2012年09月06日

病院でさらに病気が悪化する (病院は刑務所とにている)


病院でさらに病気が悪化する

(病院は刑務所とにている)


実は病院に行けば行くほど病気になります。
これは間違いなく正しいことで真実です。
 
実際に病院に行けば行くほど病気になるんです。
それとは逆に病院に行かなくなれば病気にならなくなります。
なぜなら病院は治療院でなく病の院
つまり病の建物なのです。
 
弱った人を薬の毒性でさらに弱らせて
また来てもらうための処置をする所です。
なぜなら病院も金儲けのためにやっている所なので
健康な人は一切必要なく邪魔なだけなんです。
なので健康な人でも病気にする、それが病院なのです
http://blogs.yahoo.co.jp/willpow_thresh_trant/27338940.html



病院がどういう場所か二回経験している。南相馬市病院で一か月入院していた。本当は二週間で退院できた。ところが感染病になり三日間40度の熱がでた。隣の人も高熱をだしていた。バイ菌に感染していてそうなり自分もなった。ばい菌が移りやすいのも病院である。一面病院は危険な場所でもある。今回は二週間で退院できたからいい、それでも長びくことはありえた。病院は退院を遅らせて病気を悪くさせることもある。別に金のためではない、病院という場がそうさせるのである。病院は丁度刑務所ににている。南相馬市病院では点滴を一か月はずすことができなかった。その点滴がまるで手錠のように思えた。それは確かに必要だったにしても病院で病院を悪くすることもある。もちろん医者とか看護師は病院を直そうとして懸命に働いている。それでも病院は病気を悪化させる場ともなりうる。病院にいると何か健康でも苦しいものを感じないか?一時的に見舞いにきても何か苦しいものを感じるだろう。それが入院するものはさらに病院で何か苦しいものを感じるのだ。病院は何か死臭も感じる。現実に病院では死ぬ人が必ずいるのが普通だから不思議ではない、そこに健康的なものを感じることはタブ-とさえなる。お前は病気になって入院したのだから病人らしくしていろとなる。

今回救われたのは同室の人はほとんど病人ではなかった。病気を感じない人たちだった。みんな二週間で退院できる健康な人たちだったのである。ここが病室かと入って最初から思った。20代くらいの若い人もいた。つまり病気を感じさせない部屋だった。泌尿器科はそういう人たちが多い、たいがい治るのが多いのである。変なことだけで病室には笑いに満ちていたのである。こんな病室は普通はないだろう。だからもっと病人らしくしていろとなる。だからそこでは暇なし話ししていたのである。
女性の看護師をからかっていた人もいる。

これはおかしいなと思って病人らしい病人を探し廊下を歩いた。すると病人らしい人がいた。青ざめてやっと歩いている。三か月もいるけどまだ治らないんです、家は近くても家に帰れないんですという。それもそうだとその顔を見れば一目瞭然である。死相さえ顔に現れていた。そういう人がいるのが病院である。それは丁度朝方に残っている残月だったのである。病院から見える景色がまた違っている。閉ざされた空間から外の明るい自然の空間をながめているのだ。自分は絶えず病院を歩いて外の景色を見ていた。運動して尿を出せと言われていたからだ。相馬総合病院もいい景色をみる場があった。それをまた俳句とか短歌にした。ただ病院からみる景色と外でみる景色は違っている。病院には自然そのものの風は入りこまないのである。だから特殊な状態に置かれる。健康的に自然を歌うのとは違っている。そこには別な感受性がはぐくまれるのだ。それは健康な感受性ではない、でも文学的には啄木のように特殊なものとして作られるのである。

窓にとまっている枯れたカマキリ、俳句では枯蟷螂というがそれがふさわしいのが病院だった。
窓にはりついて死んでゆく蟷螂である。そこには蜘蛛もぶらさがりさらに不気味さをましていた。
何かそういう世界が病院にはふさわしいのである。ただ自分は直ぐに健康になったから健康的なものも作った。でも病院は独特の雰囲気があり空気が流れている。それは病人からでてくる空気でありまた死人からでてくる死臭かもしれない、何か陰気な空気が流れているのが普通である。するとたとえ回復していてもさらにそうした陰気な想念がたまっていて病気を悪化させるということもある。病院は病人によってさらに淀んだような空気を作り出す。特に重傷者が多いとそうなる。あんなに笑って話ししているのは病院ではない、もっと病人らしくしろとなる。病院ではどうしてもそうなりやすい、別に看護師とか医者のせいでもない、病院とはそういう場所なのである。


