2012年09月02日

相馬総合病院に津浪の被害を聞く


 

相馬総合病院に津浪の被害を聞く

相馬総合病院が相馬市立病院になっていないのは新地町と共同だからそうなっていた。新地町が相馬市と合併しないのは新地町の独自性の維持が背後に常にある。新地町がもともと伊達市の城があったごとく一時は伊達氏に属していたのである。その子孫が合併に反対したというときそういう歴史があったのである。その子孫の侍の家も津波で流された。病院には津浪の被害にあった人が多い。同室にすでに二人いる。新地の釣師浜と相馬市の和田である。
和田の人は野馬追いの馬が津浪に襲われたが助かったという。津浪にも生き残り野馬追いにでた馬もいた。この辺では野馬追いにでるためだけに馬を飼っている。その費用が結構かかるし手間である。

今日は90歳の山元町の人がいた。新地の釣師浜の人に聞いていたが山元町の磯浜に津浪の避難館があった。その由来をその人は体験として知っていた。

小学三年のとき磯浜に津浪の被害があった。そのとき防波堤がなかったので磯浜が被害にあい避難館を作ったという。それは昭和8年頃だった。ところがその後その津浪館は下の方に移されたという。津浪は滅多に来ないから忘れるのである。他でも津浪を記念した古い碑が何なのかもわからなくなっている。
新地にツノガ神社があった。それは津神社のように津浪を記念したものかどうかわからないにしてもそういう神社の由来もわからなくなっている。津浪は滅多にこないから忘れてしまうのである。

それにしても津浪の被害にあった浪江の請戸の人もいた。病院にこれだけ集まっているということは思った以上に津浪の被害者は多い。ただここであった人は家族は死んでいない、だからそれほど悲壮感がない、毎日仮設住宅でパークゴルフをやっているとか暇をもてあましている人が多いのである。それなりに食うには困らないのでのんびりしている。でも実情は深刻である。新地町でも山元町でも仙台に勤めている人が多くその人たちが流失している。息子、娘を頼ってでて行く人も多い。山元町は仙台のベッ
トタウンだから余計にそうなっているのだ。働き手や若い人が流失していることが深刻なのである。

相馬市にいると丸森の人がいたり山元町の人がいたりとなる。つまり相馬市は伊達市との境界意識を強くもつところである。地理的にここに小高より城を移したことが実感としてわかる。

病院から原釜が見えた。そこには津浪の傷跡が遠いけど見える。それだけ津浪の被害は大きかった。津浪の傷はそれほど深いということである。
posted by 老鶯 at 16:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係