2012年07月20日

組織人間として権力に操作されることが原発事故の原因 (会社も組織も利益優先で権力に従う)


組織人間として権力に操作されることが原発事故の原因

(会社も組織も利益優先で権力に従う)


「強制的に下げられた放射線量の数値が全国に公表されている」――。20日の会見で、長谷川氏は、仰天の「放射線量改ざん」疑惑を暴露した。
「昨年11月末ごろ、国の除染モデル事業を請け負った大成建設の作業員とみられる10人ほどが、村のモニタリングポストを高圧洗浄機で洗い、土台の土をソックリ入れ替える作業を行っていた。その様子を複数の村民が目撃していたのです」

村の仕事を請け負った大成建設によるモニタリングポストを高圧洗浄と周辺土壌の入れ替えによる意図的に放射線量を低く見せる「改ざん」です。
 
放射線量は下がった、除染に効果はあるなどと宣伝し、飯舘村民を村に帰還させることが目的にあるのでしょう。
 

http://blogs.yahoo.co.jp/neverland20050918/28611235.html
 


このことは一見小さいことのように見える。でもこういう小さいことが原発の事故の原因となっていいった。会社にはそんなことできないよとかならないしその従業員もさらにこんなことしていいのとかもならない。上の命令なんだから俺たちはただ従うだけだよ、逆らうことはできないよ、何かあっても上司の命令でやったことであり俺たちには責任ないことだよ、会社は会社で国や官僚の命令でやったことであり俺たち民間の一企業にすぎない、その責任は命令した国や官僚にある。俺たちはただ従っただけだよ、お国の命令に逆らうことはできない、これも例えば戦争の場合でも同じ様になる。会社に戦争のために協力してくれとなれば従業員を戦争に派遣する、それが敵を殺すことに通じても国の命令だから従ったとなる。そこで戦争に協力していいのかとかの疑問をもつこともないし会社にそうしたモラルがない、会社にはそもそも責任はない、命令した方に責任がある。


この場合も小さいことのようでも会社には責任がないし従業員も上司の命令に従っただけであり責任がない、こういうことが組織に従順な人間は戦争になり人を殺しても責任がないとか罪悪感すら感じないかもしれない、戦争犯罪も組織的な様々な現代の大きな犯罪はそうして起こってきた。ナチスでもそうだしオウムでもそうだし東電という大会社の犯罪もそうだった。政府より専門知識があり技術があるのだから
保安院でも簡単にとりこめた。そして東電では利益優先で一時は土盛りして高くした所にわざわざ低くして原発を作った。低い方がコストがかからなかったからである。それで社長はコストカッタ-として社内では評価を得ていたのである。会社が利益優先になるのはやむをえない、でも安全を計るとかモラルは国が正してゆく、しかしその国がモラルをなくすときすべてが間違った方向に向かうことになる。


現代の特徴は組織人間であり組織に属していない人はほとんどいない、何らかの組織に属している。会社という組織に属していないくても宗教団体には属している。だから自主的に何かを判断して行動することができない、常に上の命令に従っているものは習性となりそれが悪いとしっても上の命令には従うのである。そういう実験をした人がいた。それは電流を流しつづけたのだが危険な状態になっても電流を流す命令に従っていた。その命令する人が先生役になっていたからである。先生の命令には従わねばならない、人はそういう習性をもっている。


組織や集団に入ると人は個人としての良識は意識してもそれが行動基準とはなりにくいのです。上からの命令に対して自分の身体から自分の心をぬき、いわば上司の代理人として自分の身体を使い行動するようになる。


組織上、上位の人は下位の人に命令を出す立場にあり、実際に指示や命令を出していますから支配的行動が日常化しているといえます。しかも、部下からの反対や反発はまず表立って起きません、
このために、人間として社会的に抑えられるはずの、あるいは抑えなければならないはずの「支配欲望」が知らず知らずのうちにスム-ズに日常化してしまうのです
(組織のためという大義名分は人間を残酷にさせる-斎藤勇)


