2012年08月17日

「親切心」の養成 (家族にすら親切心がない現実)


「親切心」の養成


(家族にすら親切心がない現実)

例えば福祉関係の仕事、看護師とか介護士とか他者に直接働きかける仕事は「親切心」が自ずと養われる。仕事なの中で「親切心」意外と大事である。嫁に来た人はその家の墓に入りたくないという人が30パ-セントくらいいる。夫婦の墓がいいとかが多い。それは何なのか?それは姑と嫁の対立にあるのではないか?姑はどうしても嫁に親切心をもてない、そのことが恨みともなっているからそうなる。たいがいは赤の他人でも親切心でもって接すればこころよく勤めるということがある。それができないのは家族のなかでも親切心をもって接し得ないからである。


そういうことは家族の中で社会の中で働いていないと実感しえないのである。現代は一番この「親切心」が欠けた時代なのだろう。人を思いやる心が一番欠けている。ただ金だけを求めている。親切心も金をくれからやっているのだとなり愛想笑いとなって心から親切にするわけではない、ただ相手に親切にすることは自分も親切にされるというのが基本にある。姑が嫁に親切にできないから一緒の墓に入りたくないとなるのだ。ただだからといって姑がすべて悪いとはならない、嫁が悪いかもしれないし家族のことはあまりにも複雑なのである。今は姑より嫁の方が強く親切心が欠けていることがありうる。家族には外から見てわからないことが必ずある。それほど家族関係は複雑なのである。

だから家族の中に立ち入れることはよほどのことでないとできない、理解しがたいものがかなりあるからだ。自分の家族など自分すら理解できないほど複雑だった。一人が死んでやっと何なのか理解した。60年一緒にいてもそうだったのである。それほど人間は複雑なのである。

親切心はまた感じる人と感じない人がいるのだ。例えば身寄りがないとか家族がないとかひどいことばかりされてきたとかそういう人は親切にすると人一倍親切をありがたいと思う、感じるのだ。いつも家族の中で親切にされていると感じないのである。それが自分にもあった。親切にされるのが当たり前になっているときそのとき人は親切にされても感じないのである。ホ-ムレスの人か病院で実験台にされても看護師などに親切にされるからいいというとき、まさにそうなのである。路上で寝て全くもののようにしか扱われない、病院では看護師が名前を呼んでくれて人間扱いしてくれるからだ。家族のないものにとって病院すら家庭的に感じていいものになってしまうのである。

それだけこの世が非情になってしまったからともいえる。そして病院とかでは家族がいて有力者だと看護師も親切にするが身寄りのないものを親切にしないということもある。家族の監視があると見かけ上親切にせざるをえないということもある。本当は身寄りのない人は親切にされるべきなのである。

また不思議なのは親切に自らしないものは親切が何か実感しにくい、親切にしてみて親切が何かわかるのである。親切にされているばかりだとそれが当たり前になり親切にされても感じないのである。人間は仕事の中でただ金を求めて金さえ得ればいいと思っている。しかし人間社会で「親切心」は欠かせない潤滑油である。

働く場でも親切にされれば働く意欲も普通はでてくる。私に親切にしてくれた、だからここでは尽くそうという気持ちになる。姑と嫁には敵対関係がありそうした親切が通じ合わないから同じ墓に入りたくないとまでなっているのだ。親切心というのはいろいろな事件があるけどちょっとした親切心があれば事件にならないということがあるかもしれない、冷たくされて事件になるということがある。金のことで事件が起きるがこれも余りにも金に非情だとそうなるのかもしれない、相手がもう明日食べるものがないというとき、誰も助けてくれないとなれば殺人にもなる。でももしそのことを知り食べさせたりしていればそうならないかもしれない、現代は昔のようにそうした情がない社会になっている。自分の場合、家族でさえ情が通じ合わない所だったのだからさらに社会になるとそうなりやすい。


ただこの世が非情だというときこの親切心が全く通ぜず踏みにじられることがある。そういうことを自ら経験した。親切にしても全然感じない、むしろ親切をいいことに恩を仇で返すのも人間である。中国人の留学生に事情あって親切にしていた人が金のために殺された。金が欲しいとなったとき小さな親切は無視される。逆に見かけを親切にして老人から金を奪うとういう事件が実際はひんぱんに現代では起きている。親切というものが全く通じない非情化している人間もふえているのだ。確かに冷たくされたとかが原因にある、そして非情な人間化した。そして親切にする人があってもその親切は通じなくなった。そういう人もいる。それでも家族が複雑なように人間が起こす事件は本当は複雑である。報道だけをみればなんという人だとなるがやはり人間である限り何か犯罪を起こす原因があり残酷な事件であればあるほどそういうふうに考えいたいの人間なのである。人間なのだからそんなことまでしない、何かそれだけのことを起こす事情があったのだろうとかになる。人間だからということがやはり前提にある。良心をもっている人間なのだからそこまでやるのはそれだけの事情があるだろうと犯罪者を思うのである。会津の事件などでもなぜそこまでしなければならなかったのか?
その背景を考えその人がどうしてそれほどの犯罪を起こしたのか?この犯罪者は絶対に許せないというそれでもそこまでやる背景とか事情とかを考える、考えたいのが人間なのである。


いづれにしろ今の世の中、そんな親切心など説くお前は甘いとなる。世の中は食うか食われるかの修羅場だ。そんな甘いことでは生きていけない、お前は恵まれたから世の中の厳しさを知らないのだとなる。これは事実である。だからお前みたいなやつは格好な犯罪の餌食になったのだとなる。それは言えるし本当だった。この世はそんな親切心などを言ったら生きていけない、そんなものを殺してこそ成功するんだとなる。いちいち相手のことを考え同情していたら商売にならないよともなる、それが現実だともなる。だからこそちょっとした親切さえこの世では実行できない、善行というと大きなことをするものばかりと思っているが実際は小さな善行がその前にできないのである。

