2012年09月08日

原発事故がもたらした教訓(コメントに答える) (被害地域では具体的に生活の見直しが迫られている)


原発事故がもたらした教訓(コメントに答える)

(被害地域では具体的に生活の見直しが迫られている)


喩えが馬鹿すぎ
江戸時代の生活を引き比べる勇気が本当にあるなら
ネット切って山奥に篭れ
お前がこのくだらないブログを書いている瞬間にも、ゼロエネルギーではない電気を消耗しています

●ネットは山奥でも普及すべき


自分は2チャンネル的論争はしない、無責任な表面的議論にしかならない、でもこれは要点をついているのでとりあげた。正直自分自身も相当に現代の文明の恩恵にあづかったぜいたくな生活をしてきた。違っているといえば車を持たないことくらいだった。一万くらいの人口の田舎でも車なしで生活できる。もちろん仕事している人はまた違っている。田舎で車なしで生活できないということはない、ただ自分の場合、町内に住んでいるからそれができる。ス-パ-も近いからできる。鉄道の駅も近かった。だから仕事しないなら車なしで生活できる。その他はク-ラ-も使っていたし今の生活水準と同じである。

>ネット切って山奥に篭れ


こういうのは極論だから議論にはならない。ネットが通信がそんなに電気を使うかと言えばそうではないだろう。むしろ本当に電気をエネルギ-を使うものは何なのか議論しなければならない、車が石油エネルギ-をどれだけ使っているかエアコンがどれだけ電気を使っているかその比ではないだろう。むしろ自分はインタ-ネットはもっと山奥でも普及すべきである。その電気はそんなに消費しない。電子本などももっと普及すべきである。そしたら山奥でも都会と同じく情報的には差がなくなるだろう。アマゾンで買うにしても車を使うから相当なエネルギ-を運ぶのに消耗しているからだ。ネットではそういうことはない。すべての電気を否定して江戸時代に帰れというのは暴論なのである。そういうことは自分はこれまで書いてきた。

●原発事故被害者地域は具体的に生活の見直しが迫られている


自分自身の反省としても現代の電気文明の恩恵を相当に受けて生活してきた。そのことは否定できないし。でもこの辺では原発事故で多大の被害を受けた。家族はばらばらになり故郷は失うとかありえないようなことが現実化したのである。そこで原発に近い双葉辺りの人が家族一緒に暮らせるならロウソクでもいいと心から思ったのである。このことが大事なことだったのである。これはただ自分がそうだったように何か空想的に江戸時代に帰りたいとか江戸時代がいいというのではない、具体的に実践しようとすることが原発事故で強いられて生まれた言葉だった。原発は災難だったが原発被害地域はより具体的に今までの電気文明の恩恵を具体的に見直すことを強いられたのである。


これまでいろいろ津浪や原発事故で書いてきた。なぜこれほどまで書いたのか?それはただ今までのように空想的に江戸時代かいいとかではない。深刻な現実問題としてこの辺では強いられたからである。文明を否定することそれが具体的なも問題として自らの生活を見直すことが強いられたのである。だから原発事故は災難であってもこの地域は本当に豊かな電気文明をすべてではないにしろ否定する生活を実践する場となる。思想が現実生活から離れたものではなく具体的に現実の場で実践する場と変わりえる場になる。またそうすることが日本や世界の未来のモデルとなることまで提供する。
つまり原発がなくても生きていける、過剰にエネルギ-を消費しなくても生活できる場である。
こういうことは東京辺りで反原発のデモをしている人たちにも言える。デモに行ったけど暑くて暑くてどんどんク-ラ-て冷やしてくれとかなっていたらこの人の言うことがあてはまる。反原発でもそういう人たちが多いから批判されるのである。


●入院して学んだこと(粗食に帰れ、自然の恵みに感謝せよ)


