるからコチとなった。確かに青森と沖縄はまさに辺境であり平安時代の古語が残った。日本人の貴族が最初に入って言葉を残したのだろうか?言葉から歴史を探るのもかかせない、方言はまた土地の歴史を如実に語っていることがある。「トゥジ」とは母刀自(ははとじ)と万葉集にあり妻のことで戸主のことであった。

刀自(とじ)」という言葉。ご母堂は「徳」という名前なのですが「徳刀自」と出てきます。何という奇妙な名前なのだろうと思っていたら、甚與茂氏の夫人も「はる子刀自」と出てきて・・・
http://www.miyamoto-net.net/column/talk/1220436131.html

弘前「んだねは」 五所川原「んだきゃ」 ・・東北ではうだ、んだはどこでも使っている。東北人の土着的古語である。うんにだがついたのだろう。面白いのは相馬ではうん、んだであるが仙台ではだっちゃになる。ところが丸森ではその人は方言をあまりしゃべらなかったが病院で一回だけうんだっちゃという方言を使ったのである。んだ-んだちゃ-だっちゃとなり丸森は相馬と伊達の境にあったからこの方言が生まれたのである。方言にはこうして地域性があるのだ。言葉は江戸時代のような閉鎖的な生活の場合は隣村ともなまりが違っていたのである。交流しないと標準語などうまれようがなかったから江戸時代はなかなか旅しても土地の言葉を理解するのがむずかしかったろう。


その人はまたチャ-チャ-は爺(じじい)のことでありその言葉を使っていたのを聞いたという。調べてみたら爺爺(チャ-チャ-)駅というのがあったのだ。


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国後アイヌからチャチャと崇拝と親しみを受けた山らしい、その端正な姿は知床からも見ることが出来ます。私も知床峠から美しい爺々ヌプリをみた一人です。文字通りアイヌ語でチャチャヌプリはおじいさんの山という意味です。


するとアイヌ語というのを東北でもこの辺でも使っていたのかとなる。チャ-チャ-などとおじいさんを言わないし聞いたことがない、これも不思議だと思った。でも明かにそんな言葉を使っていたことはアイヌ語が東北にそれも福島県などにも残っていたのかとなる。日本全国の地名をアイヌ語で説明することは一時なされたが今はほとんど否定されているがこれは謎である。


ともかくその人はかなり土地のことを調べている。虐殺された鎌倉時代の岩松氏のことも知っていて殺した方の子孫らしい、四人の家来がいたが一人は名字を変えたのである。恐れたためでありあとあとまで祟りだとかこの辺では恐れたのである。400年前とかの話でこの辺で明確に残っているのはこの事件のことである。子供まで殺されたので一族が皆殺しにあったので記録にも残り伊達政宗などもそのことを知っていた。この辺では大事件だった。だから今日までその影響があるのだ。名字を変えた子孫も残っているからだ。


身近な所では木下家の墓があったことである。これは自分の家の近くにあり自分の家も木下材木店が請け負い、材料を提供されて建てたものである。ただそれも40年前となっている。その後にすぐに木下材木店は倒産した。そこで倒産した跡に自分が行った記憶がある。社長室とある看板が家が壊された跡にあった。倒産してからは夫婦は団地かマンションなのか住み込みの管理人になったとかいろいろ言われた。そこの墓碑を見たら三人死んでそこに埋まっていた。63才と73才で死亡と記されていた。それは政と名前についているからまちがいない、父親も政とついていたからその字をもらったのである。これは三人しか名前が記されていないから一族みんながこの墓に埋まっているわけではない、ただ故郷に墓だけ残っているのが結構あるのかもしれない、自分の原町の実家の墓も実家はなく墓だけしか残っていないのである。ともかく事業に失敗する人は無数にある。一家離散もありめずらしくもないのだ。そういうことは今でも日常的に起きている。自分の実家の家時代も機織工場を起こして倒産してその子供が一家離散とかになり悲劇を生んだのである。その責任は警察所長をしていた父親にあった。慣れないことをして会社経営したからそうなった。経営の失敗している人は無数にある。自殺している人もその中でかなりの数だろう。ただ今や木下材木店を覚えている人はまれだろう。
60代の人は覚えているだろう。自分は忘れていたけどここに墓があったというので驚いたのである。墓はやはり人が死んでもそのあとも残っているのである。


木下と墓のみ残り跡絶えぬ故郷の墓地秋の日暮れぬ


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天保の碑は明日写真に出します

posted by 老鶯 at 21:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2012年10月17日

南相馬市鹿島区の町内の墓地の碑の謎


南相馬市鹿島区の町内の墓地の碑の謎

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不詩朗謡


不詩(文)朗謡-朗詠

朗謡-朗詠・・・暗唱
詩に文にせず暗唱せよ
謡(うた)いなさい


これもなぞである。最後の字はわかりにくいが不詩朗は読める。朗は名前だと思ったが違う。
朗謡-朗詠かもしれない、ただこれが何を意味しているのかわかりにくい、詩にしないで朗詠しなさい、暗唱しなさいなのかとなる。詩文にしないで暗唱して覚えなさいということなのか?
推測すると天保となるとまだ庶民では字を書けたり読んだりできる人はまれだったろう。
字が書けたり読むことが普及したのは江戸時代後半、特に幕末辺りに寺子屋が増えて読み書きができる庶民が増えたのである。ここは一つの寺子屋のような役目を果たしていたのかもしれない、暗唱することに学びの重点があったからこのような戒めの碑を建てたのだろうか?他に儒教が普及してそうした戒めの碑がほかにあったようだ。


