2012年09月15日

秋彼岸(実家の墓参り-墓の不思議)

 
秋彼岸(実家の墓参り-墓の不思議)



死者いかにまた巡りきて秋彼岸


点々とソバナの花のうなだれて秋の蝉なきあわれ深まる

墓も不思議なものである。親の名前が刻まれていない墓のことを書いたけどその人は相当な親不幸な人である。親子でも肉親でもすべてが情が通じるわけではない、もらった子の方に情が通じる場合もある。肉親でも子供が親をすべて思うこともないし全く他人と変わりないものも結構多いのである。結局人間は親も兄弟も他人だということがわかる。親も他人であり子も実際は他人であり他人になってさ祖本当の愛がありうる。宗教が肉親とか血縁の愛を否定することがわかる。親が肉親ではない、他人になったとき本当に愛することができるのだ。それは別に親だからというのではない、人間として愛することである。それが本当の愛だともなる。


また墓の不思議は墓掃除したり何回も行っているき変だけど墓に親しみを感じる。そして死んだ人の名前を呼んでみる、するとその人が確かにそこにいるような感じになるのだ。特にいつも思うのが25歳で肺病で死んだ25歳の母の兄である。その人とは一回もあっていないしどんな顔の人かもわからない、ただ肺病で死んだということだけを知っているのだ。でも不思議なのは何回も掃除や墓参りに行っていたらその人を身近に感じるというかその人がいるような感じになった。なぜなら墓は明かに死んだ人を意識させられる場所である。例え一行の名前でもその人が何で死んだとか何歳で死んだとかしかしらなくてもそこで死んだ人の名前を呼んでいると何か親しみを感じるのである。母の実家の人とはほとんどあったり親しい間柄ではない、でも死んでから母の代わりに墓を作ったり墓参りした結果親しく感じたのである。


秋彼岸というのも季節的にいい、爽やかになる頃だからだ。これは仏教とは関係ない日本の文化である。姉が死んだのは9月21日だったのである。この日は命日だったのである。菊だけではない竜胆の花などさすのもいい、ただ生花は枯れやすい、枯れたままにしていると何か汚いものとなる。枯れた花は取り除くべきだがどうしても墓にそんなに来れない,するとそのままに枯れた花になっている。墓もやはり時々きて掃除したりみてないとだめなのである。だから遠くて墓をみれない人の墓は荒れてしまうのである。すると墓を移すほかなくなる。そうしている人もいる。最後は墓参りが仕事になっている高齢者もいる。墓はそれだけよりどころだともなる。だから津浪で墓を流された人たちや原発で故郷を離れ墓を置き去りにした人たちは悩んでいるのである。