2012年09月14日

夏尽きる(高齢化社会の一風景)


夏尽きる(高齢化社会の一風景)



木槿咲き隣の人と話すかな


草そよぎ夕風涼し津浪跡


草原に点々眠る夏の蝶


白髭のライダ-走る夏の暮


秋の灯や誰か住むなれ近きかな


ホ-ムにそ隣合い寝て秋となる


身の上を語るを聞きぬ夏尽きる


今年は暑い、こう暑いと何もする気がしない、夕方になり涼しくなった。秋は秋なのだけど昼間は真夏である。津浪の跡は見晴らしが良くなったから風が前より涼しく感じる。気持ちでそうなっている。家が見えず海に直結しているから景色的にも涼しい感じになる。ともかくこの辺の自然感覚は津浪と原発事故で変わってしまった。草原の景色には意外とあうものがあった。蝶でも鳥でも草原を飛んでいるのは気持ちいいのである。だからモンゴルの夏は本当に爽快なことはまちがいない、一回行ったがどこまでも草原になっている世界は全く違った自然なのである。ここは明かに北海道の景色である。


隣の人と話ししたがその人も四年間も病気で寝ていたのであるが直ったといっている。ただ顔が歪んでいて前とは違っている。病気すると本当に顔から体つきまで変わる。かなり重症のように見えていたが直ったと喜んでいた。入院したと知って家に来た人はこの人一人だった。とにかく高齢化社会は病気の社会なのである。もう一人隣の人は足を悪くして中通りの施設に入っているという。浜通りでは入る施設がないのである。他にも夫を介護している人もいる。最近病気で死んだ人もいる。

相馬総合病院では畳を作ってくれた人が重篤な病気になっていた。その介護となるとまた大変な苦労を強いられる。高齢化社会はとにかく実際は健康な社会ではない、大量の病人をかかえる社会なのである。なぜなら85くらいから何らかたいがい体が不調となり介護状態になる。それはすでに今はそうでなくても目に見えている。いつ倒れるのかわからない状態なのである。その時介護する人が家族が少ないからいない、介護するには少なくても二人いると楽なのである。その二人がいない、一人だとその一人にすべての負担がかかるのである。ホ-ムにあづけて何か楽である。


ホ-ムでは90歳の人が自分の身の上話を盛んにしていた。何か自分の境遇は反対だったので興味深く聞いた。こんな人生もあったのだとつくづく人生模様は本当に人様々である。若い人はなかなか経験がないから高齢者と語りにくいだろう。体の世話をしても高齢者の話し相手にはなりにくい。60代の人は話し相手になれる。子供の世代だからである。ただここにいると馬鹿になっちゃうよとか母が言っていたが何でも与えてもらい何もすることがないとそうなる。家ではまだちょっとでも洗い物していたからだ。隣の人は気丈夫な人で寝ていたが話すこともしっかりしているし元気だった。自分を叱咤したりししているから元気である。ところが中に椅子に座っている人たちは何かぼ-としていて死んだ目をしていた。隣の人は5月に入ったばかりだからそうではなかった。でもだんだん施設にいるとそうなってしまうかもしれない、人間は最後まで何か気を張るものが必要なのである。それがぼけない秘訣でもある。


ともかく秋なんだけど暑すぎた。街の外の一軒家に灯がともる、誰が住んでいるのだろう、近くでもどんな人が住んでいるかわかりにくいのが現代である。もちろん仮設に住んでいる人はほとんどわからない。仮設は一軒一軒と見ない、集団として見ている。一軒の家ではないからだ。ただ小高の人たちが住んでいるという集団として見ているのである。


白髭のライダ-は飛ばして走り去った。これも現代的風景だった。60代でもバイクに乗っていた人はバイクにのるし自転車に乗っていた人は自転車にのる。サドルにおしつけると手術した所が悪いと思いサドルに触らないように立って乗ってみる。するとこれはマウンテンバイクの悪路行く乗り方で面白かった。マウテンバイクも面白いものである。団塊の世代はいろいろと遊びを覚えた世代なのである。そこが戦前生まれと違っているのだ。