2012年07月22日

女神山の伝説 (人間の一生は夢-みな伝説化する)


女神山の伝説

(人間の一生は夢-みな伝説化する)

女神山


穏やかなる春の日
気ままにゆく山間の道
その道の分かれぬ
いづこに行かむ
春の日さして
誘われるままに
我は行きにしを
その知らざる道
知らざる僻村
女神山とあり
我かしこに春の日
苦もなくに眠りてあらむ
我に添うものありて
我が生を長らく楽しむ
しかしそも夢なれ
その長き日もまこと
槿花一朝の夢
たちまち散りし花
ただ夢の日にあれ
そは幻なれや
浦島の伝説や
はかなき煙と消えぬ
まことしやかに
浦島の釣り竿はこれと
山中に残るもいぶかし
すでにはるかなる昔なりしを
ああ されどふくよかに
女神山微笑みて
我をつつみぬ
我に苦を強いざるもの
そは常に微笑みて
我のそばに長くもありしも
ここに春の雲は流れきて
春日さす石や
鄙人の翁の座りぬ
時に共に昔を語り笑いぬ
この地の良しと神も笑わむ

今になると人間の一生は誰しも夢である。どんな一生も夢である。そういうことは老人になると本当に実感としてわかるし現実なのである。夫婦であれ家族であれそれがなくなったときそれは夢の世界だったとしる。人間の一生は夢であり謎であり最後はみな伝説化して終わる。別に特別な人でなくても普通の人でもその人生は夢であり伝説である。夫婦のともにする歳月は長いとしてもいつかはどちらかが死ぬとそれが夢のように思えるだろう。しかし人間の夢は本当に深い、いくら夢だと言ってもその夢は余りにも深いのである。旅したところも今思い出せば夢を見ていたようだとなる。その夢は時々よみがえり詩にしている。しかし旅だけではない、それぞれの人生そのものがみな夢なのである。どんなに豊かな恵まれた人生でも終われば夢であり貧乏でも同じである。人生はどっちにしろ夢だったとなる。みんな最後は浦島太郎になっている。ただその夢にしても一生のことだから長いからその夢はさめきれないほど深いのである。だからその夢は容易に生きている限り消え去らない、老人になると本当に夢の中に生きることになる。終わってしまった人生が夢でもその記憶を夢を生きるのである。これも不思議なことである。


この辺はまさに個々の人生ではない、町や村が津浪や原発事故で消失して夢のようになってしまったことである。津浪の跡でもこれが一体現実なのかと未だに夢うつつになっている。おそらく津浪の被害で家族を失った人たちはそれ以上にそう思っている。これが現実なのか夢なのか、今まであった長く暮らした家もなくなり家族もいなくなりとか一瞬にして夢のようになってしまった。普通だったら人生の最後にそうなるのだがこの場合は突然にそうなってしまったのである。だからこの辺の状態はまさに個々人ではない全体が夢のようになっているのだ。全体が夢うつつになっている不思議である。魔法に操られたような奇妙な感覚になる。怪しく紫の烟をくゆらせてその中に人は夢を見させられている。それも実に深い夢なのである。だからとてもそれが夢とは思えない、でも現実も遂には夢と化してしまう。快楽にふけるのも一時の深い夢である。それもたちまち消え去る。そしてただ最後は夢を綴(つづ)っているだけになる。あんなことしたこんなことしたとか思い出すだけが人生となる。でも自分のしたことが簡単に消え去るのかと言えば消え去らない、ちょっとしたことでも思い出すことがある。青春時代の浅はかなこと罪なことはあとで必ず思い出して苦しむことになる。過ちや罪の行為は消えないのである。その時はなんのことなく軽い気持ちでしていたことでもそうなのである。そういうことがあとで苦しめるものとなる。