何らかの戒めとしてここに碑を建てた。ここはだから寺であった。この碑を建てた時、神明寺という寺になっていた。ただ寺でもここに墓があった、墓地になったともいえない、なぜならここは武家の墓がなく庶民の墓であり明治以降に増えたのである。武家の菩提寺が寺だとするとここはそうではない、ただ最初は神社であり次に寺になりそのあとに寺がなくなり幕末辺りに庶民の墓が作られた。
庶民の墓が砂岩で作られていたからである。庶民が墓を作れるほどの財力をもったのは幕末である。天保辺りではまだそれだけの力が金をもつことはまだこの辺ではできていないはずである。


鹿島町誌に鹿島御子神社は神主青田六之頭御奉行・・・小奉行桑折・・青田・・導師長命寺別当神宮寺とある。青田とか桑折の姓は相馬藩では古い。ここは神社であったがあとに寺の領域になったのである。


元禄一五年、戸数元禄(1689)-享保(1716) までは二四〇戸あったが天明(1782)になり百三九戸に減った。天明の飢饉の影響で半分に減ったのである。天明山と相馬市の近くにあるのは飢饉の影響でそこに碑を建てたのが由来かもしれない、


天明の大飢饉で相馬藩の農業は壊滅的打撃を受け、農民の数も減ってしまった。時の藩主は他国の農家の次男、三男を移民させて農業の復活を図ろうとし、諸国に声をかけた。その呼びかけに呼応した富山の農民達は、門徒宗僧侶の導きのもと厳しい監視の目を盗んで国抜けし、相馬を目指して数百キロの辛い旅に出た
http://musubu.sblo.jp/article/14814569.html


この時から越中などからの真宗の念仏を唱えるものが移住して墓を残したのである。

鹿島村が発展したのはやはり街道沿いにあったためである。もともとは田中城とか岩松氏の屋形とか江垂の中館が中心であり鹿島村は街道ができて発展した。原町もそうであり原町村で武家が一人しかいなかったことでもわかる、文字通り原っぱだったが街道ができて発展した。その証拠は原町市内とか鹿島町内から野馬追いにでるのは極めて少ない、一軒くらいしかないのである。それは原町市内でもそうだし相馬市内でもそうである。相馬市内だと城があったから城づめの侍の子孫が残っているようで残っていない、野馬追いに出る家はまれである。郷士が多かった相馬藩では農家から村から野馬追いに出る人が多いのである。
posted by 老鶯 at 10:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2012年10月19日

野菊(大根の味噌汁を作る)


野菊(大根の味噌汁を作る)



朝日さし野菊の映えぬ山の墓所


橲原(じさばら)や薊に野菊柿なりぬ


夕暮れに芒なびきつ鮭上り鴎飛びつつ海へ帰りぬ


ふつふつと大根煮えて味見する秋の夕餉や我が料理する

大根はあまり好きではないが何もないので味噌汁に大根を切って煮た。なかなか煮えなかった。そして味見するとうまかった。まだ大根が新鮮だからうまいこともあった。野菜は古くなるとうまくなくなる。農家だととれたての野菜を前の畑でとって食べるからうまいとなる。自分の家で食べるのは農薬を使わないらしい、自分の食べるものだからそうなる。他人が食べるとなると別に農薬が入っても気にしないのである。農家の人だったらそんなことが当たり前でありった。燃料すら裏山の薪を使っていたとするとほとんど自給自足で生活していた。その生活はただ買って作られたものを食べているより充実した生活となる。大地とのじかのつながりも体で感じていた。それは自分の言うような理屈ではない、体で感じていたのである。だからそういう自給自足の生活は今のような消費するばかりの生活より内容は充実していた。ただ昔はただ貧乏なのだけだよ,今豊だからこそそんなののんきなことを言っている。食うや食わずでありもう働いてくたくたになるが満足に食えなかったんだよとか常に言われる。現実そういう時代に生きたものはそうなるのだろう。

ただ今でもサラリ-マン的生活と農家の生活を比べると退職した人をみるとわかるけどサラリ-マンは何かわびしい。やはり生の充実感に欠けていたのだろう。サラリ-マンの哀愁は退職したとき一番感じるのである。一方農家の人は生涯現役であり85才の人でも仕事をしていて体に力がまだ満ちていた。サラリ-マンの人は退職すると同時にあらゆるアイデインティティが喪失して元気なくなるのである。農家の人は大地とのアイデインティティをもちつづけるから年とっても体に張りがある。サラリ-マンは張りがなくなる。体を姿勢もその人生の結果としてそうなってるみたいだ。心だけではない、心も体に影響するし体も心に影響しているのだ。人生の結果としてそういう姿勢に体になるともいえる。すべてではないがサラリ-マンの姿勢とか体つきとかやはり農家の人や肉体労働者とは違っている。ただ現代は農業の跡継ぎがいないとか金にならないからやらないとかなるが人生の結果として考えると人間はやはり仕事が人間を作るということがある。サラリ-マンなどになるなと作家が言うときそのことなのだろう。人生の結果としてはサラリ-マンは例え安定しても年金をそれなりにもらえても充実した生であったかどうかわからない、そうでない場合が多いということである。

それは理屈ではない、結果として事実として体にまで現れるのが老人なのである。農家の人などは
やはり老人でもサラリ-マンとは違って態度にまで体にまで現れているのだ。

ただ60代とかなると信じられないような人間に変わっている。今回の家族の中に入って六人も殺害したという女性も64才だった。10年前からその犯罪に手を染めていたにしろそういう信じられないような極悪な人間に変質する。これが子供のときや若いときと同じ人間なのかと本当に思うだろう。

人間は悪い方に変わるものはそれだけ変わってしまう。とくに現代は金だけを求める人が大半だからそういう人間が極端化すればあのようにもなる。いくら特殊な事件で考えられないとかいうけど事件は必ず現代を反映しているのだ。金の亡者となっている人はいくらでもいる。それが極端化するとあのようなことにもなりうる。特に家族の中に入る人ほど危険なものはない、家族の弱みにつけこまれ家族が崩壊する。そういう経験をしているから人ごとでもないのである。家族が弱った時そういう人間が入りこみやすいのが現代なのである。


