2012年08月01日

原発被害地域で病院福祉などの労働力不足 (他者にばかり頼っていいのだろうか?)


原発被害地域で病院福祉などの労働力不足

(他者にばかり頼っていいのだろうか?)

 県内では震災と原発事故で介護職員の退職が相次ぎ、71施設で226人が不足し、うち約4割を沿岸部が占める。厚生労働省は全国の自治体に派遣支援を要請している。
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1062/20120605_03.htm


医者とか看護師は資格がないとやれないからとやかく言われない、でも介護士の人が福岡から来て施設で働くようになった。仮設住宅を3千万で作り住居も用意した。ある人は福岡県から来ていた。そんな遠くから来ているのと驚く、もちろんこの辺は土木関係を中心に仕事がふえたから全国から来ているからめずらしくはない、でも疑問なのは一方で仕事をしていない人が膨大な数にのぼっている。その人たちは昼間から酒飲んだりパチンコ屋に行ったりと遊んでいるという批判がある。パチンコ屋が繁盛してパチンコ屋で勤めている人もいる。こういう状態は異常である。そもそも異常事態なのだから異常であってもしかたがないとなる。けれども何か矛盾している。そもそも別に原発事故があり避難者になったからではない、その前から労働には問題があった。介護などは大家族の時は家族でしていた。死ぬのも家でほとんど死んでいた。ところがそういう家族労働の分野も社会化して専門家がやるようになり素人はできなくなった。介護などはちょっと習えばできそうなものだけどできない、例えば事故が起きたらどうするんだとかなる。専門家される問題は前にも指摘した。そして今やとても福祉でも金もないしこの辺では特に労働力が不足するのだからサ-ビスは限られるようになる。

だから特別養護老人ホ-ムでは300人待ちなど当たり前であり入れなくなっている。民間だと金持ちしか入れない。だから本当は何でも国任せで福祉でもサ-ビスなど受けられない時代になる。病院だって身寄りのない重症者も出されている。医療や福祉にはもう金がかけられないと国では在宅でやれとなっている。その時家族も少ない、夫婦とか二人くらいしかいない家族でやれというのも困る人が多数出てくる。一方が病気の人も多いのである。在宅介護する環境に恵まれた人はまれである。それでももう国では何でもできるわけではない、限界であり受け入れられないのである。それは自分だけの問題ではなくみんなの問題なのである。


原発事故や津浪の被災地は他とはまた違った特殊なものとなった。普通だったらそれほど今は労働のことを言わない、でも被災地などでは復旧の労働が不可欠であり労働が今までより貴重になっている。特にこんな暑いとき下水道の工事などしていると大変だとなる。上水道と下水道の工事があり下水道の工事は未だにいたるところでしている。それだけ時間がかり大変な作業になっている。だから小高などではそうした下水道などの整備に時間がかかるからなかなか帰れないのである。でも一方で労働力がないということはない、現実に昼間から酒飲んでいたりパチンコ屋通いをしている。それは磐城などでは批判されている。補償金で金があっても避難者のために働いている人は磐城の人たちだからである。病院でも福祉の介護関係でも仕事がふえているし避難者がその仕事をわけではない、また専門家して資格がないからやれないとかある。

異常事態だから異常なのはしかたないといつまで言えるのだろうか?そして福岡とかそんな遠くから労働者を呼び住宅を用意して金をかけている、では一体その金はどこからでているのだろうか?地域性がないからそういう時代だといえばそれまでなのか?でも復興とか盛んに言っても昼間から酒飲んでパチンコ屋通いが復興なのだろうかという素朴な疑問がある。実はこんな状態になり何か前より一人一人問われているのかもしれない、あなたはこの土地で必要な人なのか問われているのかもしれない、余裕ある時は良かったがそんな余裕がない、ボランティアにしても地元の人ができるのに遠くの人に頼っているのも変なのである。原発事故は政府が責任があり全国民にも責任があったとして援助してくれる。しかしそういうふうにいつまでも他者まかせにできるものだろうか?地元の人がやれることもやれないで他からとんでもない遠くから来た人に頼っているというのがおかしいと思わないか?


復興だ、復興だと言っても何か地元の人がかえって国任せ、他者まかせになる。補償金をふんだくるだけだと他から非難され福島県は外から国民に寄生する人たちだと印象が悪くなった。一時的にはしょうがないにしてもいつまでもそういうふうに補償金とか他者任せでいいのかとなる。それが復興になるのか。仕事が専門化して誰にできないとかはある。でもそもそも一人一人が何か前向きになり努力しないこともある。何かやれることがあってもしないのである。墓に自分の親の名を刻まない人もそうだった。何も金がないなら前も借りにきていたのだしその金を自分はくれてやった。だから世話になった人なのだから金はくれてやる。

しかし頼みにもこないのは結局そもそもその人は親に対してそうした気持ちすちないのである。何か有用なことに金を出してくれとなれば出す人はいる。ただそういう気持ちがないのである。そしてただ無駄なことに費やして努力もしないのである。だからこの辺は復興と言っても自らが何かをしようとしないのだから復興にならない、ただ国任せ他者まかせである。でもその金がいつまでも国から援助され他から援助されるのだろうか?補償金をふんだくり生活保護者のようにされてしまうのだろうか?それをいいとしたとき被災地は精神的に荒廃してゆく。
したくても何もできないとういのもわかる。でも一人一人が何かできることをしないとこの辺は荒廃してゆく。普通だったらこんなことを考えない、こういう事態だから一人一人が問われている。
復興とは何なのか?もちろんそこには放射能などどうにもならない問題がある。でも何かこの辺は変なのである。

こうなるとこういうところにいたくないと未来がないと若者がでていくのも仕方がないともなる。

復興といってもその道筋が見えないしただ国任せ他者まかせ補償金をもらうことだけになる地域というのも嫌だとなるかもしれない、いつまでも補償金を頼りにはできない、その補償金や国の援助は復興のためなのである。その復興が何なのか?未来が見えないからここから出てゆく若者がふえるかもしれないし現実ふえている。ともかく一人一人が役割をもって何かを地域のためにするということが問われている。それをしないとこの辺は補償金をふんだくるだけの生活保護者特区のように見られかもしれない、大阪ではそういう地域がある。そういう所からは若者はでてゆくし何か活気のない、精神的にも荒廃した地域になってしまうのではないか?どんなときでもやはり一人一人の気持ちが作用してゆく。気持ちがなければ人は動かない、ただ国任せとか他者に頼るだけという気持ちでは復興はありえない、復興だというとき一人一人の復興なのである。そういう気持ちがなければ復興はありえないのだ。

posted by 老鶯 at 07:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連