病院の食事は粗末である。サシミとか肉料理などでない、本当に粗食である。普通アジフライなんか食べない、サシミとか食べていた。アジフライも食べて見ればうまいと思った。正直自分は料理はしていなかった。買ったものでまにあわせていた。ただ食事は用意するだけで相当なエネルギ-を使うものだと思った。食器を洗ったり配膳するだけで時間を使う、するとこうしたネットとか読書とか芸術の創造に時間をかけられないのだ。だから三食粗末でも与えられた食事がありがたいと思った。
料理には実は料理を作るだけではない手間がいろいろとかかっているのである。
人間は食べものでもあまりにも贅沢しすぎたのである。これほどのものを食べていいのか疑問だった。でもそういう生活を自分もしていた。しかしその反省を原発事故で嫌でも強いられたのである。弁当とか買ってご飯も一膳も食べていないのでやせたと思ったら太っていた。
間食して太っていたのである。人間は現代ではやせようとしてもやせられないのは食べ物があふれているからどうしてもそうなる。アメリカは肥満の国なように日本もそうなる。栄養をとらないようにしてもとってしまうのが現実だった。その反省を病院でした。

そして津浪、原発事故は天からの警告であり神の怒りでもあった。


佐用共立病院(兵庫県佐用町)で女性入院患者=当時(85)=が肋骨(ろっこつ)を折られた事件で、傷害容疑で逮捕された同病院の看護師羽室沙百理(はむろ さおり)容疑者(26)が、動機について患者が感謝の気持ちを示してくれなかった」などという趣旨の供述をしていることが12日、捜査関係者への取材で分かった


このことは何か変な話しだけどこんなことがあるのかと思う事件だけどこれを今回の津浪にもあてはまる。原発事故にもあてはまる。「患者が感謝の気持ちを示してくれなかった」ええ、こんなこと思っていたのと一瞬いぶかったしそんな人がいるのかと思った。病院の悪いところは書いたがいい面は病院は感謝に満ちている場所である。看護師に何かしてもらうにもちょっとしたことでもいちいちありがとうといい感謝している。そんな職場はほかにない、それで掃除婦まで実は感謝されているのだ。これなど他ではありえないことである。掃除婦すら看護師と同じ様な働きをしているのだ。
その人は年をとり脚が普通ではない、歩き方だった。なぜこんなにしてまで働いているのだろうと思った。おそらく金のためではない、生きがいのためである。何故なら病院は感謝している人が多いから感謝されるからあんな脚でも仕事している。そういう人が他の病院でもいた。老後は何もしないでいるのも嫌だから生きがいのためにしている。安月給でもしいると言っていたからだ。ボランティアで働く人もいたことでもわかる。


人間よ、お前たち私はどれほどの恵みを与えているのか、それでもまだお前たちの欲望がきりがない、その欲はきりがない、恵みを与えても神に感謝もしない、だから神は怒り津浪を起こし罰してやったのだ、よくよく考えよ、感謝の心をもて、これは私の警告である。


「患者が感謝の気持ちを示してくれなかった」これは一見唐突に思ったがそうでもなかったのである。神は感謝しない人間に憤り津浪という罰を災害を与えたのである。確かに双葉地域はこの辺は過去は貧しい地域だった。でも江戸時代から人は暮らしていて米でも野菜でも水の恵みでも神に感謝して生活してきたのである。江戸時代がモラル的に現代より高かったということを再三言ってきたがそれは生活そのものが質素でありその質素でも神に自然に感謝する生活をしてきたからその心も素直な素朴な人が多かったのである。その生活そのものにモラルを形成するものがあったのだ。

食事が粗末でも感謝した生活があった。毎日米が食べれれば幸せだとかなっていた。それが現代はあらゆるものを貪り食べても満足しない、その欲望は限りなく原発でも何でも誘致して金になればいいとなった。そのことはこの辺でも被害者でも反省していない、でもロウソクでもいい一家がみんな一緒に生活できるならとなったのはそれは学者の理論ではない、心からそういう生活を実践しようとする思想が生まれた。地に足がついた思想が生まれたのである。逆にそういう実践的志向がうまれたことはこの辺の被害者地域の希望となるというのも逆説である。

 


 

posted by 老鶯 at 11:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連