今年は芒が風になびいてきれいである。草ぼうぼうになり芒が生えたままで切らないからだろう。田んぼも草ぼうぼうになっている所がありそこに芒がなびいている。芒は一面になびく光景は美しい、最近身近で芒がこんなになびいている風景を見ていない、やはり現代は田んぼはあっても自然が変えられているそうなっていたのだ。鮭も上ってきた。秋らしい光景であり秋も深まってゆく、橲原は鹿島の奥座敷である。あそこの山の墓に朝日がさし野菊が映えていた。田んぼがないのは淋しいが放射能でも水自体は何ら汚れていない、透き通っていてきれいだから何かその点見ている限りは何か変わったという感じがしないのが放射能被害だった。ただヤマメとかいるけど放射能を蓄積しているから食べられないというだけである。ヤマメなどはあまり食べていなかったから別に食べなくてもいいのである。ただ柿が食べられないのは淋しいとなる。農家の人は自分の田畑でとれたものを食べていたのだから残念だろう。食欲の秋、味覚の秋もそこなわれてしまったのである。


 

2012年10月23日

鎌倉俳句(秋から冬の連句) (大仏殿は津波で流されていた)


鎌倉-俳句(秋から冬の連句)

(大仏殿は津波で流されていた)


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波にゆれ伊豆七島や秋の海

鎌倉に五山の門や秋深む
杉古りぬ八幡神社や秋深む
鎌倉や虫の音繁く五輪塔
また一つやぐらに散りぬ木の葉かな

五輪塔名だたるものや秋深む
・・・・・・
江ノ電に修道女乗る冬の暮

大仏は忍辱(にんにく)の相や冬深む
冬の雨打たれて大仏黙すかな
内に秘め大仏剛く冬の月
大仏の沈黙深し冬日没る
鎌倉に武士(もののふ)眠る冬の星
宋へ行く船の沈みぬ冬の海
鎌倉や血で血を争う冬の海
冬の灯や鎌倉彫の店屋かな
野ざらしに大仏残り冬の空
度々の災害にあう大仏や日本の国の柱ともなる
耐えてこそ喜びのあれ大仏のひたすら黙して秋深まりぬ


鎌倉というときどうしても歴史を知らないと俳句にも短歌にも詩にできない。鎌倉に残っているのもは意外と少ない、一番目立つのは大仏である。他にも五山の禅寺があり重厚な威厳のある門がその歴史の重みを伝えている。


鎌倉大仏の津波被害を忘れるな
http://www.slownet.ne.jp/note/detail/201104132353-3000000


日本における曹洞宗の開祖、道元が中国から帰朝して二六年目、建長寺が建って四年目、いよいよ禅宗が広まった。のちの高徳院は極楽寺に属してその寺の忍性菩薩によって供養されていた。


鎌倉の災害史
http://blog.livedoor.jp/kikurotakagi/archives/3046972.html


鎌倉は海に面しているから大きな津波の被害がありもともと屋内にあったものが露仏になってしまった。そのあとも度々地震や災害に見舞われた。日本はいかに災害の多い国なのか今回の津波でも再認識された。鎌倉は特に地形的に災害にあいやすい場所だったのである。日蓮が布教した時も日本は元寇があり国内では災害があり立正安国論が説かれた。それが今の時代とにていたのである。中国からは攻められる国内では津波の大災害で苦しむ、原発事故で苦しむとかにているのである。日本はともかく地震や津波の災害が絶え間なく襲ってくる国であった。このことが意外と見逃されていたのである。もし日本のこの災害史を歴史をふりかえればとても原発などつくりえようがないのである。大陸では地盤が安定してし地震が少ない、韓半島でも大陸とつながっていて地震が少ないのである。日本は世界でもいちばんの地震国であり海に囲まれているから津波国でもあった。そういう歴史が忘れていたのというのも日本人は忘れやすい民族だともなる。


鎌倉というとき生々しい歴史の舞台であり凄惨な権力争いの場所だった。熾烈な権力争いで死んだ武将が数限りない、その名前も氏も明確
である。和田一族などは有名であり他にも名だたる武将が五輪塔として残っている。だから歴史を探ればその名前も明らかになりたどれる。平泉は三代でその栄華も終わり何度訪ねてもどんな武将が生きていたのか明確に浮かんでこないのである。東北の子孫をたどれば鎌倉時代に陸奥に移住した鎌倉の武士が明確な氏として名前として残っている。南相馬市鹿島区の岩松氏の伝説は有名である。家来に一家惨殺されたので伝説として語り伝えられたのである。
その岩松氏も鎌倉の出なのである。その時の信仰もここにもたらされた。古代にはどんな人が住んだかわからないが鎌倉時代になると明確にその先祖の氏が歴史に記されているのである。


鎌倉で象徴的なのが大仏なのだけどこれはやはり奈良の鎮護国家の大仏とは違う、武士のスピリットから作られたものである。鎌倉時代は武士のスピリットから革命が起こり宗教でも質実剛健な文化が生まれた時代である。それは京都の平安仏教とは性格を異にしていた。丁度ゲルマン民族のゴシック聖堂を作った新たな宗教が起きたのである。武士の質実剛健な文化なのである。禅宗が座禅を重んじるときやはりこの大仏は座禅しているのであり沈黙している。これは阿弥陀如来とかいうがやはり禅宗系統の仏である。忍性菩薩の具現したものともいえる。鎌倉というと今や観光地であり何か騒々しいのが嫌である。浮ついた感じの場になってしまった。これはどこでもそうだが本来観光地ではない、厳しい修行の場所だった。それがどこでも失われて僧侶はただ観光のために見学料をとる人となりさがった。誰も厳しい修行などしていない、京都でも観光の場であり信仰の場所などではない、いくらでも金は入ってくるから堕落したのである。もともと江戸時代には武家の菩提寺となり武家に所属するものとなり戒名をさずけるだけのものとして堕落していたのである。寺でテラセンなどと博打場になっていたのだから押して知るべしである。観光となると遊興の場と化したとにている。