陰気なものが流れていてそれに影響されるのである。病院はだから長居するところではない、そうはいってもそうならざるをえない人がいるがまだよくならないという三か月いた人も近くの家に一旦帰ったりしたら帰って回復するかもしれないと思う。病院では外のように健康な気をもらえないからかえってまた病気になるというのは別に誇張ではない、そうなる人が多いことは確かなのだ。医者や看護師がまるで囚人を監視するように見えるのもそのためである。そしてどうしても医者や看護師が患者を一方的に縛りやすいのである。つまり罪人のようにされてしまうのである。病院はそういう場だから本当は病院で死ぬことはあまりいい場所ではない、何か必ず病院では死んだ夢を見る、それは自分だけではないだろう。なんだか極楽に向かって魂が飛んでゆく夢をみた。これなどもすでに病院にいると死がかえって近くなるということもある。病院は監獄であり死に向かう場所でもある。棺桶のようにさえ思うこともあるだろう。だから病院で死ぬことは人間にとって自然ではない、でも今はほとんど病院で死ぬ。それが問題なのである。


窓の外くもぶら下がり枯蟷螂

 

看護師と患者の問題 (相馬総合病院は患者への気配りがある)


看護師と患者の問題

(相馬総合病院は患者への気配りがある)

●看護師も患者が嫌になる


看護師の言い分


私も、看護師としてではなく、一人の人間として心の底から嫌いになりました。
だいたいのことなら「まあ、患者だからしゃ〜ないか」と、腹を立てながらも、自分の給料の源である患者だからってことで気を落ち着かせています。

心底、死ねばいいのにと思ったときは、きっと他のスタッフならもっと大人な考えをするのかな、自分は看護師として失格だ、自分が精神的に未熟なんだ、と、思いました。仕事なんだし、こんな患者を相手して本気で腹を立ててる自分が幼稚だと。しかし、月日がたった今思い返してもむかっ腹が立ってきます。

本当は明日、目茶苦茶仕事行きたくないです。その嫌な患者と顔合わせたくないから。とりあえず避けることも可能なので明日は側に行かず、避けることを選択します。本当なら、患者様々だから私が「先日はすみませんでした」と謝罪したほうが丸くおさまるような気がするけど、なんかそうすることで相手は調子にのりそうだし。


患者に様なんて付けだしてから
勘違い患者が増えた気がする。
医療はサービス業じゃないと私は思う。


「採血が下手」「注射が痛い」などのクレームが寄せられるようになった。何度か注意して指導したが、当の看護師は頑固な性格で改善が見られないため、辞めてもらった方がいいだろうという結論になった。採用から2カ月後の話である。


佐用共立病院(兵庫県佐用町)で女性入院患者=当時(85)=が肋骨(ろっこつ)を折られた事件で、傷害容疑で逮捕された同病院の看護師羽室沙百理(はむろ さおり)容疑者(26)が、動機について「患者が感謝の気持ちを示してくれなかった」などという趣旨の供述をしていることが12日、捜査関係者への取材で分かった。看護師として自信がなかった、とも漏らしているといい、仕事への不満と不安の矛先が、一方的に寝たきり患者に向けられた可能性がある。

 


なぜ看護師と患者がトラブルになりやすいか?医者と患者も同じである。それは結局、人間と人間が直接向き合う現場だからである。物を売ればいいとかではない常に直接人間と向き合うから問題が起きないことなどありえない、人間と人間が向き合う場には必ずトラブルが起きる。だから看護師にも患者にも双方に自戒が必要なのである。患者側から見る看護師と看護師から見る患者の言い分がある。ここに引用したのは看護師の言い分だった。自分も今回の入院で看護師に嫌な思いをした。
泌尿器科だから下のことがあり汚すこともある。その時ひどくしかられたのである。でも患者の言い分としては手術後でありもうろうとしていたし実際に要領をえなかった。でも知っている人に聞いたら汚してもこういう科ですからしかたないですよと看護師が言ったという。その人は妻が見ていたから看護師もひどいことを言わなかったのである。自分の言い分としてもう少し配慮があってもいいと思った。どうしてしもその看護師を嫌になったし口も聞きたくなくなったのである。ただこの辺の病院の事情は違っている。看護師が原発事故などで流出している状態では看護師がいるだけでいいとかなってしまう。現実に南相馬市病院では看護師などの流出で二病棟しか使っていないからだ。そういう状態では患者は看護師や医者でもいるだけで恵まれているとかなる。そうなると文句を言えないということも頭にあった。それで黙っていたがなんかトラウマになったことは確かである。
自分は看護師に感謝しないなどない、掃除婦までに感謝して退院した。看護師に虐待されるような患者ではない、ただ事の成り行きでそうなったのである。