青春時代であれ若いときであれいくらこの世ははかないとか夢だとか言ってもそれを実感しえない、目の前の華やかな生に心は奪われる。人はそこで深い夢を見せられる。そして最後に人は夢からさめる。しかしその深い夢は簡単には消えないのである。いづれにしろ人間は老人になれば誰でも哲学者になる傾向がある。人生とはこんなものかと否応なく悟らせられるからである。若いときは生きることに正に夢中でありそれが夢であることを覚らないのである。だからさも重大なことにのようにその夢に真剣に没頭する。この世で成功するも失敗するも夢となる。成功した人も結局夢の人生だったとなる。しかし人生は余りにも長すぎた夢だったからその夢からさめられないである。人生を本当にこれは夢なのだと若いときから覚ればそれほど苦しいものとは思えないだろう。人間は何者かによって操られ深い夢を見せられているのである。それは何なのかわからない、たぶらかされているのである。サタンといえばそうなのかもしれない、そして社会自体もこの世自体もそうした夢にたぶらかされている。ありもしない夢を現実化すると思っている。カルト宗教団体などがそうである。オウム王国だとか創価王国だとか幸福実現王国だとか夢をみて夢にかられている。


歴史をふりかえればソロモンの栄華の夢がありすべては夢としてあったのが歴史ではないか?歴史は現実だったにしろ終わって見れば夢となる。そんなこと本当にあったのか?そんな人本当に生きていたのかとなる。だからこそ伝説化している。一人一人の人生も伝説化する。人生は不可解であり謎だとなってしまう。ただ津浪や原発で町や村自体が消失して伝説化することは想像すらできなかった。しかし今やそれが現実なのである。


阿武隈高原に女神山がある、阿武隈は比較的道が平坦だから自転車では行きやすい、そして道が分かれている。その道をどこへ行くともなく行っていたのが自分だった。その日はあまりにも長かったのである。それでとがめられることもなかった。そういうふうに恵まれた生活が長くつづいた。でもそれも遂に夢となった。家族の一人も死んだ。そして回りも家も苦しみの場となった。でもその夢はあまりにも長いが故に簡単には消えない深い夢として語られるのである。ただ労苦の人生もあった。今の80代はそういう人が多い。ただ働くこと苦しむことが人生だった。そういう人生も何か哀しい。

花一つも愛でない人生は荒寥としていた。自分は春爛漫として花々の中を逍遥した人生だった。その思い出は限りなく我が心にありそれを今詩にしたりしている。労苦だけが人生だったというのもやはり悲惨である。ただ語られるのは労苦だけなのである。幸せな日がなかったというのはやはりその人生に接したとき息苦しくなってしまうだろう。ただ今そのつけを支払わせられているのかもしれない、あまりにも楽な人生のつけを支払わせられているのかもしれない、実際人間の境遇は不可解なのである。境遇は選びようがない、宿命でありそれを生きざるをえないのである。


魔法使いがその手を使い自在に人間を操る
今だ、もっと楽しめ、楽しめ
ハッハッハッ、楽しめ、楽しめ


魔法使いに操られ狐にだまされていたのが人間である。一見自分が生きているようでも実際は人間には欲があればその欲望の故にだまされ操られることになる。欲があるからだまされるのである。
人間は欲によって操られるものである。カルト宗教団体もその欲でもって人間を操る、社会そのものがそうではないか?原発事故だってそもそもみんな欲の故に危険を無視して操られたのである。そこに人間の深い欲がからんでいたから操られることになる。人間の欲は限りないものである。その欲を人間は絶つことはできないから様々にだまされ操られるのである。

輪廻の欲

まだ色濃くにおう紫の香の烟
醒めやらぬ夢の名残り
その深き夢の微睡み
人は欲に操られ正体を失う
醒めてみればただみな白髪の老人
死神は汝の齢を数えて
黄泉に送りその生は幻
ただ後悔と罪の汝を責めぬ
人の欲を断つことの硬し
故に人はその欲故に輪廻する

阿武隈の魅力は道にある
http://www.musubu.jp/abukumichimiryoku.htm