ただ時代的な文化遺産と大仏の姿は厳しく威厳を残している。露仏となった結果かえって自然を反映するようになったから不思議である。より自然を反映するものとしてふさわしい。それでこういう俳句なども作れたのである。大仏は正に忍辱(にんにく)の相であり忍性菩薩にふさわしい、そこには深い沈黙がある。だから冬にふさわしいのである。現代の雑音が観光という名目で押し寄せてくるが以前としてやはり鎌倉時代に作られた今にはない厳しさ、沈黙が大仏にはある。鎌倉の中心はまさにこの大仏であることには変わりがない、ただ鎌倉の歴史をふりかえるとき本当に権力争いの典型的な修羅場であり陰惨な暗さに満ちていたのだ。その象徴が実朝の若き死だったのである。まさに血を血で洗う、争う場所だった。歴史をたどればそこには生々したそうした凄惨な争い、殺戮の場所だった。だから鎌倉は暗い場所であり冬に訪ねるのにふさわしいのかもしれない、冬の海に象徴される場所でもあった。宋の国へ実朝が船で行こうとしたのも打ち砕かれた。港だった和賀江嶋は海に沈んだ。ただ跡形もなく冬の海が広がっている。鎌倉は海に面しているのだから海でも象徴される場所だったのである。自分は韓国の旅を終えて九州から鎌倉の海に帰り伊豆七島を望んだ。その時の海も荒れていたのである。


大海の磯もとどろによする波われてくだけて裂けて散るかも


この歌に鎌倉が象徴されていたのだ。さけてちるかも・・・一族が引き裂かれる、家族が引き裂かれて北条氏に源氏の裔は断たれたのである。常に海に面していたからこの歌ができた。これは冬の海なのである。その後の争いも冬の海として象徴される。

やはり鎌倉となるとより東北でも歴史が身近になる。関西になるとどうしても遠すぎるのである。だからなかなか歴史をさぐるのがむずかしいのだ。歴史を知るには何度も訪ねないとわからないからだ。今や遂にどこにも行けない身になった。これも自分の人生の結果なのかもしれない、なぜなら自分ほど旅行しつづけたものもなかったからである。今や狭い郷里の牢獄に閉ざされたと同じである。
電車も二輌の電車であり交通も閉ざされてしまった。ただ思い出す旅があるだけなのである。


いづれにしろ津波で大仏殿が流されていたということをあの大仏を見て意識する人はあまりいなかった。多賀城市の末の松山の歌も今回のような巨大津波から生まれたものとして東北でも深く思っていなかった。今回の津波でつくづく津波のことを記念したものだったことを思い知らされたのである。

再びの大津波にみちのくの末の松山秋めぐりきぬ

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2012年10月25日

秋薔薇(二両の電車は落ち着くな・・・)


秋薔薇(二両の電車は落ち着くな・・・)


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秋薔薇二両の電車今日も行く
秋薔薇二両の電車待ちにけり
和が知りぬここに咲きにし秋薔薇
我が知りて我また見に来ぬ秋薔薇
秋薔薇一輪散りてまた咲きぬ
いつくしみ心を寄せる秋薔薇
寂けさや月の照らしぬ秋薔薇
動かざる石の静けさ秋薔薇
秋薔薇ここに今年も咲きて散る


相馬-原町間の二両の電車は前とはずいぶん違ったものと感じる。常磐線は単線でも東京とつながっていたし仙台までの通勤電車となっていたから原町から仙台までは八両の電車だったし東京までス-パ-ヒタチの特急も走っていた。八両と二両の電車は相当に違っている。それもたった二つの駅しかとまらないからなんとも不思議なのである。これだけ短い路線は全国でもないだろう。
関西とか富山辺りでも私鉄がありこれと多少にているがたった二つの駅しかとまらない私鉄はないだろう。こんな電車だとおもちゃのようにも感じるしまず急ぐことはない、八両の電車は東京と仙台に通じていたから結構追われるという感じがあった。ロ-カル線でもやはり電車でも追われる気持ちがあったのだ。東京辺りだと常に心は追われて落ち着かないのである。車は別に同じ様に走っている。六号線見ていると長距離のトラックは走らないから違っているけどそれほど量は減っていないし前とさほど変わりないのである。


つまりここで感じたことはいかに人間が交通に心が影響されているかであった。二両の電車になったからたいして変わりないと思うが心の面では随分違ったものとなっていたのだ。それも二つの駅しかとまらないのだから全く急ぐ必要もない、なぜなら次は終点になっているらだ。途中で急いでおりるということはないのである。そうすると落ち着いて乗っていられる。これだけでもずいぶん落ち着いたものとなると思った。だから芒がなびき秋の陽が山に落ちてゆく自然に溶け込むのである。
駅前の庭に秋薔薇が咲いているけどそういうのにもあうのである。これも不思議な経験である。

この辺で起きたことは本当に不思議なことばかりだった。こんな経験をすることは本当にないと思う。まあ、家族が津波で死んでいないからまだのんびりしているのかもしれない、家族を亡くした人の傷痕は深くまだつづいている。原発でもここは避難することもなかったからそんなに被害者意識がないのかもしれない、かえって補償金もらって喜んでいる人もいるくらいからだ。