小さなことができないから大きなこともできないのである。人間は家族であれどんな場であれ親切にされると気持ちいいからその場で勤め尽くし働こうとなる。田舎でもそういう親切な人がいるところだったから自分も一緒に生活したいとなる。しかし田舎でも人間に関して都会とさほど変わりがない、いい人はまれである。むしろ田舎の人は排他的で他者に冷たいというのが一般的にあり会津の凶悪事件も背景にそういうことがあったかもしれない、最初の入った家ではいい人だとされていた。ただこの事件はあまりに残酷なので想像の範囲を越えているから簡単には言えない、それでも人間なのだから人間的に考えるからそう思うことになる。殺された人に何の非もないのだということが一般的であり死罪になるだろう。ただ田舎で起こった犯罪なので興味をもったのである。


親切心の養成


あなたに向かって花は咲いている
誰でもない、あなたに向かって花は咲いている
あなたに向かって花は喜び咲いている
あなたは他者に向かって親切にしてみよう
あなたも親切にされるだろう
親切は誰にでもできること
あなたはその人の名を呼んであげよう
忘れられた人の名を呼んであげよう
それだけで人は喜ぶだろう
大勢ではない、親切は一人一人になされもの
集団を相手にするとき人は人として扱われない
そこで「親切」の徳は忘れ去られる
親切はちょうどスミレのようなもの
目立たない花であるが喜びがある
親切は社会の潤滑油
親切はただ一言の言葉かもしれぬ
しかし感じるものには感じる
私は親切にされた
だからあなたのためにみんなのために働こう
そういう気持ちにさせるのが親切の徳
小さい目立たぬ徳なれどその力は大きい
大きなものだけが社会を支えるのか
小さなものに愛そそごう
神はそを見ているだろう
目立たぬ「親切」も社会を支える
ああ しかしその親切も無惨に裏切られ無視される
それもまた人間社会の真実
それでも親切に励まねばならぬ
自らの徳の養成のためにである


親切は集団的ではない、個々にある。だからカルト宗教団体にはその親切心すらない、集団として権力拡大維持を第一にするから親切心は無視される。助け合うとしても権力維持が前提にある。
「親切心」は本当は無償的なものかもしれない、確かに親切にすれば親切にされる、でもそうされない場合も多いとすると虚しいともなるからだ。親切心は見返りを期待しない愛なのかもしれない、そんなもの普通は実行できないとなる。たいがいこうしたものは否定される。社会はともかく家族の中で親切心がなかったので書いたまでである。

雲の峰(遊びも人間には不可欠)


雲の峰(遊びも人間には不可欠)



盛んにも燕飛びかい雲の峰


ライダ-に燕とびかい雲の峰


旅人に道のり遠し木蔭かな


自転車や木蔭にそいて走るかな

まだ夏である。今年はあまりまだ雲の峰を見ていない、夏も同じ夏ではない、雲の峰に燕が盛んに飛んでいる。この辺は草原に変わってしまった。ただ今年は草原が青い草ではなく枯れている所が多い。でも草原の景色は燕とか蝶とかにかえってあっている不思議があった。モンゴルのような草原の夏はどれだけ気持ちがいいだろうか?一回だけであり十分経験したとはいえない、日本では北海道の夏が一番爽快なのはそのためである。草原があるのは北海道だけなのである。
昨日は墓参りして新聞紙を燃やして捨てる所がないので一部、籠に入れたら激しく燃えあがってびっくりした。石油でできているから凄い勢いで燃えたのである。今石油製品のものが多いから火事になったら手がつけられなくなる。石油なのだから当然燃え方が違うのである。それで普通の自転車にのったが電動自転車と普通の自転車は違っていた。電動自転車だと坂が上りやすいから軽い気持ちで遠くに行ける。しかし普通の自転車だと歩きに近くなる。なるべく木蔭にそってとかまた木蔭で休むとか歩きに近くなるのだ。それで思ったことは昔の道は木蔭の道が多かった。街道は木蔭の道が多かった。鹿島の一石坂から原町に出るところは木蔭が多い道である。旧街道は木蔭が多い道である。歩くとなるとやはり木蔭でないと歩くのも大変だからだ。そしてどうしても歩くとなると途中に茶屋が必要になる。歩くことは車のように途中を飛ばすわけにはいかないからである。歩くことはより自然と一体化することなのである。ただ今は歩く旅はできない、車の通る道は歩く道でなくなっているからだ。それでも鹿児島から青森まで歩いて旅していた人がいたのには驚いた。その人は退職したからそういう旅をした。自由になったという喜びをその旅で表現したのである。会社勤めならそういう時間がもていなからそうなる。


自分の場合は十分旅したからそういうことをする必要はない、やはり人生でもそうした自由な時間をもてたものともてないものはあとで影響する。人間働くことが基本でも働きづめの人生はあとで実りをもたらさない、人間の特徴は働くこともあるが遊ぶということも必要なのである。遊びのない人生は無味乾燥なものとなってしまう。仕事と遊びが両立すれば理想だとなる。ただそういう人はこの世ではまれである。ただ仕事だけが人間を充実させることではない、遊びは明かに人間を充実させる。この点では自分は充実していた。ただ仕事とか他の面で自分は人格形成で劣っていた。人間は仕事なの中で徳もつちかわれる。仕事が今嫌われるのはやはり仕事そのものの価値の追求より金に追われる仕事になっているためである。金に追われるために自分の仕事の意味など考えるのは暇人だけだとなる。仕事しているのではない、金に追われ仕事に追われているだけだとなる。