現代人は上野霄里氏が言っているように組織集団人間である。個人であるだけですでに犯罪者だと言っているし本当にそう扱われるのが現代なのである。組織に属しているとき会社の一員であれ何であれ組織に属していれば社会人として認められる。それ意外は認められないアウトサイダ-になってしまうのである。最近ふえたニ-トとかフリ-タ-とかはそういう範疇にないから社会側でも困惑するのである。組織人間として統制できない新しい分類の人間群になるからである。権力側にとっては統制できないものとして危険視される。


組織人間の怖さは戦争になっても百万人殺してもその責任はとらないし犯罪者にもならないということである。それはどこの国でも同じである。ナチスのユダヤ人殺戮の真意は今は不明になっているにしろ上司の命令に従っただけだと言っている人が多い。殺人でも上司の命令だからしたとなる。そこに個人のモラルも責任もないのである。ガス室送りに上司の命令でサインしただけだとなる。そういうふうに人間がロボット化しているのが現代なのである。親鸞が千人人を殺して見よ・・というときそれは個人がそうしろと言ったのである。それならいくら善人でも悪人として意識するだろうということである。でも組織的に千人殺しても誰も悪人とは意識しない、自分が悪いことをした罪人だなどと意識しない、組織的に人間はこのように宗教団体だろうが何だろうが悪も何も意識しないし責任もとらない。

オウムが従わない他者はポア(殺人)してもいいとしてあの犯罪があった。それはオウムだけなのか?組織人間全体に通じていることである。組織に従わないものは善悪は問わない、殺してもいい、排除してもいい、それが善なのだとなる。そういう社会が現代の社会なのである。そういう社会から必然的に原発事故も起きてきたのである。戦争のときもそうだけど誰も上の命令に従っただけだというだけである。そうなると上とは誰なのかとなる。それも明確ではない、戦争では一番上は天皇だから天皇に責任があるとなすりつける。でも結局命令した上司は誰なのか?不明となり責任は誰もとらないのである。戦争する空気がありその空気が原因だったとなって終わっているのである。でもそういう空気が作られるのはやはり具体的にそれぞれの権力の干渉があった。原子力村の権力が作られたものもマスメデアには巨額の金が流れていたし政府でも積極的に安全神話の推進者だった。教科書まで安全神話を作り出していた。これは戦争のときと同じだったのである。


組織に属していると会社でも個々人でも納得いかない、こんなことしていいのかとか何か疑問になる。でもそれを言えば会社をやめねばならないから従うだけになる。だから個々人が現代はモラルが形成しにくいのである。かえって個々人が職人だった時代は職人気質としてごまかさないでただ一筋いいものを作ることをこころがける。でも会社人間になるといろいろとごまかすことに手をかすことになってもそこに何か人間として悪いとかモラルのないことを感じない、会社の上の人にモラルがないから下もまたモラルがない人間になる。それは社会全体でもそうでとはないか?なぜ今になり武士道がこれほど推奨れるのか?武士とは武力だけではない、人間としてのモラルを実践する人、体現する人として社会に範を示す人だった。だから庶民もその武士に習ってモラルがあった。その武士はヨ-ロッパの貴族のように財産家ではない、庶民より農民より貧乏な侍でもあった。ただモラルが徳が高いものとして社会の上層部にあった。そこが根本的に明治時代以後の社会と違っていたのである。
明治以降はすべて利益優先主義でありもうければいい、それがすべてだとなった。そこには江戸時代のようなモラルは喪失した。庶民が見習うものも誰が一番もうけているのか,どうしてもうけられるのか、金持ちになれるのか、その価値しかない、だから金を持っている人が一番偉いのである。
金意外の価値というものが考えられなくなったのである。そういうモラルのなさが原発事故にも結びついていたのである。

 


 

posted by 老鶯 at 15:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連