ただ聞いた話では五年は米を作れないとなるとこれは長いと思った。なかなか復興というのも原発被害地域は長いのである。常磐線も仙台まで通じるのは三年後なのか五年後なのかわからない、常磐高速道路は二年後である。高速道路は景色として見ていないから何か車のないものにとってはあまり関係ない、具体的に何か変わったことを感じられないのである。車をもっている人と持っていない人の生活感覚は大きいのである。車をもっている人は電車も余り利用しないからこんな感想をもたないだろう。この辺は冬でも雪がふらないしあたたかいから自転車で買い物に行ける。でも会津辺りだと中通りでも寒いし自転車で買い物に行くこすらできなくなる。だから気候的にこの辺は恵まれている。車がなくてもなんとか生活できるのである。


ともかく老後はせわしいのは嫌になる。自分の性格は全く都会向きではなかった。人づきあいも悪いし石のように黙ってじっとしているのがいい性分だったのである。この性格は母とにていた。母も耳が遠くなって何もしゃべることも聞くこともない、話すこともない、耳が聞こえなくなったからというよりそういう人ともつきあわない性分だったのである。つくづく母親の性格とにているなと思っている。ただ東京でよく人が暮らせるなと思う。ゆったりした気持ちになれない、電車に乗って座ることもできない、いつも何かに人に物に機械に追われている、そんな生活は本当に地獄でありそんなところに幸福などありえないと思う。若いときならいいが年取ったらいくら性格があるとしてもみんなそう思うだろ。老後は落ち着いてゆっくりと田舎で過ごすのがいいとなるのが普通である。


電車の旅が長かったから電車には興味がある。電車にも実際はいろいろあったのである。こういうロ-カル線は一両の電車は北の果て稚内とかで通っていた。あそこも本当に乗る人は普通でも極端に少なかったのである。そういう電車にのったことは記憶にありそのことを書いたりしたのである。

秋薔薇はやはり何か落ち着く晩年にふさわしい花である。晩年は庭作りとか花の鑑賞とかに向いているのだ。
放射能でも花は咲いているから鑑賞できるのである。

 

2012年10月26日

語る文化が見直される (人間回復のために江戸時代への回帰が求められる時代へ)


語る文化が見直される

(人間回復のために江戸時代への回帰が求められる時代へ)

●語ることは何なのか?


語ることは何なのかなど問う人はいない、毎日語っている、しゃべっているではないか?今さら語ることがなんなのだとなる。ところがメデアがこれだけ多様になり急速に発達した結果、江戸時代にあった語る文化が喪失していたのである。江戸時代までの伝承は小さな村でも語ることであり語り伝えることである。身近な家のことでも語ることでしか伝えられない、それで膨大な民話が残された。
しかし今や家であれ村であれ語るということができない状態になっている。語る場所もないし語る時間もないのである。メデアの発達で膨大な情報が日々入ってくる。その情報にも追われるのが現代である。本も書いためたが膨大で家が傾くほどの本が集積していた。そしてなお本を買い続けている。今度は書店はほとんどいかない、アマゾンで配送料無料になったから買う本がまた増えたのである。例えば鎌倉を知りたいというときどうしても手元の本だけではたりなくなるからもっと詳しく知り多たいとなり鎌倉について文章を書いていると必ず参考になるものが必要であり本を注文する。そしてまた本を減らしてもふえてゆく。ただもう年だから読めない必要ない本は捨てているから半分くらいにはへる。人間が情報を処理する、読める本はつくづく限られている。今は自分の文章を書くために引用するために今まで読んだ本を参考にしている。もう本を読むのは限界なのである。でも自分で文章を書くときどうしても参考にせねばならぬものがあり本には濃密なプロの書いたものだから引用する文が発見されずある。何回か読んでも忘れていたのである。


江戸時代まで語りの文化だったというときその原因は文字を読み書きできない人が多数だったからである。これはヨ-ロッパでも同じである。聖書を印刷してみんなが読めるようになったのはルタ-の宗教改革以降である。一六世紀以降だからそれまでは聖書は聞かされても庶民は読んでいない、教会に行って聖書やキリストの事跡を絵で教えられたりしていたのである。文盲が多いというときどこでも語りとか絵や建築など具体的なもので教えを伝える。仏教でも仏像は偶像になるけど仏像を通して仏の教えを伝えることが普及させた。仏像はただ大きいものだったら意味がない、そこに精神的なものの象徴として具現化されているから心ひかれる。鎌倉の大仏が忍性菩薩だというときひたすら耐えている姿が仏像から浮かびそれに習うということがある。相馬市の日立木の仏像は明治以降作られたもので大きいのだが何か精神性が感じられないから文化財とも言えないのである。だから仏像は拝むべきものではない、その精神性をくみとり習うものであり神のように拝むべきではないのだ。日本人はあらゆるものに拝みすぎるのである。それは偶像崇拝につながっているから危険なのである。


昔の文字の教育はほとんど京ばかりで僧でも田舎にいる者は暗誦が仕事であった。はるばる九州から豆を背負って学問しにきたとうい話しもあり地方にはその機会が至って少なかった。聴衆は物語の愛好者であったけれどもやはり上下を通じて皆一種の盲であって写本の必要なかった点は語る座頭も同じだった。(柳田国男-雪国の春)


語るということを最近自分自身が再発見したのは自分の墓のある墓地で天保時代の碑を発見したことである。それは同じ故郷の八九才の人とともに偶然発見した。自分の墓のすぐ近くだったが気づかなかった。なぜならそれが誰かの墓だと思っていたからだ。しかしそれは違っていた。ここがもともとは隣が鹿島神社になっているごと神宮が神宮寺となったのである。天保時代はここは寺だったのである。そして不詩朗謡と四文字が記されてあった。これは墓ではないここがもともと寺でありそれで寺子屋の役目を果たしていて戒めとして記されていたらしい。朗謡は朗詠であり暗唱のことであり詩文とせず暗唱せよという戒めを記していた。でもなぜそんなことをいちいちここに碑にしてまで記していたかということになる。それはやはり仏の教えであれともかく暗唱することが第一とされた。そもそも文字を書けない読めない人が多いというとき暗唱することが学ぶことの第一になるからだ。