●相馬総合病院は患者への気配りに優れている


看護師長母をきづかい声かけぬうれしきことかな隣も知らじに

相馬総合病院は全体的には患者に気づかっている好感がもたれる病院である。回診が一日二回があるのも普通はないだろう。患者に対するサ-ビスは他よりいい、南相馬市病院は若い医者が一人だけでありその一人が「おい、どうだ、水を飲んでおけよ・・」とかで終わりである。看護師もついてこない簡単な挨拶程度の回診なのである。なぜそうなっているのか?そもそも若い医者一人しかいないし医者がいないからまかせてしまった。泌尿器の専門の看護師も少ないこともあるのだろう。それに比べたらここがいかに手厚いサ-ビスをしているかわかる。そして泌尿器科の専属がそもそも院長先生でありその他中堅と若い医師と三人もいる。南相馬市病院の泌尿器科の医師はここの中堅の医師のように弟子としてついて技量を磨く立場にあったけど誰もいないからまかされたのだろう。そもそも浜通りは特に相馬地方は医師不足の地帯だったのである。それが原発事故とかでさらに医者も看護師も減ってしまったのである。看護婦長も一人で必ず回って様子をうかがいにくるのも好感がもてる。
それで自分に対して「お母さんの介護大変ですね」とか気づかってくれた。こんなことはなかなかしない、患者の心のケアまでしいてる。ただ一人だけ悪い印象をもってしまった。その一人によって悪い印象をもつということはある。ただすべての評価は主観的なものである。誰にでも好き嫌いはあるからである。

結局看護師という職業は宗教的修行じゃないが忍耐心が特に必要な場所になる。自分のいいような患者などいないからだ。まだ看護師側からすればいつも聖人のように対応などできない、また望むのも無理である。患者側にも確実に問題がある。ただ患者は病人であり弱者だとういことで患者側につくことが多いのである。看護師と医者と患者は強者と弱者の関係になりやすいのである。ただ最近は患者様とかなりあまりにも患者側につきすぎる傾向がありその不満がかえって看護師側からでてきているのである。結局こういう問題が生じるのは病院とか医療とかが単なる体をみるだけではない、心にも深くかかわるからそうなるのだ。特に老人は人生の兵(つわもの)がいる。経験も豊かな人でありそううい人が若い看護師が対応するのにむずかしい面がある。相手の心にかかわるとなるとやはりそれなりの経験をつまないとできないからだ。看護師は総じて若いから年よりの心によりそうことはむずかしいのである。


いづれにしろ病院という場は看護師が多く看護師にとりかこまれる世界である。すると看護師の質も問題になる。医者の質もそうだが看護師の質もそうだしそれが全体の雰囲気を作っていく、そういう場にふさわしくない人はいるし注射でもうまくならない人もいる。そういうことでそういう人がやめさせられたりやめてゆくのはどこにでもある。ただこの辺では看護師がいるだけでもありがたいとかなっているから文句は言いにくいのである。相馬総合病院は全体の雰囲気は全体的にいい、上の指導でそうなっているという人もいる。南相馬市病院は建物は立派でもそうした指導がたりなかった。でも特別看護は劣っているということではない、それより医者がたりないとかで回診もできていなかったのである。病院は建物から医者から看護師から掃除婦までが全体の雰囲気を作っているのである。患者のためにつくすようになっているのだ。

相馬総合病院退院しました

 
相馬総合病院を退院しました
ただ退院後は自転車にのれないと言われてびっくりした。二か月以上はかかる。どうしても前立腺がふれると手術したところだからさわり悪い。あぐらをかくことも悪いというから困ったものである。幸いス-パ-は歩いて行ける距離だから助かった。

つくづくこの辺は津浪から原発事故と問題が山積みでありそれがどこでも話題となる。
この辺は極めて政治的、経済的、自然環境問題かち最先端の科学の問題からあらゆる現代の問題が噴出した場になってしまった。だから宗教もそれに関係してくる。文学も哲学もこういう所から想像でない、現実の場として実感として新しい学問すら起こりうる場になっているのだ。

自分はこれまでそういうことを追求して書いてきた。それは今までのように想像して他人事ではない、現実に生活する場で起きているから真剣にもなる。いろいろな問題が切実なのである。


今回の二週間の入院でもそうだった。津浪の被害にあった人に四人もあった。原発の避難者もそうだった。そこで生の声を聞いたからさらに実感したのである。だからまた結構書くことが増えたのである。