江戸時代の文化は伝えることはほとんど語ることである。それは江戸でも落語があり村では民話が残っている。それらは書かれたものではない、語られたものなのである。膨大な民話は今は書かれたものとして読んでいるが実際は身近な人によって語られたものである。もちろん本で読んだりしない、本そのものが村にはないからだ。語り伝えられたことが代々伝えられて残ったものである。
江戸時代の情報環境は田舎だったら本もない、語られたものからしか知ることができない、だから語り伝える人が遊行して語り伝える人が生まれた。この辺の宝財(ほうさい)踊りなどに浄瑠璃があるのはこれも大阪などから語り伝える人が来たから伝わって祭りとして残っている。事件でも物語でも遠くのことは語り伝えることがなければ知り得ようがない時代だったのである。
田舎にいる者は暗誦が仕事であった・・やはりこの碑の意味は暗誦しろということであった。それが学ぶことであり知ることだったのである。


南相馬市鹿島区の町内の墓地の碑の謎
http://musubu2.sblo.jp/article/59292470.html


●盲人の琵琶法師から始まった各地への語りの伝播

 


盲僧が琵琶を弾くようになるのは、任明天皇の子人康親王が盲目となり、ほかの盲僧にも琵琶を教えるようになって以来といわれている。鎌倉時代初期には、そのような琵琶法師が多数存在していた。
江戸時代の日本には眼病が多く、盲人の出現率も高かった。

 痘瘡や栄養失調で失明する者が多かった。鎖国直前に来日した宣教師フロイトは「日本人の多くのものが痘瘡で失明する」(『日欧文化比較』)と語り、幕末に来日したポンペも「世界のどこの国をとっても、日本ほど盲目の人の多いところはない」(『日本滞在見聞記』)と語っている。
 盲人が多かったこともあり、彼らは当道(検校・勾当・座頭)といわれる集団をつくり、盲人同士の相互扶助と生活保護の連帯社会を形成していた。按摩業はこの組織によって支配され保護されていた。
 それにたいし貧しい盲目の女性たちが生きるためにつくっていた集団が瞽女はうら悲しい女旅芸人というイメージがある。「瞽女」とはむつかしい字であるが、瞽は盲目のこと、御前に仕えるという意から「御前」という字も当てられている。広重と豊国はこの「雙筆五十三次」の「舞坂」
で、瞽女の一行を描いている。


立川昭二『生と死の美術館』岩波書店2003年
・¥世界大百科事典内の目星の言及

・【目‖眼】より

…これは劣悪な栄養と過酷な労働に起因して発生した。このほか病目(やみめ),はやり目といわれる急性・慢性結膜炎,ただれ目といわれる眼瞼縁炎,星目,目星といわれるフリクテン,打目(うちめ),突目(つきめ)などの外傷,あるいはものもらい,目いぼといわれる麦粒腫,それにトラコーマ,虹彩炎,翼状片,緑内障,弱視など,江戸時代の眼病は多彩をきわめていた。また江戸時代にはおよそ7万5000人以上の盲人がいたといわれ,疫病や栄養失調のために失明し,彼らは当道(とうどう)や瞽女(ごぜ)などの集団を形成していた。…
・※「目星」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

・医学者のツルンベルクは『日本紀行』の中で日本人に眼病(赤眼、爛眼)が多発している原因を炭の煙(;囲炉裏の薪炭の燻煙)と便所(トイレ)の臭気・悪ガスにあるとしています。

また幕末の安政4年(1857年)から文久2年(1862年)まで在日したお雇外国人医師のポンペも日本人に眼病がきわめて多いことを指摘、『日本滞在見聞記』で長崎においては住民の大体8%が眼病に患っているとし、日本人に盲人が多いのは治療法の誤りにもとづくものであるとしています。
http://www.tpa-kitatama.jp/museum/museum_46.html

 


一〇人に一人くらい盲人がいたということが琵琶法師など語り伝える遊行の人が増えたのである。これは最初は仏教の無常を教える布教者ともなっていたがあとはただ語るものとなっていった。 この琵琶法師で相馬市の病院で新地の人がしきり琵琶転がしという地名があるということを言っていた。山の方にありやはり険しい道だからそんな名がついた。牛転がしとか道の険しい場所は危険だからそうなる。たしかに転げ落ちるということは道が狭いから目撃する人も多くいてその名がついた。ただこの辺にもそんな伝説が伝えられていたことに驚いた。岩松氏一族惨殺も鎌倉時代だからこの辺に琵琶法師が来ても不思議ではない、これは別に地名にのっていないから話しとして伝えない限りわからなくなる。その人は自分で土地のことを調べていた。ただなかなかそういうことを話す相手がいないということがあった。そういうことに興味を持つ人が近くにいるとは限らないからである。ただこの辺でも八〇才以上の人はそうした語り部としての素養をもった人がかなりいることに気づいた。自分があった八九才の人もそうであり病院であった老人はたいがい何かを語り興味深いものだった。病院という場が何か語り安い場所だったのである。とにかくホメロスも盲人だったらしいというとき外国で目の病気が多かったのかもしれない、栄養不足なことは同じだからそういうことがありうる。医療は極めて劣悪なものだったことは同じだからである。


●語り伝えることが郷土史の基本


郷土研究というとき、むずかしい本ばかりを学者のように読むことではない、その土地に語り伝えられたことを知ることである。柳田国男の功績は本から学問を作ったのではない、語り伝えられる口碑を重んじて新しい民俗学の学問を作り出したのである。遠野物語でも一人の土地の人から聞いてそれを筆記して本にしたのである。現代はメデアも多様だがそもそも語る文化とは根本的に違っている。語るということは一人のことではない、本は一人で読めるから個人主義を発達させたというのもわかる。本を読むこと書くことは孤独な作業なのである。ところが語ることは相手がいて聞き語ることだから共同作業なのである。そのことを病院や八九才の人としてきて語ることが語り合うことが長い間の人間の根源的な営為としてあったことに気づいた。それは江戸時代では当然のこととして当たり前のこととして行われていたのである。まず囲炉裏などで聞かされるのは身近なものが多い。それは現代のような地球の裏側までのことを貪欲に知ることではない、その語られることは極めて具体的な回りの世界と密接に結びついていた世界である。小さな村では事物と物と事件でも語ることは言葉は具体的に結びついている。言葉が先にある世界ではない、具体的なものがある世界である。そのものは直接ものがつくとかなり心を影響する世界だった。そこではものと言葉の分離はないのである。

現代は言葉とものが分離している。特に都会となると自然の事物と切り離されて語られる。回りの事物と言葉が密接に結びつかないのである。だから言葉が死んだというときそういう自然から離れた極めて人工的空間で生活しているからそうなる。だから本来の沈黙から語る言葉の重みはまるでない、商業用語となり本来言葉がもっていた詩的な言葉は喪失したのである。言葉すでに数字のようなものとなっているのだ。語ることはやはり一つの密接な共同体の交わりがあり自然をアイデインティティとするところでないと機能しないのだ。それは新聞とかマスコミとか本でも成されない世界である。語ることは人間の根源的な精神的営みでありそれは本来は小さな共同体があって成されたものである。古事記などもそうして語り部が語られたものであり書かれたものではない、現代に語りが喪失したというときマスメデアによって人間の本来のそうした語ることが代替わりされてしまった。ただマスメデアの伝えられたものを消費するだけのものとなった。だからこそマスメデアに情報操作されるようになった。マスメデアが余りにも巨大な力をもつようになったのである。マスメデアを通じてしか知り得ないことが多々あり全国規模世界規模になった情報世界は小さな村や共同体で語る文化を喪失させたのである。


つまり現代の複雑巨大化した文明は主体的に存在がかかわることができない、巨大なものにただ操作されるだけでありお互いに語るものとしてはありえない世界である。津波のことでも原発のことでもあらゆることが政治でもマスコミを通してしか伝えられないときただ操作されるだけのものとなってしまう。だからマスコミがあたかも人を差配して操り人形にさせられるのである。そしてマスコミを通して人を演出される。マスコミを通して有名になった人はマスコミによってでありその人が古代のような神話の英雄ではない、マスコミによって作り出された演出された虚像を巨大化しているのである。テレビにでただけどあたかも何でもない人でも重要な人物に演出される。政治家でもテレビに出ないと重要ではない忘れられた人物にされる。テレビに何回もでているとその人はアナウンサ-でも重要な人物に見えるのである。でもテレビからタレントでも消えるとその人は存在すらしなくなる。あとで死にましたなどと一回だけ写りその人は消えてしまうのである。別にテレビに移らなくてもタレントでも生きていたけど遠いと知り得ようがないのだからテレビに写らないと死んだと同じなのである。インタ-ネットのメデアは個々がメデアとなり結びつくということがある。でもマスコミはある個人が巨大化され演出され虚像が形成される。そこに錯覚が作り出される。政治家でも小泉劇場とかテレビをマスコミを利用して演出して虚像が作り上げられたのである。橋下氏も石原慎太郎などもそういうマスコミを通じて巨大化される。実際にもともとはテレビに頻繁にでたタレント出身であることでもわかる。だから堅実性はないがそういうことは今の時代ではどうでもいいのである。大勢の人にともかく話題になり知られることが先決でありあとの政策やその他は二の次ちなるのだ。テレビに写っただけで大勢に知られる力をもつことになるのが大衆社会でありその大衆を導くのがマスメデアになっていたのである。


江戸時代で誤解しているのは江戸の長屋ですら生涯同じ場所に住んでいた。ドラマだと浪人がどこからからやってきてどこかへと消えてゆくような感覚になるが一般の人は生涯同じ長屋に住んでいた。だから親密な交わりが田舎の村と同じように作られていたのだ。都会だったら絶え間なく人は移動して移住している。そういうところでは語る文化などありえない、語るにしても一代だけではない、代々語り伝えるには何代も同じ場所に住んでいる必要があるのだ。江戸時代は職人すら十代以上つづいていたりと長い時間の中で密接な関係が築かれていたのである。そういう社会は精神的に安定していたのである。もちろん今のような鬱病なども非常に少ない社会だった。裁判にしても人情裁判でありいい人と悪い人は評判で判決を下す奉行もわかっていて人情裁判になった。現代の裁判は法律で複雑怪奇になる。なぜならその人がどういう評判の人とか何が悪人なのかもわかりにくい社会だからである。悪というのが見えにくい社会なのである。江戸時代は悪は判別しやすく見えやすかったのである。同じ場所に生涯住んでいればその人となりがわかりやすいたからそうなった。今は外国人も交じり移動しやすいからわかりにくいのである。そんな社会窮屈だといえばそうだけどそれが犯罪を少ない社会にしていたのである。犯罪を犯しにくい社会だったのである。


最近、インドのある村にユネスコの実験として水道が設置された。しかしまもなく村人はその水道のパイプをとりのぞくことを要求したのである。彼らの立場からすれば共同井戸にみんなゆくことがなくなれば村の全社会生活が衰えてしまうと思ったからである。(マクルハ-ン-人間拡張の原理)


これに象徴されているのが現代の便利な生活なのである。村という密接なコミニケ-ションの場は水道で個々の家庭に分断されそこで村人が集ることもないから互いに語り合うこと意志を疎通させることもなくなる。そうすると互いに孤立して今度はテレビを見るようになると世界のことが気になり村のことより遠くが現実的問題のように切実なものとして見えるのである。村人は地球の裏側に関心をもち近くには関心をもたなくなるのである。水道は一例であり車でもそうだしあらゆるものがそうなっているからもう昔のような村の共同体などありえようがないというのが現実である。それも回復できないというのも現実である。それでもやはりそういう文明の便利な生活が何かおかしいと気づきはじめて来た人たちがふえてきている。原発事故も実際は文明のそうした複合的要因で大事故になったのである。もちろんじゃお前は江戸時代に帰り電気もないところで暮らせと言われるがそういう極論ではない、今人々は失われたものを求めている。それが語りあうことであり語りの文化の復活なのである。それはマスメデアを通じてはな成されない、インタ-ネットはそういう時代の求めるものがあり技術として発明された。でもそれ以上に直接語り合う、語り伝えるということが求められ時代になる。それはやはり精神的には江戸時代への回帰なのである。


●時事問題の深層に書いたものです-参考にしてください

現代の妖怪(メデアが育む妖怪)
http://www.musubu.jp/internetmedia.htm#youkai

2012年10月27日

秋の相馬市へ-俳句十句(長屋風住宅に人が住む)


秋の相馬市へ-俳句十句(長屋風住宅に人が住む)

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相馬市の魅力はやはり城下町だったことだ
この街の歴史的魅力は貴重である。

六号線のイオンの方になるとそういう歴史的情緒がない
こういうのは歴史だから作り得ない
そこに街の価値があった

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相馬市の長屋風住宅
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南相馬市鹿島区内




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秋の蝶影なす朝の厨かな

十輪ほど半ば枯れにし秋薊
日立木の薬師堂や秋の蝶
朝顔や長屋住宅に人の住む
虫の音や長屋住宅に人の住む
歩みつつ城下の橋や虫の声
野面(のずら)積み木の葉一枚散りにけり
白菊や城下の路次の割烹店
秋柳田町通りに相馬焼
通りゆく相馬の城下秋の雲
誰が家や城下の古りぬ秋薔薇
月のでて畑に婦(おんな)秋薔薇
相馬市の喫茶店にそ落葉かな
街道の畑に古碑や秋薔薇


石垣のなおとどめつつ六万石城跡たずね秋深まりぬ

山脈を雲翳らして秋の朝相馬市へと我が行く道かな
我が庭に白木槿の花散りしあと石の清楚に季(とき)の移りぬ


今日は3か月ぶりくらいに自転車で相馬市へ行った。一か月に一回は最低で行っていたからひさしぶりである。電車と自転車で行くのは全然違ったものとなる。最初に目についたのがあざみだった。
一面に咲いていた。普通だったら農家の人が草を刈っているからこんなに咲いていることはないだろう。あざみはほうっておくとこんなに咲くのである。阿武隈山脈に秋らしい雲がでて翳らす、いつもの道を行く、日立木の薬師堂により松並木の街道をゆくと長屋風の住宅に人が住むようになっていた。朝顔をしつらえていかにも人が住む風情である。やはりあの住宅は仮設住宅とは違いこれからここに長く住むということで感じが全く違う。外観も落ち着いている。津波で家がなくなったとかもう原発事故で小高に帰りたくないとかいうときあの長屋風住宅はいい,特に一人暮らしの人にはいい。

南相馬市でもなんらかあういう老人用の住宅が必要になる。

ここから相馬の細道を入ると大きな柳がしだれている。秋柳だけど風情があり秋柳は今の季節にあっている。相馬市はやはり城下町だからいつ来ても風情があるのが不思議である。宇多川を人が歩いてわたっていた。それが絵になっているということも不思議である。今や車時代に歩くことが特別なことになっているのだ。歩いている人を見るとそれが絵になり詩になっている。そこに時間の余裕も感じる。歩いていることはやはり時間感覚を変えるのである。車になったら時間感覚は十倍くらい早くなっているからだ。いつもの路次を行くと白菊が咲き割烹店があった。これも風情があるなと思った。その風情はやはり城下町だからだろう。相馬市は駅前通りはなく昔のままの街だった。原町は鉄道が通った時駅前から変えられていたのである。


城跡の石垣を良くみるとやはり古い野面積みとなるのかここが城だったということを今も示している。相馬はここが城だったということをなかなかわかりにくいのだ。木の葉が一枚散って秋が深まってゆくようだ。それから田町通りで相馬焼を売る陶器専門店で買い物した。結局街の商店街が安物ではなく多少高くても専門店としてしか生き残れないのだろう。陶器店だったら品揃いを良くしないとだめだろう。ただそうなると金持ち相手になるからこの辺では金持ちが少ないから困るのである。ただ金をももっている人は老人とかにやはりいる。退職者にも案外いる。若い人はやはり少ない、だから陶器店でも凝った店作りをすればそうした金をもっている老人がくるかもしれない、一軒一軒の店は話しすることになるから必ず買わないといけないからただ見るというわけにはいかない、ただ店の人と話せるということはコミニケ-ションになる。軽い素材の陶器ができていてそれをかなり買った。

メラニンとかなんとか言っていたが知らなかった。壊れもしないという、食器は意外と重くて壊れやすくて困った。洗ったり運んだりして壊したりするから今の陶器は重いから扱いにくかったのである。ただ今やこの辺では大堀焼も浪江でやっていけないかち独自性を出すのがむずかしくなっている。地元で作ったものを売るということがやはり活性化することだから困っているのだ。

帰りは日立木の街道の細道を通るともう日が暮れようとしていた。月がでていた。秋薔薇が咲き畑には働く婦人がいたようだ。相馬市は稲刈りもしたし畑で野菜をも作っているし普通と変わりないのである。俳句はやはり写生だからそのままで俳句になっているのだ。畑で人が働いていることが普通の風景でありそれがない風景は異常なのである。


庭の白木槿は散って石だけの庭になった。そういう季節の移り変わりが日本の情緒をかもしだしているのである。